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第2話: 婚約破棄は私のほうから
リゼロッテは時間をかけて身支度を整えた。
急ぐ理由はない。急ぐ相手でもない。
鏡の前で淡い藤色のドレスに袖を通し、プラチナブロンドの髪を丁寧に編み上げる。かつてならクラウスの好みに合わせて髪を下ろしただろう。今はただ、自分が好きな形に結った。
階段を降りると、アレクシスが廊下で待っていた。
「お嬢様、殿下がだいぶお待ちです」
「あら。お茶はお出ししたかしら」
「もちろんでございます。三杯目をお淹れしたところです」
「まあ、それは申し訳ないことをしましたわ」
口元が微かに弧を描いた。申し訳なさなど欠片もない笑みだった。
アレクシスはそれを見て、何も言わずに一礼した。
応接間の扉が開く。
そこにいたのは、記憶のままの男だった。
金色の髪。澄んだ碧の瞳。端正な顔立ちに浮かぶ、善意に満ちた微笑み。ルーゼリア王国第二王子、クラウス・フォン・ルーゼリア。
かつてはこの顔を見るだけで胸が痛くなった。
今は——何も感じない。
紅茶の湯気のほうが、よほど心に残る温かさだった。
「やあ、リゼロッテ。待っていたよ」
「お待たせして申し訳ございません、殿下。身支度に手間取りまして」
完璧な令嬢の微笑みを貼りつけて、リゼロッテは向かいの椅子に腰を下ろした。
クラウスは居心地よさそうにカップを置き、身を乗り出した。
「単刀直入に言おう。僕は君のために来たんだ」
「まあ。わざわざ私のために?」
「ああ。最近、社交界で君についてよくない噂が流れている。知っているだろう?」
知っている。フローラ・メイフィールドが流した噂だ。
前の人生では、この噂に怯え、弁明に必死になった。クラウスの信頼を失いたくなくて、涙ながらに訴えた。そしてそのたびに、クラウスは困ったように笑って言ったのだ——「フローラは嘘をつくような子じゃない」と。
「ええ、存じておりますわ」
「それでね、リゼロッテ。僕が君を守ってあげたいと思っている。ただ、そのためには君にも改めてほしいところがあるんだ」
出た。
この台詞。この上から目線の善意。
「君のため」という名の鎖。「正しさ」という名の檻。
三年後の断頭台まで、ずっとこの言葉に縛られて生きていた自分が、今は他人事のように思えた。
「改めるところ、ですか」
「うん。フローラに対する態度だよ。彼女はただの男爵令嬢だ。君が冷たくすると、彼女は怯えてしまう。もう少し優しく——」
「殿下」
リゼロッテは静かに遮った。
カップをソーサーに置く。磁器がかちりと小さく鳴った。
「お話の途中で失礼いたしますわ。実は、私からもお伝えしたいことがございまして」
「なんだい?」
「——婚約の辞退を、お願いしたく存じます」
室内の空気が凍った。
クラウスの碧い瞳が、理解を拒むように大きく見開かれる。
「……は?」
「婚約の辞退ですわ、殿下。この婚約は、互いにとって実りあるものではないと、私は判断いたしました」
声は凪いでいた。揺らぎも、震えもない。
「何を言っているんだ。僕たちの婚約は両家が——」
「ええ、ですから正式な手続きは父を通して進めさせていただきます。本日は、まず殿下に直接お伝えしたかっただけですの」
「待ってくれ、リゼロッテ。意味がわからない。僕は君のために——」
「殿下」
リゼロッテは微笑んだ。完璧な、一分の隙もない令嬢の笑顔。
「殿下には、聖女様がお似合いですわ」
その一言に、クラウスの表情が硬直した。
リゼロッテは立ち上がり、深く優雅に一礼した。
「短い間でしたが、お世話になりました。どうかお幸せに」
踵を返す。背中にクラウスの声が届いた。
「待て、リゼロッテ! 僕は——僕が破棄を——」
聞こえないふりをした。
廊下に出ると、アレクシスが壁際に控えていた。
「終わりましたわ、アレクシス」
「左様でございますか」
短いやりとりだった。それだけで十分だった。
リゼロッテは自分の手を見下ろした。——指先が微かに光っていた。淡い、金色の光。瞬きほどの時間で消える。
気のせいだろうか。
考える間もなく、光は消えた。リゼロッテは小さく首を傾げただけで、そのまま歩き出した。
◇◇◇
クラウスは、一人残された応接間で立ち尽くしていた。
何が起きた?
僕が来たのは、彼女を導くためだ。正しい方向に戻してやるために。
なのに——
「……なぜだ」
捨てられた。
そんな馬鹿な。僕が捨てる側だったはずだ。フローラへの仕打ちが改まらなければ、婚約を見直すと——そう告げるつもりで来たのに。
リゼロッテの最後の微笑みが、瞼の裏にこびりついていた。
あれは嘲笑ではなかった。怒りでもなかった。
あれは——諦めだ。
完全に、綺麗に、僕という存在を手放した人間の顔だった。
クラウスの手が、無意識にテーブルの縁を握りしめた。
◇◇◇
婚約辞退の噂は、驚くほどの速さで社交界を駆け巡った。
曰く、公爵令嬢の側から婚約を辞退した。曰く、第二王子は青ざめて立ち尽くしていた。曰く——リゼロッテは微笑んでいた、と。
三日後。リゼロッテは父の書斎を訪れた。
「お父様。一つ、お願いがございます」
公爵は書類から顔を上げた。婚約辞退の件以来、娘の変化に戸惑いを隠せない様子だった。
「レクルス辺境領に、私を行かせてください」
公爵の手が止まった。
レクルス辺境領。王国の果て。荒野と魔獣の地。赴任は追放と同義——貴族社会では、そう囁かれる場所だった。
「……何を言い出すかと思えば」
「私の意志ですわ、お父様」
リゼロッテの氷青の瞳は、真っ直ぐに父を見つめていた。
迷いはなかった。
あの断頭台の冷たさを知っている。社交界の華やかさの裏にある刃を知っている。
だから——もう、誰かに与えられた場所では生きない。
「自分の居場所は、自分で作りますわ」
窓の外では、夕焼けが王都の屋根を赤く染めていた。
胸の奥で、小さな炎が揺れた。恐れはない。——もう、後戻りはしない。
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