こいじまい。-Ep.smoking-

ベンジャミン・スミス

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第八章 佐久間仁ともう一人の仁

第三話 再発

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「うっわぁ……」

 顔を洗って鏡の中の自分をジーッと見つめる仁。目が真っ赤に腫れ上がっている。歯ブラシを口に咥えてキッチンへ向かい、冷凍庫を開けてそこから小さな保冷剤を取り出しタオルに包む。

「つめたっ」

 腫れ上がった瞼の上にあてる。ひんやり心地よいが冷える朝には少々こたえる。しばらく冷やしていたが、保冷剤が温くなりあてがうのをやめる。保冷剤の冷たさと腫れで目の周りはさらに真っ赤になっていた。仁は今日が休日でよかったと心底思う。こんな顔で仕事には行けない。

「営業が何やってるんだって感じだよね」

頭を掻きながらアハハと軽く笑う。まるで誰かに言うように。部屋は書類が散乱したままで、一枚一枚回収していくと書類の下から携帯電話が出てきた。電源をつけたくはないがずっとこのままというわけにはいかない為、深呼吸をして電源をつける。案の定、要から電話と大量のメールが来ていて、それを開くことなく一通ずつ消していく。しかしその中に一件だけ違う名前を見つけ、いきおいそのままに消しそうになった指を止める。

「月嶋君?」

月嶋からは仁を心配するメールが来ていた。お礼と謝罪のメールをして、携帯電話を閉じる。しかしすぐさま開き設定画面にし、無心でボタンを押す。

(これで、よし)

仁はメールアドレスを変えた。もちろん変更したアドレスは要には送らない。電話番号もと考えたがそれはやめた。メールアドレスは変えるのに、電話番号は変えないのは、まだ残っている少しの期待とエゴだった。自分をこんな状態にした人間をすぐに忘れることは出来ないのは分かっていたが、自分の中途半端さにため息が出そうになる。

(忘れるんだ。もう終わった)

「よしっ!」

気分的には長い出張から帰ってきたような気分で、そしてその気持ちの期待に応えるかのように大量の洗濯物が溜まっていた。
 溜まりきった洗濯物を片付けたり、掃除をしたり、気がつけば夕刻になろうとしていた。空っぽの冷蔵庫をどうにかしないと、と思い買い物にでも行こうかと思ったが、料理する気にはなれずコンビニエンスストアで済ませることにした。部屋着からジーンズと青いボーダーのブイネックの服に着替えてコンビニエンスストアまで歩いていく。中に入りウロチョロして食品の棚を一通り見たが食べたいものが見つからない。

(食べなくてもいいかな……あっ、でもそうすると要心配するかな? 違う、別れたんだった)

心の中の自分を諌める。

とりあえず水を一本手に取りレジに行く。ニコッとぎこちなく笑うレジの店員は、名札に研修生と印字されたシールが貼ってあった。そして店員の奥に視線を移動させる。

「いらっしゃいませ。商品のご確認をします」
「お願いします」

 一瞬迷った仁だったが店員に告げる。

「あと……125番」

 研修生はワタワタと水のバーコードを読み取り、くるりと仁に背中を向け125番の棚から赤いパッケージの箱を取り出す。

「一箱でよろしいですか?」
「はい」
「年齢確認よろしいですか?」

研修生はさすがに真面目で感心してしまう。しかし、この年でまさか年齢確認をお願いされるとは思わなかった仁は運転免許証を出すのに戸惑った。普段出すことのない運転免許証を店員に渡す。しっかり確認して、ニコッと笑いながら丁寧にお礼を言って返却してくれた。
自分の意図しない物を買ってしまい、肝心の食べ物は買わなかったが、仁はコンビニエンスストアを出た。少し陽が傾いていて、この後はすぐにまた夜が来るだろう。折角綺麗にした部屋をまた散らかす自分が出てくるのが怖くなり、家に足が向かない。そして気が付けば

(ここは……)

 門司港レトロ地区に来てしまっていた。そして足は自然とあの跳ね橋へ。要が仁に恋人の聖地だと教えてくれた跳ね橋が何時に開閉するのか、結局仁は知らないし

(もう一緒に来る人もいない)

まだライトアップされていない跳ね橋の真ん中まで歩き、手すりにもたれ、先ほど買った赤いパッケージを取り出す。

(久しぶりだな)

ペリッとパッケージの透明な包装ビニールを剥がす。

「あっ!」

久しぶりに吸うせいか肝心のライターを忘れていた。

「吸うなよって……ことかな」

火が点くことがなくなった煙草をクルクルと回す。そして目を閉じれば、「身体に悪いぞ」と言ってくれたあの声と顔が浮かぶ。別れたのに辛い感情は変わってなかった。別れてまだ一日というのもあり、時間が解決すると思いたかったが、その時間が嫌だった。その忘れるまでの時間、この気持ちとずっと向き合うほど強くない、それが分かっているから今すぐに忘れてしまいたいのだ。手すりに肘をついて項垂れて、視線を下に向ければ、橋の下で海水がユラユラ揺れている。

(俺は……どうしたら)

海面が近くなってくるような錯覚を覚えだしたその時だった。

「そこのお兄さん!」

(なんか声がする)

「ちょっと、そこのお兄さん!!」

しつこい声に周りを見渡したが、声の主と仁以外橋の上には誰もいなかった。肘をついて橋にもたれたまま顔だけ動かして声の主を見る。そこにはグレーのスーツに身を包んだ男がいて、黒縁の眼鏡に、顎には少しおしゃれ感覚で生やしたような髭が生えている。

(誰? 知らないんだけど)

「何ですか?」
「俺さ、こういうものなんだけど」

その男が見せてきたのは警察手帳だった。警察官やパトカーというものは何もしていなくても視界に入るだけで何故だか悪いことをしたのではないかという気分になる。だが、一瞬そんな気持ちになりつつも、自身の潔白は自分が一番分かっている。何も後ろめたいことをしていないため、なぜ自分が警察官などに話しかけられたかが分からない。

「お兄さん、お名前は?」

「僕、お名前何ていうの?」と迷子の小さな子どもに聞くかのように尋ねてくる。

「佐久間です」
「佐久間さんね。おいくつ?」
「29ですけど」
 「生年月日は?」
「19✕✕年の3月26日」
「ってことは、30歳になるのかな?」
「はい」

(職務質問?)

しかし、職務質問などされたことがない為、それが本当に職務質問か分からない。そのせいでいくら警察手帳を見せられたからといって、目の前のこの男が本当に警察官か怪しさを感じる。そして、そもそもイメージしている警察官とな少し違っていた。よく見る制服とは違い、この男はスーツだ。

「本当に警察官なんですか?」
「もっかい見る? 警察手帳」

目の前で警察手帳をヒラヒラさせる男。一応名前だけ確認しておこうと手を伸ばしたが、その手は空を切った。

「あー、名前はダメ」
「なんでですか?」

 警察手帳をジャケットの内ポケットに直す。そしてキッと見てくるその視線に思わず緊張してしまう。

「じゃっ、ご同行願えますか?」
「はい?」

(ご同行って、警察署に?)

「佐久間仁さん、逮捕しますっ!」

軽く言いながら手首を手錠のつもりか、ぎゅっと握る男。

「はぁ?!」

何が何だか分からなかったが、男の発言に何か腑に落ちない物を感じた。仁は自分の名前を「佐久間」と名乗った、しかしこの警察官という男は今確かに仁を「佐久間仁」と呼んだ。もちろん、運転免許証も保険証も見せていない。

「君、誰なの?」

警戒心からか素が出てしまう。

「何で俺の名前を知っているの?」
「むしろ何でお前は俺が分からないんだ……佐久間」

知っているような口ぶりだが全く心当たりがない。急に真面目な顔付きになる警察官の顔をジーッと見つめると真面目な顔がニヤニヤに変わり

「そんな綺麗な顔で見つめるとキスするぞ」

なんておちゃらけだす。そんな発言に顔を逸らしたが、男がまた視界に入ってくる。

「んじゃ、まぁとりあえず逮捕だ、逮捕!」
「なんで?!」
「んー、俺のこと忘れちゃった罪で?」

(意味が分からない!)

「まぁ、まぁとりあえず同行されてくれない?」

なんて軽く言いながら腕を引っ張る。ちょうどその時、ライトアップが始まり、綺麗な景色が広がりだした。その中を仁を知っているという謎の男に連れられていく。

「本当に、君、誰なの?」
「んー? 分かんない?」
「分からない!」

腕を離し、向き合った男がゆっくりと眼鏡を外す。キリッとした目だけが仁を見つめ、その表情に合うような低い声で

「ほら、よく見ろ」

と、顔を近づけてくる。

「ちょっ……近いっ!」
「はいはい」

少し顔を離した男をもう一度よく見る。

(この目、知ってる)

眼鏡越しでは分かりにくかったが、それが外されてようやく、脳内に一人の男が浮かび上がる。

「もしかして、柴?」
「おお、ご名答!」

もう一度眼鏡をかけ直す目の前の男。先ほどのキリッとした表情は消え、またお調子者のような表情に戻る柴と呼ばれた男。

「やっとか!」
「いやだって、眼鏡と髭! それに……」

上から下まで視線を動かして見るが、記憶が正しければ柴は仁より身長が低かった。しかしそれは10年も前の話だで、この柴隆之介しばりゅうのすけという男は、高校の同級生なのだ。

「こんな所で話すのもなんだし、とりあえずご同行願えますか?佐久間仁さん」

柴は敬礼ポーズを雑にとる。

「どこに?」
「とりあえず……飲み屋に!」

ケラケラと笑う柴は、昔よりも大人になっていて、その大きな背中に吸い込まれるように……縋るようについて行った。
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