こいじまい。 -Ep.the British-

ベンジャミン・スミス

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第一章 Unrequited love

第六話 抜けた炭酸

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 昼休みを各自済ませ、社員がデスクに向かい始めた頃、村崎は書類の端から顔を覗かせていた。

——ガコンッ!

「おい大丈夫か月嶋!」

 春人が壁際のゴミ箱に躓き、松田が心配そうに声をかけた。

「だ、だいじょ、いたっ!」
「大丈夫?!」

そのまま、壁に激突した春人に女性社員が近寄る。「すみません、すみません!」と頭を下げている。
 昼休みを終え、明らかに春人の様子はおかしくなった。ゴミ箱を蹴飛ばしたのはこれで三度目。体調不良も考えたが、近寄ろうとした瞬間、ダグラスに指導をしていた赤澤に睨まれた。
目的を果たしたと理解した。
そして何より、春人と視線が合わなくなった。赤澤の呼び出しが相当応えた事が分かる態度に逆に心配になってしまう。しかし、腰を上げるあと一歩のところで携帯が震え「俺の泥被りを台無しにするなよ」と同期からのブレーキがかかる。
昼休みに何があったか知らない社員は心配し、隣の松田に至ってはロールプレイングゲームの様に春人をデスクまで誘導し始めた。

「別に大丈夫ですよ!」
「本当かよ。てか、今夜大丈夫なのか?」
「今夜?」
「お前なあ……やっぱりどっか悪いんじゃないのか? 今日、歓迎会だろうが」

 ハッとカレンダーを確認した春人。
今日は、金曜日。先日松田に案内を渡された研修生の歓迎会の日だった。

「お前、指導員なんだから参加して欲しいんだけど」
「大丈夫です! 参加しますし、どこも悪くありません!」

そう言って元気に立ち上がった春人が、書類のコピーに向かおうとする。しかし、椅子の脚に引っかかりバランスを崩した。

「あっ!」
「おい!」

松田が手を伸ばすが取りこぼしてしまった春人の身体は、間一髪、別の逞しい腕に支えられる。

「大丈夫かい?」
「あ、ありがとう……アルバート」

「良かった」という低い声と、松田の安堵のため息が聞こえる。

「ビビらせんなよ!」
「すみません」

春人は二人に謝罪し、コピー機の所へフラフラと向かった。
部数を指定しスタートボタンを押したが反応しない。今度は力を込めて押す。コピー機が仕事をし始めた。

(力が入らない)

さっきまで同じ空気を共有するのが最大の喜びだったのに、今は同じ建物内にいる事すら辛い。視界に入れずとも、脳内に浮かぶ村崎に心は重くなる。
 しかも今日は歓迎会だ。
もっと至近距離で、下手をすれば酒に酔ってクシャリと無防備に笑う村崎の顔を見る事になる。

「うっ」

想像するだけで胃が痛くなり、痛みと消さなければならない想いごと押さえつける。
 第三者にはっきりと断られたことがここまで応えるとは思わなかった。想像していなかったからこそ、ダメージが大きいのだろうが、そんな事が分かったところでこの痛みが消えるわけではない。
 遅かれ早かれ村崎にも言われていたかもしれない。それが今来て、そして別の人から告げられただけだ。

(もうチャンスはない。でももしかしたら……いや、はっきり断られたじゃないか。これ以上嫌われることをしちゃいけない月嶋春人。村崎部長の優しさは僕とは別の物なんだ。僕は、ただの「部下」にすぎない)

もしかしたら付き合えるかもしれない。
その思いが砕け散った今、春人には何を考えても痛みにしか変わらない。
そして心の中で正当性を必死に訴えるしかなかった。

 その後も胃の痛みと戦いながら夕方を迎え、歓迎会に参加する社員は早々に退勤した。

「では、村崎部長お願いします!」

幹事の言葉にすら胃が痛くなる。

「研修生の皆さん……」

村崎の声を必死に耳から追い出そうとする。隣の宴会場の騒音に耳を澄まし、どうにかシャットアウトしようと努めた。

「おい月嶋!」

松田に呼ばれて反応した頃には、皆グラスを上げていた。

「は、はい!」

乾杯の掛け声とともに宴会がスタートする。
そこからも皆が好きなように振る舞う。いつもなら一番に酒を注ぎに行く春人だが今日は腰が重い。松田が村崎の所へ行くのを見つけ、それについていく形を取った。

「本当に体調が悪いんだな! いつもなら我先に行くのに!」

松田にそう言われ、反省の気持ちが深まる。
対して苦笑いをする村崎がグラスを差し出してくる。それにゆっくりと瓶を傾けた。

「もういいぞ」

途中でストップがかかる。
予期せぬタイミングで声を聞いてしまい、反射的に顔を上げてしまった。
 自分ではどんな顔をしているか分からない。しかし相当不味い顔をしていたのは村崎の表情で分かった。

「すまない」

それは、何に対する謝罪なのか。途中でストップをかけたから?それとも……
 溢れそうな気持を堪え、半分しかビールの継がれていないコップに視線を落とした。
満たされない想いの様な光景。揺れる水面も、グラグラしっぱなしの春人の心を表している。しかし、弾けても明るくもない。

「いえ。お疲れ様です」

そう言い残し、ビールからも無理矢理視線を外す。離れて行く背中に「月嶋」と言う声が聞こえた気がしたが「おーい村崎部長!」という陽気な赤澤の声にかき消された。
 再び激しい胃痛に襲われ、その後の記憶はほぼない。いつの間にか終わっていて、寒空の下、店の前で二次会の声が上がる。

「俺たちは帰るわ。若いのでやれよ」「ええ! 赤澤さんも村崎部長も行きましょうよ!」「勘弁!」というと、残念な声が聞こえる。
「月嶋君は行く?」と女性社員に腕を組まれたが、残った力でそれを引き離す。
「すみません。体調悪くて」「え? 送ってくよ?」と、更に酔いに任せてくっついて来る女性社員が煩わしい。
 しつこい女性に、村崎に猛アタックしていた自分がまた重なり胃を押さえつけた。

「本当に大丈夫なんで! では、失礼します!」

全てから逃げる様に春人はその場から離れた。
それを心配そうに見つめる松田がアルバートに尋ねる。

「あいつ本当に大丈夫か? あっ、アルバートはどうする? 二次会行く?」
「いや、私も遠慮しておくよ。では、失礼。」

結局、残った若いメンバーで二次会はまとまり、先ほどまで屯っていた集団はそれぞれの場所へと散らばっていった。

 ようやく解放された春人は気の向くままに歩いていた。しかし、いよいよ苦しくなりその場にへたり込んでしまう。足も痺れ、体重を支えられなくなり、背中にアスファルトの冷たく硬い感触が伝わる。雑踏の音、心配する声……その中に交じる聞いたことがある低い声とほろ苦い香りに記憶が刺激されたがそれが何か思い出す前に春人の視界は真っ暗になってしまった。
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