泡沫の君と

市瀬雪

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「ごめん、もう時間だ」

 ちょっと名残惜しいけど、と言い聞かせるように囁いて、彼は私を抱きしめる腕に力を込めた。





 * * *

 夜の繁華街で、私は一人の男の子を拾った。

 会社の飲み会の二次会を逃れて、自宅マンションまでの帰路についてまもなくのことだ。
 明日は休みだったけど、つきあいだけの二次会に行く気にはなれなかった私は、通り慣れた喧騒の中を早足に歩いていた。
 
 ――顔も良くて、スタイルもいい。
 だけど道ばたで酔いつぶれていたその子は、まずは真面目で優しいという私の好みからはかけ離れているような気がした。

 それでも放っておけなかったのは、目が合ってしまったからかもしれない。
 彼は通りから少しだけ奥まった路地裏の壁に、寄りかかるようにしてへたりこんでいた。そちらに目が向いたのは、目の前を黒猫が通りすぎたからだ。
 最近よく似たような黒猫を目にしていた私は、「あ、まただ」と呟きながら、その姿を目で追った。

 黒猫は路地裏へと吸い込まれるように歩いて行った。その先にいたのが彼だった。

「ん……」

 目線を上げた彼の瞳は、青みがかった灰色だった。
 とても不思議な色だと思った。

 かち合った双眸は、想像以上に長い睫毛に縁取られていた。
 ……うらやましい。私があんなに長かったら、マスカラだって捨てちゃうわ。
 平均的な自分の顔を思いながら「大丈夫ですか」と尋ねると、「大丈夫じゃない……」と力ない笑みを返された。
 見た目よりあどけなく見えるその笑顔に、自然と警戒心が緩む。

 私は肩に掛けていたバッグを斜めがけにし、苦笑しながら手を差し出した。
 よろけつつも、何とか支えて立ち上がらせる。立たせてみると、思ったよりも上背があった。
 ちょっと猫背気味でこれってことは、180くらいはありそうだ。

(あ……)

 一緒に歩き出し、ふと思い出したように背後を振り返る。
 だけどそこにはもう、さっき見た黒猫の姿はどこにもなかった。




「家どこ?」

 通りに出ると、タクシーのことを考えながら、当たり前のように問いかける。すると彼はなんだか妙に楽しげに、だけどどこか寂しそうに、「今日は帰れない」と言った。

 私はそのまま彼を自宅に連れて帰った。
 だってそんな表情かおをされたら、突き放せない。

 幸い、明日からはリフレッシュ休暇で三連休。
 彼氏と別れて一月ほどだった私の家には、男物の服がまだ少し残っていた。
 だからと言うわけじゃないけど、ちょうどいいとも思った。
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