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第四部
第二十三章 形代、静かに流る 其の二
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◇◆
上ったばかりの二十日余りの月が、笑った眉毛のように見える。
(親父がほくそ笑むのが見えるようじゃ。)
秀忠はきりっと奥歯を噛んだ。
(忠栄殿に文を書くか……それとも、常高院殿がよいか……。いや、秀頼殿にどう書くか考えたほうがよいか)
将軍は逡巡している。
(千のために、出てもらえないだろうか……あの城から……)
秀勝が死んだときの江の嘆きを、秀忠は人伝てに聞いていた。
(母子三代、そのような思いをさせてはかわいそうじゃ。)
しかし、「豊臣を見てから」と言った、あの大御所の眼。歳に似合わず、獲物を狙う鋭い鷹のような目。
戦を避けられるのか……。
もう、親父は動き出してしまったのではないのか……。
私の願いは叶うのか……?
いや、果たさねば……
冷え込んだ回廊を歩く間、秀忠は寒さも忘れてぐるぐると考えていた。
自室へ入ると、ほどなく静が入ってきた。
手には深緋の羽織を持っている。
静は、夜着だけで文机の前に座る秀忠を見て、その後ろに慌てて進んだ。
「失礼いたしまする。」
羽織を拡げて着せかける静の手が、なにかに気づいたように少し止まった。
しかし静はなにも言わず、羽織を着せかけると、そのまま下がろうとする。
「いかがした?」
腕組みをした秀忠が、前を向いたまま、怒った声で問うた。
「いえ、なんでもございませぬ」
静は恐縮しながら、やんわりと言葉を返した。しかし、逃れられると知りたくなるのが、人間の性である。
「言うてみよ。」
秀忠が静に向き直った。
「ご無礼になりますゆえ。」
秀忠の声に、それでも静は柔らかく断った。
「構わぬ。」
叱るような声であった。
静は薄い唇を噛み締め、一時ためらっていたが、優しく微笑んで口を開いた。
「『泣きたいときは泣いてよい』と私は教えていただきました。」
秀忠を包むような、ゆっくりとした口調であった。
「私が泣きたいと申すか。」
秀忠がさらに早口で静を責めたてる。
「悲しそうなお顔をしておいでです。」
静は少し目を伏せ、辛そうに言った。
「悲しゅうなぞないわ。」
秀忠はハッとする。己の中に江の声が聞こえた。
(悲しいのでしょう? 泣けばよいではありませぬか。男子だとて。)
江にそう言われたのは…忠吉が死んだときであったか……。
ぼんやりした秀忠を見て、静が案じた。
「お疲れなのでございましょう……。私がここにおりまするゆえ、閨でおやすみなさってくださいませ。上様が安心なさる旦那様の代わりには不足でございまするが。」
静は、にっこりと将軍を促した。
「ふっ、大姥の代わりか? 大姥には、よう怒られたぞ?『男子が安易に涙を見せてはなりませぬ』とな。」
静は「ふ」とえくぼを深めると、慌てて口許を袖で隠し、「ふふふっ」と笑った。
「いかがした?」
「申し訳ございませぬ。あまりにも旦那様らしゅう思いまして。」
「そうじゃな。」
秀忠の口調が少し優しくなっている。
「けれど、そうおっしゃりながらお辛かったと思いまする。」
「そうやもしれぬな。」
小さな頃、しょっちゅう泣いてはよく大姥に叱られた。
『若様、男子が泣いてはなりませぬ。』
『此度はいかがなさったのですか?』
その後、いつも困ったような悲しそうな顔でそう訊かれた。そうだ、大姥はいつも泣く理由をきいてくれた。ひくひく泣きながら報告すると、
『若様、では、どうなさるのがよいのですか?』
きりりとそう訊かれた。厳しい乳母だ。けれど、優しい乳母だ。
自分で答えを見つけたときには、『さすがは若様』と、抱き締めてくれた。
母にもちゃんと報告してくれて、母も誉めてくれた。
『よき子じゃ、長丸。』
そう言って、母も抱き締めてくれた。
悲しゅうて悲しゅうてどうしようもないときは、母がぎゅっと抱き締めてくれた。
『大事ないぞ、長丸。母がここにおるゆえ。』
そう言って……。
母上……。
秀忠は静を抱き寄せ、肩に顔を埋めた。
自分の肩が秀忠の悲しみを感じ、静は秀忠の背中に恐る恐る手を回した。
えくぼの浮いた手が、子供を寝かしつけるように、トーントーンと繰り返し、秀忠の背をたたく。
(江……)
忠吉の報せが来たあと、江もこのようにしてくれた。
「ごぅ…」
静の耳元で、秀忠の小さな小さな声がした。
静は柔らかに微笑み、やはり秀忠の背をゆっくりと叩いた。
男の目から、涙が溢れている。
静は、秀忠の背に回した手に優しく力を入れ、今度は微かに震える背をさすった。
「ごぅ。」
「大事ございませぬ。」
秀忠のかすかな呼び掛けに、江の声がそう返した。
「あなた様と呼べ。」
「大事ございませぬ。…あなた様。」
静は、ほんのり哀しそうな微笑みを浮かべたが、この上もなく優しくそう言い、被さっている秀忠の背を撫で続けた。
男とは面倒な生き物である。大きな苦しみや悲しみがあるほど、女の柔肌が恋しい。
もうダメだと思いながらも、己の子孫を残したいという本能がそうさせるのか、それとも思い出の中の母の安らぎを追い求めるのか。
秀忠にとって、このときの静は、江であり、母であった。
静にもそれは分かっていた。それゆえ、秀忠の背を撫で続けた。
秀忠が静の体をゆっくりと押し倒す。
静は逆らわなかった。静の心臓が、より早く波打ち始める。倒された静はそれでも、秀忠の背を撫で続けていた。
覆い被さった秀忠の顔は、静の顔の横にある。
「あなた様と呼べ。」
秀忠はそう呟いた。
身代わりと分かっていても、静はやはりどこか躊躇う。
「よいから呼べ。」
「……あなたさま…」
そっと静は口にした。
「今一度。」
「あなたさま。」
愛しさを込めて、はっきりと口にしてみる。
「そうじゃ。そう呼べ。」
想いのこもった江の呼び掛けは、秀忠の男を震わせた。
秀忠が静の首筋に唇を這わせる。
ゾクゾクとした快感が静の軆に湧き上がった。
「…あぁ……」
知らずと甘い吐息が漏れる。その声は秀忠にとって江でしかなかった。
胸元を開き、やわやわとした胸にも唇を這わせる。
静は横を向き、甘い吐息を繰り返した。
秀忠の思いが、江によってしか慰められないと静は分かっていた。その代わりの身なのも今はよく分かっている。
ならば、邪魔はするまい。
そう思って顔を背けた。
畏れ多いが御台様の代わりを務めよう。
そう思って吐息を堪えるのを止めた。
愛しい男がそれで慰められるのなら、静はそれでよかった。
(御台様、申し訳ありませぬ。)
横を向いたまま静は目をつぶり、心の中で江に手を合わせた。
*****
【深緋】 深緋、または黒緋とも。茜と紫根で染める、位の高い人の色。
落ち着いた小豆色。
上ったばかりの二十日余りの月が、笑った眉毛のように見える。
(親父がほくそ笑むのが見えるようじゃ。)
秀忠はきりっと奥歯を噛んだ。
(忠栄殿に文を書くか……それとも、常高院殿がよいか……。いや、秀頼殿にどう書くか考えたほうがよいか)
将軍は逡巡している。
(千のために、出てもらえないだろうか……あの城から……)
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しかし、「豊臣を見てから」と言った、あの大御所の眼。歳に似合わず、獲物を狙う鋭い鷹のような目。
戦を避けられるのか……。
もう、親父は動き出してしまったのではないのか……。
私の願いは叶うのか……?
いや、果たさねば……
冷え込んだ回廊を歩く間、秀忠は寒さも忘れてぐるぐると考えていた。
自室へ入ると、ほどなく静が入ってきた。
手には深緋の羽織を持っている。
静は、夜着だけで文机の前に座る秀忠を見て、その後ろに慌てて進んだ。
「失礼いたしまする。」
羽織を拡げて着せかける静の手が、なにかに気づいたように少し止まった。
しかし静はなにも言わず、羽織を着せかけると、そのまま下がろうとする。
「いかがした?」
腕組みをした秀忠が、前を向いたまま、怒った声で問うた。
「いえ、なんでもございませぬ」
静は恐縮しながら、やんわりと言葉を返した。しかし、逃れられると知りたくなるのが、人間の性である。
「言うてみよ。」
秀忠が静に向き直った。
「ご無礼になりますゆえ。」
秀忠の声に、それでも静は柔らかく断った。
「構わぬ。」
叱るような声であった。
静は薄い唇を噛み締め、一時ためらっていたが、優しく微笑んで口を開いた。
「『泣きたいときは泣いてよい』と私は教えていただきました。」
秀忠を包むような、ゆっくりとした口調であった。
「私が泣きたいと申すか。」
秀忠がさらに早口で静を責めたてる。
「悲しそうなお顔をしておいでです。」
静は少し目を伏せ、辛そうに言った。
「悲しゅうなぞないわ。」
秀忠はハッとする。己の中に江の声が聞こえた。
(悲しいのでしょう? 泣けばよいではありませぬか。男子だとて。)
江にそう言われたのは…忠吉が死んだときであったか……。
ぼんやりした秀忠を見て、静が案じた。
「お疲れなのでございましょう……。私がここにおりまするゆえ、閨でおやすみなさってくださいませ。上様が安心なさる旦那様の代わりには不足でございまするが。」
静は、にっこりと将軍を促した。
「ふっ、大姥の代わりか? 大姥には、よう怒られたぞ?『男子が安易に涙を見せてはなりませぬ』とな。」
静は「ふ」とえくぼを深めると、慌てて口許を袖で隠し、「ふふふっ」と笑った。
「いかがした?」
「申し訳ございませぬ。あまりにも旦那様らしゅう思いまして。」
「そうじゃな。」
秀忠の口調が少し優しくなっている。
「けれど、そうおっしゃりながらお辛かったと思いまする。」
「そうやもしれぬな。」
小さな頃、しょっちゅう泣いてはよく大姥に叱られた。
『若様、男子が泣いてはなりませぬ。』
『此度はいかがなさったのですか?』
その後、いつも困ったような悲しそうな顔でそう訊かれた。そうだ、大姥はいつも泣く理由をきいてくれた。ひくひく泣きながら報告すると、
『若様、では、どうなさるのがよいのですか?』
きりりとそう訊かれた。厳しい乳母だ。けれど、優しい乳母だ。
自分で答えを見つけたときには、『さすがは若様』と、抱き締めてくれた。
母にもちゃんと報告してくれて、母も誉めてくれた。
『よき子じゃ、長丸。』
そう言って、母も抱き締めてくれた。
悲しゅうて悲しゅうてどうしようもないときは、母がぎゅっと抱き締めてくれた。
『大事ないぞ、長丸。母がここにおるゆえ。』
そう言って……。
母上……。
秀忠は静を抱き寄せ、肩に顔を埋めた。
自分の肩が秀忠の悲しみを感じ、静は秀忠の背中に恐る恐る手を回した。
えくぼの浮いた手が、子供を寝かしつけるように、トーントーンと繰り返し、秀忠の背をたたく。
(江……)
忠吉の報せが来たあと、江もこのようにしてくれた。
「ごぅ…」
静の耳元で、秀忠の小さな小さな声がした。
静は柔らかに微笑み、やはり秀忠の背をゆっくりと叩いた。
男の目から、涙が溢れている。
静は、秀忠の背に回した手に優しく力を入れ、今度は微かに震える背をさすった。
「ごぅ。」
「大事ございませぬ。」
秀忠のかすかな呼び掛けに、江の声がそう返した。
「あなた様と呼べ。」
「大事ございませぬ。…あなた様。」
静は、ほんのり哀しそうな微笑みを浮かべたが、この上もなく優しくそう言い、被さっている秀忠の背を撫で続けた。
男とは面倒な生き物である。大きな苦しみや悲しみがあるほど、女の柔肌が恋しい。
もうダメだと思いながらも、己の子孫を残したいという本能がそうさせるのか、それとも思い出の中の母の安らぎを追い求めるのか。
秀忠にとって、このときの静は、江であり、母であった。
静にもそれは分かっていた。それゆえ、秀忠の背を撫で続けた。
秀忠が静の体をゆっくりと押し倒す。
静は逆らわなかった。静の心臓が、より早く波打ち始める。倒された静はそれでも、秀忠の背を撫で続けていた。
覆い被さった秀忠の顔は、静の顔の横にある。
「あなた様と呼べ。」
秀忠はそう呟いた。
身代わりと分かっていても、静はやはりどこか躊躇う。
「よいから呼べ。」
「……あなたさま…」
そっと静は口にした。
「今一度。」
「あなたさま。」
愛しさを込めて、はっきりと口にしてみる。
「そうじゃ。そう呼べ。」
想いのこもった江の呼び掛けは、秀忠の男を震わせた。
秀忠が静の首筋に唇を這わせる。
ゾクゾクとした快感が静の軆に湧き上がった。
「…あぁ……」
知らずと甘い吐息が漏れる。その声は秀忠にとって江でしかなかった。
胸元を開き、やわやわとした胸にも唇を這わせる。
静は横を向き、甘い吐息を繰り返した。
秀忠の思いが、江によってしか慰められないと静は分かっていた。その代わりの身なのも今はよく分かっている。
ならば、邪魔はするまい。
そう思って顔を背けた。
畏れ多いが御台様の代わりを務めよう。
そう思って吐息を堪えるのを止めた。
愛しい男がそれで慰められるのなら、静はそれでよかった。
(御台様、申し訳ありませぬ。)
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