旧鼠の星

来星馬玲

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目覚めた少女

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 天井を伝っている水滴が緩やかに膨らみ、床形成されている小さな楕円形の水たまりの上に落ちて、音を響かせる。空気中には白い霧が揺蕩っており、ユスチィスの腕や頭に付着した水分が、獣毛を皮膚にこびりつかせていた。

 回廊には部屋を仕切っている金属質の扉が無数に点在し、その多くが開け放されたことで、以前は乾燥していた回廊の湿度が著しく上昇している。多量の湿気が解き放たれてもなお、回廊に面している内部構造がその機能を損なうことはなく、定期的な電子信号が行き交い、ユスチィスの聴覚が高振動数の音波を敏感に感じ取っていた。

 ユスチィスは裸足で、ひたひたと濡れた床を歩きながら、目印として所々に張り付けておいた、毟りとった己の毛を頼りにして、先ほどまで進んでいた道を引き返していた。ユスチィスは遺跡の地下に閉じ込められてから、幾度も内部の探索を繰り返していたが、内部は予想以上に広く、下手に遠出をすれば、複雑な電子信号の行き交う中で方向感覚を失い、迷う恐れがある。

 それぞれの部屋には、棺型の物体が安置されており、あの少女が中に入っていた物と同種のものであった。しかし、ユスチィスにはそれらの中身を再び見ることは躊躇われた。

 最初に扉を開いた、あの部屋の前に戻ってきた。扉は開かれたままである。これまでの探索で、回廊に設置されている装置で扉を開く操作方法を覚えていたユスチィスであったが、逆に扉を閉める手段は、未だに解明できていなかった。部屋から漏れ出た水分で回廊が水浸しになっても放置せざるを得なかったのは、そのためである。

 無骨な闖入者である自分が、整然としていた遺跡の内部を不作法に荒らしている――ユスチィスはそんな気もしたが、食料すらも確保できない現状のまま、脱出を先延ばしにするわけにもいかなかった。

 ユスチィスが一室に入ると、少女の鈴をころがすような高い声が響いた。ユスチィスは一瞬ドキリとしたが、頼もしくて優しい兄を演じるために温和な表情を浮かべ、落ち着いた態度で彼女と接する。

 少女は自分が入っていた棺型の物体に腰を掛けており、上下が一続きとなっている純白の衣を羽織っている。下半分はスカート状であり、白い裸足がユスチィスの目に眩しかった。

 この衣服は棺型の物体が開け放された際、少女の傍らに置かれていたものであり、外の過酷な環境を出歩くには適していないが、少女の裸身を隠すには十分であった。

 旧鼠きゅうそには外見上を取り繕うための衣服に凝るという習慣はあまりなく、あくまでも過酷な環境から身体のを一部を保護するために衣類を身に着けていた。それでも、ユスチィスには、ひらひらとした白一色の衣装を身にまとった少女の姿が、より一層可愛らしく思えた。

「パンナカァラ。もう動いても大丈夫なのかい」

 ユスチィスはこの先史文明人の少女をパンナカァラと呼んでいた。ある、大切な人の名前であった。

 パンナカァラと名付けられた彼女は、ユスチィスの言葉を理解しているわけではなかったが、細い二本の足で立ち上がり、ユスチィスの方へと歩み寄ってきた。

 彼女は腕を伸ばし、手のひらでユスチィスの頬を軽く撫でた。ユスチィスはくすぐったかったが、自分を真っ直ぐ見つめる少女の青い瞳から眼を離せなくなっていた。

 パンナカァラは、ユスチィスの頬や頭を繰り返しさすり続けた。ユスチィスには、それが彼女のスキンシップなのだと思った。何か、壊れやすいものを丁寧に扱っているような優しさが感じられ、悪い気はしなかったので、ユスチィスはされるがままになっていた。

 不意に、パンナカァラが言葉を発した。ユスチィスには理解できない言葉であり、何事かと思う間もなく、突然抱き着かれた。ユスチィスは驚いたが、下手に抵抗して良いものだろうかと逡巡する。

 幾度も、一室に少女の声が響く。少女の白い滑らかな頬を、一筋の水滴が流れ落ちた。ユスチィスは、彼女が泣いているのをまじまじと見つめていた。

 やがて、パンナカァラはユスチィスから手を放し、床にうずくまるようにして座り込んでしまった。

「あの……風邪、引いちゃうよ」

 一室は未だに多湿な空気で満たされており、床に座った少女の衣服は、濡れて肌にはりついてしまっていた。

(いつまでも、ここにいるわけにはいかない、か)

 しかし、大蛇おろちの言が確かならば、先史文明人にとって、現在の外の環境は生存に適さないものであるという。その環境に適応している旧鼠きゅうそでさえ、長時間日光にさらされていると皮膚が変質し、病気になってしまうこともあるのだ。見るからにひ弱そうな肌の彼女を、このまま外に連れ出すのは危険だった。

 この遺跡が先史文明人を生き永らえさせるためのものであるなら、今の彼女を助けるものもあるかもしれない――そう考えたユスチィスは、内部の回廊を渡り歩き、各部屋を調査して回ったのである。

 その結果、ユスチィスが得られた成果は無いに等しく、むしろ絶望的な状況を知ってしまった。

 他の部屋にも、少女と同じ、先史文明人を収めた棺型の物体は存在していた。だが、それらは文字通り、本物の棺であった。

 中にいた先史文明人――いや、先史文明人であったものは、あるものはとうの昔に凍りついて縮小したミイラと化しており、またあるものは最近解凍されたらしく、びしょびしょに濡れた部屋の中でぶよぶよにふやけていた。

 それら文明人だったものの変わり果ててしまった無残な姿を目にしたユスチィスは、心を爪で深くえぐられたような心境となり、酷く消沈してしまった。

「ずっと、一人ぼっちだったんだよね、パンナカァラ」

 もしかしたら、彼女が先史文明人の唯一の生き残りなのかもしれない――ユスチィスにはそんな気がしていた。あの大蛇おろちが彼女を特別に気にかけていたのも、そのためであるのかもしれない。

 携帯食料も残されておらず、このまま部屋でじっとしていても、飢えに苦しむのは明白であった。パンナカァラも先ほどより元気がなく、空腹を覚えているのかもしれない。

 また、遺跡内部の探索に出向かなければならない――ユスチィスは決心する。

 一室を出ようとするユスチィス。ふと、背後から腕を掴まれた。見ると、いつの間に近づいたのか、パンナカァラが悲しそうな顔でユスチィスを引き留めていた。

「ごめん。また行かなきゃ……きみを助けるためにも」

 しきりに首を振るパンナカァラ。彼女は何かを訴えているらしい。

 ユスチィスは、パンナカァラの言いたいことを直感的に悟った。

「……そっか、もう一人でいるのは嫌だって……そう言っているんだね」

 パンナカァラはユスチィスの言葉の意味を理解しているわけではないが、再びユスチィスに甘えるようにして抱き着いてきた。

(また、彼女を一人でここに残していくわけにもいかない、か)

 おそらく、この先も多くの先史文明人のなれの果てを目にするだろう。ユスチィスとしては、変わり果てたパンナカァラの同族の姿を、彼女に見せたくなかった。

 だが、これ以上パンナカァラを一人にしておけば、何をしでかすかもわからない。苦渋の決断であったが、ユスチィスは彼女と共に、遺跡の内部を探索することに決めた。

 ユスチィスはパンナカァラの袖を掴んで連れ出し、一室を後にした。パンナカァラは抵抗するそぶりを見せず、ユスチィスに身を任せている。やはり、これがパンナカァラの望みであるらしい。

 ユスチィスは寄り添うパンナカァラを支えながら、回廊を進む。事前に見つけていた、先ほど探索していた方向とは逆の通路へ向かって、歩み出した。

 パンナカァラを連れて回廊に出るのは初めてである。ユスチィスは彼女の一挙一動に注意しながら、慎重に進んでいった。

 変わり映えのしない道であったが、進むほどに湿気から遠ざかっていくのが実感できた。やがて、まだ開けられていない扉が左右に点在する回廊に差し掛かる。

(扉の操作方法は同じみたいだ。でも……)

 パンナカァラが扉の中の惨状を知る――躊躇いを覚える、ユスチィス。だが、手掛かりのない今、これらの扉を無視して先に進むわけにもいかない。

 扉の一つを選び、規則正しく移動する発光体に囲まれている中央部分を、両手で押す。扉の機能がユスチィスの存在を感知し、扉が音を立てて開かれ、内部の様子がさらけ出されていった。

 内部構造はこれまで見てきた部屋と同様であった。ユスチィスは中央にある棺型の物体に歩み寄る。この物体の中身も調べてみるつもりであるが、パンナカァラの視線が、どうしても気になってしまう。

「パンナカァラ。これからきみにとって、辛い光景を見ることになるかもしれないけど……」

 パンナカァラは、きょとんとした面持ちでユスチィスを見つめている。ユスチィスの迷いは大きくなり、本当にこの棺の蓋を開けることは最善であるのだろうか……と、逡巡していた。

 突然、パンナカァラがユスチィスを押しのけると、棺型の物体の側面に取り付けられている小さな蓋を開け、中の装置に触れた。驚いているユスチィスを尻目に、棺の蓋が開かれていく。

 中身を覗き込むパンナカァラ。固唾をのんで見守るユスチィス。暫しの沈黙。

 パンナカァラが絹を裂くような悲鳴を上げた。脱兎の如く走り出し、回廊へと飛び出していく。ユスチィスが咄嗟に棺の内部を見ると、案の定、そこにあるのは凍りついたミイラと化している先史文明人の亡骸だった。

 ユスチィスは、部屋から出ていったパンナカァラを追いかけた。冷たい回廊の奥へと遠ざかっていく、パンナカァラの後ろ姿。あれほど大人しかった彼女とは思えないほどの速度であった。

「パンナカァラ、待ってくれ」

 ユスチィスは何度も彼女に呼びかけ、走り続けた。

 突如、天井が激しく振動し始めた。パンナカァラが足を滑らせ、転倒する。ユスチィスは慌てて彼女に駆け寄り、助け起こす。パンナカァラは泣きじゃくっていた。

 天井の裏を這いずりまわる、あの音。神経を逆なでされる。紛れもなく、大蛇おろちの発する音である。ユスチィスはパンナカァラをそっと抱きしめながら、相手の出方をうかがっていた。

 天井の一部分が開かれ、大蛇おろちの黒光りする頭部が顔をのぞかせた。大蛇おろちが備えている二本の長い触角が回廊の中空を踊り、ユスチィスとパンナカァラのいる方を向いたところで、ぴたりと静止した。

「……彼女に、見せた、か」

 大蛇おろちの言葉の意味するところは、すぐに察しがつく。 

「ああ。……見せたくはなかったけど」

「そうだろう、な」

 大蛇おろちの複眼が、パンナカァラを見据える。ユスチィスは本能的な恐怖をぬぐい切れず、パンナカァラを大蛇おろちから庇うようにして身構えていた。

 パンナカァラがユスチィスの腕を振りほどき、大蛇おろちの方へと近づいていく。ユスチィスは彼女を止めるべきかと迷ったが、すぐに声をかけることができなかった。

「ダグゥロ」

 パンナカァラの口から出た、奇妙な響きの言葉。一瞬、大蛇おろちの動きに変化が生じたものの、すぐに平常に戻る。

「ダグゥロ……なんだって」

 ユスチィスの疑問を遮るように、大蛇おろちが言葉を発する。

「ワタシの……名だ」

 ユスチィスはそれを聞き、大蛇おろちは動揺しているのではないかと、思い至る。

 大蛇おろちはパンナカァラの目覚めには立ち会わなかった。大蛇おろちの外見は、先史文明人に畏怖の念を植え付けると言って。その大蛇おろちの名前を彼女が知っているというのは、どういうわけだろう。

「先史文明人は、事前に、必要な情報を脳に埋め込まれている。……おそらくだが。ワタシが、この遺跡を管理すること……あらかじめ決められていたから、だ」

「お前が……この遺跡を、管理していただって」

「そうだ。ワタシは、我々に、与えられた使命。それを知ったのだ」

 パンナカァラは真っ直ぐにダグゥロという名の大蛇おろちと向かい合っている。暗い回廊の壁を断続的に奔る、光の流れが両者の合間を幾度も通過していく。

「彼女は……ワタシを、恐れていない」

 ダグゥロが呻くように呟いた。

「我々は、先史文明人の本能が、忌避するよう、造られているのに……」

「造られている……だと」

 ユスチィスには、その言葉の真意を測りかねた。

「……頃合いだ。ワタシが、誘導する。彼女を連れ、ついてこい」

 大蛇おろちの頭部が天井の影に隠れ、見えなくなる。その後、金属と金属を打ち合わせたような音が、断続的に繰り返された。

 音を辿ってこい、というのだろう。ユスチィスはパンナカァラの手を引き、大蛇おろちの気配を追いかけた。

 パンナカァラは大分落ち着いていた。まだ微かに震えていたが、ダグゥロの言っている通りならば、同族の亡骸を見たショックが、この遺跡の管理人を名乗る大蛇おろちとの対面で和らいでいるのかもしれなかった。

 左右に部屋がある以外、ほとんど一本道の回廊であったが、途中で枝分かれする道が増えてきた。二人はダグゥロの発する音に誘われて、先へと進んでいく。

 不意に、天井から聞こえていた音が鳴り止んだ。続けざまに、回廊の側面にある一室を仕切っている扉の奥で、くぐもった鳴き声のような物音が伝わってくる。

「ここに入れ、というのか……」

 ユスチィスが扉に触れると、扉は低い音を響かせながら、横にゆっくりと滑るようにして開かれた。

 中の様相は、これまで見てきたものとは大きく異なっていた。

 一室全体が円筒状の構造をしており、天井からは赤色の光が溢れていて、内部を真紅に染めていた。突き当りには銀色の椅子が置かれており、赤光を浴びて、赤と白銀色の混じった光沢を放っていた。

 椅子の横には表面が細長い卓が備えられ、卓の上には手のひらに収まるほどの大きさのガラス状の筒が金属板に立てかけられる形で並んでおり、それぞれの筒の中には色の異なる液体が入っていて、棹状の棒によって栓をされていた。

 部屋に入ったところで、パンナカァラがユスチィスの手を振りほどいた。ユスチィスが気圧されているうちに、パンナカァラは銀色の椅子に向かって、足早に歩み寄っていく。

「パンナカァラ……」

 パンナカァラは何かにとりつかれたように虚ろな表情をしていた。彼女は黙したまま、椅子に腰を下ろす。

 ユスチィスは言い知れぬ不安を覚え、パンナカァラに手を伸ばす。すると、頭上から長い鞭のようなものが振り下ろされ、ユスチィスを押し返した。それは、大蛇おろちの触角であった。

「黙って、見ていろ」

 ダグゥロの声。ユスチィスが見上げると、上方の壁に大きな丸い穴が開いており、そこから顔を出している大蛇おろちが、こちらを睨んでいた。

「で、でも……」

「彼女が、生き延びるため、必要なことだ」

 有無を言わさぬ態度のダグゥロ。旧鼠きゅうそであるユスチィスが大蛇おろちに正面から逆らっても、到底敵うはずもない。ユスチィスは、名残惜しそうに経過を見守るしかできなかった。

 パンナカァラが、ガラスの筒の一つを手に取る。筒の先端には白い針が備えられていた。パンナカァラは自分の白い腕を露出させると、その針を肘窩の辺りに突き刺した。

 ユスチィスは思わず声を上げたが、大蛇おろちの一睨みで、全身が麻痺したように動けなくなってしまう。ユスチィスは、未だ変わらぬ力関係に、己の無力さを思い知る。

 筒と重なっている棹の部分がゆっくりと押し込まれていく。中の液体が、少女の血管に直接注ぎ込まれた。

「これは、先史文明人が、今の環境に、適応するための、儀式。肉体改造だけでは、補いきれなかった、埋め合わせ」

 改造――再び聞く言葉に、ユスチィスは暗い面持ちとなる。

 パンナカァラは今見ても愛らしく、美しい。だが、この姿も太古の時代を生きた先史文明人の本来の姿とは異なるのかもしれない。

 持って生まれた身体を作り変えなければ生き延びることのできない、先史文明人。長い時の流れというものが、無情に思えてくる。

 パンナカァラの表情が苦悶に歪む。咄嗟に手を出そうとしたユスチィスであったが、大蛇おろちの触角がそれを許してはくれなかった。

 ユスチィスには、パンナカァラの身体が更なる異物で変形させられるということが辛く感じられたが、生き残る工夫をこらしたにも関わらずに死に絶えた他の先史文明人の骸を思い出すと、このまま彼女を見守り、無事を祈ることしかできないのだと、自らの心に言い聞かせる。

 少女の瞳が、ユスチィスを見つめる。それは誰かにすがり、救いを求めるものの目。

「大丈夫だよ、パンナカァラ。ぼくが……傍にいるから」

 ユスチィスの言葉に、パンナカァラはか細い声で応えてくれた。

 言葉の意味は伝わらなくても、彼女は傍らで見守る自分の存在に勇気づけられている――ユスチィスは、そう信じていた。
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