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昭和の名優、廃病棟をゆく
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どうして俺がこんな仕事をやらねばならないのか。心霊ロケなんぞ俺に釣り合うとはとても思えない。
記憶を辿ろうとしても頭の中に靄がかかり、自分がどういった成り行きでこの場に居るのか、はっきりと思い出せなかった。
俺は自分の興味が向かないことには全く無関心であるタチだから、きっと記憶の底に捨ててしまったのだろう。
暗く埃臭い廃病棟の廊下を一行は恐る恐る進んでいた。
先頭を歩くのは若い男女、俺はそいつらの名前も仕事も知らない。素人臭さの抜けていない喋りを見るに、若手の芸人とアイドルといったところか。
その後ろを歩くのが俺と霊媒師を語る老婆である。唇に塗りたくった真っ赤な紅も、皺の深く刻まれた手に握られた大玉の数珠も、身を包む黒い羽織も、その全てが胡散臭さを放っており、俺は一目で詐欺師に違いないと確信した。
俺は役者として一流であると自負している。
スクリーンに映し出されたモノクロの世界に魅了された若き日の俺は、荒れ狂う時代の中、ただひたすらに芝居と向き合い腕を磨いてきた。
日本の映画業界の礎を築いた人間の一人として俺を数える者もいる。
そんな俺が何故こんな半端な奴らと一緒になってお化け探しなんぞしなければならないのか、全くもって不愉快であった。
そもそも俺はテレビのバラエティショーというものが昔から嫌いだった。
出演者は自分の名前を売ろうと必死に目立とうとする者ばかり。スタッフも大衆に媚びた派手な企画ばかりをやりたがる。
俺に言わせればあんなものは滑稽な電気紙芝居に過ぎない。
俺の愛する芝居の世界、つまりは舞台と映画であるが、そこに在る物語に対する真摯な熱が、テレビのバラエティには見られないのである。
テレビばかり見ていたら阿呆になるに違いない。そんな俺の考えとは裏腹に大衆は劇場を離れテレビの奴隷と成り果てた。なんと嘆かわしいことであろうか。
皮肉なことにそんなバラエティ番組を作る側に回ってしまった俺の運命を呪っていると、思わず溜息が漏れそうになったが、前を歩く女の「ひゃっ」という悲鳴がそれを遮った。
「どうした?」
彼女の真横を歩いていた茶髪の男が尋ねると、女は涙を目に浮かべながら答えた。
「今なんか視線っていうか……気配を感じたんです。なんだか怒ってるみたいで。ワタシもう怖くて。」
彼女の言葉を受け、霊媒師が神妙な面持ちでここぞとばかりに語り始めた。
「霊が怒っているようですね。私たちのことを快く思っていないようです。」
「幽霊が帰れと言ってるんですか?」
男が尋ねる。
「いいえ、声が聞こえるのではありません。感情が伝わってくるんです。霊は声ではなく感情を直接伝えるのですよ。たまに強い思念が声のようになって、聞こえることはありますが、それは霊が本当に強く訴えたいことがあるときだけなのです。」
なるほど、声が聞こえるというよりも、感情をボンヤリと感じ取ることができると言った方が矛盾が起きにくい。なるほど詐欺師はこうやって逃げ道を用意するのか。
「でも、幽霊怒ってるんですよね?それってヤバくないですか?」
男の使う若者言葉が癪に触る。
「大丈夫です。ここにいる幽霊たちはただこの世から離れられないだけで、人を傷つけようとする悪霊ではありません。危なくなったときは、私が直ぐに伝えますので、安心なさってください。」
実際には幽霊などいないのだから危なくなる場面などないのであるが……このときまで俺はそう思っていた。
それから数刻経ったが、特段これといった事件は起こらなかった。
ロケが始まってからずっと俺は無口を貫いている。
それはバラエティへの抵抗というよりは、俺の心が此処ではないもっと遠くにあった為であるといった方が適切であろう。
俺は自分が主演を務める時代劇のことを考えていた。
撮影は俺の体の不調の為に一時中断されている。
映画を作るのには多くの人員が必要で、今回のような大作では尚のことである。
俺のせいで関係各位に大いに迷惑をかけたはずだ。
その借りは他でもない俺の芝居によって返さなければならない。
俺も年だから若い頃のように体は動いてくれないし、近頃は呂律も回らなくなってきている。
だが十分に休養を取った今ならば、万全の状態で撮影に臨めるはずだ。殺陣で酷使した利き手の痺れも漸く治ったことだし直ぐに撮影に戻らねば。
そしてきっと誰もが目を見張るする芝居をしてあっと驚かせてやるのだ。
俺は今にでもこの暗くじめっとした病院を抜け出して、スタジオに駆けて行きたい思いであった。
俺が今回の映画に格別の情熱を注ぐのは、これを最後に芝居を辞めようと考えていた為である。
老いという逃れられぬ病は徐々に俺の体を蝕んでいる。それに気付かない振りをして、いつまでも惨めったらしく業界に残り続け、権威を振りかざすような亡者には成りたくないのだ。
俺は役者の役割は物語の世界と観客のいる現実との間を繋ぐことだと考えている。
俺が「間生太郎」という芸名を掲げているのはそのためである。
これはどんな職においても同じだが、老いれば、その役割を遂行するだけの力は無くなる。それは逃れられぬ宿命だ。
衰えを認めず、富や名声のために自己主張をする「大御所」なんぞ害悪以外の何者でもない。
しかし悲しいことに、そういった「大御所」や、偶然注目を集めたに過ぎない「スター」に憧れ芸事の世界に入る人間も多くいる。
その手の連中は人の注目を浴びることを第一の目的としており、己の技を磨くことはその次にしているのだ。
今この場にいる連中もその類だろう。
自分の芝居に対する態度を振り返っている内に、気付けば別の棟に来ていた。
さっきまでいた廊下には外来用の診察室が並んでいたが、こちら側にはホテルの様に番号を振られた入院患者のための部屋がずらりと並んでいた。
同じ規格の部屋が敷き詰められた様子は蜂の巣を連想させて、何処となく不快に感じた。
先頭を歩く男が懐中電灯で病室の番号を確認し「302号室はこの先か」と言った。
その言葉を聞いて初めてこのロケには目的地があることを知った。
そこで俺はある違和感に気付いた。何故俺はこうも何も覚えていないのか。
考え出すと疑問が次々と湧き上がってきた。第一、興味がないから忘れたというのは無理がある。気に喰わない仕事をやる羽目になったのであれば、そのいきさつは腹立たしさと共に寧ろはっきりと覚えていた方が自然ではないだろうか。
それだけではない、俺の記憶のおかしいところはまだある。
そもそも俺は今日この廃病棟にどうやって来たのか、昼間は何をしていたか、そんなことさえも思い出せなかった。
間違い無く何かがおかしい。単に老いによって俺の記憶力が落ちているだけだろうか。いやもっと何か異常な出来事が起きている。
そんな気がして、胸騒ぎが止まらなかった。
俺の心情には誰一人気付くことなく、ロケ隊は廊下を進んだ。
俺は不安を顔に出さないよう努めたのたから当然といえば当然だが、俺のことを一切気にかけない一行には少し腹が立った。
俺はこのロケには元より乗り気でないため、番組を盛り上げようとする気は起きないが、一切話を振られないとなるとこれもまた不満である。
このロケに何故俺が必要がなのか。
病室の番号を306、305、304と下るように廊下を進み、ついに302号室に着いた。
病室の扉に俺は妙な既視感を覚えた。
先頭の男が扉に手を掛けたところで振り返って喋り始めた。
「遂に目的地に着きました。この病室こそあの有名人が実際に亡くなった場所なんです。」
急にアナウンサーのように語り出した男に釣られて後ろを振り返ると、そこには小さなカメラを片手で持った男が1人立っていた。
俺はこのときまで一度もカメラに目線を向けなかった。
だから気付かなかったのだ、俺の後ろには一人のカメラマンが付いているだけで、音声もディレクターもいないことに。
カメラもテレビや映画で撮影する為のものにはとても見えない。
これはそもそもテレビ番組のロケではないのではないか。
ならば俺は何故、そしていつから、これをバラエティ番組の撮影だと思い込んでいたのか。
記憶の抜けをさして気に留めなかったり、撮影中一度もカメラに目線を向けなかったりと、今日の俺はやはりどこかおかしい。
まるで何か自ら思い込みをしようとしているように、何か不都合な事から目を背けているように。
「さあ、この扉の先であの人の霊は今も苦しんでいるのでしょうか。これから先生に見てもらおうと思います。」
男はそう言うと病室の錆びて固まった戸をギーッと音を鳴らして引いた。
その先に待っていた光景を俺は知っていた。
記憶が蘇る。
ただただ白く、退屈な箱。そこに色を付けるのは、唯一窓から覗くイチョウの黄色い葉だけ。
しかしベットに横たわっていた俺からは、そのイチョウの木も殆ど見えなかった。
俺は確かに此処にいた、だが俺の記憶の中の病室はここまで錆びれていなかった。
「この病室、このベットで亡くなった有名人。それは、あの昭和を代表する名優、間生太郎さんです。今から30年ほど前、主演作の撮影中に間さんは脳卒中で倒れてこの病室に搬送されました。幸い手術によって一命は取り留めたものの、その数日後に帰らぬ人になったそうです。噂によると、撮影に戻ろうとして起き上がったところで、発作が起こったとか。」
何も無い病室が俺は嫌いだった。ただ天井を見つめることしか出来ないのが我慢ならなかった。
こんな何も無い部屋で、ひょっとすると誰も見ていないときに病状が悪化して死んでしまうのではないか。そう考えると寒気がした。
嫌だ、死にたくない。
まだ足りない。
この最後の一本が、俺の人生で最高の作品になるはずなんだ。
共演者が監督が、映画に関わる全ての人、そして全国のファンが、俺の帰りを待っている。
こんな窮屈な箱なんて抜け出してやろう。
そうすれば誰もが俺を喝采するに違いない。
俺は麻痺の残る手で点滴のチューブを抜き取り、転げ落ちるようにしてベットから抜け出した。
そして病室の扉に手を掛けたところで、強烈な頭痛がに襲われ……記憶はそこで途絶えている。
「ワタシ小さいころ間さんの出てる映画観て、あの人と結婚したいって思ったんです。本当にあんな俳優、後にはいないですよね。自分の命より映画を優先したなんて、なんか壮絶で、話聞いてるだけで来るものがあります。」
女の感動は俺でなくて素人でも分かる猿芝居だった。
「先生、間さんの霊は今も此処にいるんでしょうか?」
男が尋ねた。
「ええ、そこのベットに今も横たわって苦しんでいます。」
違う、そう言おうとしたが声が出なかった。今の俺には声を出す器官が、肉体がなかった。
「先生、間さんを助けてあげて下さい……。」
女はハンカチで涙を拭く振りをして言った。
「ええ。苦しむ魂を救う事こそ私の仕事です。」
老婆はベットに向かって一度深々と頭を下げ、経を唱え始めた。
それに合わせて茶髪の男と嘘泣きの女もベットに向かって手を合わせて目を閉じる。
無論、経には何の力も無かった。
俺は芝居をするどころか、自分の姿を見てもらうことすら出来ないのか。
俺は腹の奥底から沸き上がってきた感情が悲しみか絶望か寂しかそれとも怒りなのか判別出来なかった。あるいはその全てであったのかもしれない。
その一方で、一つだけはっきりと分かったことがある。
それは俺が自分でも気付けないように心の奥底に隠していた欲求である。
俺が芝居に生きたのは、そして死後もこうして化けて出たのは、きっとその欲求の為であろう。
どうやら俺は自分の思っていたよりも随分と低俗な人間であったようだ。
老婆の経が終わると、茶髪の男がカメラに向かって締めの挨拶のようなものをした。
「ハイOK」
カメラマンの合図をきっかけに場の空気が一気に弛む。
「てかワタシ、間なんて役者、この前検索して初めて知ったんだけど、そんな奴で再生回数稼げるのかね?」
女は撮影が終わると別人のようになった。
「忘れられてきてるくらいの有名人を狙った方が何かと都合良いんだよ、こういうのは。」
笑いが起きる。
「先生、今日もありがとうございました。やっぱ先生いるとそれっぽい画になりますね。」
カメラマンが老婆を煽てると、老婆は「では次から報酬は倍でお願いします。」と冗談を返して小さく笑った。
最早彼らを軽蔑する気は起きなかった。彼らは注目を浴びたいという欲求に素直に従っただけの正直な人間なのだ。
寧ろ俺は見習うべきではないか。理屈ばかりを捏ねて自分の本性を偽って生きるより、彼らのように己の欲求に従って生きた方が、よっぽど真っ直ぐに生きたといえるのではないか。
そうだ、今からでも遅くない。俺も自分自身の欲求に従おう。
そのためならば悪霊と成り果てても構わない。
「あれ、カメラの電源が……。消したはずなのに。」
怪訝な顔をしてボタンをいじるカメラマンに、茶髪の男が「怖がらせようとしても無駄だぞ」と言って笑った。
俺は背後からゆっくりと手を伸ばし、その肩を掴んだ。実体のないはずの俺の手はしっかりと男の肩を握った。
ギョッとして振り返る男に俺は言葉を投げかけた。今度は俺の言葉は声になって空気を振るわせた。
「俺を見ろ。」
それは俺が心の底に隠していた欲求である。あるいは誰もが持っている本能かもしれない。
廃病棟に悲鳴が響く。
その余韻の中で俺は生前味わったことがない悦びを感じた。
記憶を辿ろうとしても頭の中に靄がかかり、自分がどういった成り行きでこの場に居るのか、はっきりと思い出せなかった。
俺は自分の興味が向かないことには全く無関心であるタチだから、きっと記憶の底に捨ててしまったのだろう。
暗く埃臭い廃病棟の廊下を一行は恐る恐る進んでいた。
先頭を歩くのは若い男女、俺はそいつらの名前も仕事も知らない。素人臭さの抜けていない喋りを見るに、若手の芸人とアイドルといったところか。
その後ろを歩くのが俺と霊媒師を語る老婆である。唇に塗りたくった真っ赤な紅も、皺の深く刻まれた手に握られた大玉の数珠も、身を包む黒い羽織も、その全てが胡散臭さを放っており、俺は一目で詐欺師に違いないと確信した。
俺は役者として一流であると自負している。
スクリーンに映し出されたモノクロの世界に魅了された若き日の俺は、荒れ狂う時代の中、ただひたすらに芝居と向き合い腕を磨いてきた。
日本の映画業界の礎を築いた人間の一人として俺を数える者もいる。
そんな俺が何故こんな半端な奴らと一緒になってお化け探しなんぞしなければならないのか、全くもって不愉快であった。
そもそも俺はテレビのバラエティショーというものが昔から嫌いだった。
出演者は自分の名前を売ろうと必死に目立とうとする者ばかり。スタッフも大衆に媚びた派手な企画ばかりをやりたがる。
俺に言わせればあんなものは滑稽な電気紙芝居に過ぎない。
俺の愛する芝居の世界、つまりは舞台と映画であるが、そこに在る物語に対する真摯な熱が、テレビのバラエティには見られないのである。
テレビばかり見ていたら阿呆になるに違いない。そんな俺の考えとは裏腹に大衆は劇場を離れテレビの奴隷と成り果てた。なんと嘆かわしいことであろうか。
皮肉なことにそんなバラエティ番組を作る側に回ってしまった俺の運命を呪っていると、思わず溜息が漏れそうになったが、前を歩く女の「ひゃっ」という悲鳴がそれを遮った。
「どうした?」
彼女の真横を歩いていた茶髪の男が尋ねると、女は涙を目に浮かべながら答えた。
「今なんか視線っていうか……気配を感じたんです。なんだか怒ってるみたいで。ワタシもう怖くて。」
彼女の言葉を受け、霊媒師が神妙な面持ちでここぞとばかりに語り始めた。
「霊が怒っているようですね。私たちのことを快く思っていないようです。」
「幽霊が帰れと言ってるんですか?」
男が尋ねる。
「いいえ、声が聞こえるのではありません。感情が伝わってくるんです。霊は声ではなく感情を直接伝えるのですよ。たまに強い思念が声のようになって、聞こえることはありますが、それは霊が本当に強く訴えたいことがあるときだけなのです。」
なるほど、声が聞こえるというよりも、感情をボンヤリと感じ取ることができると言った方が矛盾が起きにくい。なるほど詐欺師はこうやって逃げ道を用意するのか。
「でも、幽霊怒ってるんですよね?それってヤバくないですか?」
男の使う若者言葉が癪に触る。
「大丈夫です。ここにいる幽霊たちはただこの世から離れられないだけで、人を傷つけようとする悪霊ではありません。危なくなったときは、私が直ぐに伝えますので、安心なさってください。」
実際には幽霊などいないのだから危なくなる場面などないのであるが……このときまで俺はそう思っていた。
それから数刻経ったが、特段これといった事件は起こらなかった。
ロケが始まってからずっと俺は無口を貫いている。
それはバラエティへの抵抗というよりは、俺の心が此処ではないもっと遠くにあった為であるといった方が適切であろう。
俺は自分が主演を務める時代劇のことを考えていた。
撮影は俺の体の不調の為に一時中断されている。
映画を作るのには多くの人員が必要で、今回のような大作では尚のことである。
俺のせいで関係各位に大いに迷惑をかけたはずだ。
その借りは他でもない俺の芝居によって返さなければならない。
俺も年だから若い頃のように体は動いてくれないし、近頃は呂律も回らなくなってきている。
だが十分に休養を取った今ならば、万全の状態で撮影に臨めるはずだ。殺陣で酷使した利き手の痺れも漸く治ったことだし直ぐに撮影に戻らねば。
そしてきっと誰もが目を見張るする芝居をしてあっと驚かせてやるのだ。
俺は今にでもこの暗くじめっとした病院を抜け出して、スタジオに駆けて行きたい思いであった。
俺が今回の映画に格別の情熱を注ぐのは、これを最後に芝居を辞めようと考えていた為である。
老いという逃れられぬ病は徐々に俺の体を蝕んでいる。それに気付かない振りをして、いつまでも惨めったらしく業界に残り続け、権威を振りかざすような亡者には成りたくないのだ。
俺は役者の役割は物語の世界と観客のいる現実との間を繋ぐことだと考えている。
俺が「間生太郎」という芸名を掲げているのはそのためである。
これはどんな職においても同じだが、老いれば、その役割を遂行するだけの力は無くなる。それは逃れられぬ宿命だ。
衰えを認めず、富や名声のために自己主張をする「大御所」なんぞ害悪以外の何者でもない。
しかし悲しいことに、そういった「大御所」や、偶然注目を集めたに過ぎない「スター」に憧れ芸事の世界に入る人間も多くいる。
その手の連中は人の注目を浴びることを第一の目的としており、己の技を磨くことはその次にしているのだ。
今この場にいる連中もその類だろう。
自分の芝居に対する態度を振り返っている内に、気付けば別の棟に来ていた。
さっきまでいた廊下には外来用の診察室が並んでいたが、こちら側にはホテルの様に番号を振られた入院患者のための部屋がずらりと並んでいた。
同じ規格の部屋が敷き詰められた様子は蜂の巣を連想させて、何処となく不快に感じた。
先頭を歩く男が懐中電灯で病室の番号を確認し「302号室はこの先か」と言った。
その言葉を聞いて初めてこのロケには目的地があることを知った。
そこで俺はある違和感に気付いた。何故俺はこうも何も覚えていないのか。
考え出すと疑問が次々と湧き上がってきた。第一、興味がないから忘れたというのは無理がある。気に喰わない仕事をやる羽目になったのであれば、そのいきさつは腹立たしさと共に寧ろはっきりと覚えていた方が自然ではないだろうか。
それだけではない、俺の記憶のおかしいところはまだある。
そもそも俺は今日この廃病棟にどうやって来たのか、昼間は何をしていたか、そんなことさえも思い出せなかった。
間違い無く何かがおかしい。単に老いによって俺の記憶力が落ちているだけだろうか。いやもっと何か異常な出来事が起きている。
そんな気がして、胸騒ぎが止まらなかった。
俺の心情には誰一人気付くことなく、ロケ隊は廊下を進んだ。
俺は不安を顔に出さないよう努めたのたから当然といえば当然だが、俺のことを一切気にかけない一行には少し腹が立った。
俺はこのロケには元より乗り気でないため、番組を盛り上げようとする気は起きないが、一切話を振られないとなるとこれもまた不満である。
このロケに何故俺が必要がなのか。
病室の番号を306、305、304と下るように廊下を進み、ついに302号室に着いた。
病室の扉に俺は妙な既視感を覚えた。
先頭の男が扉に手を掛けたところで振り返って喋り始めた。
「遂に目的地に着きました。この病室こそあの有名人が実際に亡くなった場所なんです。」
急にアナウンサーのように語り出した男に釣られて後ろを振り返ると、そこには小さなカメラを片手で持った男が1人立っていた。
俺はこのときまで一度もカメラに目線を向けなかった。
だから気付かなかったのだ、俺の後ろには一人のカメラマンが付いているだけで、音声もディレクターもいないことに。
カメラもテレビや映画で撮影する為のものにはとても見えない。
これはそもそもテレビ番組のロケではないのではないか。
ならば俺は何故、そしていつから、これをバラエティ番組の撮影だと思い込んでいたのか。
記憶の抜けをさして気に留めなかったり、撮影中一度もカメラに目線を向けなかったりと、今日の俺はやはりどこかおかしい。
まるで何か自ら思い込みをしようとしているように、何か不都合な事から目を背けているように。
「さあ、この扉の先であの人の霊は今も苦しんでいるのでしょうか。これから先生に見てもらおうと思います。」
男はそう言うと病室の錆びて固まった戸をギーッと音を鳴らして引いた。
その先に待っていた光景を俺は知っていた。
記憶が蘇る。
ただただ白く、退屈な箱。そこに色を付けるのは、唯一窓から覗くイチョウの黄色い葉だけ。
しかしベットに横たわっていた俺からは、そのイチョウの木も殆ど見えなかった。
俺は確かに此処にいた、だが俺の記憶の中の病室はここまで錆びれていなかった。
「この病室、このベットで亡くなった有名人。それは、あの昭和を代表する名優、間生太郎さんです。今から30年ほど前、主演作の撮影中に間さんは脳卒中で倒れてこの病室に搬送されました。幸い手術によって一命は取り留めたものの、その数日後に帰らぬ人になったそうです。噂によると、撮影に戻ろうとして起き上がったところで、発作が起こったとか。」
何も無い病室が俺は嫌いだった。ただ天井を見つめることしか出来ないのが我慢ならなかった。
こんな何も無い部屋で、ひょっとすると誰も見ていないときに病状が悪化して死んでしまうのではないか。そう考えると寒気がした。
嫌だ、死にたくない。
まだ足りない。
この最後の一本が、俺の人生で最高の作品になるはずなんだ。
共演者が監督が、映画に関わる全ての人、そして全国のファンが、俺の帰りを待っている。
こんな窮屈な箱なんて抜け出してやろう。
そうすれば誰もが俺を喝采するに違いない。
俺は麻痺の残る手で点滴のチューブを抜き取り、転げ落ちるようにしてベットから抜け出した。
そして病室の扉に手を掛けたところで、強烈な頭痛がに襲われ……記憶はそこで途絶えている。
「ワタシ小さいころ間さんの出てる映画観て、あの人と結婚したいって思ったんです。本当にあんな俳優、後にはいないですよね。自分の命より映画を優先したなんて、なんか壮絶で、話聞いてるだけで来るものがあります。」
女の感動は俺でなくて素人でも分かる猿芝居だった。
「先生、間さんの霊は今も此処にいるんでしょうか?」
男が尋ねた。
「ええ、そこのベットに今も横たわって苦しんでいます。」
違う、そう言おうとしたが声が出なかった。今の俺には声を出す器官が、肉体がなかった。
「先生、間さんを助けてあげて下さい……。」
女はハンカチで涙を拭く振りをして言った。
「ええ。苦しむ魂を救う事こそ私の仕事です。」
老婆はベットに向かって一度深々と頭を下げ、経を唱え始めた。
それに合わせて茶髪の男と嘘泣きの女もベットに向かって手を合わせて目を閉じる。
無論、経には何の力も無かった。
俺は芝居をするどころか、自分の姿を見てもらうことすら出来ないのか。
俺は腹の奥底から沸き上がってきた感情が悲しみか絶望か寂しかそれとも怒りなのか判別出来なかった。あるいはその全てであったのかもしれない。
その一方で、一つだけはっきりと分かったことがある。
それは俺が自分でも気付けないように心の奥底に隠していた欲求である。
俺が芝居に生きたのは、そして死後もこうして化けて出たのは、きっとその欲求の為であろう。
どうやら俺は自分の思っていたよりも随分と低俗な人間であったようだ。
老婆の経が終わると、茶髪の男がカメラに向かって締めの挨拶のようなものをした。
「ハイOK」
カメラマンの合図をきっかけに場の空気が一気に弛む。
「てかワタシ、間なんて役者、この前検索して初めて知ったんだけど、そんな奴で再生回数稼げるのかね?」
女は撮影が終わると別人のようになった。
「忘れられてきてるくらいの有名人を狙った方が何かと都合良いんだよ、こういうのは。」
笑いが起きる。
「先生、今日もありがとうございました。やっぱ先生いるとそれっぽい画になりますね。」
カメラマンが老婆を煽てると、老婆は「では次から報酬は倍でお願いします。」と冗談を返して小さく笑った。
最早彼らを軽蔑する気は起きなかった。彼らは注目を浴びたいという欲求に素直に従っただけの正直な人間なのだ。
寧ろ俺は見習うべきではないか。理屈ばかりを捏ねて自分の本性を偽って生きるより、彼らのように己の欲求に従って生きた方が、よっぽど真っ直ぐに生きたといえるのではないか。
そうだ、今からでも遅くない。俺も自分自身の欲求に従おう。
そのためならば悪霊と成り果てても構わない。
「あれ、カメラの電源が……。消したはずなのに。」
怪訝な顔をしてボタンをいじるカメラマンに、茶髪の男が「怖がらせようとしても無駄だぞ」と言って笑った。
俺は背後からゆっくりと手を伸ばし、その肩を掴んだ。実体のないはずの俺の手はしっかりと男の肩を握った。
ギョッとして振り返る男に俺は言葉を投げかけた。今度は俺の言葉は声になって空気を振るわせた。
「俺を見ろ。」
それは俺が心の底に隠していた欲求である。あるいは誰もが持っている本能かもしれない。
廃病棟に悲鳴が響く。
その余韻の中で俺は生前味わったことがない悦びを感じた。
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