【完結】照葉輝く~静物語

みなわなみ

文字の大きさ
89 / 132
第四部

第二十三章 形代、静かに流る 其の二

しおりを挟む
◇◆

 上ったばかりの二十日余りの月が、笑った眉毛のように見える。 
 (親父がほくそ笑むのが見えるようじゃ。) 
 秀忠はきりっと奥歯を噛んだ。 
 (忠栄ただひで殿に文を書くか……それとも、常高院殿がよいか……。いや、秀頼殿にどう書くか考えたほうがよいか) 
 将軍は逡巡しゅんじゅんしている。 

 (千のために、出てもらえないだろうか……あの城から……) 
 秀勝が死んだときの江の嘆きを、秀忠は人伝ひとづてに聞いていた。 
 (母子三代、そのような思いをさせてはかわいそうじゃ。) 
 しかし、「豊臣を見てから」と言った、あの大御所の眼。歳に似合わず、獲物を狙う鋭い鷹のような目。 
 戦を避けられるのか……。 
 もう、親父は動き出してしまったのではないのか……。 
 私の願いは叶うのか……? 
 いや、果たさねば…… 
 冷え込んだ回廊を歩く間、秀忠は寒さも忘れてぐるぐると考えていた。 

 自室へ入ると、ほどなく静が入ってきた。 
 手には深緋こきあけの羽織を持っている。 
 静は、夜着だけで文机ふづくえの前に座る秀忠を見て、その後ろに慌てて進んだ。 
「失礼いたしまする。」 
 羽織を拡げて着せかける静の手が、なにかに気づいたように少し止まった。 
 しかし静はなにも言わず、羽織を着せかけると、そのまま下がろうとする。 

「いかがした?」 
 腕組みをした秀忠が、前を向いたまま、怒った声で問うた。 
「いえ、なんでもございませぬ」 
 静は恐縮しながら、やんわりと言葉を返した。しかし、逃れられると知りたくなるのが、人間のさがである。 
「言うてみよ。」 
 秀忠が静に向き直った。 
「ご無礼になりますゆえ。」 
 秀忠の声に、それでも静は柔らかく断った。 
「構わぬ。」 
 叱るような声であった。 
 静は薄い唇を噛み締め、一時いっときためらっていたが、優しく微笑んで口を開いた。 

「『泣きたいときは泣いてよい』と私は教えていただきました。」 
 秀忠を包むような、ゆっくりとした口調であった。 
「私が泣きたいと申すか。」 
 秀忠がさらに早口で静を責めたてる。 
「悲しそうなお顔をしておいでです。」 
 静は少し目を伏せ、辛そうに言った。 
「悲しゅうなぞないわ。」 
 秀忠はハッとする。己の中に江の声が聞こえた。 
(悲しいのでしょう? 泣けばよいではありませぬか。男子おのこだとて。) 
 江にそう言われたのは…忠吉ただよしが死んだときであったか……。 
 ぼんやりした秀忠を見て、静が案じた。 

「お疲れなのでございましょう……。私がここにおりまするゆえ、ねやでおやすみなさってくださいませ。上様が安心なさる旦那様の代わりには不足でございまするが。」 
 静は、にっこりと将軍を促した。 
「ふっ、大姥の代わりか? 大姥には、よう怒られたぞ?『男子が安易に涙を見せてはなりませぬ』とな。」 
 静は「ふ」とえくぼを深めると、慌てて口許を袖で隠し、「ふふふっ」と笑った。 
「いかがした?」 
「申し訳ございませぬ。あまりにも旦那様らしゅう思いまして。」 
「そうじゃな。」 
 秀忠の口調が少し優しくなっている。 
「けれど、そうおっしゃりながらお辛かったと思いまする。」 
「そうやもしれぬな。」 

 小さな頃、しょっちゅう泣いてはよく大姥に叱られた。 
 『若様、男子おのこが泣いてはなりませぬ。』 
 『此度はいかがなさったのですか?』 
 その後、いつも困ったような悲しそうな顔でそう訊かれた。そうだ、大姥はいつも泣く理由をきいてくれた。ひくひく泣きながら報告すると、 
 『若様、では、どうなさるのがよいのですか?』 
 きりりとそう訊かれた。厳しい乳母めのとだ。けれど、優しい乳母だ。 
 自分で答えを見つけたときには、『さすがは若様』と、抱き締めてくれた。 
 母にもちゃんと報告してくれて、母も誉めてくれた。 
 『よき子じゃ、長丸。』 
 そう言って、母も抱き締めてくれた。 
 悲しゅうて悲しゅうてどうしようもないときは、母がぎゅっと抱き締めてくれた。 
 『大事ないぞ、長丸。母がここにおるゆえ。』 
 そう言って……。 
 母上……。 

 秀忠は静を抱き寄せ、肩に顔をうずめた。 
 自分の肩が秀忠の悲しみを感じ、静は秀忠の背中に恐る恐る手を回した。
 えくぼの浮いた手が、子供を寝かしつけるように、トーントーンと繰り返し、秀忠の背をたたく。 

 (江……) 
 忠吉の報せが来たあと、江もこのようにしてくれた。 
「ごぅ…」 
 静の耳元で、秀忠の小さな小さな声がした。 
 静は柔らかに微笑み、やはり秀忠の背をゆっくりと叩いた。 

 男の目から、涙があふれている。 
 静は、秀忠の背に回した手に優しく力を入れ、今度はかすかに震える背をさすった。 
「ごぅ。」 
「大事ございませぬ。」 
 秀忠のかすかな呼び掛けに、江の声がそう返した。 
「あなた様と呼べ。」 
「大事ございませぬ。…あなた様。」 
 静は、ほんのり哀しそうな微笑みを浮かべたが、この上もなく優しくそう言い、かぶさっている秀忠の背を撫で続けた。 

 男とは面倒な生き物である。大きな苦しみや悲しみがあるほど、女の柔肌やわはだが恋しい。 
 もうダメだと思いながらも、己の子孫を残したいという本能がそうさせるのか、それとも思い出の中の母の安らぎを追い求めるのか。 
 秀忠にとって、このときの静は、江であり、母であった。 
 静にもそれは分かっていた。それゆえ、秀忠の背を撫で続けた。 
 秀忠が静の体をゆっくりと押し倒す。 
 静は逆らわなかった。静の心臓が、より早く波打ち始める。倒された静はそれでも、秀忠の背を撫で続けていた。 

 覆い被さった秀忠の顔は、静の顔の横にある。 
「あなた様と呼べ。」 
 秀忠はそう呟いた。 
 身代わりと分かっていても、静はやはりどこか躊躇ためらう。 
「よいから呼べ。」 
「……あなたさま…」 
 そっと静は口にした。 
「今一度。」 
「あなたさま。」 
 愛しさを込めて、はっきりと口にしてみる。 
「そうじゃ。そう呼べ。」 
 想いのこもった江の呼び掛けは、秀忠の男を震わせた。 
 秀忠が静の首筋に唇を這わせる。 
 ゾクゾクとした快感が静のからだに湧き上がった。 
「…あぁ……」 
 知らずと甘い吐息が漏れる。その声は秀忠にとって江でしかなかった。 
 胸元を開き、やわやわとした胸にも唇を這わせる。 
 静は横を向き、甘い吐息を繰り返した。 
 秀忠の思いが、江によってしかなぐさめられないと静は分かっていた。その代わりの身なのも今はよく分かっている。 

 ならば、邪魔はするまい。 
 そう思って顔をそむけた。 
 おそれ多いが御台様の代わりを務めよう。 
 そう思って吐息をこらえるのを止めた。 
 愛しい男がそれで慰められるのなら、静はそれでよかった。 
 (御台様、申し訳ありませぬ。) 
 横を向いたまま静は目をつぶり、心の中で江に手を合わせた。


*****
深緋こきあけ】 深緋ふかひ、または黒緋くろひとも。茜と紫根で染める、位の高い人の色。 
落ち着いた小豆色。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

『続・聖パラダイス病院』

菊池昭仁
現代文学
『聖パラダイス病院』の続編です。こんな病院なら入院生活も悪くはありません。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

処理中です...