叶え哉

まぜこ

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第六章

第十二話 愛憎-4

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 女が死んだのは、彼女が樽に閉じ込められてから四十日後のことだった。漆の樹液を飲ませていたにもかかわらず、湿気のせいで死体は腐っていた。

 死体処理を済ませた冴木は、鶴井が淹れた茶を啜る。
 向かいに座っている鶴井は、普段に比べて大人しい。口を動かしていないと、がらんどうの彼はもはや死人同然だった。

 冴木は初めて彼と出会った三年前のことをふと思い出した。
 大切な人を失い、強い愛情と悲しみのあまり、魂の全てを生霊にしてしまった鶴井。人ではなくなった彼は、その時から生霊を目に映すようになった。
 そんな彼を『叶え哉』にスカウトした彼女もまた、空っぽの肉人形。

「これで終わりか」
「はい。彼女の生霊を全て回収できました」

 頷く鶴井に、冴木が目を細める。

「そうかな。あと一つ残っているようだが」
「御心配なく。ちゃんと返します」
「……そうか」

 小さくため息を吐いた冴木に、鶴井は満面の笑みを向ける。

「あれ? もしかして冴木さん、僕のこと心配してくれてるんですか?」
「なんでそうなる。違う」

 しばしの沈黙。冴木も鶴井も、部屋を駆け回る生霊を眺めた。恨みが晴れた彼女たちは、喜び、はしゃぎ、そして泣く。
 鶴井は生霊に目を向けたまま、冴木に問うた。

「冴木さんは不思議に思いますか」
「何をだ」
「愛する人を恨み、恨む相手を愛することを」
「〝愛憎相半ばする〟という言葉を知らんのかお前は。そんなこと、よくある話だ」
「幸せを願った人の死を望むことは」
「同じことだ。人は誰しも相反する感情を抱いている。それは矛盾なんかではない。どちらも本物の感情だ。おかしなことでは何一つない。誰でもそうだ。それに気付くか、気付かないかというだけだ」

 鶴井は満足げに背もたれにもたれかかり、優雅に足を組んだ。

「やはり冴木さんとは話が合いますねえ。魂を失った者同士だからでしょうか」
「私はお前と一緒にされたくはないがな」

 だが、と冴木は口元を緩める。

「大切な人の心を殺された者の気持ちは、分かっているつもりだ」

 涙を滲ませ抱きつこうとしてきた鶴井に、冴木は銃口を向けて制止させた。

「そうだ、冴木さん。お願いがあります」
「なんだ。まだ何かあるのか」

 鶴井は生霊と戯れていた黒猫を抱きかかえ、冴木に差し出した。

「この子の面倒、頼めませんか」
「どうしてだ。生き物の面倒は最後まで自分で見ろ」
「いやあ。そうしたいのはやまやまなんですが、そういうわけにもいかなくて」

 冴木は鶴井を見据え、尋ねた。

「もう行くのか」
「はい。生霊も集まりましたし」

 今までの恨みを買った大量の生霊に憑かれた鶴井が、まるで憑き物が落ちたような爽やかな表情をしているものだから、冴木は思わず噴き出した。

「……そうか。仕方ないな」
「ありがとうございます」

 冴木の視線に気付いた鶴井は、背後で恨みつらみを吐いている生霊を指さした。

「御心配なく。この子たちが食い潰す〝人として大切なもの〟など、僕の体には入っていませんから。全くの無害です」
「何度言ったら分かる。心配などしていない」

 そして鶴井は、その日のうちに八〇六号室をあとにした。
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