[R18]黄色の花の物語

梅見月ふたよ

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第三十三話 受容と否定が導く未来

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「……オーリィード?」
 自身を刺している相手を見下ろし、マッケンティアの目が瞬く。
 じゃれつく子供に対して「どうしたの?」と尋いているかのような、きょとんとした表情。
 オーリィードはマッケンティアの脇腹に刺したままの短剣の柄をぎゅうっと握り締め、掠れた声で苦しげに言葉を紡いだ。
「マッケンティア様は……優しい。優しすぎたんです。多くの人間が……受け止め切れなかったほどに……」
 誰もが見ていた。
 オーリィードに刃を向けんとしていたリブロムも。
 リブロムの凶刃を止める為に一歩を踏み出しかけていたロゼリーヌも。
 シウラも、サーラも、その会場に居合わせた全員が。
 オーリィードの刃に刺されたマッケンティアを。
 見ていた。


「「私達は……」」
 あの日。
 フィールレイク伯爵邸から戻った後、路地裏の行き止まりでヘンリー兄妹に望みを問われたオーリィードとレクセルは、口を揃えてこう答えた。

「「どこにも行けません」」

 本当のところ、オーリィード達は自分達を取り巻く状況などほとんど何も解っていなかった。大体の想像はついていたが、それが正しいのか間違っているのかが解っていなかった。
 解っていたのは、『アーシュマー』に敵意と呼べるものが全然無かったということ。
 ゼルエスに壊されたオーリィードの心をずっとずっと護り続けていたということ。
 そして、オーリィード達に何かをさせようとしているということ。
 オーリィードに刃を突き立てたリブロムは、サーラの敵を殺せと言っていたが……どこの世界に、もう怖がらなくて良いだの、怯えなくて良いだの、自分を殺して大切な人を取り戻せだのと暗示(?)を掛けてくれる親切な敵が居るというのか。
 少なくとも『アーシュマー』は敵じゃなかった。
 『アーシュマー』が敵じゃないなら、リブロムも敵ではない。
 本当の敵は別にいる。
 悪意が無いリブロムにウェラント王国を侵略させた……侵略せざるを得ないとまで思わせた敵が。
 その敵こそ、ヘンリー兄妹が見せた気持ち悪い本やリブロムの暗示(?)と関係しているのだろう。
 『たった一人で抗い続けている』という言葉も、きっとそこに繋がる。
 オーリィード達はそう判断していた。
 だから、どこにも行けない。
 真実を知らなければ、敵の正体を掴んでおかなければ、何度サーラを連れ出してもレジスタンスの二の舞を演じるだけだと、二人はこの時点で既に察していた。

「教えてください。ヘンリー卿が知っている事を、全部」
「私達は……兄は、何と戦っているんですか?」
 兄妹を正面にひたりと見据え、オーリィードとレクセルは真剣に尋ねた。
 兄妹も二人を見て満足気に頷き、グローリアが例の本を懐から取り出してみせた。暗闇ではっきりとは見えないが、鈍器になりそうな厚みには覚えがある。

「人間の『無意識』が何から作られているか、解るか?」
「無意識……ですか?」
 突拍子もない問いに、オーリィードが首をひねる。
「……経験、でしょうか」
「そう。経験が何よりも大きい判断材料だ。それと、情報や知識も形成に関わってくる。何に触れ、何を聴き、何を感じたか……つまり『無意識』とは、意思が介在する意識の外に蓄積された己の人生そのもの。人生の結晶だ」
「自分の意識の外に蓄積された人生の結晶……」
「意識の外というよりは、『意識の核』と表現したほうが良いのかも知れないな。人間の意思と無意識は密接な関係にある。これらが解離することはまずありえないから」
 『愛がすべてを救う』と題された本をパラパラとめくり、パタンと閉じるグローリア。
 それを、今度はレクセルに手渡した。
 不思議そうな顔で受け取ったレクセルも、何の気なしにパラパラとページをめくり……記されていた義母の名前にぎょっとする。
「『意思』とは、意識の核に蓄積された経験と結果を取り出して未知や既知の事象に対処する為の『判断し、決断する思考』だ。無意識が形成されて初めて意思が生じる、と考えてくれ」
「無意識は、意思……『人格』の下地、という解釈で良いのでしょうか」
「それで良い。最初に無意識があり、無意識から意思が生じ、意思決定の連続が人格として昇華する。これが話の前提だ」
「「解りました」」
 戸惑いながらも本を閉じて頷くレクセルと、彼の微妙な反応に瞬きながらも、とりあえずグローリアの話に集中するオーリィード。
 ヘンリー兄は、壁に背中を預けて腕を組んだまま黙って立っている。

「その本の問題点は、無意識へと強力に働きかける音並びになっている事、なんだよ」
「『音』並び? 『文字』並びではなく?」
「文字は音を形にして表記した物だからね。文字を言葉にしたら『発音する』と言うだろう?」
「……言いますね、確かに」
「そして大抵の場合、文字を目で追うと頭の中では音として認識する。音は無意識の大好物でね。本人に聴いているつもりがなくても、意思で認識できていなくても、際限無く取り込んでしまう。たとえ形として認識しても、形に意味を求める習性が身に付いている場合、並んでいるだけで意味がある物として無意識に蓄積されてしまう厄介な代物なんだ、文字は」
「……ですが、それなら文字文化そのものが問題になってくるのでは? この本だけの問題では済まないと思うのですが」
「そう考えるのが自然だろうな。でも、その本は事情が違う」
 レクセルの困ったような表情に、グローリアも苦笑で答える。

「人間が人間種族として一つの文化を共有できない理由、解る?」
「……いいえ」
「『土着文化』。自然適応に特化した人間種族の性質がその理由の一つだと、私は考えているんだけどね。地質・水質・気候・生物・生態系……どれを取っても全く同じ条件・同じ環境で育つなんて、まずありえない。川沿いか山沿いか、土地が低いか高いかでも生き残る為に必要な能力が異なるし、能力を育成する為の考え方も当然違ってくる。だから、自分と違う考え方を受け入れるのはとても難しいんだ。既に経験則って安全の保証があるし、『誤った判断は生命の危機に直結する』と無意識が学習しているから」
 自身の側頭部を指先でトントンと叩き、こればかりはどうしようもないよねと両肩を持ち上げたグローリア。
 でもね。と、レクセルが持っている本を指し、目を細める。
「その本は土着文化の……土地土地に根付いた生命線の壁を越えて、世界中で受け入れられた。何故か?」

『何一つ、否定していないからだ』

「否定……していない?」
 オーリィードとレクセルが顔を見合わせ、手元の本に視線を落とす。
「そう。どこの、何の、誰の、どんな思いもどんな物も否定しないで、全部に寄り添い、全部を受け入れている」
 大丈夫。
 そのままで良い。
 あるがままで良い。
 何も間違っていない。
「それ、は」
「優しい言葉に聴こえる?」
「……悪いようには、聴こえません、が」
「悪くはないよ。実際、悪くないんだ。でも、その本の更なる問題点がもう一つ」

『苦痛からの逃避も受け入れていること』

 辛かったら止めて良い。
 悲しいなら見なければ良い。
 逃げても目を逸らしても良い。
「どれも悪くない。事実として、逃げなきゃやってられない時は確かにある。受容も逃避も正しいし、悪い事じゃないし、間違いじゃないんだ。この本は何一つ、間違った事は書いてない。個々で、短期的に見ればね」
「個々で、短期的?」
「苦痛からの逃避を受け入れるということは、まさしく苦痛の拒絶……否定だ。痛いから嫌。苦しいから嫌。見たくないものは見たくない。そうして逃げた自分を、この本は肯定してくれる。受け入れてもらえた。認めてもらえた。だから、自分は間違ってない。嫌な事を押し付ける周りがおかしい。自分が自分であることを否定する周りこそがおかしい。おかしいものとは関わりたくない。自分は正しい」
「…………?」
 今一つ理解が及んでいない様子のオーリィードに眉尻と指先を下げ、グローリアが自身の剣を持って掲げる。

「誰も彼もが自分である為に嫌な事を避け続けて良いなら……誰も彼もが嫌で、でも誰かがやり続けなきゃ、誰も彼もが自分らしくいられなくなる事は、誰がやるんだろうね?」

 切なげに剣を見上げる黒紫色の目を覗いたオーリィードとレクセルが、同時に息を飲んだ。
 誰かがやり続けなくてはいけない事。
 誰もが傷付きたくなくて避ける事。
 それは

「国防力の、低下!?」

「……リブロムは、レジスタンスを離れた後にでもウェラントに法改正を強要するべきだったんだ。侵略された国が無傷で日常を謳歌できるなんて、普通じゃありえないんだから。……でも、彼にはできなかった。それをされた国の民がどうなっていくのかを、彼は実地で、肉眼で見ていたから」
「実地?」
「リブロムが十二歳の頃かな。ベルゼーラと国交があった中央大陸のとある国から救援要請が来てね。王妃の指示でリブロムを含む支援隊が派遣されたんだ。そして、リブロムと数名を残して全滅した」
「「全滅!?」」
「その数名も、最終的にはリブロムを護って亡くなったらしい。けど、この話で一番報われないのは……その国は他国に攻め滅ぼされた訳でも、飢饉なんかで内乱が起きて体制崩壊した訳でもなく、完全な『自滅』だったってところだ」
「自滅……って……」
「嫌な事は避けて良い。だから、自分を否定する人間とは関わらない。関わらなくて良い。そうして優しい言葉に引き籠った人間には、他人との摩擦を通してしか知り得ない『距離感』が無くなる。自分を自分足らしめている社会くにという土台に気付かず、ひたすら自分を受け入れてくれるものだけを受容する。けどね。君達も知っての通り、この社会が誰かにとってだけ都合が良い仕組みになる……それだけは、断じて無い」
 摩擦を避けて、避けて避けて避けて。
 自分を護った果てにあったのは、立場・職業・距離感・規範に対する理解の相互関係で形作られていた『文化』の崩壊。
 『国』の崩壊だった。
「足場を失い、応急処置としてベルゼーラの法律を敷かれた民達は、支援隊にも牙を剥いた。リブロムは増援を要請したが、音沙汰は無く……物資が尽きる前になんとか自力で帰還したらしい。詳しい事は私にも分からないが、相当な辛苦を味わったのは間違いないだろうね」
 挙げ句、やっとの思いで辿り着いた故郷で待っていたのは『毒杯』だ。増援を送らなかった事実の露呈を恐れた国王が、リブロムの口を塞ごうとした。
 何故なら、ベルゼーラ国内でも既に軍事防衛費削減の機運が高まっていたから。
 当時から並外れていた腕を持っていたリブロムが中央大陸に送られたのも、武力を穏当に削る手段の一つだった。
 リブロムが帰ってきたこと自体、ベルゼーラにとって不都合だったのだ。

 壮絶な過去を聴かされて固まるオーリィードとレクセル。
 グローリアは目蓋を伏せ、剣を抱き締めた。

「これが、その本にまつわる真相だよ」

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