歪な思考

九時木

文字の大きさ
上 下
24 / 40
3

銭湯

しおりを挟む
 帰宅者が歩く午後9時過ぎの通り。
 スズムシの寂しげな鳴き声と居酒屋の賑わいが混じっている。
 秋風を肌に感じながら、のらりくらりと道を歩く。

 夜空にはやんわりと湯気が立ち、通りに独特な鉱物のにおいを漂わせている。空を見上げれば、半月が薄雲に包まれ、やんわりと僕に微笑みかけていた。秋の夜は物静かで、どこか懐かしい。昔の知り合いと顔を合わせたような、そんな気分だ。

 玄関に入れば、靴箱が僕を待っている。すっかりくたびれたサンダルを拾い上げ、ふと目に入った48番にしまい込む。木製の床をぺたぺたと裸足で歩くと、券売機が見えた。
 投入口に千円札を入れ、大人一人用の赤いボタンを押す。昔の玩具のような音を立てた後、券売機から一枚の切符と銅の釣り銭が出てきた。切符をひらひらと揺らしながら、受付係に見せ、暖簾をくぐる。
 そう、僕は銭湯に来ている。昔ながらの銭湯に。


 浴室内には湯気が立ち込めている。段差を降り、ゆっくり湯に浸かると、生温かい温度が僕を包み込んでくれた。
 全身の強張りがたちまち解され、僕のまぶたが閉じていく。何の懸念もない。ただ静かな時間が漂っている。冷えきった僕を芯から温めてくれる。

 水面が底のタイルを揺らし、情緒を感じさせていた。湯はまろやかで、質感のあるにおいを含んでいる。
 隅で浸かっている人が、ふうと一息ついた。何処までも穏やかな吐息だ。僕の分まで言ってくれたような気がして、ちょっとした嬉しさが心の中で湧き上がる。
 ただただ平和で、心地がいい。

 露天風呂の扉を開けると、涼しげな空気が肌を伝った。湯は室内よりも温度が高く、僕の次に段差を下りた人が「あちち」と反射的に声を漏らしていた。
 空を見上げると、薄暗い夜空が広がっており、木の屋根が半分ほど重なっている。屋根に吊るされた温かな明かりが、意識をぼんやりとさせ、気がつけば僕は岩に背をもたせかけていた。
 外の空気と湯の温度が丁度よく混じり、僕に幸福を実感させてくれる。たまに来る銭湯ほど、疲れを癒してくれるものはない。
 銭湯は、僕にとって唯一の、本物の憩いの場だ。

 湯船から上がり、備えつけの自動販売機に残った釣り銭を入れる。スポーツドリンクのボタンを押すと、中身がガランと音を立てて落っこちた。蓋を開けると爽快な響きが耳をくすぐり、冷たいドリンクを喉へ流し込むようにと促す。
 ごくごくと波打つ喉が、僕に囁かな生命の揺らぎを体感させてくれる。ほんのりとドリンクの甘い香りが身体に染み込み、充足感に包まれる。
 家に帰ったら、そのまま眠り込んでしまおう。そんなことを呟きながら、僕は帰りの暖簾をくぐり抜けた。


 温められた身体が、夜の通りを歩いている。人気は少なく、居酒屋の賑わいは静まり、スズムシの鳴き声だけが響いている。
 すっかり静まり返った通りを、足は黙々と歩き続ける。数メートル先にコンビニの明かりが見えたので、僕は立ち寄ることにした。
 珍しく、ちょっとした晩餐をしてみたいという気分になっていた。

 店内は店員以外に客がいなかった。夕食の時間も過ぎたためか、商品棚も所々空いている。
店の奥まで進むと、加工肉と惣菜が並んでいた。その中でも、ふとスモークタンが目に入ったので、僕はそれを買うことにした。
 レモンハイも添えようかと思ったが、あと一歩の所で止めておいた。何故だかわからないが、パッケージを見るだけで充分のようだった。
 レジで会計を済ませ、自動ドアを通り抜ける。相変わらずスズムシの声が湧いており、耳の奥に染み込んでいた。


 袋を開封し、スモークタンをぽりぽりとつまむ。銭湯で残ったスポーツドリンクを飲み、塩気を紛らわせる。
 エアコンの送風音とスズムシの鳴き声が、静まり返った部屋に響いている。時計は午後10時を過ぎ、静かに秒針音を立てていた。
 何事もなく過ぎていく一日。いつも通り東から太陽が昇り、いつも通り西に沈んだ。
 静寂の夜に染め上げられた部屋が、僕を無の世界へと誘う。じゃり、とした食感が歯に伝い、意識が再び現実世界へと戻る。
 舌がひりひりと痛む。どうやら僕は牛の舌ではなく、自分の舌を噛んでしまったようだ。


 僕は舌を千切られた牛のように黙る。言葉を失くし、呼吸を失くし、体内でガスを溜める牛のように沈黙する。
 舌に鉄のような味がまとわりつき、唾で薄めてごくりと飲み込んだ。僕が噛み締めた牛も、かつてこのような味を感じたことがあるのだろうか。
 世界への屈辱。肉体を解体する装置への意思表明。抗議としての自滅。選択肢の奪還。
 僕を抽象的人間観から救い出すのは、生物組織が作り出した体液。傷口から滲み出る血液に、噴水のように湧き出ては循環する唾液。
 僕は純粋な肉体を食する。言葉を繰り返すための舌ではなく、食物を摂取し、体内に運ぶための舌を。
 肉を感じ、血を味わい、胃液に溶け込み、外に排出されるまでを見届ける。僕の身体は実験体でもあり、観察者でもあり、やがて朽ちる有機体でもある。
 そう、やがては朽ちるのだ。しかし、やがてとは、いつのことだろう。
 僕は銭湯でくつろぐ、皺だらけの老人なのか。
 それとも、決められた年月に屠殺を迎える牛なのか。

 果たして、明確な境界線を引くことに意味はあるのだろうか。
僕が銭湯でくつろぎ、老人がその様子を眺めているのではないか。僕が牛であり、牛が僕の舌を噛んでいるのではないか。
 どちらでも構わない。鉱物と血のにおいがすれば、それで構わない。
 僕がレモンハイを手にしなかった理由は、そこにある。酒を飲まずとも、仕切られたものはとうに攪拌されているのだ。
 牛の血をアルコールでかき消してしまっては、僕は生を享受しなくなる。今の所、生が最も僕を酔わせる良薬だ。
 良薬を飲んだ夜はよく眠れるようで、僕はまぶたの重みを感じながら、そのままベッドに就き、そうして、いつまでも暗闇に身を浸していた。
しおりを挟む

処理中です...