愛しいあなたは彼女を愛してる~ドアマットヒロインは運命に逆らう

あかし瑞穂

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side 菅山 建斗

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 ――へえ、あいつこんな子が好みなのか

 いつも無表情で何考えているのか分からない腹違いの弟が連れて来たのは、大人しそうな女性だった。
 艶のある黒髪に大きな瞳。上品な紺色のワンピースが良く似合っている。大和撫子という言葉がぴったりだと思う。茉莉花が薔薇なら、彼女は百合だ。建吾に向けられた控えめな笑顔も、あいつの手に重ねられた細い綺麗な指も、俺の周囲にはなかったものだ。
 どこか無垢な感じのするその瞳を見た時、俺の奥底で蠢いたのは――

 ――穢してやりたい

 という、どろどろとした欲、だった。


***

「全く、あの男ときたら! この期に及んで結婚ですって!?」
 母さんのキンキン声が耳に痛い。俺は広いリビングのソファに座り、へいへいと大半を聞き流していた。
「聞いていますの、あなた!? 建斗こそが正当な後継者なのですよ!? あんな女の子どもになど、当主が務まる訳ありませんわ!」
 せっかく高級な着物を着てるってのに、ヒステリー起こしてるんじゃ台無しだ。会社から戻って来た父さんも、半ば呆れたような視線を母さんに投げかけている。
「……まずは建吾の相手に会ってからの話だ」
 そう言って寝室へと消えていった父さんの背中に、恨み言を言い続ける母さんの姿は、滑稽としか言いようがなかった。
「お義母様が怒るのも無理ないわ。建斗さんの当然の権利を奪おうとしてるんだもの、あの男は」
 俺の左隣に座る茉莉花が、さもありなんという風に頷いた。やや膨らんできた下腹部に右手を当て、妖艶に笑う妻を見て、俺はやれやれと肩をすくめた。
(当主の座なんて、面倒なだけなんだがなあ)
 祖父さんも父さんも、身を粉にして働いている。財閥当主の権力の恩恵は莫大だが、会社に人生を捧げるような働き方は、正直真っ平ごめんだ。
 俺としては、建吾が当主となり、あいつが稼いでくれた金で悠々自適な暮らしが出来ればそれでいいと思ってる。が、母さんや茉莉花はそれは納得出来ないらしい。

(あの女の息子、ねえ)
 建吾をこの家に連れて来た、ほっそりとした女性の姿を俺は思い出した。まだ俺は小さかったが、あの時の凍り付いたような建吾の表情はよく覚えている。
 父さんに悪態をつき、母さんから大金を受け取って、建吾を置き去りにした女。派手な赤いドレスを着て、香水の匂いをぷんぷんとそこら辺い振りまいていた。建吾は母親に縋ることなく、その後ろ姿を無表情で見送った。

 ――だがあいつは、その後あった出来事を知らない。

 一連の騒動を盗み見ていた俺は、母さんが父さんと建吾に金切り声を上げるのに飽きて庭に出た。庭の植木の影から呻き声のようなものを聞いた俺は、何も考えずにてくてくと歩いて行く。
「っ……、う、う、あ、っぷ……!」
 俺は思わずその場に立ち止まった。植木の影でしゃがみ込み、呻き声を漏らしていたのは……建吾を連れて来た女だったからだ。俺に背中を向けていた彼女は、ふと俺の方を振り向いた。

 ――真っ青な顔に、口元から流れる一筋の赤い血が、妙に生々しく美しく見えた。

「ぼっ、ちゃま」
 よろよろと立ち上がった女は、口元をハンカチで拭い、俺の前で跪いた。
「どうか、今見た事は誰にも言わないで……下さい」
 俺は特に何も考えず「うん、わかった」と答え、彼女がほっとした顔をしたのを見た。
「建吾を……よろしくお願いいたします」
 消え入るような声で呟いた彼女は、立ち上がって俺に向かい深々とお辞儀をした。そしてそのまま、何事もなかったかのように――一度も後ろを振り返らず立ち去ったのだ。
 その後ろ姿が見えなくなってから、俺はさっき彼女が蹲っていたあたりに足を進めた。植木の根元の土にどす黒いしみのような跡が残っている。
 なんだろうと思って見ていると、少し離れたところから俺を呼ぶ声がした。

「建斗坊ちゃま、どちらにおられるのですか? おやつの時間ですよー」
「はーい」

 俺はあっさりと考えを手放し、俺を探しに来た手伝いのところへと走って行ったのだった。

 その事を、俺は約束通り誰にも言わなかった。建吾にはもちろんの事、父さんにも母さんにも。
(おそらく彼女は)
 後でよくよく考えてみると、あの時の彼女は変だった。生気のない顔色に血。母さんは『既婚者の父さんを誘惑し、建吾を生んだものの父さんに相手にされず我が子を持て余し、金と引き換えに建吾を売った最低な女』だと耳にタコが出来るぐらい言っていたが、それは違うんじゃないかと思うようになった。あの時俺を見つめたあの瞳には、少なくとも建吾を気遣う以外のモノは映り込んでいなかった。

 ――もし彼女が病気か何かだったら?
 ――あの派手な濃い赤いドレスも、血の染みを分かりにくくするためだったとしたら?
 ――父さんと建吾に恨まれるように立ち去り、一人で死ぬつもりだったとしたら?

 だが、それは全て俺の憶測だ。事実はどうだったのか、知るすべはない。それに。
(あいつにわざわざ言ってやる義理もないしな)
 俺は建吾の事に興味がなかった。母さんはあいつを虐げていたようだが、俺は止める訳でも助長する訳でもなく、ただ黙って見ているだけだった。
 そんな建吾を危惧した祖父さん祖母さんがあいつを引き取った時も、ああそうか、ぐらいにしか思わなかった。

 だが、母さんはそうではなかったらしい。建吾の優秀さが耳に入る度に、目が三角に吊り上がり、『早く建斗を次期当主に』と父さんに迫るようになる。
 祖父さんの秘蔵っ子となった建吾には、もう直接手が出せない。建吾の母親の事を母さんが一層悪く言い触らすようになったのは、この頃からだと思う。俺と建吾が同じ年だというのも拍車を掛けたのかもしれない。
 俺自身は建吾のように勉強に励むより、面白おかしく楽しく生きている方が性に合っていた。成績もそこそこをキープし、父さんの会社に入社した俺は、血筋から専務にへと選ばれたが、そこでもまあまあな成績を残しているだけだ。
 その一方で、本社とは別の会社に就職した建吾は、そこでめきめきと頭角を表わしているという。それを聞いた母さんがまた、きいきいと煩くがなり立てていた事は記憶に新しい。

『別に建吾が継いでもいいと思うけど』
『何言ってるの、建斗!? あなたはこの菅山家の正当な跡取りなのよ!? それにあの男が財閥の実権を握ったら、私達がどんな目に遭わされるか、分かったものじゃないわ!』
 俺達に復讐するほど、建吾は俺達に興味を持っているようには見えないが。
『こうなったら、一刻も早く結婚しなさい、建斗! 菅山家の当主になる人間は、結婚している事が条件なの。あの女嫌いよりも先に結婚すれば、あなたは当主になれるのよ!』
 そう言われて、あちらこちらのパーティーに顔を出し、適当に遊んでいた時に知り合ったのが、茉莉花だった。妖艶な雰囲気を持つ茉莉花とは身体の相性も良かった。俺に迫ってきたのも、財閥当主夫人になりたいから、だとあからさまに分かるところも気に入っている。茉莉花が建吾に対して復讐心に似た感情を抱いているところも、面白いと思った。
 妊娠したという茉莉花と結婚し、母さんもようやく落ち着いたと思ったところで――建吾が結婚したという話を聞いたのだ。そして話は冒頭に戻る。

(あいつが選んだのはどんな女なんだ?)
 建吾は母さんに虐げられていたせいか、女性不信気味らしい。愛人の子とはいえ、父さんに菅山家の一員と認知されており、見目も好いあいつに群がる女達は多かったが、あいつは彼女達の事を一顧だにしなかった。
 当主を目指すなら、誰かと結婚しておかなければならない。だがあいつは中々選ぼうとしない。
 だからと安心していた母さんは、今回足元をすくわれたのだ。

 建吾が選んだ女。早く顔を見てみたい。
 俺は心のどこかで、高揚するような気分を味わっていた。

***

「水城 ありさ――いえ、菅山 ありさです。よろしくお願いいたします」
 俺達に頭を下げた彼女は、ある意味菅山家に相応しくない女だった。素直で大人しい、上品な感じの彼女は、こんなどろどろした家よりも、もっと別の家の方が良かったんじゃないのか。そう思わせる程、清純に見えた。

 母さんも茉莉花も、彼女を憎々し気に睨んでいる。俺はじっくりと彼女を観察した。
 あのいつも無表情な建吾が、彼女を見る視線に甘さを混ぜていた事にも驚いたが、彼女が建吾を見る視線にも、温かい信頼が混ざっている事にも驚いた。今まで建吾をあんな目で見た女はいなかったんじゃないのか。
(俺の周囲にはいないタイプだな)
 純粋な好意を建吾に寄せる女。何故かその事に苛立ちを感じていた時――ふと彼女が俺の方を向いた。
 ――大きな瞳に吸い込まれそうになり、俺は息を止めた。

 どこか無垢な感じのするその瞳を見た時、俺の奥底で蠢いたのは――

 ――穢してやりたい

 という、どろどろとした欲、だった。

 彼女は小さく会釈をして、また建吾の方を向く。建吾を見上げる横顔を見た俺の胸には、さっき生まれた薄暗い欲がこびりついていた。

 ああ、そうか。彼女の瞳はあの時の――建吾を頼むと頭を下げた、あの時の女の瞳と似ているのか。あんな目で俺を見てくれる人がいない事を――俺はずっと、不満に思っていたのか。
 
 ――建吾ばかりが、何故

 初めて、母さんの気持ちが分かった気がする。あの女の子どもが何故、と喚く母さんの気持ちが。

 俺は欲を見せないように、へらへらとした笑顔の仮面を身に付けた。

 この純粋さを踏みにじって、俺色に染めてやったら、彼女はどんな顔をして泣き叫ぶのだろう。
(お前から彼女を奪ってやったら。お前はどんな顔をする? ――建吾)
 俺が建吾にここまで興味を持った事はない。建吾が何を持っていようとも、全く気にはならなかった。……だが

 お前が俺を憎んだら……それはそれで、面白そうじゃないか。なあ、建吾。

 俺がそんな事を思っている間に、祖母さんが特大の爆弾を落としていた。

「そうそう、ありささん。また良ければ一緒にお参りしてくれないかしら?」

 それを聞いた母さんの反応は凄まじかった。
「どういう事ですの、お義母様!? お参りってまさか、神の間に!?」
「ええ、そうよ。ありささんはあの間に入っても大丈夫だから」

 神の間。あそこに祀られている神鏡については、俺も小さい頃から聞かされている。
 菅山家のご先祖が謂れのない罪を着せられ、追手から逃げるために山奥に踏み込んだところ、妙な集落に辿り着いた。そこは『神の血』を引く者が隠れ住む里で、その里の女と恋に落ちた先祖が、女とあの鏡を持って現世に降りてきた、と。
 あの鏡は真実と未来を見せる鏡で、その力により濡れ衣を晴らした先祖が今の財閥の基礎を築き上げた。鏡は菅山家の守り神として祀られる事になり、当主の妻があの間の祭司を務める事になっている、と。

 だが、祖母さんは母さんを祭司として認めなかった。母さんはあの間への立ち入りを許されなかったのだ。
『神の間は全てを暴く間なの。あなたが入ればただでは済まないわ』
 母さんがどこまでお伽噺を信じているのかは分からない。ただ、当主夫人として認められていないという事実が、彼女のプライドを酷く傷つけた事は分かる。
(まあ、祖母さんの言う事には逆らえないからな)
 祖母さんも不思議な人間だ。祖父さんが当主だった事、一時期傾いていた財閥の経営を神掛かりの采配でV字回復させたのは有名な話だが、そのアドバイスをしたのは祖母さんだ、というのは、一族の間でも知らない人間の方が多い。
 嘘か本当かは知らないが、祖母さんはあの鏡で未来を見、それを祖父さんに告げ……危機回避させた、らしいのだ。そのせいか、祖父さんも祖母さんの言う事は素直に聞く。祖母さんの権力は目に見えないが、誰もがその言葉を重要視するのだ。
 その祖母さんが建吾の相手を認めた。母さんのプライドはズタボロになっているだろう。

 祖母さんも、何だか心の奥まで見透かされそうな目をしている。俺は正直祖母さんが苦手だ。あんな人間に育てられて、建吾はよく平気だったものだ。

「っ、! 失礼しますわっ! 建斗、茉莉花さん、行きますよっ!」
 どすどすと怒りのままに出て行く母さんの後を追う。俺の後をついて来ている茉莉花も、不穏な雰囲気を漂わせていた。

 長い廊下を歩きながら、茉莉花が母さんに話し掛ける。
「……きっとお祖母様は騙されているのですわ、お義母様。あの女、一見素直そうに見えますけれど、結構強情者でしたし」
 おやと俺は片眉を上げた。茉莉花はあの子に接触した事があるのか。
「本当に忌々しい。何とかしてあの二人を別れさせないと」
 親指の爪を噛む母さんの顔は、般若に近い……と言えば、怒られそうだ。
(それなら)

 俺は足を止めた。

「母さん、茉莉花。先に戻っておいて」
「建斗?」
 不審そうな顔をする母さんに、俺は小さく笑った。
「義理の兄となるんだから、ありささんに挨拶の一つぐらいはいるだろ? さっきは話す機会もなかったし。話が終われば、祖父さんは建吾と仕事の話をするだろうから……その間に彼女と話をしてみる」
 母さんも茉莉花も眉を顰めていたが、やがて渋々といった感じで母さんが頷いた。
「あの男との事、探りを入れて頂戴。何でもいいわ。弱みが分かれば」
「はいはい、承知しました。茉莉花も気を付けて帰って」

 ひらひらと手を振り、二人から離れた俺は廊下を少し戻り、中庭に面した部屋に入った。そこの掃き出し窓から中庭に降りた俺は、応接間の方へと足を向ける。祖父さんの家で幼い頃遊んだ記憶が役に立った。
 応接間を外からそっと伺うと、そこにはすでに父さんの姿はなかった。俺達のすぐ後に応接間を出たらしい。
 そうしていると、祖母さんとあの子が立ち上がった。祖父さんと建吾はそのままだ。
(神の間、か)
 さっきそこに行くと話していた。あそこはこの館の最奥、応接間からも見えない。神の間に祈った後、祖母さんはしばらくその場に残るのも通例だ。

 俺はさっと身を翻し、応接間から離れて中庭の奥へと歩いて行った。神の間には、空気を入れ替えるための小窓しかない。扉から出てくるしかないのだ。使用人達が使っている勝手口から廊下に入り、神の間の手前の角で身を潜める。

 ――しばらくして。神の間の扉が開き、彼女が姿を見せた。その後ろに祖母の姿はない。思った通りだ。
 
 俺は壁にもたれて、近付いてくる彼女の気配を感じていた。角を曲がった彼女は、俺の姿を見て足を止める。

「お義兄……さん?」
 大きな目を見開き、俺を見る彼女の視線。ただ不思議に思っているだけの、その目付きが堪らない。
(面白くなりそうだ)
 俺は何とも言えない愉悦感を見透かされないように……いつもの笑みを浮かべて見せたのだった。
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