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第七章 松田要と黒い鯱

第三話 鳴らせない電話

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 仁は新幹線のホームで要を見送ってそのまま出社した。早めにつくと思っていたがノロノロと歩いた為、結局いつもと同じ時間だった。ロビーの掲示板には過労死や多重労働を啓発するポスターが貼ってあり、普段はみな通り過ぎるのに、今日は人だかりが出来ていた。

それに目もくれないのは仁だけだろう。

見なくてもそこにいつもと違うものが貼り出され、その内容も知っていた。微かな単語しか聞き取れないが「出向」「松田」という言葉に耳を塞ぎたくなり、逃げるように足早にオフィスへ向かう。部署が違うため朝の朝礼で要の出向が伝えられなかったのが唯一の救いだった。

 隣に座る仁の後輩・門田は要の同期だ。やはり今回の事に動揺を隠せていなかったが、口には出してこなかった。そもそも、仁と要に繋がりがあることすら知らないから当然の事ではある。
そんな門田が動揺を再び見せたのは一本の内線だった。

「門田さん、赤澤部長から内線です」
「えっ?!」
「お前も出向かぁ?」

なんて冷やかし声が聞こえ、眉間に皺を寄せそうになる。
赤澤に呼ばれたであろう門田は冷や汗をかきながら化学事業部を出て行き、出ていった後も冷やかすように出向の件を話す社員に仁はとうとう

「さっきから田中部長が睨んでますよ。仕事しましょうよ!」

と言って会話に牽制を入れてしまった。もちろん田中は睨んでなんかいない。むしろ何故門田が呼ばれたのか気になっているに違いない。
その後戻ってきた本人に性懲りも無く

「出向?」

とケタケタと笑う社員。

「違います!!」

と強めの返事が響く。根掘り葉掘り質問されていたが、何故赤澤に呼ばれたかは分からずじまいだった。しかし本人の表情から出向などという事ではないのは分かった。
彼が何故呼ばれたのかを仁は昼過ぎに知ることになる。

──プルルルル

仁のデスクの電話が内線を知らせた。

「はい、化学営業部の佐久間です」
『お疲れ様。人事・広報部の赤澤だ』
「お疲れ様です!」
『佐久間、この後時間あるか?』
「申し訳ありません、この後電話での商談が一件入っていますので都合がつかないかと……その後は特に予定はありません」
『わかった。じゃ、それ終わったら人事・広報部に来てもらえるか?』
「はい。かしこまりました」

赤澤部長が電話を切ったのを確認してから電話を切る。自分が電話を取って良かったと思う。もしこれでまた違う人が取れば「今度は佐久間か」と言われかねない。

(それにしても……何の用だろう)

 先約の商談の時間になりもう一度受話器を上げる。受話器を耳元に持っていくその短い間に

(要と同じところに出向……)

などというありえない想像を、これまた仁には到底ありえないタイミングでしてしまった。

「っ!」

一度受話器を置く。
そしてもう一度上げる。次は何も考えずに……自分にそう言い聞かせながら。

商談を済ませた後はすぐさま人事・広報部へ向かう。

「失礼します!」

と中に入った。赤澤がすぐさま気が付き、こっちだとミーティング室の方を指さす。

「悪いな、仕事中に」

お互い手近にあった椅子に腰掛ける。

「いえ!」
「商談は上手くいったか?」
「はい。滞りなく」
「それは、よかった……ところで佐久間。お前、インテリア事業部の松田と仲が良いのか?」
「えっ?」

 赤澤は同僚としての仲を聞いているのだろうが、付き合っているのがバレたと思い、あからさまに動揺してしまった。

「いや、なんだ。松田と飯を食う仲だって聞いて」

(ああ、そっちか)

「はい。たまにですが」
「松田が出向になったのは?」
「知っています」
「本人から理由は聞いたか?」
「いえ、聞いていません」

要が言った通り、人事ですら今回の出向の理由を知らないというのはどうやら本当らしいと理解した。

「心当たりとかは?」
「全く」
「そうか……わかった。」

大きなため息をつく赤澤。
この人たちもある意味被害者なのだと痛感させられる。

「わかった。仕事に戻ってくれ。忙しいのにありがとう」

ミーティング室を出ると、赤澤が小さくミラーに首を横に振っていた。なぜだが自分が申し訳ない気持ちでいっぱいになる。人事・広報部のオフィスをでて、自身のオフィスに戻る。その前に少しだけインテリア事業部を覗く。廊下に面している壁はガラス張りになっているので丸見えだ。それは他の部署も同じで、要はいつも前を通る時、中にいる仁を覗いていた。仁はそれに気が付いていたが、一度もそんなそぶりは見せたことがなかった。覗いてくれた恋人はもういない。それどころか要のデスクには知らない人物が座っていた。要と同じ真っ黒な髪の女性社員で、きっと研修を終えた新入社員だろう。要のデスクに座る新入社員になぜか取られたような気持ちになり、インテリア事業部から顔を背けた。

(阿保らしい)

化学事業部に戻り、先ほどの商談の内容をおさらいする。いつも電話をしながら走り書きでメモを取る。だいたいは覚えているためそのメモが活用される事はなかった。しかし今日はそのメモを見ないと会話の内容を思い出すことだ出来ない。それくらい頭は重かった。何かが仕事の事を考えようとする回路を邪魔している。それは霞がかって煙のようなのに、鉄の塊のように重かった。

(寝不足なんだきっと)

 その謎の霞が消えることはなく、時間がたつにつれどんどん濃く、そして重たくなっていった。それを寝不足のせいにして、身体に鞭打つ。常に自分を奮い立たせていたからか、終業の頃にはいつもの倍疲れていた。

  帰宅後、食事や風呂を済ませ、ベッドに潜り込みようやく携帯電話を見るが、要からは何も無かった。ちなみに今日携帯電話を見たのは今が初めてだった。特に電話もなかった為開くことはなかった。要から連絡がないか気になり、しかし気にすると仕事が止まってしまっていることに気が付き、鞄の奥にしまい込んだのだ。

(一日見なかったんだから……何か来てるよね)

本当は何も来ていなかった時にショックを受けるのが嫌で、携帯電話を見なかった自分がいたことも鞄の奥にしまう時にしまい込んだのを途端に思い出す。

(別に来てなくてもいいけど……仕事大変だろうし)

恐る恐る携帯電話の画面を見る。

「何してんのさ」

のしかかる悲壮感に負けて、携帯電話を持つ手がベッドの淵から項垂れる。

「連絡してきてよ」
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