1 / 3
午前4時の異常処理
しおりを挟む
午前4時12分。
深夜と早朝の境界線上で、世界は人工的な無機質さに支配されていた。
大手コンサルティングファーム「STR戦略研究所」のシニアアナリスト、**茅野英里菜(29歳)**は、静止した空気の中に座している。
オフィスの湿度は42%、二酸化炭素濃度は650ppm。 22箇所に設置されたLED照明は色温度5000Kの昼白色を維持し、網膜を均一に刺激している。 彼女の異常に高い視力は、空気中を浮遊する0.5マイクロメートル以下の微細な塵が、光の粒子を反射して描くランダムな軌跡さえも「ノイズ」として捉えていた。 同僚たちが「空気」や「和」といった、定義不能な非論理的概念に自己を摩耗させて帰宅してから、すでに7時間が経過している。
彼女の視界には、PCモニターの表示内容を遥かに凌駕する情報の奔流――**「思考連鎖(チェーン・ログ)」**が展開されていた。 網膜の奥で明滅するAR(拡張現実)のログは、半年分に及ぶプロジェクトの全工程を、物理定数と論理式の集合へと還元していく。
[思考ログ:第4階層まで展開] [対象:半年分のプロジェクトデータ(計1.2テラバイト)] [エラー検出:人間系プロセスによる14,202件の冗長性] [最適化関数:適用開始。期待処理速度:15.4%の向上を確認]
英里菜の指先は、キーボードという情報の「ボトルネック」を介して、世界を正しい配置へと書き換えていく。 他人が半年かけて積み上げた「忖度」「保身」「建前」という名のバグが、彼女の脳内で実行される関数によって、数ミリ秒単位の効率性へと変換されていった。 彼女にとって、これは侵食ではない。 ただ、世界の配置が数ミリずれているのが生理的に不快なだけの、潔癖症な**「デバッグ」**に過ぎないのだ。
その時、鼓膜の奥を鋭利な針が突いたような物理的刺激が走った。
英里菜の動作が完全に停止する。
心拍数は毎分82回まで上昇し、前頭葉に鋭い熱量が蓄積される。 それは「怒り」や「焦り」といった情緒的反応ではなく、純粋な「処理阻害」に対するハードウェアの拒絶反応だった。
[音響解析:開始] [周波数:466.16Hz(Bフラット)] [偏差:+1.5Hzのピッチのズレを確認] [発生源:北東3.2メートル、天井埋込型空調ユニットB-4]
「……うるさい。ズレてる」
冷却装置のベアリングの摩耗か、あるいは冷媒の循環不全。 物理現象としての「欠陥」が、音という形を借りて脳内の論理演算を侵食してくる。 英里菜にとって、調律の狂った空調音は「処理を阻害する油膜」そのものだった。 左右非対称な振動波形、整合性の取れない周期的なノイズ。 それら一つ一つが「修正ログ」を強制的に生成させ、彼女の処理リソースを無駄に消費させていく。
彼女は震える手で、デスクに置かれたマグカップを掴んだ。
中には、砂糖を飽和状態まで溶かし込み、粘度すら感じさせる激甘のココアが満たされている。 脳のオーバークロックによって急速に消費される糖分を補給するため、彼女の身体は常にこの高カロリーな燃料を要求していた。
「……糖分供給。ニューロンの閾値を再設定」
熱い液体が喉を通るたびに、視界を覆っていたノイズが霧散し、思考の解像度が再び安定を取り戻していく。 彼女はポケットから取り出した鎮痛剤をココアで流し込み、強制的にシステムを「リブート」した。 この「脳細胞の自壊」を防ぐための延命措置が、社会という名の不条理な戦場で彼女に残された唯一の生存戦略だった。
英里菜は再び耳を塞ぎ、空調の不協和音を思考の「背景音」へと強引に追放した。
彼女の瞳には、すでに数時間後に出社してくる上司たちの、解像度の低い「保身」のパラメータが予測データとして浮かんでいる。
デスクの端には、走り書きのメモが置かれていた。
それは、佐伯常務が推進する新システムの欠陥を指摘し、それを完璧に修復するための、わずか3行の関数。
Optimize(System) = min ∑ (Redundancy + Error_Rate) 1. input = Observe(Reality) - Human_Bias; 2. pure_logic = Filter(input, is_noise); 3. return Optimize(pure_logic);
「私の業務、意思決定、そして存在意義。すべてこの3行のコードで代替可能」
彼女は、後に最強の武器となるその「ゴミ」を一瞥し、最後のエンターキーを叩いた。 午前6時。窓の外では、彼女の予報通りに雨が降り始めようとしていた。 翌朝、完璧に調律された資料を見た人間たちが「称賛」ではなく「恐怖」を抱くことを、彼女は98.4%の確率で予見していた。
深夜と早朝の境界線上で、世界は人工的な無機質さに支配されていた。
大手コンサルティングファーム「STR戦略研究所」のシニアアナリスト、**茅野英里菜(29歳)**は、静止した空気の中に座している。
オフィスの湿度は42%、二酸化炭素濃度は650ppm。 22箇所に設置されたLED照明は色温度5000Kの昼白色を維持し、網膜を均一に刺激している。 彼女の異常に高い視力は、空気中を浮遊する0.5マイクロメートル以下の微細な塵が、光の粒子を反射して描くランダムな軌跡さえも「ノイズ」として捉えていた。 同僚たちが「空気」や「和」といった、定義不能な非論理的概念に自己を摩耗させて帰宅してから、すでに7時間が経過している。
彼女の視界には、PCモニターの表示内容を遥かに凌駕する情報の奔流――**「思考連鎖(チェーン・ログ)」**が展開されていた。 網膜の奥で明滅するAR(拡張現実)のログは、半年分に及ぶプロジェクトの全工程を、物理定数と論理式の集合へと還元していく。
[思考ログ:第4階層まで展開] [対象:半年分のプロジェクトデータ(計1.2テラバイト)] [エラー検出:人間系プロセスによる14,202件の冗長性] [最適化関数:適用開始。期待処理速度:15.4%の向上を確認]
英里菜の指先は、キーボードという情報の「ボトルネック」を介して、世界を正しい配置へと書き換えていく。 他人が半年かけて積み上げた「忖度」「保身」「建前」という名のバグが、彼女の脳内で実行される関数によって、数ミリ秒単位の効率性へと変換されていった。 彼女にとって、これは侵食ではない。 ただ、世界の配置が数ミリずれているのが生理的に不快なだけの、潔癖症な**「デバッグ」**に過ぎないのだ。
その時、鼓膜の奥を鋭利な針が突いたような物理的刺激が走った。
英里菜の動作が完全に停止する。
心拍数は毎分82回まで上昇し、前頭葉に鋭い熱量が蓄積される。 それは「怒り」や「焦り」といった情緒的反応ではなく、純粋な「処理阻害」に対するハードウェアの拒絶反応だった。
[音響解析:開始] [周波数:466.16Hz(Bフラット)] [偏差:+1.5Hzのピッチのズレを確認] [発生源:北東3.2メートル、天井埋込型空調ユニットB-4]
「……うるさい。ズレてる」
冷却装置のベアリングの摩耗か、あるいは冷媒の循環不全。 物理現象としての「欠陥」が、音という形を借りて脳内の論理演算を侵食してくる。 英里菜にとって、調律の狂った空調音は「処理を阻害する油膜」そのものだった。 左右非対称な振動波形、整合性の取れない周期的なノイズ。 それら一つ一つが「修正ログ」を強制的に生成させ、彼女の処理リソースを無駄に消費させていく。
彼女は震える手で、デスクに置かれたマグカップを掴んだ。
中には、砂糖を飽和状態まで溶かし込み、粘度すら感じさせる激甘のココアが満たされている。 脳のオーバークロックによって急速に消費される糖分を補給するため、彼女の身体は常にこの高カロリーな燃料を要求していた。
「……糖分供給。ニューロンの閾値を再設定」
熱い液体が喉を通るたびに、視界を覆っていたノイズが霧散し、思考の解像度が再び安定を取り戻していく。 彼女はポケットから取り出した鎮痛剤をココアで流し込み、強制的にシステムを「リブート」した。 この「脳細胞の自壊」を防ぐための延命措置が、社会という名の不条理な戦場で彼女に残された唯一の生存戦略だった。
英里菜は再び耳を塞ぎ、空調の不協和音を思考の「背景音」へと強引に追放した。
彼女の瞳には、すでに数時間後に出社してくる上司たちの、解像度の低い「保身」のパラメータが予測データとして浮かんでいる。
デスクの端には、走り書きのメモが置かれていた。
それは、佐伯常務が推進する新システムの欠陥を指摘し、それを完璧に修復するための、わずか3行の関数。
Optimize(System) = min ∑ (Redundancy + Error_Rate) 1. input = Observe(Reality) - Human_Bias; 2. pure_logic = Filter(input, is_noise); 3. return Optimize(pure_logic);
「私の業務、意思決定、そして存在意義。すべてこの3行のコードで代替可能」
彼女は、後に最強の武器となるその「ゴミ」を一瞥し、最後のエンターキーを叩いた。 午前6時。窓の外では、彼女の予報通りに雨が降り始めようとしていた。 翌朝、完璧に調律された資料を見た人間たちが「称賛」ではなく「恐怖」を抱くことを、彼女は98.4%の確率で予見していた。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―
MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」
「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」
失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。
46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる