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前編
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「――ん?」
構えていた弓を下ろし、アイシャは鼻をぴくりと動かし、耳を澄ませた。森から吹く涼しい風が、細かくいくつもの束に編まれた栗色の三つ編みを揺らして通り過ぎる。濃い緑の匂いに川の匂い。それから――何やら森の獣が騒ぎ立てそうな匂いが混ざっていた。
「血も出てる……か」
アイシャがひゅいと指笛を鳴らすと、大きく巻いた角をした、これまた大きな骨格の鹿が現れた。アイシャは大弓を背中に背負い、軽々と鹿の背を跨いだ。角の付け根に結んだ赤い紐を両手に持った彼女は、霧の森の方角を見た。
「ラシダ、あっちだ」
なめし革の靴で鹿の腹を軽く蹴ると、ラシダは心得たと言わんばかりに跳ねるように走り出した。倒木や岩の上を、ラシダはひょいひょいと飛び越えていく。障害物の多い森の中は、馬よりも大鹿の方が動きが良かったが、一族の中でも乗りこなせるのはアイシャだけだった。茶色い毛皮のうさぎが、ラシダの足の間から逃げて行く。湿っぽい空気に触れたアイシャの髪は、少し濃い色になった。緑の瞳を細めて木々の間を見ていたアイシャは、森の中を流れる川で小さな違和感に気付いた。霧の白と木々の緑と茶、そして透明な水の色――それ以外の鮮やかな金色と青色が見えたのだ。
「あ、あれだ」
ラシダを操り、その色に近付く。そしてふわりと大きな岩の上に降り立ったアイシャは、周囲に注意を払いながら川岸へと歩いて行った。
ちょうど川が緩やかな弧を描いている部分にある大きめの岩。その岩の上に引っ掛かるようにうつ伏せに倒れている人間の姿。見たところ、まだ少年のようだった。濡れた金髪に濡れた青い服。その服は少年の左肩から斜めに切られており、そこから鉄の匂いが僅かにした。おそらく襲われたはずみに川に落ちて、ここで運よく引っ掛かったのだろう。
アイシャは少年を仰向けにし、口元と首筋に手を当てた。辛うじて息と脈はある。だが顔色は白に近く、触れた肌も氷のように冷たかった。
「急がねば」
アイシャは肩から羽織っていた格子柄の厚めの布を取り、岩の上に置いた。それから少年の濡れた服を手際よく脱がせ、白く滑らかな身体を布の上に寝かせる。そして腰に付けている革袋を開け、長めに切った布と小さな壺を取り出した。アイシャが壺の蓋を開け、中の軟膏を右手にとって少年の背中の傷に擦り込むと、小さな呻き声が少年の口から漏れた。白い布を少年の胴体に巻き留めたアイシャは、そっと温かなストールで少年の身体を包んだ。再び小壺を革袋に入れたアイシャは、濡れた服をまとめて、皮袋の反対側の腰に下げていた、編籠に入れた。
「軽いな」
少年の膝に手を入れ、身体をゆっくりと抱き上げたアイシャはその軽さに驚いた。同じ年の部族の少年の方が重い。この身体では永くはもたないかもしれない。アイシャは足早にラシダへと歩く。草を食んでいたラシダが首を上げ、つぶらな瞳をアイシャに向けた。ぐったりした少年の身体をラシダの胴体の上に置いたアイシャは、その後ろに跨り、少年を手綱を持つ両手で支えるように抱いた。
「行くぞ、ラシダ」
その声と共に、再びラシダは走り出した。アイシャの上での中にいる少年の瞼は、ぴくりとも動かなかった。
***
「う……」
弱弱しい声と共に、少年が身じろぎをした。アイシャはゆっくりと声を掛けた。
「気が付いたか、少年」
少年の瞳が開いた。アイシャが見た事もない、青い青い瞳だった。あの服の色はこの子の瞳の色だったのか、と思わせる様な色だ。
「……え」
はしばみ色のアイシャを間近で見る青い瞳が丸くなった。アイシャや自分に視線を向けた少年が、驚愕に近い表情を浮かべている。
「大丈夫だ、恐れる事はない。お前に危害を加える気はない」
そうアイシャが告げたのに、少年の白い頬が見る見るうちに赤く染まっていく。アイシャははて、言葉が通じないのか、と首を傾げたが、まだ体調が悪いのかもしれない、と思い直した。
「どれ」
アイシャが少年の額に自分の額を付けた。冷えてもおらず、熱も出ていない。冷えていた身体も温まったようだから、ひとまず安心だ。
「熱も出ていないようだな。今のところ怪我も化膿していないようだ。よし、何か食うか?」
アイシャが上半身を起こすと、はらりとストールが腰まで落ちた。少年は口をぱくぱくさせながらも、何も言わない。アイシャがうーんと両手を上に上げて伸びをした時、少年がようやく言葉を口にした。
「は、はだっ、はだかっ……!」
「ん? ああ」
アイシャは自分の身体を見下ろした。張りのいい乳房がふるんと揺れている。肌の色は少年のように白ではなく褐色だ。これ以上大きくなれば、狩りの邪魔になるなと考えながらアイシャは言った。
「少年の身体は濡れて冷え切っていたからな。肌と肌を触れ合わせ、体温を分け合うのが一番温まるんだ。すまないな」
勝手に裸にした事を怒っているのだろう。そう思い頭を下げたアイシャに、少年はぶんぶんと首を横に振った。
「少年はそれに包まっておけ。それは防寒用に織られた布で、体温を保つことが出来るからな」
アイシャは立ち上がり、辺りを見回した。ここは村から離れたところにある、狩り用の小屋。冬も過ごすことがある為、壁は石を積み上げて作られている。傾斜が急な屋根と床は丸太を半分に切ったものを並べてあった。アイシャと少年が寝ていたのは、藁を敷いて布を掛けた簡易寝具の上。これまた石で組まれた暖炉には、さっき燃やした薪の炎がまだ残っている。ここには何日か泊まり込むこともあるため、常に必要最低限の物は揃えてある。薪もそこそこあったし、表には井戸もある。裏の畑には、野ざらしだが野菜もいくつかは育っていたはず。
「すぐに力のつく物を作ってやろう。待っていろ」
アイシャは畳んで床に置いておいたズボンと上着を身に付け、扉を開けて外に出て行った。残された少年の頬が赤いままだったことに、アイシャは気が付いていなかった。
「どうだ? 少年」
「お、いしい……です」
アイシャが風の神へ祈りを捧げた後、彼女の作ったスープを木のスプーンで一口飲んだ少年は、その唇にうっすらと笑みを浮かべた。そうか、と笑ったアイシャも、少年の正面に胡坐をかいて座り、木の器から直接スープを飲んだ。
少年が着ていた服はまだ乾いておらず、紐にかけて暖炉の前に吊るし、乾かしているところだ。着る物のない少年は、ストールを巻き付けているだけだが、まああれなら温かいだろう、とアイシャは思っていた。
(それにしても……)
どう見ても、この辺りの部族の子、ではなさそうだ。透明な白い肌に青い瞳、輝く黄金色の髪の人間なぞ、今まで見た事もない。このアレッサ高原に住む人間は、大体がアイシャと同じ褐色の肌に、黒から赤色の瞳の持ち主ばかりだ。ただ、高原を降りたその先にある大きな国には、こんな色彩の人間が住んでいる、と旅商人から聞いた事があった。着ていた衣服の布の手触りの良さ、傷一つない手のひらから考えても、この少年はかなりいい暮らしをしていたに違いない。アイシャが畑の野菜と獲物の鳥で煮込んだ作った素朴なスープも、おそらくこの少年は食べ慣れていないのだろうな、と思った。
少年がほぼスープを飲み干したのを見たアイシャは、彼を真正面に見据えた。少年の表情が僅かに引き締まる。
「少年。少年は何故霧の森に入り込んだ。あの森は我ら部族でも滅多に立ち入らぬ。四季を問わず霧が立ち込め、視野が利かず、よく熟知した者でなければ、あっという間に道に迷う」
霧の森には、珍しい薬草が群生している。それを狙う輩がいなかった訳ではないが、大抵は道に迷い、森の獣にやられてしまう。おかげで今となっては、アイシャの一族以外の人間はあの森には近付かない。
きゅっと唇を噛み、俯く少年を見て、アイシャは溜息をついた。
「言いたくないなら、別にいいが。あの森は危険だ、一人で立ち入らないようにしろ」
「……はい」
アイシャが少年から器とスプーンを受け取り、自分の器と共に井戸で洗って戻ってきても、少年は俯いたままだった。アイシャは少年の前に膝をつき、右手を少年の左肩に置いた。少年の身体がぴくっと動く。
「背中の怪我のこともある。その怪我が治るまでは、私が少年の保護者となろう」
「あなた……が?」
少年がゆっくりと顔を上げる。青い瞳が潤んでいるようにアイシャには見えた。「ああ」とアイシャは安心させるように力強く頷いた。
「我が名はアイシャ。ドゥーラン族の長ギリスが一の娘、アイシャだ」
「アイシャ……」
長いまつ毛が瞬きをする。少年はふわっと笑顔を浮かべた。
「綺麗な名前。あなたに相応しい……僕は、」
少年は暫く目を逸らしていたが、やがて決意したようにアイシャを真っ直ぐに見た。深みを帯びた青の瞳。まるで夏の空のようだとアイシャは思った。
「……僕の名はチェイサー。ノルシュタイン王国から来ました」
「ノルシュタイン……あの魔法の国か?」
アイシャがそう言うと、少年――チェイサーはこくんと頷いた。アレッサ高原地帯を取り囲む山脈の向こう、に接している大国の名前だ。神の血を引くという王族は強大な魔力を持ち、魔力の強さ・多さが身分を決める国だと聞いた事がある。アレッサ高原の部族が力で優劣を決めるのと同じだな、とアイシャは思っていた。
「争いに巻き込まれて――魔法で転移して逃げようとしたところで、後ろから切られました。その後の事は覚えていません。おそらく、霧の森に転移し、そのまま川に落ちたのではないかと思います」
「転移、か……魔法で一瞬にして千里の距離を飛ぶとかいう技だな。それなら、あの森にいた理由もつくな」
チェイサーの表情はどこか晴れない。襲われた時のことを思い出したのかもしれないと思ったアイシャは、チェイサーの肩を引き寄せ、背中の傷が痛くないように優しく抱いた。
「ア、イシャ」
硬くなったチェイサーの背中を、優しく擦りながらアイシャは言った。
「心配するな、チェイサー。ここアレッサには、風の神のご加護がある。二度とお前を傷つけさせやしない。私も部族一の弓の使い手だ、いざとなれば戦おう」
「そんな!」
チェイサーがアイシャに縋りついた。小さな手が少しだけ震えていた。
「アイシャを犠牲になどしたくない。それぐらいなら、僕は」
ぺち、と軽い音が響いた。アイシャの右手がチェイサーの左頬を叩いたのだ。チェイサーは左手を頬に当て、呆然とアイシャを見上げた。アイシャははしばみ色の瞳で、チェイサーの瞳を射抜いた。
「子どもが余計な事を考えるな。チェイサーは自分が生き延びる事だけ考えればいい。子どもを生かす道を探すのは、大人の役目だ」
「アイ、シャ、でも」
「でも、はいらない。子どもはそこに生きていればいい。それだけで周囲に喜びを与えてくれる存在なのだから」
アイシャは再びチェイサーを胸に抱いた。震える小さな背中を愛おしげに撫でる。
「だから、遠慮などいらん。チェイサーはチェイサーらしくあればいい。泣きたかったら、泣け。喚きたかったら、喚け。そして、笑いたくなったら、笑えばいい」
「……っ……アイ、」
「チェイサーは必ず私が守る。だから安心しろ」
「うっ……く、う、んっ……」
くぐもった嗚咽がアイシャの胸から聞こえた。こんな子どもなのに、切りつけられて怪我をしたのだ、さぞかし恐ろしい思いをした事だろう。それに――
(子どもにまで刃を向ける輩が、チェイサーの親に手を出さぬとも思えない)
アイシャにはチェイサーの親の安全を祈る事しか出来ないが、せめてこの子を守らなくては。いつか親子が再会できるその日まで。
肩を震わせアイシャに縋りついたチェイサーが泣き止むまで、アイシャは彼の背中を優しく撫で続けたのであった。
***
「見て見て、アイシャ! ほら上手に出来たよ!」
狩りから戻ったアイシャは、古い銅鍋を両手に持ったチェイサーに迎えられた。アイシャはチェイサーの頭をかいぐりした後、鍋を覗き込んだ。
「ほう、スープか! 黄金色で美味しそうな匂いだな」
「早く食べて。狩りで疲れてるでしょう?」
まるで甲斐甲斐しい嫁のようだな。アイシャは苦笑しながら、血抜きしたうさぎと鴨を石で組んだ貯蔵庫に入れた。その間に、チェイサーは木の机に鍋を置き、木の器とスプーンを並べていく。いつもの夕方の光景だ。
――チェイサーはあっという間にアイシャの生活に馴染んだ。拾った子どもの面倒を見る、そう言い切ったアイシャに反対する者は誰もいなかった。元々ドゥーラン族は子どもを大切にする部族だ。この厳しい環境では、子どもが生きながらえ、大人になる事すら難しい。だからこそ、子どもを第一に考える風習が根強く残っていたからだ。他の部族と戦いになっても、相手の部族の女子どもは決して殺さない。それがドゥーラン族の掟だった。
また、チェイサーが素直な子どもであったことも、部族の皆に可愛がられる要因となった。慣れない手つきで井戸の水をくみ上げるチェイサーに、「そんなへっぴり腰でどうする、男だろ」と言いながらも重い桶をこっそり軽い桶に変えたライサンはアイシャと同じ年だが、チェイサーに『ドゥーラン族の男とは』、とかうんちくを垂れているらしい。あいつも面倒見のいい男だからな、とアイシャは知らないふりをしていた。
アイシャは木の壁に立てかけた少し曇った大鏡を見た。なめし革と綿で出来た上着に幅広の皮ベルトを締め、ふくらはぎの部分が膨らんだ黒のズボンとなめし革の靴を穿いた自分の姿。肩布を外した時にしか分からない胸の膨らみがなければ、男と間違えられそうな格好だ。
(まあ、女の恰好では狩りが出来ないからな……)
アイシャ以外の女性たちは、すっぽりと頭から被る、くるぶし丈の長衣に腰布を巻く恰好をしている。布は夏場は麻に綿を混ぜた織物、秋から冬は羊の毛を入れた厚めの織物だが、各々が好きな模様を刺繍してお洒落を楽しんでいた。ちなみに、今チェイサーが着ているのはその女性服だ。背中の傷もあり、あまり身体を締め付けない服がいいだろうと近所に住む知り合いからもらったのだが――これがまたチェイサーによく似あっていた。チェイサーの瞳と同じ、青の服。少し伸びた金の髪もよく映える色だ。少し焼けたとはいえ、アイシャの肌に比べたらまだまだ白い肌も、まるで寓話に出てくるお姫様のようだとアイシャは思っていた。
「ん? また少し背が伸びたのか?」
夕食の用意をするチェイサーと並んだ時、アイシャは目を細めた。チェイサーの頭のてっぺんが、自分の肩よりもわずかに上に来ていた。チェイサーが嬉しそうに「うん!」と頷き、アイシャを見上げた。
「そうか、やはり成長が早いな。たった三ヶ月しか経っていないというのに」
――大怪我を負ったチェイサーを保護してからすでに三ヶ月。背中の傷は最初の一ヶ月で良くなり、今ではうっすらと痕が残っているだけだった。その時にチェイサーを連れて旅立つつもりだったのだが、季節は初春だというのに天候は荒れ、吹雪まで出る始末。この悪天候の中、子連れで旅をするわけにもいかず、暫く様子を見ているうちに、また二ヶ月も経ってしまった。
今春から夏に変わる頃。旅をするには一番よい季節だ。チェイサーも体力が付き、今ならノルシュタインまでの移動距離も耐えられるだろう。……なのに、中々アイシャは切り出せずにいた。
(二人での生活に慣れてしまったから、だろうか)
母親はアイシャを産んですぐ天に召された。部族の女性たちに育てられたアイシャは、成人となる十五の年に父の家を出、村の一角に居を構えた。長の跡取りは自分しかいない、その思いから男性の恰好をし、狩りをし、弓を引いた。普通部族の娘は十五、六で嫁ぎ母になるが、十八を迎えてもアイシャはまだそんな気になれなかった。長になるためには、一族を統制できる強い者であらねば。その思いが強かったからだ。また部族の中には、アイシャ以上の狩りの腕の持ち主がいなかった、ということもある。
にこにこと天の使いのような笑顔を見せるチェイサー。少しでも親を偲ぶ様子があれば、すぐにでも連れ出したのだが。チェイサーは今の生活に満足しているように見える。都とは違い、不自由の多い生活だろうに。
「草原を渡る風の神よ、その慈悲深き思いを我らに与えたまえ」
テーブルにチェイサーと向き合って座り、手を合わせて印を切り、祈りの言葉を捧げる。いつもの食事の光景だ。チェイサーもアイシャが祈っている間は目を瞑り、同じ格好をして祈っている。目を開けたアイシャは、テーブルの上を見た。竹籠に入った薄くて丸いパンはドゥーラン族の主食だ。木の器には黄金色のスープと煮込んだ野菜に鶏肉が。どちらも美味しそうな匂いをさせていた。
「さあ、食べよう。チェイサーの料理の腕は本当に上達したな」
「ありがとう、アイシャ。アイシャに美味しく食べてもらいたいから、頑張ったんだ」
アイシャはスプーンでスープを口に入れた。塩と肉の脂の味に、香辛料の香りが混ざっている。絶妙な味だ。
「うん、美味い。チェイサーはいつでも嫁に行けるぞ」
半分本気で言ったアイシャに、チェイサーはくすりと笑った。
「僕はアイシャ以外の人の処にはいかないよ。僕はアイシャのものだから」
スープにパンを浸しながら食べるチェイサーを見ながら、アイシャの心境は複雑だった。この三ヶ月で分かった事。おそらくはチェイサーは高貴な生まれだ。家事などの経験はなかったものの、基本的な知識は備えている。受け答えもしっかりしていて、とても齢八の子どもとは思えない。剣も習っていたらしく、ライサンから古い剣をもらい受け、こっそりと練習している姿を見た事がある。いくら都とはいえ、平民がここまで教育を受けられることは難しいだろう。そして――
――アイシャが狩りをしている間、妙にチェイサーの気配を感じる事がある。そんな時は、何故か怪我もせず、弓も遠くまで飛ぶ。とどめを刺し損ねた獲物がアイシャに向かって来ても、アイシャの半身程手前で突然口から泡を噴いて倒れてしまう。そういう事があった日は、家に戻るとチェイサーが疲れた顔をしているのだ。そんな事が何度かあったため、アイシャも観察するようになった。チェイサーが意識的にしているかどうかは不明だが、あれはおそらくチェイサーの魔力だ。
(私を守ろうとして、か)
守っているつもりが、こんな幼子に守られているかも知れぬとは。アイシャは自嘲気味にパンにかぶりついた。この魔力から言っても、チェイサーは早く返さねばならない立場の子どもなのだろう。そう思うのに。
「ねえ、アイシャ。僕はアイシャが好きだよ。アイシャは?」
そう言って微笑むチェイサーを……手放すことが、辛いだなんて。本当の弟のように愛おしく思っている自分が、弱く感じた。
「私もチェイサーのことは好きだぞ」
アイシャがそう微笑むと、チェイサーはとても嬉しそうに笑う。そんな毎日が、アイシャにとっては、とても美しく貴重な日々だった。こんな毎日が続いてくれたら、そう心の奥底で願ってしまうくらいに、アイシャはチェイサーの事を気にかけていた。
「もう寝るぞ」
「うん……お休みなさい」
アイシャはランプの灯を消し、布を繋ぎ合わせた上掛け布団の中に潜り込んだ。チェイサーが小さな手をアイシャに伸ばしてくる。アイシャは躊躇いもせず、裸の胸にチェイサーを抱き締めた。
『怖いんだ、アイシャ……寝るのが怖いんだ』
ここに連れて来た当初、そう言って震えていたチェイサー。アイシャと直に肌を合わせると、落ち着いて寝られる事が分かった。それ以来、アイシャもチェイサーも裸で寝ている。時々アイシャの胸にチェイサーが顔を擦りつけている事があったが、母親を思い出しているのだろうとアイシャは気にも留めなかった。
「チェイサー……」
すやすやと腕の中で寝息を立てるチェイサーの、柔らかい髪を撫でた。いつまでもこうしている訳にはいかない事は分かっているのに。
「お休み、私のいとし子」
アイシャはチェイサーの額に口付けを一つ落とし、ゆっくりと意識を安息の暗闇へと手放していったのだった。
***
――そうして、三日ほど過ぎた頃。ラシダに跨り、家に向かっていたアイシャはふと空を見上げた。あるモノを見たアイシャの表情が険しくなる。
「あれは……」
夕焼け色の空に、不似合いな大きな黒い影が浮かんでいた。ゆったりと羽ばたくその姿は、見慣れた鷹ではない。からすにしては大きすぎる。こちらを見下ろしているような気がして、ぞわりと鳥肌が立った。
「ラシダ、急ぐぞ」
早く家に戻らねば。あれは良くないモノだ。チェイサーを守らなければ。大地を跳ねるラシダを急がせながら、アイシャは感じた事のない不安に襲われていた。
「チェイサー!」
入口に吊るされた布を勢いよく捲って中に入ったアイシャは、はしばみ色の目を見張った。テーブルの近くに立つチェイサー。そしてそのチェイサーから、五歩ほど離れた床にいたのは――さっきの黒い鳥だった。チェイサーが振り返り、さっと顔を曇らせる。
「アイシャ」
「大丈夫か、チェイサー!」
家の中では大弓は使えない。アイシャはチェイサーの前に立ち、腰に下げた小刀を鞘から引き抜いて黒い鳥に向かって右手を構えた。
「お前は何者だ」
アイシャがそう鳥に言うと、鳥の目が赤く不気味に光った。
『――どうか、お戻り下さい、殿下』
黒いくちばしが動いたかと思うと、男の声が聞こえてきた。その声に、チェイサーがぎゅっとアイシャの腕を掴む。
『クーデターを起こした元王弟ヴァリドはすでに処刑されました。後はあなたにお戻りいただくのみ』
アイシャはそっと斜め後ろを見た。チェイサーは真っ青になって、がたがたと震えていた。その瞳に浮かぶ恐怖に、アイシャはぐっと歯を食いしばった。
「――黙れ、侵入者。まずは名乗るのが礼儀であろう。私はチェイサーの守護者、ドゥーラン族の長ギリスが一の娘、アイシャ。この子を脅かすモノには容赦しない」
鳥の赤い目がアイシャを捉えた。アイシャもぐっと腹に力を込めて睨み返す。クククと喉を鳴らすような音がした後、鳥がくちばしを開いた。
『――私の名は、ノルシュタイン王国のリヒト=ヴァーデランド伯爵。そこにおられるお方は私をご存じのはず――そうですよね、殿下?』
「殿下、だと?」
アイシャが問うと、クルックルと鳥が鳴いた。アイシャの二の腕を掴んでいるチェイサーの指に力が入る。
『ええ――正確にはノルシュタイン王国第二百十代目の王、ラフィル=C=ノルシュタイン。我がノルシュタイン王国の王にして、黒夢の魔術師となるべきお方。それが殿下です』
「……」
まだ小刀を構えるアイシャに、鳥が言葉を続けた。
『殿下をお守り頂いた事には感謝いたします、アイシャ殿。しかし、殿下にノルシュタイン城にお戻りいただかねば、この世界の均衡が崩れます』
「なんだと?」
アイシャが目を見張ると、鳥はうろうろと歩きながら話し出した。
『我がノルシュタインの王族が強大な魔力を有していることはご存知でしょう。その魔力は魔王を封じるために必要なモノなのです』
「魔王だと?」
チェイサーの震えが伝わってくる。悲しいまでの張り詰めた気持ちも。
『ノルシュタイン城の地下には、千年前に封じられた魔王が眠っています。その魔王を封じるために、当時のノルシュタイン王国の王は神の娘を娶り、神の血を引く子を産ませた、と文献に残っています』
「……」
『代々の王は、ノルシュタイン城にてその強大な魔力を地下の祭壇に捧げ続ける事により、魔王が目覚めぬようにしてきたのです。ですが』
鳥の目が一層赤く光った。
『ヴァリド王弟が王と王妃、そして世継ぎの王子を殺害、王の座を手に入れんとしたのです。王が魔力を祭壇に捧げた直後の出来事で、力の弱くなっていた王はヴァリドの魔力を抑える事が出来ませんでした』
「……」
『王も王妃もヴァリドの手にかかり、王子は混乱の最中、傷を負いながらもいずれかの空間に転移――その時から、我らは水面下で王子の行方を捜しておりました』
――鳥が言うには、ヴァリドは王を廃し王座に就いたものの、やはりその器の持ち主ではなかったらしい。祭壇に魔力を捧げるという、王にとって義務ともいえる月に一度の儀式を、力が弱くなることを恐れ、全く行おうとしなかったらしい。それ故、ノルシュタインでも空は荒れ、地方では洪水が起き、地割れが起こった。数百年もの間天変地異が全くなかったかの国では、大騒ぎとなったらしい。
「まさか、あの天候もそれが原因か?」
春先の吹雪。確かにここ数年ではなかった天候だったが、まさか。鳥はこくこくとせわしなく首を縦に動かした。
『おそらくは。我らは前王派を集め、打倒ヴァリドを掲げ兵を上げました。ヴァリドの魔力は王に次ぐもの、簡単ではございませんでしたが――一瞬の隙をついて彼の者を捉える事に成功いたしました。それと同時に、王子の行方を追っていた魔術師が見つけたのです――この高原で、王子の魔力が発動している痕跡を』
やはりか。アイシャはチェイサーをじっと見た。チェイサーは、辛そうな瞳でアイシャを見上げていた。
『もはや一刻の猶予もなりません。王家の儀式はもう三ヶ月も中断したまま――このままでは封印がどこまで持つのかも分かりません。魔王が目覚めれば、この世は地獄と化します。どうか殿下、お戻りになり、王の儀式を』
「……やだ」
小さな声。アイシャは目を見開いた。
「チェイサー?」
「嫌だ……嫌だ! 僕が戻ったら、もうアイシャに会えなくなる。アイシャは長の娘、僕と一緒に来てもらう事は出来ない。僕はアイシャと一緒にいたい!」
「チェイサー……」
アイシャは小刀を鞘に仕舞った。そうして腰をかがめ、チェイサーの顔を真正面から見た。涙に濡れたチェイサーの瞳。そこに映る自分を慕う気持ちの中に、あるものを見つけたアイシャは、チェイサーをぎゅっと抱き締めた。
「チェイサーには分かっているのだな。自分が戻らねば、ノルシュタインのみならず、この高原も滅びると」
ぴくっとチェイサーの肩が揺れた。アイシャは優しく言葉を続けた。
「チェイサーは優しい子だ。大勢の民を見捨てる様な事は出来ないだろう……お前の瞳がそう言っている」
「アイ、シャ」
「……チェイサー。私はいつだってお前の守護者だ。もしお前が都で危険な目に遭うような事あらば、ラシダに乗ってすぐに駆け付けよう」
「……アイシャ、アイシャ……!」
チェイサーがアイシャに抱き付いてきた。いつの間にか、小さな手が背中に回るようになっている。アイシャもチェイサーを強く抱き締めた。
どのくらい、そうしていただろうか。チェイサーの手から力が抜けた。アイシャが顔を上げると、チェイサーは何かを決めた瞳でアイシャを見ていた。
「アイシャ、僕は……ノルシュタインに戻る。そうして、アイシャのいるこの国も守ってみせる――だけど」
チェイサーはアイシャの右手を取り、片膝を床についた。
「チェイサー?」
アイシャが目を丸くすると、チェイサーはアイシャの右手に口付けを落として、こう言った。
「アイシャ、どうか私の妃に。アイシャが部族の長にならなければならない立場であることも分かってる。それでも」
なんと美しい青だろう。アイシャは息を呑んだ。チェイサーの瞳は、金粉が舞っているかのように輝いていた。
「アイシャがいてくれるなら、魔王の封印も王の座も怖くない。喜んでこの大地のために身を捧げよう。だから……」
アイシャは跪き、チェイサーを抱き締めた。栗色の三つ編みが、チェイサーの肩に当たる。
「チェイサーこそ、こんな年増でいいのか? 私は都の風習も何も知らぬ、辺境の民だぞ」
「アイシャは綺麗だ! アイシャみたいに綺麗な人はこの世にいない!」
八歳の子どもに殺し文句を言われるとはな。アイシャは苦笑しながらも、顔を上げ、チェイサーを真正面に見据え、頷いた。
「分かった、承諾しよう。チェイサーが妻を娶れる年になり、その時になっても私を必要としてくれるなら、私はチェイサーの妻となろう」
チェイサーの顔が太陽が差したように明るくなった。
「アイシャ!」
「んんん!?」
アイシャの唇に、一瞬柔らかいモノが当たった。それがチェイサーの唇だと認識するまでに、数刻かかった。チェイサーの嬉しそうな微笑みに、アイシャの胸は鈍く痛んだ。
「これは約束の証。忘れないで、アイシャ。必ず迎えにくるから」
そう言ったチェイサーは立ち上がり、うろうろと覚束ない足取りでうろつき回っていた鳥の方を向いた。
「リヒト。城に戻る。戴冠の準備は出来ているのだろう?」
アイシャが聞いた事のない、大人びた声。鳥は『はい、殿下。大神官もすでに城内におられます。お戻り次第、戴冠式を』
「分かった」
チェイサーはアイシャを振り返った。その瞳は、アイシャの見知った子どものモノではなかった。王の瞳、だ。
「……チェイサー」
アイシャはもう一度小刀を出し、三つ編みに編んだ自分の髪を一房切った。栗色の毛の束を、チェイサーに手渡す。
「我が部族では、髪にはその者の力が宿ると言われている。これは私だ。離れていても、チェイサーを見守っているという証に持って行くがいい」
チェイサーの小さな両拳がアイシャの髪を握り締めた。
「アイシャ……僕にもその小刀を貸して」
アイシャが小刀を手渡すと、チェイサーは左手にアイシャの髪を持ち替え、右手に小刀を持った。そしてそのまま、肩の下まで伸びた自分の髪を鮮やかな手つきで一房切った。
「僕も。僕の髪を持っていて、アイシャ。これは僕がアイシャの事をいつまでも思っているという証だから」
「チェイサー」
小刀と同時に受け取ったチェイサーの髪は、砂金のようにきらきらと輝いていた。アイシャは頷き、「大切にする」と呟いた。チェイサーはもう一度、花が咲くように笑った。
「アイシャ。今までありがとう。アイシャの事は、決して忘れない――さようなら」
「!? チェイサー!?」
チェイサーが後ろに一歩下がって何かを呟いたかと思うと、次の瞬間彼の足元から金色の円が浮かび上がり、同時に見た事もない文様がチェイサーと鳥の周りを回転しながら取り囲んだ。チェイサーの姿が、金色の光の中に溶けて消えていく。消えかけたチェイサーはアイシャに微笑みかけていた。
――好きだよ、アイシャ
そうチェイサーの唇が動いたのを確認したその直後――金色の光は一瞬のうちに消え失せた。そしてそこには、もう誰もいなかった。
「チェイサー……」
アイシャは、普段と何も変わらない木の床を呆然と見つめていた。自分の手の中にある金色の髪の感触だけが、先程の出来事が夢ではなかったことを告げていた。あんな僅かな詠唱で、遥か彼方のノルシュタインまで転移出来るとは。
(お前は――真に偉大な魔術師だったのだな)
アイシャは跪いて目を閉じ、胸に手を当てて、風の神フラカンにチェイサーの無事を祈ったのだった。
構えていた弓を下ろし、アイシャは鼻をぴくりと動かし、耳を澄ませた。森から吹く涼しい風が、細かくいくつもの束に編まれた栗色の三つ編みを揺らして通り過ぎる。濃い緑の匂いに川の匂い。それから――何やら森の獣が騒ぎ立てそうな匂いが混ざっていた。
「血も出てる……か」
アイシャがひゅいと指笛を鳴らすと、大きく巻いた角をした、これまた大きな骨格の鹿が現れた。アイシャは大弓を背中に背負い、軽々と鹿の背を跨いだ。角の付け根に結んだ赤い紐を両手に持った彼女は、霧の森の方角を見た。
「ラシダ、あっちだ」
なめし革の靴で鹿の腹を軽く蹴ると、ラシダは心得たと言わんばかりに跳ねるように走り出した。倒木や岩の上を、ラシダはひょいひょいと飛び越えていく。障害物の多い森の中は、馬よりも大鹿の方が動きが良かったが、一族の中でも乗りこなせるのはアイシャだけだった。茶色い毛皮のうさぎが、ラシダの足の間から逃げて行く。湿っぽい空気に触れたアイシャの髪は、少し濃い色になった。緑の瞳を細めて木々の間を見ていたアイシャは、森の中を流れる川で小さな違和感に気付いた。霧の白と木々の緑と茶、そして透明な水の色――それ以外の鮮やかな金色と青色が見えたのだ。
「あ、あれだ」
ラシダを操り、その色に近付く。そしてふわりと大きな岩の上に降り立ったアイシャは、周囲に注意を払いながら川岸へと歩いて行った。
ちょうど川が緩やかな弧を描いている部分にある大きめの岩。その岩の上に引っ掛かるようにうつ伏せに倒れている人間の姿。見たところ、まだ少年のようだった。濡れた金髪に濡れた青い服。その服は少年の左肩から斜めに切られており、そこから鉄の匂いが僅かにした。おそらく襲われたはずみに川に落ちて、ここで運よく引っ掛かったのだろう。
アイシャは少年を仰向けにし、口元と首筋に手を当てた。辛うじて息と脈はある。だが顔色は白に近く、触れた肌も氷のように冷たかった。
「急がねば」
アイシャは肩から羽織っていた格子柄の厚めの布を取り、岩の上に置いた。それから少年の濡れた服を手際よく脱がせ、白く滑らかな身体を布の上に寝かせる。そして腰に付けている革袋を開け、長めに切った布と小さな壺を取り出した。アイシャが壺の蓋を開け、中の軟膏を右手にとって少年の背中の傷に擦り込むと、小さな呻き声が少年の口から漏れた。白い布を少年の胴体に巻き留めたアイシャは、そっと温かなストールで少年の身体を包んだ。再び小壺を革袋に入れたアイシャは、濡れた服をまとめて、皮袋の反対側の腰に下げていた、編籠に入れた。
「軽いな」
少年の膝に手を入れ、身体をゆっくりと抱き上げたアイシャはその軽さに驚いた。同じ年の部族の少年の方が重い。この身体では永くはもたないかもしれない。アイシャは足早にラシダへと歩く。草を食んでいたラシダが首を上げ、つぶらな瞳をアイシャに向けた。ぐったりした少年の身体をラシダの胴体の上に置いたアイシャは、その後ろに跨り、少年を手綱を持つ両手で支えるように抱いた。
「行くぞ、ラシダ」
その声と共に、再びラシダは走り出した。アイシャの上での中にいる少年の瞼は、ぴくりとも動かなかった。
***
「う……」
弱弱しい声と共に、少年が身じろぎをした。アイシャはゆっくりと声を掛けた。
「気が付いたか、少年」
少年の瞳が開いた。アイシャが見た事もない、青い青い瞳だった。あの服の色はこの子の瞳の色だったのか、と思わせる様な色だ。
「……え」
はしばみ色のアイシャを間近で見る青い瞳が丸くなった。アイシャや自分に視線を向けた少年が、驚愕に近い表情を浮かべている。
「大丈夫だ、恐れる事はない。お前に危害を加える気はない」
そうアイシャが告げたのに、少年の白い頬が見る見るうちに赤く染まっていく。アイシャははて、言葉が通じないのか、と首を傾げたが、まだ体調が悪いのかもしれない、と思い直した。
「どれ」
アイシャが少年の額に自分の額を付けた。冷えてもおらず、熱も出ていない。冷えていた身体も温まったようだから、ひとまず安心だ。
「熱も出ていないようだな。今のところ怪我も化膿していないようだ。よし、何か食うか?」
アイシャが上半身を起こすと、はらりとストールが腰まで落ちた。少年は口をぱくぱくさせながらも、何も言わない。アイシャがうーんと両手を上に上げて伸びをした時、少年がようやく言葉を口にした。
「は、はだっ、はだかっ……!」
「ん? ああ」
アイシャは自分の身体を見下ろした。張りのいい乳房がふるんと揺れている。肌の色は少年のように白ではなく褐色だ。これ以上大きくなれば、狩りの邪魔になるなと考えながらアイシャは言った。
「少年の身体は濡れて冷え切っていたからな。肌と肌を触れ合わせ、体温を分け合うのが一番温まるんだ。すまないな」
勝手に裸にした事を怒っているのだろう。そう思い頭を下げたアイシャに、少年はぶんぶんと首を横に振った。
「少年はそれに包まっておけ。それは防寒用に織られた布で、体温を保つことが出来るからな」
アイシャは立ち上がり、辺りを見回した。ここは村から離れたところにある、狩り用の小屋。冬も過ごすことがある為、壁は石を積み上げて作られている。傾斜が急な屋根と床は丸太を半分に切ったものを並べてあった。アイシャと少年が寝ていたのは、藁を敷いて布を掛けた簡易寝具の上。これまた石で組まれた暖炉には、さっき燃やした薪の炎がまだ残っている。ここには何日か泊まり込むこともあるため、常に必要最低限の物は揃えてある。薪もそこそこあったし、表には井戸もある。裏の畑には、野ざらしだが野菜もいくつかは育っていたはず。
「すぐに力のつく物を作ってやろう。待っていろ」
アイシャは畳んで床に置いておいたズボンと上着を身に付け、扉を開けて外に出て行った。残された少年の頬が赤いままだったことに、アイシャは気が付いていなかった。
「どうだ? 少年」
「お、いしい……です」
アイシャが風の神へ祈りを捧げた後、彼女の作ったスープを木のスプーンで一口飲んだ少年は、その唇にうっすらと笑みを浮かべた。そうか、と笑ったアイシャも、少年の正面に胡坐をかいて座り、木の器から直接スープを飲んだ。
少年が着ていた服はまだ乾いておらず、紐にかけて暖炉の前に吊るし、乾かしているところだ。着る物のない少年は、ストールを巻き付けているだけだが、まああれなら温かいだろう、とアイシャは思っていた。
(それにしても……)
どう見ても、この辺りの部族の子、ではなさそうだ。透明な白い肌に青い瞳、輝く黄金色の髪の人間なぞ、今まで見た事もない。このアレッサ高原に住む人間は、大体がアイシャと同じ褐色の肌に、黒から赤色の瞳の持ち主ばかりだ。ただ、高原を降りたその先にある大きな国には、こんな色彩の人間が住んでいる、と旅商人から聞いた事があった。着ていた衣服の布の手触りの良さ、傷一つない手のひらから考えても、この少年はかなりいい暮らしをしていたに違いない。アイシャが畑の野菜と獲物の鳥で煮込んだ作った素朴なスープも、おそらくこの少年は食べ慣れていないのだろうな、と思った。
少年がほぼスープを飲み干したのを見たアイシャは、彼を真正面に見据えた。少年の表情が僅かに引き締まる。
「少年。少年は何故霧の森に入り込んだ。あの森は我ら部族でも滅多に立ち入らぬ。四季を問わず霧が立ち込め、視野が利かず、よく熟知した者でなければ、あっという間に道に迷う」
霧の森には、珍しい薬草が群生している。それを狙う輩がいなかった訳ではないが、大抵は道に迷い、森の獣にやられてしまう。おかげで今となっては、アイシャの一族以外の人間はあの森には近付かない。
きゅっと唇を噛み、俯く少年を見て、アイシャは溜息をついた。
「言いたくないなら、別にいいが。あの森は危険だ、一人で立ち入らないようにしろ」
「……はい」
アイシャが少年から器とスプーンを受け取り、自分の器と共に井戸で洗って戻ってきても、少年は俯いたままだった。アイシャは少年の前に膝をつき、右手を少年の左肩に置いた。少年の身体がぴくっと動く。
「背中の怪我のこともある。その怪我が治るまでは、私が少年の保護者となろう」
「あなた……が?」
少年がゆっくりと顔を上げる。青い瞳が潤んでいるようにアイシャには見えた。「ああ」とアイシャは安心させるように力強く頷いた。
「我が名はアイシャ。ドゥーラン族の長ギリスが一の娘、アイシャだ」
「アイシャ……」
長いまつ毛が瞬きをする。少年はふわっと笑顔を浮かべた。
「綺麗な名前。あなたに相応しい……僕は、」
少年は暫く目を逸らしていたが、やがて決意したようにアイシャを真っ直ぐに見た。深みを帯びた青の瞳。まるで夏の空のようだとアイシャは思った。
「……僕の名はチェイサー。ノルシュタイン王国から来ました」
「ノルシュタイン……あの魔法の国か?」
アイシャがそう言うと、少年――チェイサーはこくんと頷いた。アレッサ高原地帯を取り囲む山脈の向こう、に接している大国の名前だ。神の血を引くという王族は強大な魔力を持ち、魔力の強さ・多さが身分を決める国だと聞いた事がある。アレッサ高原の部族が力で優劣を決めるのと同じだな、とアイシャは思っていた。
「争いに巻き込まれて――魔法で転移して逃げようとしたところで、後ろから切られました。その後の事は覚えていません。おそらく、霧の森に転移し、そのまま川に落ちたのではないかと思います」
「転移、か……魔法で一瞬にして千里の距離を飛ぶとかいう技だな。それなら、あの森にいた理由もつくな」
チェイサーの表情はどこか晴れない。襲われた時のことを思い出したのかもしれないと思ったアイシャは、チェイサーの肩を引き寄せ、背中の傷が痛くないように優しく抱いた。
「ア、イシャ」
硬くなったチェイサーの背中を、優しく擦りながらアイシャは言った。
「心配するな、チェイサー。ここアレッサには、風の神のご加護がある。二度とお前を傷つけさせやしない。私も部族一の弓の使い手だ、いざとなれば戦おう」
「そんな!」
チェイサーがアイシャに縋りついた。小さな手が少しだけ震えていた。
「アイシャを犠牲になどしたくない。それぐらいなら、僕は」
ぺち、と軽い音が響いた。アイシャの右手がチェイサーの左頬を叩いたのだ。チェイサーは左手を頬に当て、呆然とアイシャを見上げた。アイシャははしばみ色の瞳で、チェイサーの瞳を射抜いた。
「子どもが余計な事を考えるな。チェイサーは自分が生き延びる事だけ考えればいい。子どもを生かす道を探すのは、大人の役目だ」
「アイ、シャ、でも」
「でも、はいらない。子どもはそこに生きていればいい。それだけで周囲に喜びを与えてくれる存在なのだから」
アイシャは再びチェイサーを胸に抱いた。震える小さな背中を愛おしげに撫でる。
「だから、遠慮などいらん。チェイサーはチェイサーらしくあればいい。泣きたかったら、泣け。喚きたかったら、喚け。そして、笑いたくなったら、笑えばいい」
「……っ……アイ、」
「チェイサーは必ず私が守る。だから安心しろ」
「うっ……く、う、んっ……」
くぐもった嗚咽がアイシャの胸から聞こえた。こんな子どもなのに、切りつけられて怪我をしたのだ、さぞかし恐ろしい思いをした事だろう。それに――
(子どもにまで刃を向ける輩が、チェイサーの親に手を出さぬとも思えない)
アイシャにはチェイサーの親の安全を祈る事しか出来ないが、せめてこの子を守らなくては。いつか親子が再会できるその日まで。
肩を震わせアイシャに縋りついたチェイサーが泣き止むまで、アイシャは彼の背中を優しく撫で続けたのであった。
***
「見て見て、アイシャ! ほら上手に出来たよ!」
狩りから戻ったアイシャは、古い銅鍋を両手に持ったチェイサーに迎えられた。アイシャはチェイサーの頭をかいぐりした後、鍋を覗き込んだ。
「ほう、スープか! 黄金色で美味しそうな匂いだな」
「早く食べて。狩りで疲れてるでしょう?」
まるで甲斐甲斐しい嫁のようだな。アイシャは苦笑しながら、血抜きしたうさぎと鴨を石で組んだ貯蔵庫に入れた。その間に、チェイサーは木の机に鍋を置き、木の器とスプーンを並べていく。いつもの夕方の光景だ。
――チェイサーはあっという間にアイシャの生活に馴染んだ。拾った子どもの面倒を見る、そう言い切ったアイシャに反対する者は誰もいなかった。元々ドゥーラン族は子どもを大切にする部族だ。この厳しい環境では、子どもが生きながらえ、大人になる事すら難しい。だからこそ、子どもを第一に考える風習が根強く残っていたからだ。他の部族と戦いになっても、相手の部族の女子どもは決して殺さない。それがドゥーラン族の掟だった。
また、チェイサーが素直な子どもであったことも、部族の皆に可愛がられる要因となった。慣れない手つきで井戸の水をくみ上げるチェイサーに、「そんなへっぴり腰でどうする、男だろ」と言いながらも重い桶をこっそり軽い桶に変えたライサンはアイシャと同じ年だが、チェイサーに『ドゥーラン族の男とは』、とかうんちくを垂れているらしい。あいつも面倒見のいい男だからな、とアイシャは知らないふりをしていた。
アイシャは木の壁に立てかけた少し曇った大鏡を見た。なめし革と綿で出来た上着に幅広の皮ベルトを締め、ふくらはぎの部分が膨らんだ黒のズボンとなめし革の靴を穿いた自分の姿。肩布を外した時にしか分からない胸の膨らみがなければ、男と間違えられそうな格好だ。
(まあ、女の恰好では狩りが出来ないからな……)
アイシャ以外の女性たちは、すっぽりと頭から被る、くるぶし丈の長衣に腰布を巻く恰好をしている。布は夏場は麻に綿を混ぜた織物、秋から冬は羊の毛を入れた厚めの織物だが、各々が好きな模様を刺繍してお洒落を楽しんでいた。ちなみに、今チェイサーが着ているのはその女性服だ。背中の傷もあり、あまり身体を締め付けない服がいいだろうと近所に住む知り合いからもらったのだが――これがまたチェイサーによく似あっていた。チェイサーの瞳と同じ、青の服。少し伸びた金の髪もよく映える色だ。少し焼けたとはいえ、アイシャの肌に比べたらまだまだ白い肌も、まるで寓話に出てくるお姫様のようだとアイシャは思っていた。
「ん? また少し背が伸びたのか?」
夕食の用意をするチェイサーと並んだ時、アイシャは目を細めた。チェイサーの頭のてっぺんが、自分の肩よりもわずかに上に来ていた。チェイサーが嬉しそうに「うん!」と頷き、アイシャを見上げた。
「そうか、やはり成長が早いな。たった三ヶ月しか経っていないというのに」
――大怪我を負ったチェイサーを保護してからすでに三ヶ月。背中の傷は最初の一ヶ月で良くなり、今ではうっすらと痕が残っているだけだった。その時にチェイサーを連れて旅立つつもりだったのだが、季節は初春だというのに天候は荒れ、吹雪まで出る始末。この悪天候の中、子連れで旅をするわけにもいかず、暫く様子を見ているうちに、また二ヶ月も経ってしまった。
今春から夏に変わる頃。旅をするには一番よい季節だ。チェイサーも体力が付き、今ならノルシュタインまでの移動距離も耐えられるだろう。……なのに、中々アイシャは切り出せずにいた。
(二人での生活に慣れてしまったから、だろうか)
母親はアイシャを産んですぐ天に召された。部族の女性たちに育てられたアイシャは、成人となる十五の年に父の家を出、村の一角に居を構えた。長の跡取りは自分しかいない、その思いから男性の恰好をし、狩りをし、弓を引いた。普通部族の娘は十五、六で嫁ぎ母になるが、十八を迎えてもアイシャはまだそんな気になれなかった。長になるためには、一族を統制できる強い者であらねば。その思いが強かったからだ。また部族の中には、アイシャ以上の狩りの腕の持ち主がいなかった、ということもある。
にこにこと天の使いのような笑顔を見せるチェイサー。少しでも親を偲ぶ様子があれば、すぐにでも連れ出したのだが。チェイサーは今の生活に満足しているように見える。都とは違い、不自由の多い生活だろうに。
「草原を渡る風の神よ、その慈悲深き思いを我らに与えたまえ」
テーブルにチェイサーと向き合って座り、手を合わせて印を切り、祈りの言葉を捧げる。いつもの食事の光景だ。チェイサーもアイシャが祈っている間は目を瞑り、同じ格好をして祈っている。目を開けたアイシャは、テーブルの上を見た。竹籠に入った薄くて丸いパンはドゥーラン族の主食だ。木の器には黄金色のスープと煮込んだ野菜に鶏肉が。どちらも美味しそうな匂いをさせていた。
「さあ、食べよう。チェイサーの料理の腕は本当に上達したな」
「ありがとう、アイシャ。アイシャに美味しく食べてもらいたいから、頑張ったんだ」
アイシャはスプーンでスープを口に入れた。塩と肉の脂の味に、香辛料の香りが混ざっている。絶妙な味だ。
「うん、美味い。チェイサーはいつでも嫁に行けるぞ」
半分本気で言ったアイシャに、チェイサーはくすりと笑った。
「僕はアイシャ以外の人の処にはいかないよ。僕はアイシャのものだから」
スープにパンを浸しながら食べるチェイサーを見ながら、アイシャの心境は複雑だった。この三ヶ月で分かった事。おそらくはチェイサーは高貴な生まれだ。家事などの経験はなかったものの、基本的な知識は備えている。受け答えもしっかりしていて、とても齢八の子どもとは思えない。剣も習っていたらしく、ライサンから古い剣をもらい受け、こっそりと練習している姿を見た事がある。いくら都とはいえ、平民がここまで教育を受けられることは難しいだろう。そして――
――アイシャが狩りをしている間、妙にチェイサーの気配を感じる事がある。そんな時は、何故か怪我もせず、弓も遠くまで飛ぶ。とどめを刺し損ねた獲物がアイシャに向かって来ても、アイシャの半身程手前で突然口から泡を噴いて倒れてしまう。そういう事があった日は、家に戻るとチェイサーが疲れた顔をしているのだ。そんな事が何度かあったため、アイシャも観察するようになった。チェイサーが意識的にしているかどうかは不明だが、あれはおそらくチェイサーの魔力だ。
(私を守ろうとして、か)
守っているつもりが、こんな幼子に守られているかも知れぬとは。アイシャは自嘲気味にパンにかぶりついた。この魔力から言っても、チェイサーは早く返さねばならない立場の子どもなのだろう。そう思うのに。
「ねえ、アイシャ。僕はアイシャが好きだよ。アイシャは?」
そう言って微笑むチェイサーを……手放すことが、辛いだなんて。本当の弟のように愛おしく思っている自分が、弱く感じた。
「私もチェイサーのことは好きだぞ」
アイシャがそう微笑むと、チェイサーはとても嬉しそうに笑う。そんな毎日が、アイシャにとっては、とても美しく貴重な日々だった。こんな毎日が続いてくれたら、そう心の奥底で願ってしまうくらいに、アイシャはチェイサーの事を気にかけていた。
「もう寝るぞ」
「うん……お休みなさい」
アイシャはランプの灯を消し、布を繋ぎ合わせた上掛け布団の中に潜り込んだ。チェイサーが小さな手をアイシャに伸ばしてくる。アイシャは躊躇いもせず、裸の胸にチェイサーを抱き締めた。
『怖いんだ、アイシャ……寝るのが怖いんだ』
ここに連れて来た当初、そう言って震えていたチェイサー。アイシャと直に肌を合わせると、落ち着いて寝られる事が分かった。それ以来、アイシャもチェイサーも裸で寝ている。時々アイシャの胸にチェイサーが顔を擦りつけている事があったが、母親を思い出しているのだろうとアイシャは気にも留めなかった。
「チェイサー……」
すやすやと腕の中で寝息を立てるチェイサーの、柔らかい髪を撫でた。いつまでもこうしている訳にはいかない事は分かっているのに。
「お休み、私のいとし子」
アイシャはチェイサーの額に口付けを一つ落とし、ゆっくりと意識を安息の暗闇へと手放していったのだった。
***
――そうして、三日ほど過ぎた頃。ラシダに跨り、家に向かっていたアイシャはふと空を見上げた。あるモノを見たアイシャの表情が険しくなる。
「あれは……」
夕焼け色の空に、不似合いな大きな黒い影が浮かんでいた。ゆったりと羽ばたくその姿は、見慣れた鷹ではない。からすにしては大きすぎる。こちらを見下ろしているような気がして、ぞわりと鳥肌が立った。
「ラシダ、急ぐぞ」
早く家に戻らねば。あれは良くないモノだ。チェイサーを守らなければ。大地を跳ねるラシダを急がせながら、アイシャは感じた事のない不安に襲われていた。
「チェイサー!」
入口に吊るされた布を勢いよく捲って中に入ったアイシャは、はしばみ色の目を見張った。テーブルの近くに立つチェイサー。そしてそのチェイサーから、五歩ほど離れた床にいたのは――さっきの黒い鳥だった。チェイサーが振り返り、さっと顔を曇らせる。
「アイシャ」
「大丈夫か、チェイサー!」
家の中では大弓は使えない。アイシャはチェイサーの前に立ち、腰に下げた小刀を鞘から引き抜いて黒い鳥に向かって右手を構えた。
「お前は何者だ」
アイシャがそう鳥に言うと、鳥の目が赤く不気味に光った。
『――どうか、お戻り下さい、殿下』
黒いくちばしが動いたかと思うと、男の声が聞こえてきた。その声に、チェイサーがぎゅっとアイシャの腕を掴む。
『クーデターを起こした元王弟ヴァリドはすでに処刑されました。後はあなたにお戻りいただくのみ』
アイシャはそっと斜め後ろを見た。チェイサーは真っ青になって、がたがたと震えていた。その瞳に浮かぶ恐怖に、アイシャはぐっと歯を食いしばった。
「――黙れ、侵入者。まずは名乗るのが礼儀であろう。私はチェイサーの守護者、ドゥーラン族の長ギリスが一の娘、アイシャ。この子を脅かすモノには容赦しない」
鳥の赤い目がアイシャを捉えた。アイシャもぐっと腹に力を込めて睨み返す。クククと喉を鳴らすような音がした後、鳥がくちばしを開いた。
『――私の名は、ノルシュタイン王国のリヒト=ヴァーデランド伯爵。そこにおられるお方は私をご存じのはず――そうですよね、殿下?』
「殿下、だと?」
アイシャが問うと、クルックルと鳥が鳴いた。アイシャの二の腕を掴んでいるチェイサーの指に力が入る。
『ええ――正確にはノルシュタイン王国第二百十代目の王、ラフィル=C=ノルシュタイン。我がノルシュタイン王国の王にして、黒夢の魔術師となるべきお方。それが殿下です』
「……」
まだ小刀を構えるアイシャに、鳥が言葉を続けた。
『殿下をお守り頂いた事には感謝いたします、アイシャ殿。しかし、殿下にノルシュタイン城にお戻りいただかねば、この世界の均衡が崩れます』
「なんだと?」
アイシャが目を見張ると、鳥はうろうろと歩きながら話し出した。
『我がノルシュタインの王族が強大な魔力を有していることはご存知でしょう。その魔力は魔王を封じるために必要なモノなのです』
「魔王だと?」
チェイサーの震えが伝わってくる。悲しいまでの張り詰めた気持ちも。
『ノルシュタイン城の地下には、千年前に封じられた魔王が眠っています。その魔王を封じるために、当時のノルシュタイン王国の王は神の娘を娶り、神の血を引く子を産ませた、と文献に残っています』
「……」
『代々の王は、ノルシュタイン城にてその強大な魔力を地下の祭壇に捧げ続ける事により、魔王が目覚めぬようにしてきたのです。ですが』
鳥の目が一層赤く光った。
『ヴァリド王弟が王と王妃、そして世継ぎの王子を殺害、王の座を手に入れんとしたのです。王が魔力を祭壇に捧げた直後の出来事で、力の弱くなっていた王はヴァリドの魔力を抑える事が出来ませんでした』
「……」
『王も王妃もヴァリドの手にかかり、王子は混乱の最中、傷を負いながらもいずれかの空間に転移――その時から、我らは水面下で王子の行方を捜しておりました』
――鳥が言うには、ヴァリドは王を廃し王座に就いたものの、やはりその器の持ち主ではなかったらしい。祭壇に魔力を捧げるという、王にとって義務ともいえる月に一度の儀式を、力が弱くなることを恐れ、全く行おうとしなかったらしい。それ故、ノルシュタインでも空は荒れ、地方では洪水が起き、地割れが起こった。数百年もの間天変地異が全くなかったかの国では、大騒ぎとなったらしい。
「まさか、あの天候もそれが原因か?」
春先の吹雪。確かにここ数年ではなかった天候だったが、まさか。鳥はこくこくとせわしなく首を縦に動かした。
『おそらくは。我らは前王派を集め、打倒ヴァリドを掲げ兵を上げました。ヴァリドの魔力は王に次ぐもの、簡単ではございませんでしたが――一瞬の隙をついて彼の者を捉える事に成功いたしました。それと同時に、王子の行方を追っていた魔術師が見つけたのです――この高原で、王子の魔力が発動している痕跡を』
やはりか。アイシャはチェイサーをじっと見た。チェイサーは、辛そうな瞳でアイシャを見上げていた。
『もはや一刻の猶予もなりません。王家の儀式はもう三ヶ月も中断したまま――このままでは封印がどこまで持つのかも分かりません。魔王が目覚めれば、この世は地獄と化します。どうか殿下、お戻りになり、王の儀式を』
「……やだ」
小さな声。アイシャは目を見開いた。
「チェイサー?」
「嫌だ……嫌だ! 僕が戻ったら、もうアイシャに会えなくなる。アイシャは長の娘、僕と一緒に来てもらう事は出来ない。僕はアイシャと一緒にいたい!」
「チェイサー……」
アイシャは小刀を鞘に仕舞った。そうして腰をかがめ、チェイサーの顔を真正面から見た。涙に濡れたチェイサーの瞳。そこに映る自分を慕う気持ちの中に、あるものを見つけたアイシャは、チェイサーをぎゅっと抱き締めた。
「チェイサーには分かっているのだな。自分が戻らねば、ノルシュタインのみならず、この高原も滅びると」
ぴくっとチェイサーの肩が揺れた。アイシャは優しく言葉を続けた。
「チェイサーは優しい子だ。大勢の民を見捨てる様な事は出来ないだろう……お前の瞳がそう言っている」
「アイ、シャ」
「……チェイサー。私はいつだってお前の守護者だ。もしお前が都で危険な目に遭うような事あらば、ラシダに乗ってすぐに駆け付けよう」
「……アイシャ、アイシャ……!」
チェイサーがアイシャに抱き付いてきた。いつの間にか、小さな手が背中に回るようになっている。アイシャもチェイサーを強く抱き締めた。
どのくらい、そうしていただろうか。チェイサーの手から力が抜けた。アイシャが顔を上げると、チェイサーは何かを決めた瞳でアイシャを見ていた。
「アイシャ、僕は……ノルシュタインに戻る。そうして、アイシャのいるこの国も守ってみせる――だけど」
チェイサーはアイシャの右手を取り、片膝を床についた。
「チェイサー?」
アイシャが目を丸くすると、チェイサーはアイシャの右手に口付けを落として、こう言った。
「アイシャ、どうか私の妃に。アイシャが部族の長にならなければならない立場であることも分かってる。それでも」
なんと美しい青だろう。アイシャは息を呑んだ。チェイサーの瞳は、金粉が舞っているかのように輝いていた。
「アイシャがいてくれるなら、魔王の封印も王の座も怖くない。喜んでこの大地のために身を捧げよう。だから……」
アイシャは跪き、チェイサーを抱き締めた。栗色の三つ編みが、チェイサーの肩に当たる。
「チェイサーこそ、こんな年増でいいのか? 私は都の風習も何も知らぬ、辺境の民だぞ」
「アイシャは綺麗だ! アイシャみたいに綺麗な人はこの世にいない!」
八歳の子どもに殺し文句を言われるとはな。アイシャは苦笑しながらも、顔を上げ、チェイサーを真正面に見据え、頷いた。
「分かった、承諾しよう。チェイサーが妻を娶れる年になり、その時になっても私を必要としてくれるなら、私はチェイサーの妻となろう」
チェイサーの顔が太陽が差したように明るくなった。
「アイシャ!」
「んんん!?」
アイシャの唇に、一瞬柔らかいモノが当たった。それがチェイサーの唇だと認識するまでに、数刻かかった。チェイサーの嬉しそうな微笑みに、アイシャの胸は鈍く痛んだ。
「これは約束の証。忘れないで、アイシャ。必ず迎えにくるから」
そう言ったチェイサーは立ち上がり、うろうろと覚束ない足取りでうろつき回っていた鳥の方を向いた。
「リヒト。城に戻る。戴冠の準備は出来ているのだろう?」
アイシャが聞いた事のない、大人びた声。鳥は『はい、殿下。大神官もすでに城内におられます。お戻り次第、戴冠式を』
「分かった」
チェイサーはアイシャを振り返った。その瞳は、アイシャの見知った子どものモノではなかった。王の瞳、だ。
「……チェイサー」
アイシャはもう一度小刀を出し、三つ編みに編んだ自分の髪を一房切った。栗色の毛の束を、チェイサーに手渡す。
「我が部族では、髪にはその者の力が宿ると言われている。これは私だ。離れていても、チェイサーを見守っているという証に持って行くがいい」
チェイサーの小さな両拳がアイシャの髪を握り締めた。
「アイシャ……僕にもその小刀を貸して」
アイシャが小刀を手渡すと、チェイサーは左手にアイシャの髪を持ち替え、右手に小刀を持った。そしてそのまま、肩の下まで伸びた自分の髪を鮮やかな手つきで一房切った。
「僕も。僕の髪を持っていて、アイシャ。これは僕がアイシャの事をいつまでも思っているという証だから」
「チェイサー」
小刀と同時に受け取ったチェイサーの髪は、砂金のようにきらきらと輝いていた。アイシャは頷き、「大切にする」と呟いた。チェイサーはもう一度、花が咲くように笑った。
「アイシャ。今までありがとう。アイシャの事は、決して忘れない――さようなら」
「!? チェイサー!?」
チェイサーが後ろに一歩下がって何かを呟いたかと思うと、次の瞬間彼の足元から金色の円が浮かび上がり、同時に見た事もない文様がチェイサーと鳥の周りを回転しながら取り囲んだ。チェイサーの姿が、金色の光の中に溶けて消えていく。消えかけたチェイサーはアイシャに微笑みかけていた。
――好きだよ、アイシャ
そうチェイサーの唇が動いたのを確認したその直後――金色の光は一瞬のうちに消え失せた。そしてそこには、もう誰もいなかった。
「チェイサー……」
アイシャは、普段と何も変わらない木の床を呆然と見つめていた。自分の手の中にある金色の髪の感触だけが、先程の出来事が夢ではなかったことを告げていた。あんな僅かな詠唱で、遥か彼方のノルシュタインまで転移出来るとは。
(お前は――真に偉大な魔術師だったのだな)
アイシャは跪いて目を閉じ、胸に手を当てて、風の神フラカンにチェイサーの無事を祈ったのだった。
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