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人皮商人
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ちょうど大正時代が始まりを告げた頃の話である、と断って、ひとりの書生は自らの奇譚を語り始めた。
「冬の夕刻になるとですね、希に、玄関口から家人を呼ぶ声が聞こえるのです。なんだなんだと扉を開けて出てみると、そこにはひとりの男が立っていまして、こう質問するわけです。お宅に素行不良、もしくは持て余している者がおりませんか、と。」
目までかかる鬱陶しい、見るからに陰気臭い長髪をかきあげながら、私の目の前の書生はそう語り始めた。
その書生というのはもう三十代に近くなる頃で、なんでも奇妙な体験談を持っているというので、私が日頃懇意にしている作家仲間から紹介してもらった男である。
先程までは書斎で著作などの紹介をして談話を楽しんでいたのだが、私が怪奇譚を聞きたいと早々に迫ったので、いまはこうして縁側で横並びになって語らっているという始末だ。
書生は猫背をぐうっとさらに曲げるようにしながら、ぽつりぽつりとまた話の続きを始めた。
「当時、手前はまだ幼少でしたから、その予期せぬ来訪者には母が応対したのです____食器棚の影から話を盗み聞いていると、どうやらその男は、うちに暴れん坊の兄がいるというのを聞きつけてやってきたようなんですな。」
書生には、五つ歳上の兄がおり、それが絵に書いたような不良少年で、両親はおろか近隣の雷親父でも手の付けられないような有様だったという。
せっかく学費を出してもらった学校にもロクに通わず、夜な夜な低品質なアルコールをどこぞで飲み歩いては肝臓を痛めつけ、おまけに酔った勢いで仲間と乱闘騒ぎを演じる。
終いには警察のお世話ということで、ほとほと困り果てていた母親が、玄関口の男の質問を肯定すると、ルンペン(浮浪者、失業者の意)風で、ぼろいくすんだ色の着物を羽織った男は、にんまりと口に笑みを浮かべる。
「実はわたくし、人皮商人、という者でして____とまあ、そこで男は自分の職業を明かしたのですが、実際聞いたことのない職名だったもので、母も私も首をかしげておりました。」
そこで母が、人皮商人とはいかなるものか、と尋ねたところ、商人の男は親子にこう説いた。
「世の中には、脱皮の素質がある人間というのがいる。素質ある人の、こういくつかのツボをちょちょいと触って刺激してやると、まるで蛇のようにずるりと、その皮が剥げてしまうのだと。といっても実際に皮膚が全てなくなってしまうというわけでなく、人間を包む表層の部分、つまり薄皮のみが蛇の抜け殻のように丸ごと剥けるのだそうです。」
書生は、そこから先の商人の言はよく聞き取れませんでした、と言ったが、彼が聞き逃している間に、母君は男の誘いを承諾した____つまり兄を脱皮させることを許可したのだという。
すると商人は、黄色い歯を見せつけるような気味の悪い笑いをなおも浮かべながら、では、夜半にもう一度来ますので、それまでに兄をふん捕まえておいてくださいとのたまった。
しかし、これがまた難航した。
なにせ素行不良というのは大前提、ふらふらと歩き回ってはいまどこにいるのかもよくわからないという有様で、なんとか居場所を掴んでも、当然易々と捕まってはくれない。
結局官憲やら、兄に不満を持っていた近所の者共が総出で捜索した上、ようやく荒縄かなにかで縛って家に引きずってきたらしい。
まるで大捕物である。
「久しぶりに見た兄は、髪を全て坊主にしておりまして、えらく汚らしい格好でしたが、マアともかく、商人が再び現れるまで、納戸に入れられていたわけです。」
商人の言いつけにより、家の中で裸体にされたのも気に食わなかったようで、獣かなにかと見紛うほどの暴れようだったらしいが、ようやくその叫び声も大人しくなったころ、人皮商人が再び玄関口に現れ、母を呼びつけた。
商人の男は無事、兄が納戸へ押し入れられたことを聞くとにまにまと笑いながら、ボロの草履を引きずるようにして歩き、しばらく歩いて納戸の扉をがらっと開けたという。
そこには縄を口に噛まされ、野犬殺しに捕まった野良犬のような目つきをした全裸の兄が、商人と、その背後から様子を見守る家族を睨んでいた。
「ではこれから、兄殿に脱皮の素質があるかを確認しますので、少々お待ちを、と言って、男は身をよじる兄の背中に手を伸ばしました。自然と、マア、覆い被さるような体勢になりますので、今思えば男色のショウを見ているような気分でしたな。」
しばらくもぞもぞと、男は兄の身体の背面を芋虫のような指でくまなくなぞったあと、肩甲骨の辺りに特有のツボがあったと報告した。
つまり、その脱皮の素質ある者にしかないという、特殊なツボである。
その後、怪しげな商人は、絶対に扉を開けるなと、まるで鶴の恩返しのようなことを言い放ち、ぴしゃりと締め出す形で納戸の錠前を完全に閉め切ってしまった。
ただ、いくら気違いのようになっているといえど、母にとっては息子であり、弟にとってはひとりの兄に違いはない。
全くの嘘をついている不審な男が、よもや納戸の中で性的に暴行をしたり、いたぶったりして楽しんでいるのではないかと心配が起こったそうだが、その心配が当たることは結局なかったという。
「なんとなく重たい時間が流れましたあと、がらりと突然納戸の扉が開きまして、薄汚れた髪に少し汗を浮かばせながら、商人が出てきたのです。そして、納戸を開け放ち、今から脱皮が始まるからご覧なさい、といって私たちにその光景を見せたのです。」
納戸は日が落ちてから灯った電灯の明かりに照らされて、内部の様子がはっきりと見えるようになっていた。
飢えた、青年期のエネルギーを存分に宿していた兄の目はそのとき、ほとんと廃人のように濁って、両の目があらぬ方向を向いていたそうである。
縄で手足を縛られていて、自由が効かないにも関わらずびくん、びくんっ、と一糸まとわぬ身体を大きく跳ねるように痙攣させては、火炙りにされた魚のように辺りを転げ回る。
つい数刻前までは大の男二、三人を跳ね除けるほどの膂力を持っていた活気溢れる青年も、こうなってしまうともう、気違い病院に収監されている病人にしか見えなかった、と書生は気まずそうにしながら語った。
しばらくもぞもぞと居心地の悪そうに、また殴られているかのように断続的に引き付けを起こしていた兄は、ふとした瞬間にぴたりとその動きを止めたかと思うと、やがて床にその素肌を擦り付け始めたという。
荒い土でできており、かつ掃除もされていない納戸の床に躊躇なく、身をよじるようにして上手くすり合わせている兄の肉体には、やがていくらかの時間が経つと変化が訪れ始めた。
薄い髪が生えている坊主頭の方から、ぺり、ぺりぺり、と、透明な皮が剥け始めたのである。
人皮商人の言っていることは嘘ではなかったのだ。
その、子供が触れば破れてしまうような薄皮、濁った白に近い色をしたそれは、兄が身をよじるにつれ、衣服というしがらみのない全身から剥がれるようにしてどんどん生み出されていく。
手足を縛られ、口を聞けず、割合大きくなった黒目をぐりんぐりんと回して苦しむ兄のその姿は、昔野原でみたアオダイショウの脱皮そのままであった。
やがて兄の頭の形をした皮がずるりと剥け、薄く筋肉の張った胸、胴、そして陰茎に至るまでが、綺麗に抜け殻になって身体から出ていく様を、家族は見てはいけないものを見ている面持ちで眺めていたという。
家庭の一員が呻き声を上げながら己の表皮を脱ぎ捨てている、と言い換えれば、あるいはその凄惨さが伝わってくるかもしれない。
書生と母君にとってその時間は、永遠に続くかのごとく思われていたようだが、やがてずるん、ずるんっ、ぽん、という間抜けな音が、その時間の終わりを告げた。
はっとして前方を見ると、死んだようになって地面に涎を垂らしている兄の傍らに、兄と全く同じ____ただし透明に近い乳白色で、ぺらぺらと布のような薄さの____抜け殻、つまり人皮が転がっていた。
人皮商人はその皮を丁重に、東洋モノの絨毯を扱うように慎重にくるくると丸め、至極細い紐のようなもので巻いて固定すると、周りの目から隠すようにしてさっとそれを鞄に放り込んだ。
そして母のもとにもう一度近づき、言ったという。
「最初にご説明申し上げた通り、脱皮をした者はその後、腑抜けになりますゆえ。口も聞きませんし、それどころか脱皮というのは活力を使うものですから、数日以内に死ぬやもしれません。」
哀れな幼児期の書生が聴き逃していたのは、母親がとんでもない事実を黙認していた瞬間であった。
実質的に兄が死ぬのを分かっていて、この母親は得体の知れない商人の誘いを受けたのかと、子供ながらに愕然としながらも、今からなにかがなせるわけでもない。
書生は、既に文字通りもぬけの殻になってしまった兄を憐れむしかなかった。
商人は掻き消えるようにしてその場から去っていってしまったが、後日近所から又聞きしたところ、いくつかの地域を回っては同じような____素行不良者や、疎まれている老人などを探そうとしていると、風の噂が流れていたそうである。
「隣町では、若者に嫌がらせをする厄介な老人が腑抜けにされたとか、ヤクザ崩れの不良者が脱皮をしたとか、いろいろ言われておりましたよ。にしても、そういった非行者ばかりに脱皮の素質があるというのも、不思議な話です。悪いことばかりしていると、身体に脱皮のツボができたりするんでしょうか。」
書生は真剣な顔でそう解明しようとしていたが、それまでの話を通しで聞いていた私には、ある別の意図が感じられてならないのであった。
それは、暴れん坊や厄介老人にのみ、たまたま脱皮の素質があるのではなく、善良な人を含む全人類に脱皮のツボがあるのではないかという考えである。
そうでなければ、素質があるかどうか分からないのに、地域の嫌われ者だけに狙いを定めて家々を回るのは、少々非効率な作業のはずである。
恐らく商人はその気になれば、産まれたての赤ん坊だろうが、外務省に務めるお偉方だろうが、みな区別なく脱皮させられるのだ。
しかし、例えば一国の宰相が薄皮を脱いだ変死体で発見されたり、元大蔵卿が抜け殻のみで見つかった日には、あらゆる新聞や市井の諸君が騒ぎ立てるに違いない。
ゆえに、商人は土地土地を巡りながら、死んだとしても誰も気にしない、むしろ清々するような人間だけを秘密裏に見つけ出して、「こいつは脱皮の素質がある」と一芝居打ち、腑抜けにしている____と考えることもできるだろう。
私にも、この書生にも、一度押されれば強制的に爬虫類のごとく皮を脱ぎ捨ててしまうツボがあるかと思うと、自然と背筋に冷たいものが流れる気がした。
しかし、私がもうひとつ強く気になることといえば、男が人皮「商人」と名乗っていたことである。
というのも、商人というのは物を売る側である。
すると当然、販売されている物を買う側である客がいることになる。
私には人皮を作って売る商人よりも、それを買ってなにかに使おうとしている存在の方が、心の底から不気味に思えて仕方がないのである。
怪奇作家などという奇妙な職業をしていると、このような世界の妙に思いを馳せる機会が増えるナア、などと、私は日々、どこか他人事のように考えを巡らせている。
____菊亭寒原「人皮商人」より
(文中の表現は当時のものを採用している。)
「冬の夕刻になるとですね、希に、玄関口から家人を呼ぶ声が聞こえるのです。なんだなんだと扉を開けて出てみると、そこにはひとりの男が立っていまして、こう質問するわけです。お宅に素行不良、もしくは持て余している者がおりませんか、と。」
目までかかる鬱陶しい、見るからに陰気臭い長髪をかきあげながら、私の目の前の書生はそう語り始めた。
その書生というのはもう三十代に近くなる頃で、なんでも奇妙な体験談を持っているというので、私が日頃懇意にしている作家仲間から紹介してもらった男である。
先程までは書斎で著作などの紹介をして談話を楽しんでいたのだが、私が怪奇譚を聞きたいと早々に迫ったので、いまはこうして縁側で横並びになって語らっているという始末だ。
書生は猫背をぐうっとさらに曲げるようにしながら、ぽつりぽつりとまた話の続きを始めた。
「当時、手前はまだ幼少でしたから、その予期せぬ来訪者には母が応対したのです____食器棚の影から話を盗み聞いていると、どうやらその男は、うちに暴れん坊の兄がいるというのを聞きつけてやってきたようなんですな。」
書生には、五つ歳上の兄がおり、それが絵に書いたような不良少年で、両親はおろか近隣の雷親父でも手の付けられないような有様だったという。
せっかく学費を出してもらった学校にもロクに通わず、夜な夜な低品質なアルコールをどこぞで飲み歩いては肝臓を痛めつけ、おまけに酔った勢いで仲間と乱闘騒ぎを演じる。
終いには警察のお世話ということで、ほとほと困り果てていた母親が、玄関口の男の質問を肯定すると、ルンペン(浮浪者、失業者の意)風で、ぼろいくすんだ色の着物を羽織った男は、にんまりと口に笑みを浮かべる。
「実はわたくし、人皮商人、という者でして____とまあ、そこで男は自分の職業を明かしたのですが、実際聞いたことのない職名だったもので、母も私も首をかしげておりました。」
そこで母が、人皮商人とはいかなるものか、と尋ねたところ、商人の男は親子にこう説いた。
「世の中には、脱皮の素質がある人間というのがいる。素質ある人の、こういくつかのツボをちょちょいと触って刺激してやると、まるで蛇のようにずるりと、その皮が剥げてしまうのだと。といっても実際に皮膚が全てなくなってしまうというわけでなく、人間を包む表層の部分、つまり薄皮のみが蛇の抜け殻のように丸ごと剥けるのだそうです。」
書生は、そこから先の商人の言はよく聞き取れませんでした、と言ったが、彼が聞き逃している間に、母君は男の誘いを承諾した____つまり兄を脱皮させることを許可したのだという。
すると商人は、黄色い歯を見せつけるような気味の悪い笑いをなおも浮かべながら、では、夜半にもう一度来ますので、それまでに兄をふん捕まえておいてくださいとのたまった。
しかし、これがまた難航した。
なにせ素行不良というのは大前提、ふらふらと歩き回ってはいまどこにいるのかもよくわからないという有様で、なんとか居場所を掴んでも、当然易々と捕まってはくれない。
結局官憲やら、兄に不満を持っていた近所の者共が総出で捜索した上、ようやく荒縄かなにかで縛って家に引きずってきたらしい。
まるで大捕物である。
「久しぶりに見た兄は、髪を全て坊主にしておりまして、えらく汚らしい格好でしたが、マアともかく、商人が再び現れるまで、納戸に入れられていたわけです。」
商人の言いつけにより、家の中で裸体にされたのも気に食わなかったようで、獣かなにかと見紛うほどの暴れようだったらしいが、ようやくその叫び声も大人しくなったころ、人皮商人が再び玄関口に現れ、母を呼びつけた。
商人の男は無事、兄が納戸へ押し入れられたことを聞くとにまにまと笑いながら、ボロの草履を引きずるようにして歩き、しばらく歩いて納戸の扉をがらっと開けたという。
そこには縄を口に噛まされ、野犬殺しに捕まった野良犬のような目つきをした全裸の兄が、商人と、その背後から様子を見守る家族を睨んでいた。
「ではこれから、兄殿に脱皮の素質があるかを確認しますので、少々お待ちを、と言って、男は身をよじる兄の背中に手を伸ばしました。自然と、マア、覆い被さるような体勢になりますので、今思えば男色のショウを見ているような気分でしたな。」
しばらくもぞもぞと、男は兄の身体の背面を芋虫のような指でくまなくなぞったあと、肩甲骨の辺りに特有のツボがあったと報告した。
つまり、その脱皮の素質ある者にしかないという、特殊なツボである。
その後、怪しげな商人は、絶対に扉を開けるなと、まるで鶴の恩返しのようなことを言い放ち、ぴしゃりと締め出す形で納戸の錠前を完全に閉め切ってしまった。
ただ、いくら気違いのようになっているといえど、母にとっては息子であり、弟にとってはひとりの兄に違いはない。
全くの嘘をついている不審な男が、よもや納戸の中で性的に暴行をしたり、いたぶったりして楽しんでいるのではないかと心配が起こったそうだが、その心配が当たることは結局なかったという。
「なんとなく重たい時間が流れましたあと、がらりと突然納戸の扉が開きまして、薄汚れた髪に少し汗を浮かばせながら、商人が出てきたのです。そして、納戸を開け放ち、今から脱皮が始まるからご覧なさい、といって私たちにその光景を見せたのです。」
納戸は日が落ちてから灯った電灯の明かりに照らされて、内部の様子がはっきりと見えるようになっていた。
飢えた、青年期のエネルギーを存分に宿していた兄の目はそのとき、ほとんと廃人のように濁って、両の目があらぬ方向を向いていたそうである。
縄で手足を縛られていて、自由が効かないにも関わらずびくん、びくんっ、と一糸まとわぬ身体を大きく跳ねるように痙攣させては、火炙りにされた魚のように辺りを転げ回る。
つい数刻前までは大の男二、三人を跳ね除けるほどの膂力を持っていた活気溢れる青年も、こうなってしまうともう、気違い病院に収監されている病人にしか見えなかった、と書生は気まずそうにしながら語った。
しばらくもぞもぞと居心地の悪そうに、また殴られているかのように断続的に引き付けを起こしていた兄は、ふとした瞬間にぴたりとその動きを止めたかと思うと、やがて床にその素肌を擦り付け始めたという。
荒い土でできており、かつ掃除もされていない納戸の床に躊躇なく、身をよじるようにして上手くすり合わせている兄の肉体には、やがていくらかの時間が経つと変化が訪れ始めた。
薄い髪が生えている坊主頭の方から、ぺり、ぺりぺり、と、透明な皮が剥け始めたのである。
人皮商人の言っていることは嘘ではなかったのだ。
その、子供が触れば破れてしまうような薄皮、濁った白に近い色をしたそれは、兄が身をよじるにつれ、衣服というしがらみのない全身から剥がれるようにしてどんどん生み出されていく。
手足を縛られ、口を聞けず、割合大きくなった黒目をぐりんぐりんと回して苦しむ兄のその姿は、昔野原でみたアオダイショウの脱皮そのままであった。
やがて兄の頭の形をした皮がずるりと剥け、薄く筋肉の張った胸、胴、そして陰茎に至るまでが、綺麗に抜け殻になって身体から出ていく様を、家族は見てはいけないものを見ている面持ちで眺めていたという。
家庭の一員が呻き声を上げながら己の表皮を脱ぎ捨てている、と言い換えれば、あるいはその凄惨さが伝わってくるかもしれない。
書生と母君にとってその時間は、永遠に続くかのごとく思われていたようだが、やがてずるん、ずるんっ、ぽん、という間抜けな音が、その時間の終わりを告げた。
はっとして前方を見ると、死んだようになって地面に涎を垂らしている兄の傍らに、兄と全く同じ____ただし透明に近い乳白色で、ぺらぺらと布のような薄さの____抜け殻、つまり人皮が転がっていた。
人皮商人はその皮を丁重に、東洋モノの絨毯を扱うように慎重にくるくると丸め、至極細い紐のようなもので巻いて固定すると、周りの目から隠すようにしてさっとそれを鞄に放り込んだ。
そして母のもとにもう一度近づき、言ったという。
「最初にご説明申し上げた通り、脱皮をした者はその後、腑抜けになりますゆえ。口も聞きませんし、それどころか脱皮というのは活力を使うものですから、数日以内に死ぬやもしれません。」
哀れな幼児期の書生が聴き逃していたのは、母親がとんでもない事実を黙認していた瞬間であった。
実質的に兄が死ぬのを分かっていて、この母親は得体の知れない商人の誘いを受けたのかと、子供ながらに愕然としながらも、今からなにかがなせるわけでもない。
書生は、既に文字通りもぬけの殻になってしまった兄を憐れむしかなかった。
商人は掻き消えるようにしてその場から去っていってしまったが、後日近所から又聞きしたところ、いくつかの地域を回っては同じような____素行不良者や、疎まれている老人などを探そうとしていると、風の噂が流れていたそうである。
「隣町では、若者に嫌がらせをする厄介な老人が腑抜けにされたとか、ヤクザ崩れの不良者が脱皮をしたとか、いろいろ言われておりましたよ。にしても、そういった非行者ばかりに脱皮の素質があるというのも、不思議な話です。悪いことばかりしていると、身体に脱皮のツボができたりするんでしょうか。」
書生は真剣な顔でそう解明しようとしていたが、それまでの話を通しで聞いていた私には、ある別の意図が感じられてならないのであった。
それは、暴れん坊や厄介老人にのみ、たまたま脱皮の素質があるのではなく、善良な人を含む全人類に脱皮のツボがあるのではないかという考えである。
そうでなければ、素質があるかどうか分からないのに、地域の嫌われ者だけに狙いを定めて家々を回るのは、少々非効率な作業のはずである。
恐らく商人はその気になれば、産まれたての赤ん坊だろうが、外務省に務めるお偉方だろうが、みな区別なく脱皮させられるのだ。
しかし、例えば一国の宰相が薄皮を脱いだ変死体で発見されたり、元大蔵卿が抜け殻のみで見つかった日には、あらゆる新聞や市井の諸君が騒ぎ立てるに違いない。
ゆえに、商人は土地土地を巡りながら、死んだとしても誰も気にしない、むしろ清々するような人間だけを秘密裏に見つけ出して、「こいつは脱皮の素質がある」と一芝居打ち、腑抜けにしている____と考えることもできるだろう。
私にも、この書生にも、一度押されれば強制的に爬虫類のごとく皮を脱ぎ捨ててしまうツボがあるかと思うと、自然と背筋に冷たいものが流れる気がした。
しかし、私がもうひとつ強く気になることといえば、男が人皮「商人」と名乗っていたことである。
というのも、商人というのは物を売る側である。
すると当然、販売されている物を買う側である客がいることになる。
私には人皮を作って売る商人よりも、それを買ってなにかに使おうとしている存在の方が、心の底から不気味に思えて仕方がないのである。
怪奇作家などという奇妙な職業をしていると、このような世界の妙に思いを馳せる機会が増えるナア、などと、私は日々、どこか他人事のように考えを巡らせている。
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