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第1章 東京にて

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「アオイ、お前、来週は時間あるか?」

 よく冷房の効いた、大学新館二階の喫茶ラウンジでソファーに座り、ピンクの蛍光マーカー片手に民俗学のテキストを睨んでいると、頭の上から陽気な関西弁が聞こえてきた。

「無いと言ったら、どうなるんです?」

 テキストを裏返し、マーカーのキャップを手探りで摘みながら顔を上げると、サークルの先輩、三輪さんがドリンクの入ったカップを片手に、こちらを見てほくそ笑んでいた。余裕綽綽のその顔は、

「お前が俺の誘いを断るはずがない」
 と言っている。相変わらず自信たっぷりな人だ。そして今日も背が高い。

「ここ、座ってええか?」
「どうぞ、どうぞ」

 僕はテーブルの上に広げたテキストとノートパソコンを閉じ、脇へ積み上げた。書きかけのリポートは、もう七割がたできている。

「碩田教授の宿題か。懐かしなぁ」

 テキストの表紙を見ながら、三輪さんは向かいの椅子を引いて、長い足を器用に折りたたみ腰掛けた。本来なら二学年も後輩の僕が立ち上がり、ソファを譲るべきなのだろうが、まあ、そこまでかしこまった関係では無い。

 僕の名は向井向葵。東都文化大学文学部の二年生。そして向かいに座る長身の男は、同じ大学の文学部四年生、三輪旅人さん。彼は僕の所属するワンダーフォーゲル部の部長でもある。

 僕がこの大学に入学してから一年数ヶ月、すでに何度も山行をともにしてきた。的確な判断力と豊富な山の経験から、部員からの信頼も厚い、頼もしい部長には違いない。やや、強引で自分勝手なのが玉に瑕だが。

 しかし次の山の予定は、二週間後のワンゲル夏合宿のはずだ。試験も終わり夏休み直前の、中途半端に平穏な七月の第一週。他の部員たちは夏合宿に向けての資金稼ぎで、バイトに精をだしているころあいだった。

 かく言う僕も、この目の前の民俗学碩田教授のリポートを仕上げれば、一個上の先輩太田さんに紹介された短期のフルーツピッキングのアルバイトに入る予定だ。

「山は無理ですよ。来週は桃畑で勤労です」
「太田のフルーツピッキングか。心配すんな。あれなら断っておいた」
「はい?」
 相変わらず強引な人である。しかしいくらなんでも、勝手すぎるだろう。

「困りますよ。そんな勝手されたら。だいたいこのバイトで稼いでおかないと、夏合宿の資金が足りないんですから!」

「安心せえ。合宿の金なら、建て替えたる」
「建て替えって、おごりじゃなくですよね」
「当たり前やろ。なんでお前の合宿代金を、俺が払わなあかんねん」
「でも、バイトを断ったのは先輩でしょ!」
「バイトなら、夏合宿から帰ってからすればええ。それまで金は待ったる」

 自信満々に宣言する三輪さんは、まるで慈悲深い銀行員のようで、思わず礼を言いそうになったが、そもそもの資金繰りを台無しにしたのはこの男であり、そして大事なことは、まだ僕は金を借りてはいないのだ。

 まあしかし、そんな繰り言を行ったところで効果がないことは、この一年余りの月日で身に染みて理解している。
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