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(原作小説版)底無し黒のまなこには

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 夏の海でサークルの合宿が行われた。

 サークルのメンバーと親睦を深めたり、海辺を背景にした映える写真を撮ったり。
 一番の目的は、マリンスポーツで遊び倒すことだった。

 浜辺でバーベーキューの片付けをしていた凰太こうたは、一匹の黒猫が弱っているところに出くわした。
 それは海岸線をよろよろと歩いている。

 先ほど作った焼きとうもろこしをあげると、必死に食らいついたので、程なく回復するだろう。
 食事が終わっても凰太の後をついてくるため、スマホで猫が食べられる物を調べてから、他の野菜も与えた。

「なぁ、お前はこんな暑い海にいて平気?
 俺はバテバテ。散歩するならもっと涼しい夜にしとけよー」

 そう言って撫でてやると、心地良さそうにじっとしていた。
 

 陽も落ちかけ、凰太はサークル仲間と一緒に民宿へ帰ろうとしたが、黒猫は微動たりせず、ずっと凰太を見つめていた。
 それが気がかりだった。

 夜が深まり、仲間との馬鹿騒ぎもひと段落した時、凰太はふと昼間の黒猫のことを思った。

 もうとっくにいないだろう、と思いながらも己の眼で見るまでは納得できず、暗い浜辺の中を黒猫がいた場所まで走った。

「はは、流石にいねえか」

 ホッと息を吐き、静かな夜の海を見つめた。
 反射する光がないそこを見つめていると、吸い込まれそうだ。

 ふと、猫の小さな鳴き声が耳に届いた。

 辺りを探すと、黒猫が近くの岩場の影で丸くなっていた。

「こらこら、こんな所にいると波に攫われるぞ」

 凰太を見つけるとすり寄って来たので、また撫でてやると、黒猫は気持ち良さそうに目を閉じた。

「……ごめんな、俺、飼ってあげられないんだよ。でも、あとちょっと一緒にいるからな」

 凰太が優しく微笑むと、夜の空に優しい波音が響き渡った。
 
 
 
 

 
 半月後。


 夏も後半に差し掛かったが、まだ暑さは当面厳しい。

 大学帰りに和菓子屋で葛アイスを仕入れた。
 食べるスピードが遅い凰太にとって、普通のアイスクリームよりも、葛を原材料に使用したアイスの方が溶けなくて助かっている。
 もちっとした、コンニャクのような独特の食感も好きだ。

 みかん味の葛アイスを咥えながら、上機嫌にアパートの自室へ戻ると、誰もいないはずのワンルームに、知らない男が一人いた。

「ひえっ⁉︎ だれっ!」

 思わず落としてしまった葛アイスを拾い、動揺しながら口に咥え戻す。
 室内だから3秒ルールでセーフ。

 見知らぬ男は、コタツ用のテーブルに向かって背筋を伸ばし、正座で待機していた。
 凰太の方へ素早く顔を向けると、僅かながら会釈をする。

「いや誰。泥棒にしては堂々としすぎだろっ‼︎」

 凰太は鞄からスマホを取り出して警察を呼ぼうとしたが、葛アイスを先に食べきりたい欲望に負けて、動きが遅い。
 先手をとって、相手の男が凰太の眼前へとやってきた。

「う⁉︎ こわ! 何、なんなんだ!
 ……何かちょっと顔似てるじゃん?親戚とかだったりする⁇ いや知らんけどっ! そんなんいないけどっ」

 男は凰太と同じ背丈で、身体と顔の造形が近い。
 その一方で、全く異なっているのは、凰太は肩までの染めた茶髪だったが、男は漆黒の腰まである長さの髪だった。
 そして適当な布で、鼻から下、首元までを隠しており、着ている独特な衣服も黒色だった。

「おいおい、全身真っ黒男だな! ってか、ちょっと、あのー、反応して欲しいんですけど」

 凰太の眼前で固まったままの男は、全く何の反応もない。表情もない。
 肯定も否定もしないので、日本語が通じていないのだろうか。

「はー? やっぱり警察に連絡っ……おわっ!」

 今後は慌てすぎて、スマホを指先で突いて飛ばしてしまった。と、男がサッと両手を差し出してスマホを受け止めた。
 次に、まるで宝を献上するかのように凰太へと差し出した。膝をついて、まっすぐ見つめてくる。

「自ら通報しろと??? こわ。ど——しよ——」

 やはり男は何も応えないので、気味の悪さは増すばかり。逃げだそうか迷った凰太は足がもつれ、部屋の壁に沿って尻餅をついた。

「うおっ! いっ、——てえっ!」

 初めて男が表情を変えた。

 眉をしかめて、持っていたスマホをそっと床に置き、両手で凰太のことを抱き上げようとする。
 凰太は困惑の声を挙げるが、お構いなし。

 しかし、立ち上がろうとしたその時に、その場にぐしゃっと潰れてしまった。

「げ⁉︎ 何してんの! 持ち上げるの無理だって! 俺ら同じくらいの体格じゃんっ。力的に無理っ」

 男は困り顔をした。どこか悲しそうだ。

 そして、再び背筋を伸ばして正座をし、五秒ほど考えて顔をあげた。

 男は凰太と目線がかちあう背丈だったのに、何故かみるみる身長が伸びていってしまう。

「何……急なる成長期……」

 しかし止まらない。背も筋肉も、モリモリと盛っていき、部屋の天井に頭をぶつけそうになった時、凰太は我に返って「と、止まれ! ストップ! スト————ップ!」と叫んだ。

「はああ……? 背……背が……。天井突き抜ける前に止めて良かった……上階の住人が失神するわ……いや、そうじゃなくて。マジかよ……。お前、身長とか変えられるの?」

 天井すれすれから逞しい体付きの男に見下ろされて、もう何がなんだか分からないが、このままでは遠近法が狂ってしまうことだけ冷静に受け止めていた。

「あ、あのさ……。その通りだなーとか合ってるなーって思うことは、せめて頷いてくれると助かるんだが……。
 お前、自分の身長が思いのままなの?」

 男は、巨大な体軀でドスンと勢いよく正座をして、十秒ほど思慮してから、首をゆっくり縦に振った。
 肯定したのだと捉えておく。

「あ、そう……身長が変えられる能力をお持ちで……。
 あーと……、でっかくなりたいなら、そんな天元突破なビッグじゃなくて。俺よりほんのちょっと高いくらいで、どうだ……?」

 凰太は自分でも何言っているんだ、と思いながらもアドバイスをしてあげた。
 男は頷くと、すぐに身長を縮めていった。凰太より10センチほど高い位置で止まり、見下ろした。

 そうして、唖然としたままの凰太を抱き上げて、運んでいく。
 力の入れ方のコツが掴めたのか、どこか悠々としている。

「…………」

 されるがまま、凰太は目線の先の天井を眺めるだけだった。
 
 
 
 運ばれた先はベッドで、しかも布団までかけてくれそうだったため、「体調は平気。転んだのは驚いたから——いやそりゃ驚くわっ」と盛大に突っ込んだ。

 男はベッドの前で正座をして凰太を見つめている。

 ちらちら、と凰太も見返すが、相手は全く視線を逸らさない。見つめられすぎて穴が開きそうだ。

「俺に対して害意がないのはわかったけどよ。
 で、結局誰? ほんと、ちょっと俺似だよな……あ、でもお前の方がツリ眼だね」

 と言うと、男は眼をもっと凰太に近づけて大きめの眼に変えていく。背丈だけではなく、顔のカスタムも可能なようだ。

「いやそれはしなくていいからっ。何か顔のデッサンがおかしいっ。はいっ、戻して戻して~戻った」

 姿形の基本の作りは凰太に近いが、それは元となっているだけなのだろうか。
 男の方が眉が凛々しく大人びており、この鋭い眼つきで睨まれたら一溜まりもなくなる。
 凰太と同じ痩せ気味の体格ではあるが、筋肉はしっかりついており、脚が長く、掌も大きい。
 闇色の長髪と口元が隠れていることも伴い、どこかミステリアスだ。

「もー分かった。とにかくお前は人間の概念を超えているんだな。特殊能力がすごい。それは理解完了……、としておくわ。
 んで、どうやってウチへ入ったか分からんけど、俺に何の用なわけ?」
 
 男は、凰太の質問に応えない。

 真っ直ぐ見つめてくる黒の男の姿は、凛としており、残暑の季節に眺めると涼しくなる。

「喋れないのか喋らないのか……ま、いいんだけど。あー。要件がわからないのは、困るんだけどな~」
 
 凰太はベッドの上で手首のストレッチをして、さてどうしようか、と次の手を考えた。
 男は凰太の物真似をして、同じように手首のストレッチをした。正座は崩さないまま。

 面白がった凰太が、両足を伸ばして前屈姿勢をすると、男は正座を解こうか同じように前屈を真似ようか、困惑して慌てている。

 凰太は、男はうちへ遊びに来ただけなのだという、妙な感覚に陥った。
 それならそれでいいか、と自分で自分を納得させた。

「知ってるかもだけど、俺は永屋ながや凰太こうた。大学二年生。お前の名前は?」

 男は正座のまま、右足だけ伸ばしてストレッチをしていた。名を問われても答えが出るわけもなく、頭をゆらゆらと左右に揺らした。

「んー……じゃあ、俺がつけちゃってもいい?」

 頭の動きが止まった。それを了承のサインと捉える。

「名前、名前ねえ……」

 残念ながら語彙力はないため、大学の講義で聞いた、いかにもカッコいいと思う単語を思い起こす。
 何個か頭の中で候補を出し、ふさわしいものを凰太なりに選んでみた。

「なんかお前、急な奴だから……にわか雨の意味の“驟雨しゅうう“——シュウでどうだ?」

 男はすぐに大きく頷いた。鋭い目がどこか輝いていて、嬉しそうだ。

「いや? やっぱりとんでもない奴だから、“規格外“と言う名前にしよう!」

 男はまたもや大きく頷く。

「お前、俺が“めちゃくちゃ太郎”って名付けても喜んでくれそうだな~。
 冗談! シュウが一番いいよ」

 シュウは、ずっとこくこく頷いていた。


 
 ずっと騒ぎ立てて喉が渇いた凰太は、大学の生協で買ったペットボトルから、ミネラルウォーターをコップに注いだ。シュウにも出してやった。

 コタツ用テーブルを挟んで二人で座ると、今度は凰太がシュウの真似をして正座をした。
 すぐに痺れたので、足を自由にする。

 シュウは、コップに注がれた水面が光に反射するのを、物珍しそうに眺めていた。

「これミネラルウォーターって言う、水ね。常温だけど。冷えたのが好きだったら氷足すから言ってな」

 凰太はシュウにコップから水を飲むという仕草を見せてあげると、シュウも続く。
 口元を隠していた布をそのままに飲もうとして、濡らしてしまった。

「ああっ、そりゃーこぼすわ。あ、でも飲もうとはしたな。飲みはしたいんだな。
 もしシュウが気にしないなら、そのフェイスカバー……えと、口のトコ、とって飲んだら?」

 本人にとって触れられたくない箇所なのかわからないので、凰太は探りながら聞いた。

 何を考えているのかは分からないが、シュウは前を向いたまま。
 凰太は自分の外側へ跳ねている髪の先を指に絡ませて遊び、間をやり過ごす。
 
 少しして、シュウは口元の布を下ろそうとした。

 が、指先は耳周りに垂れる髪に突っ込んでしまい、うまく取れない。

「なんか、その体に慣れてないって感じだな。ほんとに慣れてないんじゃ? だって姿は変幻自在なんでしょー。
 あ、でも、あんな難しい正座だけは完璧にできてるのすごいな。俺できねーよ」

 凰太はシュウの横にきて、その黒いフェイスカバーに手をかけた。

 布をそっと下ろすと、そこにはきちんと口が存在していた。
 もしやと思い、少々身構えていたが、口は裂けてもいないし、傷もなく問題がない。

 拍子抜けして一息つくと、シュウの唇の隙間から鋭い何かが見えた。
 咄嗟に、頬を軽く持ち上げて口の中を確認すると、ギザギザの刃が鋭く光っている。

「んん……人の歯ではない……」

 これに噛まれたら一瞬で砕かれる。
 少し震え上がったが、更に、口内に収まっている舌が、妙に長いことにも気付いた。

「ふふ……人の舌ではない……」

 姿形を自由に操る時点で分かってはいたが、明確に「人外」という単語が頭をよぎる。

 何だかもう楽しかったのは、シュウの態度から察する性格が故だろう。

 まじまじと口の中を点検するが、シュウ本人は頬を軽くつねられていても全く動じず、好機と言わんばかりに凰太を見つめている。
 
「で、どう? うまいか? 水なんだぜそれ」

 水の感想を聞く経験が人生であるなんて、と、凰太は半笑いで問う。

 一口目は上手に飲めたシュウだが、もう一度コップを口へ持っていくも場所が外れて頬にはまってしまい、凰太は笑いが耐えられなかった。
 シュウの横についたまま、補助をする。

「身体なんてすぐに慣れる。正座ができるんだから、後は何でもできるって」

 布を下ろした素顔のシュウは、水分補給をしているだけなのに凶悪な風貌だ。
 眼光は獣じみていて、剥き出しになった牙もコップを噛み切りそうだった。

「その長そうな舌を伸ばせば、そのまま飲めそうだけどな」

 そこまで言って、凰太はふと、動画で見た、舌を使って水をちゃぴちゃぴと飲む猫を思い出した。お気に入りの子猫チャンネルの動画である。

 ——猫、か。

「シュウってさ、ひょっとして、あの時、海で会ったよな……」

 シュウはすぐに肩を上げて全身で肯定した。やはり、あの時、トウモロコシをあげた黒猫なのだ。身にまとう黒さや、流れるような黒髪が物語っている。

 耳は普通の人型だった。
 漫画でよく見かける、猫耳の実物を見ることは叶わなかったのが残念だ。

 猫が化けてまで家まで来てくれたのは、恩返しなのだろうか。
 それを聞くのは野暮な気がして、凰太は「それなら、よかった」とだけ呟いた。
 
 大学進学のためにという建前はあるが、凰太は一人暮らしが気ままだと思っていた。
 他の誰かが、何かがいると、いつかはいなくなるということを知っているからだ。

 しかし、遥々人間の姿をとってまで会いに来てくれたシュウには、気の済むまでこの家で遊んでいって欲しい。食事の用意などの世話をして、それなりにもてなした。
 
 シュウの着替えや寝巻きは、凰太の物を使わせた。
 自分が持っている中で、なるべく黒系統の衣服を出してやる。

 シュウは、例え全身虹色の服を出しても、喜んで着そうだけれど。
 
 
 
 
 シュウは凰太の大学にもついてきた。

 凰太から言われたので、講義の間は大学敷地内のベンチに座ってじっと待ち、それ以外は真横に付き添った。

 凰太が、大学内にいる危ない先輩達や、駅前の勧誘から声をかけられると、シュウが前面に出て威圧するので、即時解決する。
 買い物中に財布から小銭を落とせば両手で掬い上げ、曲がり角では先に見回りをし、段差があれば手を差し伸べてリードする。

 サークルメンバーには「ボディガード雇ったの?」と揶揄されたりもした。
 
 凰太は、この過保護が恥ずかしいという気持ちもあったが、次第に面白いという想いの方が優っていった。
 
 ちょうど今の時期、短期バイトが入っていないため、凰太にはそれなりに時間があった。
 シュウに大学周りの名所を案内したり、スマホやゲームなども教え、二人で楽しんで過ごした。充実した過ごし方だと感じた。
 
 
 
 
 二週間が過ぎた頃、凰太は台所の一口コンロで、人間の身体にも人外の身体にも優しそうな料理を試みていた。
 出汁からとったすまし汁を作るつもりだ。

 準備を始めた凰太の横で、シュウは床に正座をしてじっとしていた。

 凰太は、自炊が得意な方ではない。客人がいるから近頃張り切っているだけで、包丁の持ち方も危うい。いわゆる“猫の手“も作っていない。

 シュウにもその危険な空気が伝わったみたいで、次第に正座から片膝をあげた体勢に変え、何かあったらすぐに助けに入ろうと構えている。
 律儀に待機している騎士のようだ。
 
 凰太はシュウの全てが面白かった。

(SPというかナイトというか執事というか。
 まさか人ではないモノが存在していて、今やこうやって普通に隣にいるなんてなー。
 恩返しとはいえ、俺はそんな大したことしてないし、フッツーの人間なんだし。こんな楽しいことばかりだなんて)

 考えながら大根の葉を切っていたら、案の定、左手の爪先を落としてしまった。

「あ」と言う前に、シュウが素早く動いて包丁を奪った。刹那の如しだった。
 自分の代わりに、焦ってくれている。

 珍しくシュウが首を横に振って否定の意を表し、凰太をクッションがある場所へと丁重に運び、代わりに台所へ立った。
 背筋を真っ直ぐ伸ばし、手先で大根の葉をちぎって鍋へと散らす。

 凰太はシュウの真横までクッションを持ってきて座り込み、その姿を見守った。
 

  
 夕飯を食べ風呂に入り、それからは、ほぼ毎日、テーブルを囲んでゴロゴロして喋りながら——と言っても、実際に言葉を紡いでいるのは凰太だけだが——眠りに落ちていた。

 凰太にとっては、シュウだってお喋りをしているのだ。
 終始無表情のように見えて、眉や眼で感情が伝わってくるし、毎度微妙に異なる仕草が面白い。
 
 今夜は、特に時間の余裕があった。

 二人はテーブルにスマホスタンドを立てて動画を見ながら、ビーズクッションに埋もれて快適に過ごしている。

「あ~~~~やっぱこういう動物がいるのって夢なんだよな。かわいい。でも一緒には暮らせないよなあ」

 小動物を紹介する動画を観ていると、顔が緩んでしまう。
 気付くと、シュウが体型を物理的に縮ませており、凰太の膝に乗るサイズになっていた。

「うおっ、ちょっと、そんなんもできるわけ⁉︎ すっご。ちっせー」

 小さいシュウは少しだけぴょんぴょんと跳んだ後、こてんと首を横に傾げた。
 人形サイズでその仕草をさせると、妙に可愛い。

「ん? 動物を飼えない理由のこと?」

 シュウは頷く。凰太は普通に答えた。

「昔、従兄弟が小動物を飼っていて、俺もよく遊びに行ってたんだけど……、ある日棚の上に乗ってて、そこから変に滑り落ちちゃって。俺達の眼の前であっさり天国にいったんだよ。ほんとに一瞬で」

 事故だから仕方ないけどな、と掌を振った。

「一緒にいても、すごく大事に想うようになっても、瞬間でいなくなるのって、やっぱり嫌じゃん?
 命ってわりと弱いとこあるよな」

 縮んだままだったシュウは、笑顔のままの凰太の揺らいだ瞳を、そっと下から覗き込んだ。

 ミニサイズのままでしばらく正座をしたシュウは、ふと、凰太の手を大切にとって自分の頭頂部へと運ぶ。
 撫でて欲しいのかな?と思い、凰太は手加減しながら掌を動かすと、シュウはゆっくり身体を元の大きさに戻していった。

 目の前で、どんどん逞しく強く、身長と体格を大きくしていくシュウ。同時に、頭に置いた凰太の腕の位置も上がっていく。

 凰太の背を追い越した後、シュウは凰太の手をそっと自分の頭から下ろしてやった。
 そして今度は、両手で凰太の掌を包み、じっと見つめた。
 いつもの熱い視線とは違う意味合いを、伝えようとしていた。

「……ほんと、規格外」

 凰太はそっぽを向いて小さく頷き、次の動画の再生ボタンを押した。
 



 
「う……、いけね、今日もここで寝そうだった。ビーズクッションの吸引力やばい」

 あらかた動画を楽しんだ後、取り止めのないことを話していたら、半分寝かかっていた。

 流石に連日の床寝は体が痛みそうなので、久しぶりにきちんとした寝具で寝ようと試みた。

「ほら、ベッドを使っていいぜ。そこは一応客だから遠慮するなよ。俺は布団も好きだから」

 凰太が、床に敷いた布団に倒れ込んでくるまる。
 シュウは一回頷いてから、一緒に入り込んできた。

「違う違う! お前はそっちのベッドでいいよ。ああそっか、寝る時は人の足元とかで丸まりたいのか!……うーん、なら仕方ない」

 しかしシュウは猫のように身体を丸めるどころか、身体を広げて凰太を大きく包みこみ、マットレスの役割に徹した。

「それじゃあ腕が痺れるって! あ、いや、シュウは正座も痺れていなさそうだから、何かそういうのに強いのか……?」

 凰太は身体の位置を変えて負荷をなくそうとしたが、シュウが腕を回して阻止した。
 シュウの身体は手も足も、冷んやりしていて気持ちが良い。
 諦めた凰太は脱力して、視線の先にあったシュウの口元に着目した。

「いつもは寝落ちだったから気にしてなかったけれど、流石にきちんと寝る時はゆったりしよーぜ。ほら、フェイスカバーをとれって」

 頭の方から布を抜き取ってやると、少し開いた口元から鋭い歯がのぞいていた。

 食事の時にしか見せない、人間からかけ離れた歯も舌も、もっと見たいと思えた。いつもは表情が乏しいシュウだが、わずかに口の端を上げて笑っているようだった。

 シュウは、こんな近距離でも全く遠慮なく眼を見つめてくる。出会った時からずっと見てくる。
 凰太はとうに慣れてしまい、堂々と見つめ返した。

 髪も服も全て真っ黒のシュウだが、間近で見ると、漆黒の瞳の中に群青色がほんのり浮かんでいた。
 シュウが纏うあらゆる黒は、深すぎて何物も写さないのに、瞳だけは凰太の姿を写しとっていた。

「シュウの眼って、ずっと俺だけしか写さないな……」

 零してしまった言葉が思いの外、自身の胸を甘く刺し、凰太は誤魔化すように瞼を閉じた。
 実は、ほんの少し、覚悟の上で眼を瞑った。

 鼻先が触れそうなほど近くで、まだこちらを見つめてくる気配がある。
 背中側に回されていた腕が戸惑いを見せたことで、凰太は呼吸を浅くした。

 眠ったのか、眠っていないのか。どちらかの鼓動を聴きながら、現実と夢とを行き来した。
 
 


 
 
 朝一番のニュースは、台風の到来を告げていた。
 今年は外れ年のようで、あまり発生していなかったが、今度の台風は大型のようだ。
 秋が近付くと、嵐がやってくる。
 
 シュウが正座をして、天気予報に見入っていた。
 もはやテレビもニュースも理解しているようで、その背中は世俗に溶け込んできた姿だった。

「もう夏も終わるかー。まだ暑いけどさ。
 なあ、いつ……」

 そう言いかけ、気が変わって止めた。

 シュウは、いつまでここにいてくれるのだろうか。帰った後も、また遊びに来てくれるだろうか。
 人外は、人間の世界へ関わることに制限はあるのだろうか。ルールが分からない。未知なのだ。 

「シュウ!」

 テレビに映し出されていた秋の行楽情報を遮って、凰太は座り込んだ。

「今度ナシ狩りに行かね? 前から大学のいつものメンバーで予定してたんだけど。シュウならアイツらも歓迎だしさ」

 極めて自然に誘いをかけてみたが、その先、どう言えばおかしくないのか、考えてしまった。
 シュウは凰太をじっと見ていた。

「あと……冬休みの予定とかも……。
 ……いや、まずアイスでも食べよーか。暑いもんな。シュウは葛アイス食べる?」

 冷凍庫の奥に秘蔵していたアイスを二つ、取り出す。
 シュウはペコリと頭を下げて、そのギザギザの歯を構わず見せながら食らいつく。時を重ねたことで、自然と布の下を見せてくれる機会が多くなり、凰太は何だか嬉しかった。
 
 凰太が通学のための準備をし出した頃、シュウはもう一度、テレビを振り返った。
 週間天気予報。繰り返される台風情報。
 中継先には、どこかの湾岸の高くなった波が映し出されていた。

 シュウは正座をしておらず、足を崩して背中を丸めていた。






 徐々に風が強くなってきてはいるが、まだ警報が発令されていないため、大学の講義は行われる。
 おそらく、明日には休講になるだろう。

 本日の道乗りは、いつもと様子が違っていた。

「なー、今日のシュウ、静かすぎない?」

 微妙に眉をしかめており、抜群のスタイルも背を歪めているせいで違和感がある。
 シュウは緩く首を振ってはいるが、息も荒いように感じる。

 凰太は講義を欠席してシュウに付き添おうとしたが、シュウが強く止めたので仕方なく一人で教室へとやってきた。

(えええ……シュウ、どうしたんだろ……。
 病院へ行くべきか。いやっ、医者が体内を調べた時に人間じゃないってバレるかも?
 いつも聴いてる鼓動の音……人間と一緒だと思うけど、プロが聞いたら違いに気付くか?)

 ぐるぐると考えてしまうので、結局勉学どころではない。
 仕方ないから出席の返事だけをして、適当に切り上げてきた。

「シュウ! 今日はやっぱり休も!」

 いつものベンチへ戻ると、もぬけの殻になっている。

「シュウ……?」

 異常な事態、ということだけしかわからなかった。シュウが体調をおかしくしたことと、関係があるのだろうか。

 風が強く鳴り出した。


 急いでシュウが知っている場所を回ったが、どこにもあの黒い姿はなかった。

 アパートに戻ってドアを開けても、そこには誰もいない。
 シュウが初めてこの部屋に来た時のように、テーブルの前で正座して待っていてくれるのかと淡い期待を抱いたが、それは打ち砕かれた。

 焦りしかなかった。

 とりあえず落ち着いて次の手を探ろうと、鞄を乱暴にテーブルへ置く。弾みで机上のリモコンが押され、テレビの電源がついた。
 昼のニュースの中で、気象情報を取り上げている最中だった。

 ——猛烈な台風のため、早めの買い出しと戸締りをしっかり——

 チラリと映った中継映像の中に、見覚えがある海辺があった。

「……まさか、あの場所にいるのか……?」

 シュウとの関連がある場所は、最初に出会った海、そして自分の隣だけなのだ。

 凰太はまだ残暑の季節なのに、手先が酷く冷えていることに気付かない。

 ちょうどその時、部屋の窓を大粒の雨が叩き出した。これは、にわか雨どころではない。
 今から家を出て電車とバスに飛び乗っても、サークル合宿で訪れたあの海へ着くのは夜になってしまう。台風が接近する時間帯だ。

「冷静だ、冷静に……」

 本当に冷静ならば、豪雨と強風で荒れ狂った海辺へ近づくことなどしないだろう。
 もし少しでも迷っていると、交通手段が雨風で運休してしまう。
 凰太は財布だけを手に、飛び出していた。
 
 
 


 晩夏の大雨の中、出会いの場所へ戻ってきてしまった。

 夜の黒い海は風で激しく波打ち、まるで怒っているようだが、不思議と恐怖を感じない。

 雨を多量に吸い込んだ砂浜は、ただのサンダルだと沈んで歩きづらい。一歩一歩を踏みしめて進む。
 レインウェアにもなる上着のフードをかぶっても、すぐ大風で煽られてしまった。雨粒が身体中を射る。
 
 案の定、同じ岩場に黒猫がいた。

 丸まっていて、微動たりしない。身体を温めているのだろうか。

「大丈夫か! 身体はどこも痛くないか⁉︎
 こんなすごい天気の時になんで帰るんだよっ⁉︎ 逆にこんな時だから帰らないと行けなかった⁇」

 声を張り上げて次々に叫んでも、豪雨の音でかき消されてしまう。
 黒猫の前に片膝をつくと、顔を上げてくれた。

「さあ。こっちへ来い、シュ……」

 名を呼ぼうとして、これは何か違うと感じ取れた。

 猫の瞳は確かに深みのある青と黒で、シュウと同じではあるが——。

 シュウの仕草が、表情が、彼が伝えてくれたことが、頭を掠めた。

「シュウ……、シュウは……」

 大荒れの夜の海を振り返り、凰太は眼を見開いた。

 黒猫をそっと抱き上げて立ち上がり、そこに在る“黒い海“へ向かって言葉をかけた。
 
「シュウ……。——いるんだよな?」
 
 刹那、周りの豪雨が止んだ。

 止んだように見えて実際は、凰太達を包むように周辺の浜辺だけ、結界が張られたように音が聞こえなくなったのだ。
 
 荒れ狂う黒い海の中央に、渦が巻き始めた。

 ゆっくりと、シュウの姿がそこに現れた。

 不規則な波の中で平然と立ち上がるシュウは、夜の海の化身であることを証明していた。
 足から下は、深い波に絡んでいて何も見えない。
 最初に出会った時のような、真っ黒な布を身に纏い、しかし口元はさらけだしていた。
 
 シュウの瞳は、まるで底がない夜の海の色だった。
 見つめていると吸い込まれてしまう。

「シュウ、体調はもういいのかっ?」

 シュウは、どこか申し訳なさそうに頷いた。
 顔色もよく呼吸も整っていて、凰太はとりあえず安堵した。

「……夜の海、だったんだな。
 まさか海が俺んちに遊びに来てくれるなんて、なかなかない体験だ。全然水滴とかも落ちてないしっ……」

 凰太の腕の中にいる黒猫は、大人しくしており、二人の話に耳を傾けているようだった。

「台風で荒れたから力が弱くなったのか? それとも、長く海から離れたから身体がキツくなった?
 こうやって本来の海にいる方が、そりゃ栄養……?もあるよな」
 
 夜の黒い海の化身は、水面に映った凰太の姿を手本にして、人間に化けてやって来た。
 見つけてしまったあの日——誰もいない闇夜に、海へやって来て微笑んでいた凰太の姿を、ただただ追ってきた。

「でも、海へ帰るなら帰るって伝えてくれ。伝える暇なかったかもしれないけどさー。
 いいか。ここにいるのが楽なら、しっかり身体を休めるんだ。俺の方がここへ遊びに行くからさ、だからっ、」
 
『凰太』
 
 シュウの声は、水面に一滴を投じるように優しく低く響き渡った。
 
 凰太の名前だけを穏やかに呟いたシュウは、海から上がり、長い脚でゆっくりとこちらへ向かっている。
 いつも通り、真っ直ぐ凰太を見つめて。

 もうシュウが言葉を紡ぐことはないけれど、全く構わなかった。
 シュウは言語を発すること以外で、本人なりに全てを使い、凰太へ想いを伝えようとしてくれるから。
 
 正面に立つシュウの周りをぐるりと見て、凰太は様子を探った。

「本当に……体調はもう平気なのか? 嘘は絶対にやめてくれよっ! 無理して俺のとこにいても嬉しくないからな」

 シュウは力強く頷いた。

「それなら……良かった」

 凰太は腕の中で大人しくしている黒猫を撫でながら、全身の力が抜けていくのを感じた。
 大雨と暴風の中、休憩もなく走ってきたから疲れがあるのだろう。

「……」

 涙が数粒落ちたことに、凰太本人が驚いた。
 顔についていた雨粒で誤魔化そうとしたが、すぐにシュウには見抜かれた。

 顔をずいっと近づけられ、獰猛な牙の隙間から出した長めの舌で舐め取られた。
 背に手を回されているから、逃げられない。

「いやっこれは違うっ。しょっぱいでしょ!
 人間だって身体の中に、それぞれ海があるわけっ!」

 たまにこうやって波が元気で溢れるの!と、よくわからない言い訳をする凰太を見て、シュウは眼を細めた。

 今度は口を開けて、凰太の頬を傷つけないように、涙を食べ始める。
 液体なので、当然、刃のような歯など必要ないが、あえて口も動かして噛むふりをした。

「いやあのなっ⁉︎ うああっ、シュウは海なんだから、波は食べないでおけっ」

 黒猫が初めて、ニャアと鳴いた。
 
 


 
 台風の最盛期と帰宅時間が重なり、案の定電車もバスも止まってしまったので、帰ることに苦労した。
 凰太もシュウも、更に黒猫も揃っていたので、周り道すら小さな冒険の一端のようで、楽しかった。
 
 嵐が過ぎ去ったら、二人と一匹で、あの海へ遊びに行こうと思う。
 静かな夜を選んで。

 底が見えないほどの漆黒の闇と、ほんの少しの群青に染まった、あのシュウの海へ。
 
 


 
 
 
                     おしまい。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 おまけ~~~
 
 
 ◆凰太
 大学卒業後は海沿いの水族館で働き出す。
 海の生き物達に詳しく、愛嬌が良い上に解説が上手いので、客にも好評。
 就職に伴い、シュウの海にかなり近いアパート(ペット可能)へ、シュウ&黒猫と一緒に引っ越した。
 料理の練習?マイペースだけどやってるよ!
 
 
 ◆シュウ
 凰太のために、港町にある肥料を作る小さな工場(シュウの身の上を探らない優しい職場)でバイトを始める。年を重ねる凰太に合わせて自身の姿も調整していき、添い遂げる気まんまんで一切の迷いなし。
 包丁があると凰太が使いたがるので隠し、料理はもっぱらハサミや手を使ってシュウがこなしている。同僚のおばあちゃんに料理を習おうか。
 
 
 ◆ネコチャン
 ネコチャン!
 これでも人のような思考を持っている化け猫。凰太とシュウを見守っている。人外と人間の差に凰太が不安を感じた時、夢に化けて出て、シュウはめっちゃ添い遂げる気まんまんだぞ~と教えてあげる。凰太には恩があるもんね!世話してあげる!
 とうもろこしは好物になってしまった。
 
 



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