上 下
29 / 86
第4章 トモル

05

しおりを挟む

 「あのな、おいらが帰ろうとすると、そこの松の木を剪定せんていしてるオヤジがいたんだよ。それがまるでなっちゃいねえのさ。仕方ねぇから、おいらハサミを取り上げてササーッと刈り上げてやったのよ。何を隠そう、江戸の時分は庭師を生業なりわいにしてたからよう。
 そしたらオヤジ感動してな。おいらの格好を頭のてっぺんからつま先まで見て、よかったらウチの校務員として働かないかね。って言うわけよ。オヤジ、ここの校長だったのさ。
 おいらは悩んだよ? でもオヤジがどうしてもって言うからさぁ。上場企業の役員として数千名の社員にしまれますが、このまなと未来ある子どもたちのために、いまの会社をスッパリと辞めて引き受けましょう! って言ったら、そのオヤジ、ゲラゲラ笑ってな。何がおかしいんだか、よくわからないんだけど……。これは人助けだメグル」

 思わず頭を抱え込むメグル

 (人助けをしたと思っているのは、むしろ校長の方だろう。あのぼろぼろの服を着ていたんじゃ、誰だって無職だと思うはずだ……)

 メグルは周囲に人がいないか見まわすと、声を押し殺して怒鳴った。

 「お前、気は確かか? この学校には魔鬼がいるんだぞ! 今朝はさっさと帰りたがっていたじゃないか!」

 そしてモグラの顔を下からのぞき込み、キッと睨み付けて、とどめを刺す。

 「本当はお前、桜子先生が目当てだろっ!」

 まるでペンキをかけられたみたいに、モグラの顔が一瞬にして真っ赤に染まる。

 「ば、ばか言っちゃいけないよ。お前、あれだよ、それだよ……」

 しどろもどろのモグラは、はっと何かに気が付いたように、ぽんっと手を打つと、メグルに耳打ちした。

 「作戦だ」
 「作戦?」

 「そうよ。いいか、魔鬼は昼夜を問わず越界門えっかいもんを見張っている。夜の学校にも必ず現れるはずだ。だから校務員なのさ。普通のやつは夜の学校をおおっぴらにうろちょろできねぇ。だが、校務員なら話は別。学校に泊って監視することができるからな」

 「なるほど……」

 思いも寄らぬモグラの名案にメグルがうなった。さらに言えば『モグラの息子』という設定のメグルが、父親と夜の学校に宿直したって不思議じゃない。


 「あらぁ、メグルくんのお父さま。まだいらしてたんですのぉ?」

 ひそひそと話をするふたりの背中に、とつぜん声がかかった。ふり返れば、桜子先生がふたりを見つめている。

 とたんにモグラの垂れた目尻が、ぎゅいんとつり上がった。

 「いやぁ、どうもどうも桜子先生。わたくし、校長のたっての希望で、この学校の校務員として働くことになりました!」

 それを聞いて、さすがの桜子先生も顔を引きつらせた。

 「だ、大丈夫ですの? お仕事の方は……」

 「それはもう、前の会社では、辞めてくれるな、行ってくれるなの大合唱でしたが、桜子先生のような立派な教師の方々と、未来ある子どもたちの為の労働にいそしむ幸せに比べれば……」

 桜子先生はあごに手を当て、厳しい顔でうつむいてしまった。

 「大丈夫ですか、桜子先生。お気分でも……」
 心配そうにモグラが駆け寄る。

 「あっ、いえ、大丈夫ですわ。前の校務員を……、いえ、前の校務員さんが突然辞めてしまって、代わりがいなかったので助かります……」
 桜子先生は、さらに真剣な顔で続けた。

 「でも安請け合いなさらない方が……。出ますのよ、ウチの学校!」

 「出るって、何がでしょ?」
 「お化けですわ!」

 モグラが笑った。

 「大丈夫ですよ! お化けなんかね、このドリュー様のスクリュードリューパンチで……」

 モグラが素人目にも未経験だと見破れる、へなちょこなシャドーボクシングを始めたとたん、校庭に三時限目の始業を知らせるチャイムが鳴り響いた。

 「本当に、やめた方がいいですわ……」

 桜子先生が心配そうに言い残し、校舎へ戻っていく。
 だらしなく目尻を垂らしながら、うっとりと後ろ姿を見つめるモグラ。

 「やさしいな、桜子先生……。おいらの身をあんなに案じてくれるなんて……」


 「それはどうかな……」

 前髪を指に絡ませながら、メグルも桜子先生の背中を見送った。


しおりを挟む

処理中です...