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万華鏡に映る未来

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 ……とぷん……

 身体が温かい何かに包まれた。
 まるで水の中にいるみたいだ。時折、大きな泡が下の方から上がってくる。藍色から水色まで、色々な色が混ざった水の中をゆらりゆらりと沈んでいく。

 ……ぷくぷくぷく

(……あれは?)

 底の方にきらりと光る物がある。ゆっくりとその前に降り立った。

(鏡?)

 自分の身長よりも大きな、楕円形の鏡が水底に設置されていた。金の枠で縁取りされた鏡を覗き込むと、そこには何かが映っていた。


『どうして? どうしてなの、建吾さんっ!』
『どうして?』
 すがる女の人は後ろを向いていて表情が見えない。だけど泣きそうな声をしている。
 女の人を見下ろす男の人の瞳は――酷く冷たかった。

『俺が何人の女と付き合おうとも、お前には関係ない』
『そんなっ……! だって私は、あなたの妻なのよ!?』
『妻、ねえ』
 じろじろと女の人を見る彼の視線は、まるで商品を見定めているような感じだった。愛情とか熱情とか、一切感じられない。

『抱いて欲しいのか? ならそう言えばいいだろう』
『ちがっ……あうんんんんっ!』
 女の人の服を脱がしていく大きな手は、一切の遠慮がなかった。びりびりと布が破れる音がする。

『いやっ……ああっ』
『嫌だといいながら、こんなになってるなんて……淫乱な女だ』
『ひっ……あ、あああんっ』
 涙をぽろぽろ零しながらも、快楽に流されていく女の人の顔を見て、私は息を呑んだ――

 万華鏡のように、次から次へと場面が移り変わる。

『建吾はお前など好きでも何でもないのよ。さっさと出て行きなさいよ』

『この女、好きにしていいらしいぞ』
『いやあっ! やめてっ!』
『お腹が痛いっ……! 赤ちゃんがっ……!』
『助けて……! この子をこの子を助けてっ……!』

(……!?)
 ぐにゃりと鏡の映像が変わり、今度は女性を抱き締めている男性の姿が映る。

『すまない……やっぱり俺は、……を忘れられない』
『そんな……だって私達、結婚したのに!?』
『あいつに疑われて、悲しんでる……を一人にしておけない』
 女性がこちらを向いて泣きながら謝っている。
『ごめんなさい、私も……の事が好きなの……』

 ――どうして、どうして、どうして
 ――親友だって思ってたのに。どうして!?

 ――結婚したのに。私の事、少しは愛してくれてるって思ってたのに。
 ――優しくしてくれてたのは、同情だったの!? 私が初めてだったから、責任とっただけだったの!?
 ――家を飛び出したのに、後を追っても来てくれない。やっぱり私の事は……の身代わりだったんだ


 キキキキと響くブレーキの音。真っ白なライトが私の全身を捉えて――
『きゃあああああああっ!』

 バン! と強い衝撃が身体を襲う。そして、また場面が変わる。今度は眉を顰める男性が目の前に立っている。

『……みたいに、もっと明るく笑った方がいいぞ』
『いつまでうじうじ考え込んでるんだ。……だったら、きっともう忘れてる』
『そういうところ、全然似てないんだな』
 はあと私を見て、溜息をつく長身の男性。その視線の先には、幸せそうな……の姿があった。

 ――だって、私は……じゃない
 ――私は……みたいになれない
 ――私自身は見てくれないの? だったら、どうして私を選んだの? 私が……の妹だから?
 ――結局、あなたは私じゃなくて……を好きなままだったの……?


 パリン! と大きな音と共に鏡が割れた。その途端、渦巻きが巻き起こり、その中に引き込まれてしまう。
 ぶくっと泡が口から出た。息が出来ない。苦しい。

(やっ……!)

 ――苦しい、苦しい、苦しい
 ――誰か、誰か、助けて……っ……! 

 必死にもがいても、身体はどんどん暗い底へと沈んでいく。

 伸ばした右手は、水を掴むばかり。

 苦しい、苦しい、苦しい

 つらい、つらい、つらい

 悲しい、悲しい、悲しい

 ――誰か、助けてっ……!


『――……』

 大きな手が、私の右手を掴んだ。ふわっと身体が浮く。 
 げほげほと咳き込んでから、大きく息を吸った。 
 右の手のひらから、温かさが身体に伝わってくる。

 上へ上へ上へ
 手に引っ張られて、どんどん身体が上に上がっていった。
 それにつれて、真っ白な光が辺りを覆っていく。

『……さ……』

『……りさ……』


(だ……れ……?)

 眩しくて何も見えない。 
 ふっと手が自由になった。温かい気配が遠ざかっていく。

(待っ……て……)

 もう一度手を伸ばして、掴もうとして――……

***

「……っ……?」
 目を開けると、白い天井が目に入って来た。蛍光灯の光が眩しくて、思わず目を細める。

「水城さん、気が付いた?」
「え……」
 声のする方に顔を向けると、白衣を着た女性が立っていた。その後ろに白い衝立が見える。
 彼女が私を覗き込み、安心させるように微笑んだ。

「あなた、屋上で気を失ったのよ。覚えてる?」
「……あ」
 急に灰色になった世界。頭が痛くなって……。 
「医務室まで菅山さんが連れて来てくれたのよ。意識を失ったって」
「菅山さんが……」
 身体に掛けられた毛布を剥いで、ゆっくり身体を起こすと、「まだ無理しなくていいのよ?」と声を掛けられた。
 改めて辺りを見回すと、そこは八畳くらいの部屋だった。私が寝ていたベッドの隣にも、もう一つベッドが置いてある。
 
「もう、大丈夫です。頭の痛みもそれほどじゃなくなってますし」
「少し、診察させて頂戴」
 脈拍、血圧、そして体温。私は大人しく、聴診器を胸や背中に当てられていた。
 女医さんが、うんうんと満足げに頷いた。
「みな正常ね。だけど、今日は大事を取って休んで頂戴。早退するように伝えて欲しいと菅山さんから伝言よ」
 彼女はそう言うと、私の鞄と上着をベッド脇の籠の中に入れた。
「もうそのまま帰宅して欲しいって。仕事は全部引き継いだから大丈夫だそうよ」
「……」
 私の荷物、全部持って来てくれたんだ。
(いきなり倒れて……迷惑掛けちゃったな)
 そう、菅山さんの言葉を聞いて、急に……

(……?)
 気が付く前、何か夢を見ていた気がしたのに。
(何だっけ……)
 苦しくて悲しくて……でも誰かが助けてくれた?
 私は右の手のひらを見つめた。そこには何も残っていない。
(何かを掴んだ気がするのに)
 私は、ほんのりと温かみが残る右手をそっと握り締める。だけど、何を見ていたのかは、ぼんやりとしか思い出せなかった。
  
***

 女医さんにお礼を言って、医務室を後にする。その頃には体調はすっかり元通りになっていて、早退するのが申し訳ないくらいだった。
 時計は三時前を差してる。お兄ちゃんには、明るいうちに早退するから迎えはいい、と連絡しておいた。
 人もまばらな一階ロビーを横切り、外に出ようとしたところで、辺りをきょろきょろと困り顔で見回しているおばあさんに気が付いた。
 灰青の着物と薄緑の羽織の上から白いショールを肩に掛けたおばあさんは、会社のロビーには場違いな感じがする。その周囲には誰もいない。
「何かお困りでしょうか?」 
 私が近付いて声を掛けると、おばあさんは少し眉を下げた。
「少しお聞きしたいのだけれど……この辺りで時間をつぶせる場所ってご存じかしら?」 
「時間を?」
 ええ、と溜息をつくおばあさんは、困ったように微笑んだ。
「孫に会いに来たのだけれど、まだ仕事中みたいで。手が空くまで、後三十分ぐらい掛かると言われたの」 
 ロビーで三十分過ごすのは、お年寄りには辛いかもしれない。ここは人の出入りがあるから、少し肌寒く感じるし。
(それくらいの時間だったら)
「あの、もしよろしければ」
 私はおばあさんに言ってみた。
「社員用のカフェがありますから、そちらに行きませんか? ご案内します」 
 
 一階ロビーの奥に、軽食も食べられるカフェが設置されている。よくあるコーヒー専門店のような趣のカフェだ。今の時間帯だと、お客様と商談しながらコーヒーを飲む営業の姿がちらほらと目に入ってきた。
 社員が一緒であれば外部の人も入れる。ここで三十分ぐらいなら時間が潰せるだろう。
 カフェは社員証で精算できるから、遠慮するおばあさんと私の分のコーヒーを購入し、四人掛けの席に向かい合わせに座った。

「ありがとう、ご馳走になるわね」
 マグカップから一口コーヒーを飲んだおばあさんがにっこりと笑った。
「薫り高くて美味しいわ。ちゃんと豆を挽いてるのね」
 美味しそうにコーヒーを飲むおばあさんは、上品な雰囲気を持っていた。真っ白な髪が雪のように綺麗で、皺のある顔も何だか可愛らしい。
「ええ、ここのコーヒーはお客様にも好評なんです。何でもブレンドする豆にこだわったとか」
「そう、素敵ね」
 カップをテーブルに置いたおばあさんが、真っ直ぐに私を見て小さく笑った。

「私、菅山志乃しのというの。あなたのお名前を聞いてもいいかしら?」
(菅山!?)
 おばあさんの名前に私の目は点になった。
「あ、私は……水城ありさといいます。あの、菅山さんって、もしかしてシステム部の」
 志乃さんがぱんと両手を叩いた。
「まあ、建吾をご存知なのね。そうなの、転勤したというから、様子を見に来たのよ」
(菅山さんのおばあさん!?)
 ――背が高くてむすっとしている菅山さんに、小柄でにこにこ微笑んでいる志乃さん。
(全然似ていない……)
 菅山さんのおばあさんっていう事は、上流階級の奥様って事よね。道理で品の良さが滲み出てるはずだわ。
「ありささんとお呼びしてもいいかしら?」
「は、はい」
 ふふふと含み笑いをする志乃さんは、悪戯心を持っている少女のようだった。 

「建吾は会社でどうかしら。あの子ったら、あまり愛想のよい方じゃないでしょう? だから誤解される事が多くて……本当は優しい子なのに」
(あの子扱いなんだ、菅山さん……)
 大人の男性なのに、おばあさんから見れば可愛い孫なのね。思わずくすりと笑いが漏れてしまった。
「菅山さんは人一倍仕事熱心で、周囲への気遣いもあって、素晴らしい先輩です」
「そうなの……」
 志乃さんがほうと溜息をついた。
「建吾は自分さえ我慢すればって、すぐ無理をしてしまうの。そんなところはあの人に似たのだろうけど、自分の意に染まない事までして欲しくなくて」  
「……」
 にこやかに女性の相手をする菅山さんの顔を思い出した。ああ、そうだあの顔は……
(浮気相手を見てた時の顔だ……)
 ありさヒロインには冷たいのに、他の女性には優しい顔で微笑んでた。その顔を見て、心が引き裂かれそうになって悲しくて辛くて……ってなっていた、はず。 
(そんな事……ないよね?)
 今の彼に違和感は感じるけど、特に悲しい想いをしてる訳じゃ――と、そこまで考えて思い出したのは、差し出された一枚のハンカチ。 
 
 ――社の方には俺が連絡しておくから、ゆっくり選んで来い
 あの時も無表情だった菅山さん。だけど……

(ああ、そうだ)
 泣いてる私に時間をくれた。あんな事があったから、会社でも早く帰れるようにしてくれて、お兄ちゃんにわざわざ頼んでくれて。
 業務中だって仕事が忙しいから、余計な事考えなくて済んでる。
 無表情な顔の下に隠れているのは、決して冷たさじゃない。それを知ってるから、悲しくないんだ。

 ――本当は優しい子なのに 

 私も志乃さんを真っ直ぐに見返した。 
「菅山さんはとても優しい人です。私もいつもお世話になってて、感謝しています」 
 志乃さんは目を丸くした後、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいわ。……きっとあの子もそう思ってるのでしょうね」 
「え」
 私が目を丸くしたその時、「水城!?」と後ろから声がした。

「菅山さん」 
 振り向くと、少し髪が乱れた菅山さんが足早に近寄ってきていた。志乃さんは、ふふふと含み笑いをしている。
 菅山さんは私の席の隣に立ち、じろりと睨み付けてきた。
「お前何してる。すぐに帰宅しろ」
「は、はい」
 慌てて席を立った私の前で、志乃さんが鷹揚に微笑んだ。
「まあまあ、建吾。そんなに喧嘩腰にならないで頂戴。ありささんは私の時間潰しに付き合ってくれただけよ?」
 菅山さんが志乃さんを見る視線も厳しい。
「おばあ様は黙っていて下さい」
 そう言われても、志乃さんはどこ吹く風といった体だ。菅山さんの周囲の空気の温度がますます下がった。
「あ、あの……菅山さんも来られたのでこれで失礼しますね。どうぞごゆっくりなさって下さい」
 私が頭を下げると、志乃さんはまた微笑んだ。

「ありがとう、ありささん。また会えると嬉しいわ」
 お茶を濁すように私は少しだけ微笑んだ。そのまま立ち去ろうとした時、大きな手にがしっと左腕を掴まれた。
「来い」
「え、菅山、さんっ!?」
 ほほほと笑う志乃さんの前で、ぐいぐい彼に引っ張られていく私。広い背中を見ながら、必死に後をついて行く。
 なんだあれ、という周囲の視線が私に突き刺さってきた。痛い。
 大股歩きでカフェを出た菅山さんは、そのままロビーを突っ切って外に出た。そうして、さっと左手を上げてタクシーを停めた彼は、開いたドアに私の身体を押し込んだ。  
「……まで。釣りはいらない」
 私の住所を告げ、一万円札を運転手に渡した菅山さんは、「とっとと帰れ」と言った後、バタンと音を立ててドアを閉めた。 
 動き始めたタクシーの中、私はまだ呆然としていた。
(何だったの、あれ)
 なんだか、どっと疲れが出た私は、タクシーの座席にぐったり沈み込んだのだった。 
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