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Episode of Dinex
言葉は言う者が九割九分
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人が別の生き物になる瞬間を初めて見た。
どんな生物だって、姿かたちを変貌させるのに何百年何千年という途方もない時間を要する。進化するということはそういうことだ。ポケモンみたいに、経験値を積んだり石に触ったり通信交換されたりしただけでそうなるなんてことはない。
目の前の女の子、緑山優がここでいう「進化」を遂げたのかは甚だ疑問を呈したいところだ。何故ならば、とても苦しんでいるように見えるからだ。悲しそうに吠えているからだ。
「ぐううおおおーーーーーー!!!」
嗚咽を通り越し、ただ自分の喉をも壊さんとする咆哮は、原動力が怒りであることを物語っている。人間への怒り。人間への憎しみ。自分の平穏を脅かす人間という種、そのものが憎い。だからこそ、近くにいた大熊を取り込んで、自分の中の人間要素をできる限り薄めようとしているのかもしれない。
それもこれも、俺が隙を与えてしまったせいだ。
シャボンミラージュのシャボン玉で注意を散漫させることには成功した。そしてその間に、優に真実を伝えることにも成功した。
だが、その場にいたのは俺と優だけではなかった。そもそも転移者の記憶を奪うためにやって来ていた、このディネクスという国の国王オウグと、その付き人忍者のカゲロー。彼らの妨害によって全て台無しとなった。
いや被害者のように語るなんてできない。烏滸がましい。
これは俺のせいなのに。
俺の不幸が優を巻き込んでしまったが故なのに。
彼らの妨害を考慮することが出来なかった、俺のせい。
だからこそ、これは俺の責務なのだ。彼女をこの呪いから解き放つのは、義務だ。
だがすべきことが見えてこない。俺が真実を伝えたとしても、さっきみたいに跳ねのけられて終わりだ。信じてもらえない。
彼女の心の壁をぶち破る何か。それがいない限り、彼女を止めることは誰にもできない。
幸い今、暴走している野生動物がオウグとカゲローの注意を引いている状態である。動くなら今しかない。
ゾワッ!!
背筋が凍る。この感じ、嫌な予感である。自身の体が上半身と下半身で、ズタズタの断面で切り裂かれる不幸な未来が見えた。瞬間、反射神経が働き、俺の体勢は傍から見たら急に何の脈絡もなく背中を足元の泥に身体を預ける様子になる。
俺の見た嫌な予感通り、優は自身の大きな右熊手をふり被る。そして俺のイナバウワーな体勢になった腹の上スレスレを、引き裂いた。空間が削り取られたような風圧。生物の腕を振り回して発生するそれではない。体勢
嫌な予感とは違う背筋の冷たさを感じた。恐怖的な悪寒を感じているのは感じているのだが、これに関しては単純な話。忍者カゲローが繰り出した、足場を泥だらけにして足止めをさせる魔法により、足首まで泥が敷き詰められていたのだ。そして膝を折り曲げたことで体は崩れるように倒れていき、その泥と背中が接触したというだけの話である。
だがそれは同時に、上半身も動けなくなったことを意味していた。
「やばっ!」
優は悠然と、ふり抜いた右腕を、次は頭上に配置する。
これは、さっきより、危険だ。
先ほどは腕の力100パーセントであった。腰の力をも使わず、ただ腕を右から左へ素早く動かしただけ。だが今回は、重力が加わる。どころか、大きな熊と同化した優の上半身全ての重みに重力加速度が乗算され、その手の力は先ほどとは比べ物にならない破壊力を帯びている。人の体なんてまな板の上の豆腐も同然だろう。
という、嫌な予感を、抱かずにはいられない。
俺は右に体を転がそうとするが、ダメだ。もう背中が泥に半分ほど飲み込まれている。右に体重を傾けようにも、右半身に体重が加わって、それ以上動かない。
「くっ」
悪態を付いたとて、泥が口に入るだけ。何も状況が変わらない。
野生動物の鋭く光る眼が、蟻を見下ろす人間のように、見下している。そして何の感情もなく、その手を振り上げる。
だが、その爪が俺に突き立てられることはなかった。
「シューティングスター!」
そう言い放った女性の声と共に、大きい熊の頭の上から、いくつもの石が飛ばされる。それは大地属性で生成した石を風属性で吹っ飛ばすという原理の技。
この技名を聞くのは、初対面から二回目だった。
「カレン!」
空を舞う姿はまるで蝶。空にきらめく星々が鱗粉にも見え、闇夜に人型のシルエットが飛び上がっていた。
彼女は前もこうして上から助けてくれたっけか。
そして彼女は着地する。ちゃぷんと近くで足が沈む音がした。
そして俺の左腕を持ち、思いっきり引っ張る。俺はその力に加えて、自分で起き上がるように努め、泥から脱出することができた。右半身が泥だらけである。
「うえぇ汚い、はい流水!」
カレンは呆れたような口調で、まるで面倒くさくできれば率先してやりたくない事務作業のように、俺に杖を突きつけて水魔法を放った。びちょびちょだ。しかし泥は落ち、流れる水は足場の泥の濃度を薄くした。ぬかるんで一歩も動けないという状態ではなくなったか。
「ありがとうカレン...っ!」
だが気になるのは、泥に沈みかけていた俺を引き上げ、更に体についた泥を水で落とす余裕が何故あるのかってことだ。
慌てて優の姿を見る。彼女はカレンをじっくりと見ていた。
いや違う、優が見ているのはカレンではない。カレンが肩に乗せている老犬を見ているのだ。その姿は、俺が以前見かけた、優が檻に閉じ込められていることを知らせてくれた、喋る犬だった。
優が動きを、止めている。
優の顔には闇が依然として込められていて表情がまるで読めない。だが、闇のなかで、一匹のか弱い命を見つめていた。じっくりと、その犬を見つめている。
動きを...止めた!?ダメだ、動きが止まっているときは、チャンスなんだ。彼らを止めなければ!
「カレン!」
「分かってる!」
俺は泥の中から出てくるカゲローを、カレンはいつの間にか優の背後に近づいたオウグを止めた。二人が優に触れないように、優と二人の間に入ったのだ。
「そこを退くんだ。じゃないと君から先に記憶を奪うことになる」
オウグは切羽詰まっているようで、声音がとても慌ただしくなっていた。焦りがピークに達している。
「...記憶?王様、あなたまさか、あなたが、あなたがそうなの?」
焦りの声音とは裏腹に、カレンの言葉には、感情が煮えたぎっていた。沸々と、グツグツと、鍋肌に触れるシチューが焦げかねない熱量が、視線に帯びられて、一人の男に注がれた。
「カレン、そうか、君は転移者の記憶喪失には理解が無いほうだったね、だがこれは転移者の為に──」
「うるさい。」
言葉は、無くても伝わった。彼女の心はすでに、沸点を超えている。
「御託はいいの。私は貴方から奪われた人の記憶を、人生を返してほしいだけ」
冷ややかな声に、オウグもその感情をいい加減悪くする。
「転移者の記憶には、自分の体を崩壊させる呪いがあるんだよ、君は転移者に『死ね』というのかい?」
二人の険悪な空気の中で、カレンの肩に乗っかる小さな命が俺の肩にぴょんと飛び乗った。
「がう(また会ったなガキ、元気しとったか)!?」
その犬を見て、俺は返事をする前に、ある考えが頭に浮かんだ。
こいつは、優の何かなのか?だから優はこいつを見たときから、動きを止めているのか?その様子を見て思った。こいつは優の特別なのではないかと。
「お前は、優の家族か何かなのか?」
「がお(わしは優の兄貴みたいなもんじゃ)」
視線は自ずと、優の方へと向いていた。多分肩の上のこいつも、ずっと優を見ていたんだ。記憶を失ってもずっと見守っていた。だから彼女を助けるために、藁をもすがる思いで俺に頼った。自分は非力であることを知っているから。
「カレン、二人を全力で足止めしてくれ、俺は絶対に飼育員ちゃんを、優を元に戻すから」
「え、」
と一瞬驚いて、視線を大きな熊の化け物に向けた。きっと飼育員ちゃんこと、優があの大熊と同一人物であると分からなかったのだろう。その優はまだその巨体を動かさずに、ずっと俺の肩の老犬を見つめている。
カレンは事情を悟ったか、杖をもう一本左手に構え、カゲローとオウグに向ける。
「分かった、背中は任せて」
カレンが二人を足止めしてくれる。ならば、俺は全力で優の相手をすることができる。優の心を開いて、闇を取り払い、真実を信じてもらう。その証人は俺の肩に乗っかっていた。
この世界では、言語によるコミュニケーションではない。思いを魔力として、もとい創造力として放つことで、対象人物に気持ちを伝えることができる。だからこそ優は動物たちと思いを通わせることができた。動物たちに思いを通わせるに足ると判断されているから、以心伝心ができるのだ。
そして、この喋る犬も同じ原理。こいつならば、優にありったけの思いをぶつけることができる。それに優の家族であるこいつならば、優の心にも伝わりやすいだろう。俺はそのサポートをしてやるんだ。
「おい犬、お前の思いをぶつけるんだ!」
さぁやれ!と優に向けて指をさす。そして肩から、猛々しい遠吠えが放たれた。
ワオン!
「ぐおおおおーーーーーー!!」
吠える。さっきの犬は何かの間違いだ。人間が間違っているんだ。人間が悪い。そう言い聞かせるように、さっきのワオンをかき消すように、叫んだ。だがそれは優の心に響いている証拠でもあった。効いているからこそ、聞いているからこそ、優は反応せずにはいられない。
普通に語り掛けるのではダメだ、何か優の心の隙間をついて、この老犬の思いをねじ込むくらいでないといけない。だがそんな油断どうやって作ればいいんだ。
優の遠吠えに反応したのか、周囲の動物達であった。彼らが共鳴するように、鳴く。吠える。叫ぶ。
「がおおおおおおおおおおおおお」
「ぴゅおおおおおおおおおおおおお」
「にゃおおおおおおおおおおおおお」
「ぎゃおおおおおおおおおおおおお」
彼らは言っている。
「(我々は止まらない。人間という種を望まない。それが優の望み)」
その共鳴に、優の中の大熊も反応する。
優の心にまた怒りの壁が出来上がる。これでは思いが伝わらない。
こいつらをどうにかするのが、俺の役目ということか。
俺は再び、シャボンミラージュを創造し、それを思いっきり振り回した。
周囲に鏡のような表面のシャボン玉が無際限に作られる。それを見て鳥や猪、鹿たちが注意を散漫させた。
だが目の前の優は、もうそんな子供騙しには乗らなかった。
真っすぐな眼光が、シャボン玉には目もくれずに俺を見る、突き刺すように。
そんな視線に負けじと、肩から身を乗り出して、喋る犬は声をかけ続ける。
がおん!だが優はもう勢いに乗ってしまっている。止まることはできない。水浸しの地面を踏み締めて、一気に俺との距離を縮め、突進と共に右前足の鋭い爪を突き立てる。
ゾワッ!!
やばい、この嫌な予感は、マズイ。
「どっち」に転んでもダメだろう、これ。
今までは回避する術を瞬時に思いつき、不幸を幾度となく回避してきた俺だが、この不安定な足場、そして肩の犬を守りながら、優を心の闇から解放してあげる。そんなことができる手段が、俺には、もうたった一つしか、思い浮かばなかった。
俺は身を退くことはせず、肩の犬を頭上に放り投げた。このまま身を退いても、前のめりになったこの犬は回避行動に置いて行かれて、優の爪に引き裂かれることだろう。
そして、優は自分の手で愛する家族を殺めてしまったことによる絶望から、もう立ち直れないほどの自暴自棄に陥り、オウグの言うところの「呪い」によって、自分を殺してしまうだろう。
「俺がそんな不幸を、俺が読めないと──」
ぐしゃり。左肩から胴体に向かって、三つ四つの爪痕が伸びる。その力によって態勢が崩れ、視界の角度が右に90度ほど歪む。胸からは真っ赤な血がはじけ飛び、痛みが一瞬で頂点に達した。
泥に倒れ、意識が薄れる最中、上空からワオン!という力強い叫び声が響いていた。
どんな生物だって、姿かたちを変貌させるのに何百年何千年という途方もない時間を要する。進化するということはそういうことだ。ポケモンみたいに、経験値を積んだり石に触ったり通信交換されたりしただけでそうなるなんてことはない。
目の前の女の子、緑山優がここでいう「進化」を遂げたのかは甚だ疑問を呈したいところだ。何故ならば、とても苦しんでいるように見えるからだ。悲しそうに吠えているからだ。
「ぐううおおおーーーーーー!!!」
嗚咽を通り越し、ただ自分の喉をも壊さんとする咆哮は、原動力が怒りであることを物語っている。人間への怒り。人間への憎しみ。自分の平穏を脅かす人間という種、そのものが憎い。だからこそ、近くにいた大熊を取り込んで、自分の中の人間要素をできる限り薄めようとしているのかもしれない。
それもこれも、俺が隙を与えてしまったせいだ。
シャボンミラージュのシャボン玉で注意を散漫させることには成功した。そしてその間に、優に真実を伝えることにも成功した。
だが、その場にいたのは俺と優だけではなかった。そもそも転移者の記憶を奪うためにやって来ていた、このディネクスという国の国王オウグと、その付き人忍者のカゲロー。彼らの妨害によって全て台無しとなった。
いや被害者のように語るなんてできない。烏滸がましい。
これは俺のせいなのに。
俺の不幸が優を巻き込んでしまったが故なのに。
彼らの妨害を考慮することが出来なかった、俺のせい。
だからこそ、これは俺の責務なのだ。彼女をこの呪いから解き放つのは、義務だ。
だがすべきことが見えてこない。俺が真実を伝えたとしても、さっきみたいに跳ねのけられて終わりだ。信じてもらえない。
彼女の心の壁をぶち破る何か。それがいない限り、彼女を止めることは誰にもできない。
幸い今、暴走している野生動物がオウグとカゲローの注意を引いている状態である。動くなら今しかない。
ゾワッ!!
背筋が凍る。この感じ、嫌な予感である。自身の体が上半身と下半身で、ズタズタの断面で切り裂かれる不幸な未来が見えた。瞬間、反射神経が働き、俺の体勢は傍から見たら急に何の脈絡もなく背中を足元の泥に身体を預ける様子になる。
俺の見た嫌な予感通り、優は自身の大きな右熊手をふり被る。そして俺のイナバウワーな体勢になった腹の上スレスレを、引き裂いた。空間が削り取られたような風圧。生物の腕を振り回して発生するそれではない。体勢
嫌な予感とは違う背筋の冷たさを感じた。恐怖的な悪寒を感じているのは感じているのだが、これに関しては単純な話。忍者カゲローが繰り出した、足場を泥だらけにして足止めをさせる魔法により、足首まで泥が敷き詰められていたのだ。そして膝を折り曲げたことで体は崩れるように倒れていき、その泥と背中が接触したというだけの話である。
だがそれは同時に、上半身も動けなくなったことを意味していた。
「やばっ!」
優は悠然と、ふり抜いた右腕を、次は頭上に配置する。
これは、さっきより、危険だ。
先ほどは腕の力100パーセントであった。腰の力をも使わず、ただ腕を右から左へ素早く動かしただけ。だが今回は、重力が加わる。どころか、大きな熊と同化した優の上半身全ての重みに重力加速度が乗算され、その手の力は先ほどとは比べ物にならない破壊力を帯びている。人の体なんてまな板の上の豆腐も同然だろう。
という、嫌な予感を、抱かずにはいられない。
俺は右に体を転がそうとするが、ダメだ。もう背中が泥に半分ほど飲み込まれている。右に体重を傾けようにも、右半身に体重が加わって、それ以上動かない。
「くっ」
悪態を付いたとて、泥が口に入るだけ。何も状況が変わらない。
野生動物の鋭く光る眼が、蟻を見下ろす人間のように、見下している。そして何の感情もなく、その手を振り上げる。
だが、その爪が俺に突き立てられることはなかった。
「シューティングスター!」
そう言い放った女性の声と共に、大きい熊の頭の上から、いくつもの石が飛ばされる。それは大地属性で生成した石を風属性で吹っ飛ばすという原理の技。
この技名を聞くのは、初対面から二回目だった。
「カレン!」
空を舞う姿はまるで蝶。空にきらめく星々が鱗粉にも見え、闇夜に人型のシルエットが飛び上がっていた。
彼女は前もこうして上から助けてくれたっけか。
そして彼女は着地する。ちゃぷんと近くで足が沈む音がした。
そして俺の左腕を持ち、思いっきり引っ張る。俺はその力に加えて、自分で起き上がるように努め、泥から脱出することができた。右半身が泥だらけである。
「うえぇ汚い、はい流水!」
カレンは呆れたような口調で、まるで面倒くさくできれば率先してやりたくない事務作業のように、俺に杖を突きつけて水魔法を放った。びちょびちょだ。しかし泥は落ち、流れる水は足場の泥の濃度を薄くした。ぬかるんで一歩も動けないという状態ではなくなったか。
「ありがとうカレン...っ!」
だが気になるのは、泥に沈みかけていた俺を引き上げ、更に体についた泥を水で落とす余裕が何故あるのかってことだ。
慌てて優の姿を見る。彼女はカレンをじっくりと見ていた。
いや違う、優が見ているのはカレンではない。カレンが肩に乗せている老犬を見ているのだ。その姿は、俺が以前見かけた、優が檻に閉じ込められていることを知らせてくれた、喋る犬だった。
優が動きを、止めている。
優の顔には闇が依然として込められていて表情がまるで読めない。だが、闇のなかで、一匹のか弱い命を見つめていた。じっくりと、その犬を見つめている。
動きを...止めた!?ダメだ、動きが止まっているときは、チャンスなんだ。彼らを止めなければ!
「カレン!」
「分かってる!」
俺は泥の中から出てくるカゲローを、カレンはいつの間にか優の背後に近づいたオウグを止めた。二人が優に触れないように、優と二人の間に入ったのだ。
「そこを退くんだ。じゃないと君から先に記憶を奪うことになる」
オウグは切羽詰まっているようで、声音がとても慌ただしくなっていた。焦りがピークに達している。
「...記憶?王様、あなたまさか、あなたが、あなたがそうなの?」
焦りの声音とは裏腹に、カレンの言葉には、感情が煮えたぎっていた。沸々と、グツグツと、鍋肌に触れるシチューが焦げかねない熱量が、視線に帯びられて、一人の男に注がれた。
「カレン、そうか、君は転移者の記憶喪失には理解が無いほうだったね、だがこれは転移者の為に──」
「うるさい。」
言葉は、無くても伝わった。彼女の心はすでに、沸点を超えている。
「御託はいいの。私は貴方から奪われた人の記憶を、人生を返してほしいだけ」
冷ややかな声に、オウグもその感情をいい加減悪くする。
「転移者の記憶には、自分の体を崩壊させる呪いがあるんだよ、君は転移者に『死ね』というのかい?」
二人の険悪な空気の中で、カレンの肩に乗っかる小さな命が俺の肩にぴょんと飛び乗った。
「がう(また会ったなガキ、元気しとったか)!?」
その犬を見て、俺は返事をする前に、ある考えが頭に浮かんだ。
こいつは、優の何かなのか?だから優はこいつを見たときから、動きを止めているのか?その様子を見て思った。こいつは優の特別なのではないかと。
「お前は、優の家族か何かなのか?」
「がお(わしは優の兄貴みたいなもんじゃ)」
視線は自ずと、優の方へと向いていた。多分肩の上のこいつも、ずっと優を見ていたんだ。記憶を失ってもずっと見守っていた。だから彼女を助けるために、藁をもすがる思いで俺に頼った。自分は非力であることを知っているから。
「カレン、二人を全力で足止めしてくれ、俺は絶対に飼育員ちゃんを、優を元に戻すから」
「え、」
と一瞬驚いて、視線を大きな熊の化け物に向けた。きっと飼育員ちゃんこと、優があの大熊と同一人物であると分からなかったのだろう。その優はまだその巨体を動かさずに、ずっと俺の肩の老犬を見つめている。
カレンは事情を悟ったか、杖をもう一本左手に構え、カゲローとオウグに向ける。
「分かった、背中は任せて」
カレンが二人を足止めしてくれる。ならば、俺は全力で優の相手をすることができる。優の心を開いて、闇を取り払い、真実を信じてもらう。その証人は俺の肩に乗っかっていた。
この世界では、言語によるコミュニケーションではない。思いを魔力として、もとい創造力として放つことで、対象人物に気持ちを伝えることができる。だからこそ優は動物たちと思いを通わせることができた。動物たちに思いを通わせるに足ると判断されているから、以心伝心ができるのだ。
そして、この喋る犬も同じ原理。こいつならば、優にありったけの思いをぶつけることができる。それに優の家族であるこいつならば、優の心にも伝わりやすいだろう。俺はそのサポートをしてやるんだ。
「おい犬、お前の思いをぶつけるんだ!」
さぁやれ!と優に向けて指をさす。そして肩から、猛々しい遠吠えが放たれた。
ワオン!
「ぐおおおおーーーーーー!!」
吠える。さっきの犬は何かの間違いだ。人間が間違っているんだ。人間が悪い。そう言い聞かせるように、さっきのワオンをかき消すように、叫んだ。だがそれは優の心に響いている証拠でもあった。効いているからこそ、聞いているからこそ、優は反応せずにはいられない。
普通に語り掛けるのではダメだ、何か優の心の隙間をついて、この老犬の思いをねじ込むくらいでないといけない。だがそんな油断どうやって作ればいいんだ。
優の遠吠えに反応したのか、周囲の動物達であった。彼らが共鳴するように、鳴く。吠える。叫ぶ。
「がおおおおおおおおおおおおお」
「ぴゅおおおおおおおおおおおおお」
「にゃおおおおおおおおおおおおお」
「ぎゃおおおおおおおおおおおおお」
彼らは言っている。
「(我々は止まらない。人間という種を望まない。それが優の望み)」
その共鳴に、優の中の大熊も反応する。
優の心にまた怒りの壁が出来上がる。これでは思いが伝わらない。
こいつらをどうにかするのが、俺の役目ということか。
俺は再び、シャボンミラージュを創造し、それを思いっきり振り回した。
周囲に鏡のような表面のシャボン玉が無際限に作られる。それを見て鳥や猪、鹿たちが注意を散漫させた。
だが目の前の優は、もうそんな子供騙しには乗らなかった。
真っすぐな眼光が、シャボン玉には目もくれずに俺を見る、突き刺すように。
そんな視線に負けじと、肩から身を乗り出して、喋る犬は声をかけ続ける。
がおん!だが優はもう勢いに乗ってしまっている。止まることはできない。水浸しの地面を踏み締めて、一気に俺との距離を縮め、突進と共に右前足の鋭い爪を突き立てる。
ゾワッ!!
やばい、この嫌な予感は、マズイ。
「どっち」に転んでもダメだろう、これ。
今までは回避する術を瞬時に思いつき、不幸を幾度となく回避してきた俺だが、この不安定な足場、そして肩の犬を守りながら、優を心の闇から解放してあげる。そんなことができる手段が、俺には、もうたった一つしか、思い浮かばなかった。
俺は身を退くことはせず、肩の犬を頭上に放り投げた。このまま身を退いても、前のめりになったこの犬は回避行動に置いて行かれて、優の爪に引き裂かれることだろう。
そして、優は自分の手で愛する家族を殺めてしまったことによる絶望から、もう立ち直れないほどの自暴自棄に陥り、オウグの言うところの「呪い」によって、自分を殺してしまうだろう。
「俺がそんな不幸を、俺が読めないと──」
ぐしゃり。左肩から胴体に向かって、三つ四つの爪痕が伸びる。その力によって態勢が崩れ、視界の角度が右に90度ほど歪む。胸からは真っ赤な血がはじけ飛び、痛みが一瞬で頂点に達した。
泥に倒れ、意識が薄れる最中、上空からワオン!という力強い叫び声が響いていた。
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