[R18]黄色の花の物語

梅見月ふたよ

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誰かの呟き~貴女の隣で~

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 妙に重い目蓋を押し上げると、最近見慣れた天井がぼんやりにじんだ。
 王宮にある一室にしては飾り気が無い、真っ白で平坦な天井。
 右手側から射し込む陽光がベッドや絨毯を敷いた床に反射して、窓の形の影を柔らかく描いている。

(……ひか、り……?)

 濃くなったり薄くなったりする影をぼおっと眺めているうちに、違和感が湧いてきた。
 窓の形だと判るほどの影を形作る、明るい陽光。
 ベッドに横たわる時間帯ではありえないのに、天井を見上げている自分。
 おかしい、どうして、と焦りを感じる一方で、思考がうまく働かない。
 霞がかった脳を刺激しようと、何度も試みては失敗。
 次第に身体中を支配する怠さや痛みに気付いていく。
 常にはない速さで動く心臓。
 手足の先までくまなく巡る、忙しない脈動。
 節々を内側から攻める、鈍くて重い痛み。
 息苦しさを伴う熱さと、震えるほどの寒気。
 右手を宙に伸ばそうとしても力が入らず、持ち上がらない。
 ふわふわで温かい筈の羽毛布団が、汗で濡れそぼった全身をまるで拘束具のように押さえつけている。
「…………ああ……っ、ごほ! ごほ、こふっ……」
 音を発しかけた喉が言葉の形成を拒み、吸い込んだ空気に激痛で応えた。激痛は肺の奥にまで及び、咳き込むたびに胸や腹が悲鳴を上げる。

(風邪……、か)
 止まらない咳で苦しむ最中、思考の働きの鈍さ故に残った冷静な自分が、頭の片隅で久しぶりの感覚を懐かしむ。
 動けなくなる程度の重い風邪なんて、何年ぶりだろうか。
 気候の違いか、季節の変わり目か、精神的な疲労か。
 いずれにせよ、体力ばかりがあっても病は避けようがないらしい。
(部屋を……変えなければ……)
 同じ部屋で寝起きしている彼女には公爵の仕事がある。最近慣れてきたと言っていたが、安定した軌道に乗るまではまだまだ気を抜けない。
 彼女の双子の娘達も、ようやく一人歩きを始めたばかり。それほど酷くはならなかったが、これまで何度か熱を出して泣いていた。
 ルビア王妃陛下やヘンリー卿によれば、幼少期の子供は風邪を引きやすく命が危ぶまれるまで悪化させてしまう事例も多いという。
 彼女達が感染してしまう前に、自分を別の場所で隔離しなくては。
 そう思うのに、身体が動かない。
 なんとか咳を止めても、荒い呼吸のせいで頭が朦朧とする。

(…………何をやってるんだ、私は…………)
 彼女と一緒に居たくて。彼女の隣に居たくて。
 ただその為だけに、フリューゲルヘイゲン王国へ来た。
 母国も、自分と同じく彼女を想う異母兄弟の気持ちも踏み台にして。
 彼女と、彼女の娘達と、家族として一緒に居たいと願ったから、傍に居る為にならどんな事でもする覚悟で、来た。
 その結果が、このありさまだ。
 彼女は、フリューゲルヘイゲン王国に移住してから一度も倒れていない。むしろ、水を得た魚のように毎日生き生きと精力的に活動している。
 対する自分はといえば、彼女の補佐と称して周りをうろうろするばかり。彼女に取り巻きを付けるなどと不穏な話が出た時も、結局阻止するどころか妨害すらもできなかった。
 挙げ句の果てには子供達を危険に曝す感染症を患って。
 自分はいったい、何をしに来たのか。
 何の為にフリューゲルヘイゲン王国の騎士になったのか。
 何もせず同じ場所に居るだけの足手まといなど、家族とは言えないのに。
(情けない……)
 息苦しさとは別の理由で視界にもやが掛かった、その瞬間。

「……あ、起きてたんだ」

 衣装部屋に繋がる扉が静かに開き、彼女の声が入ってきた。
 ぱたんと扉を閉める音がしてすぐ、視界の隅に黄金色の輪郭が滑り込む。
「…………ーリ……」
「ごめんなさい。辛いと思うけど、汗を拭かないといけないから。しばらく身体を起こさせてね」
 重く感じていた布団が除けられ、細い腕が自分の背中を支える。
 元々の体格差もある上、力が抜けている今の自分の身体は重いだろうに、片腕で器用に服を脱がせたかと思えば、時々支える腕を代えながら身体中を丁寧に拭き清め、あっという間に着替えまで終わった。
「本当はシーツも換えたいんだけど、多分、今が一番辛いでしょう? もう少し回復するまで我慢してね」
 そっと横たえた身体に布団を掛け直し、自分の左腕の横辺りに座る彼女。
 看病など、本来は公爵である彼女がやる事ではない。
 何故貴女が、と問いたい気持ちはあるが、清められたおかげで身体が少し楽になったからか、疑問よりも感謝、感謝よりも申し訳なさが胸に広がる。

「……すみ……ま、せ……」
「? なにが?」
 喉の痛みを堪え、やっとの思いで出した言葉に、彼女は首を傾げた。
「ご……めい、わく……を……」
「……迷惑? 看病が?」
 ぼうっとした頭を、のそりと振る。
 看病もそうだが、私はフリューゲルヘイゲンで何の役にも立っていない。王国にも彼女にも子供達にも、何もできていない。
 こんな自分、誰にとっても迷惑でしかない気がする。
「わたし……で、……なけ、れば……」
 こちらに来たのが自分でなければ、こんな迷惑は掛けなかっただろうか。
 こちらに来たのが自分でなければ、もっとうまく立ち回れたのだろうか。
 自分でなければ、彼女達をもっとちゃんと支えて、護れたのでは。
 彼女は、本当はもっと幸せな家族を得られたのではないか。
 アーシュマーが自分でさえなければ、きっと、もっと……。
「…………あなた、は……」
「……ねえ、アーシュマー」
 乾いた自分の唇に、何かがピトッと触れる。
 数秒遅れて、ほどよく冷たいそれは彼女の指先だと気付いた。
「ちょっとだけ、耳を澄ましていて」
(……耳?)
 スッと離れていく気配。
 ほどなく、右手側から緩やかに流れ込む風を感じた。
 髪や頬を優しく撫でる、昼日中の風。
 そして、風が連れてきた優しい音。
(…………笑い、声……)
 揺れる木の葉や鳥の鳴き声に混じって、複数の男女の笑い声と小さな子供の声が聴こえる。
 会話の内容までは聞き取れないが、時々笑いでどっと沸いたり焦ったりと楽しげな様子が伝わってきた。
 彼女の子供達が、外で遊んでもらっているようだ。
 今のところ風邪には感染していないと見て、内心安堵の息を吐く。
「聴こえた?」
 窓を閉めた彼女が、自分の左手側に戻って腰を下ろした。
 もそりと頷く自分を覗き込んで、頬に左手の手のひらを当てる。
 心地好いと感じる間も無く、視界が暗く陰った。
 唇に、温もりが触れる。

「あの声は、貴方のものよ」

 ゆっくり離れた彼女の唇が、柔らかな曲線を描いた。
 ぼやけていた視界の真ん中に、彼女の笑顔がはっきりと見える。
「私ね。本音を言うと、二人共来ないんじゃないかって思ってた時がある。だって、アーシュマーを選ぶのは義務ではないから。ベルゼーラ王リブロムは避けられない義務だけど、アーシュマーは義務じゃない。二人のどちらがアーシュマーになっても、得られるものなんてほとんど無いでしょう?」
 アーシュマーの戸籍なんて、最悪『死亡』の文字でどうとでもなるから。
 二人共が「ベルゼーラを選ぶ」と一言告げていれば、アーシュマーは存在していなかった。
「ベルゼーラ王国を守りたいから、と言うなら、それを止めたり悲しんだりする権利は、私には無いもの。二人共が来なかったとしても、私はその選択を受け入れるつもりでいたの」
「……っ、」
「でも、貴方が来てくれた。ベルゼーラや、まったく違う未来を選ぶこともできた筈なのに、貴方は私達を選んで、遠く離れた大陸の反対側とも言えるフリューゲルヘイゲンまで来てくれた」
 驚きもがく自分の胸に左手を軽く乗せ、彼女の笑みが深まる。
「来なくても仕方ない。私は一人でも大丈夫。……そんなのは、嘘。ただの強がりだった。だって、貴方を見た瞬間に私、すごく嬉かった。貴方に抱きついて言いたかったの。来てくれてありがとう、選んでくれてありがとうって。すごくすごく、たくさん言いたかった。今も、ありがとうでは足りないくらいの想いが溢れてる」
 幸せで幸せでどうしようもないと、笑顔でまっすぐに伝えてくる。
「貴方が来てくれたから、私は拙い単語しか通じなかったこの異国の地で、ここまで頑張ってこられた。あの子達も、私達を選んでくれた貴方がここに居るから、私だけでは与えられなかった家族の形を得ている。だからあの声は、他の誰かではなく、今ここに居る貴方の居場所ものよ、アーシュマー」


 貴方を、愛しています。


 そう言った彼女の唇が、今度は自分の目元に触れた。
 いつの間にか流れ落ちていた雫が、彼女の唇を濡らしていく。
「……私がちゃんと言わなかったせいで精神的に落ち着かなくなってたから風邪を引いちゃったのかな……。もっと早く伝えておけば良かったね」
 身体を離した彼女が、申し訳なさそうに微笑む。
 ぶんぶんと精一杯頭を振る自分に布団を掛け直し、立ち上がる。
「あの子達はしばらくマッケンティア様に預かっていただくから大丈夫よ。貴方はゆっくり休んで、治ったら家族でお出かけしましょう。フリューゲルヘイゲンには海があるでしょう? 砂浜から水平線を見てみたいの。楽しみにしていても……良いかな?」
 無理そうかな? と傾く不安げな顔に、嫌だと思う理由など一つも無い。
「すぐ、に……なおすっ……」
「治すのはゆっくりで良いの。治ってもすぐには行けないと思うし、考えておいてくれれば……」
「か……な、らず……いく……」
「……うん。なら、ゆっくり待ってるね。でも、無理はしないで」
「ぜっ、たい……する……!」
「アーシュマーって、変なところで頑固だったりするよね」
 ふっと噴き出した彼女が、くすくすと肩を揺らしながら、汗で重くなっている自分の服を持って、寝室を出ていった。
 頑張ってくれた喉が、もう無理とばかりに咳を連発する。身体中が痛い。
 だが、苦しさはあまり感じなくなった。
 彼女の心に触れたからだろうか。
 それとも、彼女からの口付けが嬉かったからか。
 喜びを飛び越えて安らぎすら覚えている自分の簡単さに苦笑いが出て、咳を悪化させる。
(……しょうもない、な……、ほんと、う……、に……)

 呆れながら、喜びながら。
 怠さと重さに任せて意識が沈む。
 遠い昔に父親と母親二人と異母兄弟で揃って聴いた潮騒が、思考を攫う。
 微睡みの中でわずかな間だけ見えた淡く色付く景色には、あの頃とは別の家族が居た。
 波打ち際ではしゃぎ回る、そっくりな容姿の小さな女の子が二人。
 その後を追いかける、長い黒髪の女性。
 そんな三人を少し離れた場所から見守る彼女と、彼女の隣に立つ自分。
 不意に自分を見上げて微笑んだ彼女のすみれ色の目には、幸せそうに笑う自分が映っていた。

 遠くない未来、同じ光景を見られるかも知れない。
 尽きない欲求と願望が作り上げた、自分に都合が良い夢の中でではなく。
 確かな温もりと安らげる居場所を私と共有してくれる、貴女の隣で。

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