二重螺旋

近藤タケル

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二重螺旋

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 バチン、と体に衝撃が走った。
 僕は目覚めた。ひどく汗をかいているようだった。呼吸は荒く、心臓の音が高鳴っているのが分かる。顔や耳や首までもが、焼けるように熱い。腕や足は石のように固くなっており、指先がびりびりと痺れている。
 ここはどこだろうか。ほとんど周りの様子は分からない。どうにか直感で分かるのは室内であることと、それほど広い部屋ではないということ。そして何というか、ひどく無機質な空間であることも分かった。ほとんど何も見えない暗闇の中で、僕に与えられた情報はそれだけだった。
 他人のもののような手足を引きずって、僕はゆっくりと時間をかけてはいつくばって前に進んだ。今までもたれかかっていた壁から少し進んだだけで、奇妙な鉄格子を見つけた。学生の頃によく見ていた映画で同じものを見たことがある。その映画の主人公がいかにしてこれを突破するか……そのようなありふれた、それでいて僕のような人間にとっては絶望的な檻の鉄格子だった。相変わらず呼吸は荒く、汗は次々に流れて落ちる。その中でようやく僕の脳が理解したのは、ここが監獄のような場所であるという、漠然としていて滑稽な現実だった。
 僕は捕らえられているのか? ここは一体どこなんだろう?
 鉄格子に手をかけて、不思議と僕はしばらく固まっていた。確か映画では、最初に主人公が捕らえられたとき、僕と同じように鉄格子を掴んでいたことを他人事のように思い出した。彼は精力的に檻を揺さぶり、ひどく汚い言葉……確かアメリカの映画だったから、英語でスラングを次々に叫んでいた。するとやがて屈強な看守がやってきて、その男を痛めつけるのだ。だが僕はそうしなかった……というよりできなかった。あまりに事態が突然すぎると、人間はどうやらそんなこともする気にならないらしい。両手に確かに伝わる冷たさだけをしばらく感じていた。見苦しく取り乱したほうがよっぽど楽だと思ったが、僕はそのまま固まっていた。
 そういえば、もし仮にここが監獄あるいは独房か何かならば、他にも同じような部屋があるのだろうか? 映画では雑居房だとか独房だとかいろいろあったような気がする。他に誰かいるのだろうか。体中にタトゥーの入った筋骨隆々の白人、黒人。みな一様につなぎのような囚人服を着て、中庭でバスケットボールをしている映像が思い出された。監獄と言えばそういう場所で、僕のようなひ弱な人間が入るところではないのだ。そう考えると何だか腹が立ってきた。どうして僕がこんなところにいなくてはいけないのだろう。誰かが悪意をもって僕をここに押し込めたに違いない。なぜなら僕には、罪を犯した覚えがないからだ。
 そんなことを考えながら闇の中に目を凝らしていると、やはり僕の思ったとおり他にも同じような部屋が並んでいるように思えた。確信が得られなかったのは、他の部屋も通路でさえも、普通ではないほど暗かったからだ。これでは囚人が悪さをしてしまうじゃないか。そう思ったところで、僕は頭を振った。僕は囚人ではないのに、何を考えているんだ。その弾みで、僕の手が握る格子がほんのわずか音を立てた。
 その瞬間、僕は確かに向かいの独房の衣擦れを聞いた。誰かがいる。
僕は思わず声を上げた。
「誰か、いるのか?」
しばらく返事はなかったが、寝息にも似たかすかな呼吸音がする。誰かがいるというだけで、僕の心に活力が湧いてきた。
「そこに誰かいるんだろう。ここはどこなんだ。僕はどうしてこんなところにいるんだ?」
呼吸音の主が、静かにひとつため息をついたようだった。暗闇からしわがれた低い声が返ってきた。
「目覚めたか」
「ここはどこなんだ」
知らず識らず、僕の語気は荒くなりつつあった。
「見れば分かるだろう」
がさがさしたノイズのような声は、反対に落ち着き払っていた。
「冗談じゃない、僕が何をしたっていうんだ。あんた何か知っているのか? 一体何だって言うんだ」
「ふふふ。今に分かる」
咳き込んだように低く笑う男に、僕はとうとう頭に血が昇って大声を出した。
「何がおかしいんだ」
 「大声を出すと看守が来る。寿命が縮まる」
 親切心なのか保身なのか。あるいはその両方なのか。妙に言い慣れた男の雰囲気に僕は息を呑んだ。それでも一瞬の後には、自分のおかれた理不尽な状況に対して、不満を漏らさざるを得なかった。ところが、男の言った『看守』という言葉に恐ろしい気持ちが生まれたのか、僕の気持ちはろくに声にならずに奇妙なうめき声となって漏れ続けるだけだった。男の冷たい目が、向こうの牢獄で時々光るのが見えた。
 「覚えてないのか」
 男は唐突にそれだけ言った。一体何を覚えているというのか。暗闇に突然放り出されて、全く訳が分からない僕をからかっているだけのように思えてならなかった。いや、きっとそれが目的に違いない。僕は一瞬その言葉を聞いてあっけにとられたが、次の瞬間にはかっと頭に血が昇った。
 「あんた、何か知ってるのか」
 感情的な僕の声は、無限に続くような気さえする暗闇に響き渡った。
 その瞬間、ばちん、と体が爆ぜたような感覚に襲われて、すぐに僕の意識は閉ざされた。

 ぼんやりと向こうが明るい。
 起きているのか、まだ気絶しているのか最早分からなかったが、僕は反射的に光に向かってもがこうとした。だが、体がうまく動かない。
 混乱しているところに、僕は光の中に人影を認めた。かすかで小さな人影。姿形は幼い女の子に見えた。そういえば背景の光はオレンジがかった色合いで、それを抵抗もできずに見つめていると、夕焼けの公園で一人立っている女の子のようにも見えた。何だかそれが無性に懐かしいような気がして、胸の奥がちりちりした。
 その光景は、灯りのスイッチを消すように突然消えた。僕の目の前には再び闇が広がり、手足の感覚が戻ってきた。手足の電気的な痺れと床の硬く冷たい感触がじわじわと僕を蝕んでいるのが分かった。
 どうにか呼吸をつなぎながら、ようやく寝返りを打った。息をすることも、体を自発的に転がすことも、これほど意識を集中させなければいけないのかと生まれて初めて思った。人間は普段から、途方もなく精密で複雑な動きを意識せずにこなしているのかと、この場に似つかわしくないことも考えをよぎった。
 時間をかけてうつ伏せになり、顔を上げると先ほどと違う物を見つけた。ぼやける視界の中ではそれはペットボトルに見えた。このすぐあとに分かったことだが、それは僕の知っているペットボトルとは形以外まるで別物だった。手が触れた感触は、かつて仕事帰りに買って飲んだペットボトルとは異なるものだ。少し持ち上げた感触から、中身は入っているようだった。その筒……ペットボトル? の先端は奇妙にうねり、ストローのようになっていた。飲めということだろうか。飲めるものなのかは分からなかった。
 「飲んでおけ」
 向こうの牢獄からかすれた咳のような声がした。
 「無理に答えなくていい。何も分からなくてもいい。だが飲んでおけ」
 僕にできることは、従うことしかなかった。ようやく口元に容器を運んで、恐る恐る口に含んでみた。味わったことのないものだったが、どうも毒ではないらしいことは分かった。少し口に含んで、おかしな様子があったらすぐに吐き出してやろう。そう思っていたのだが、体はその容器の中に満たされた液体を求めていた。
 僕は起き上がって、喉を鳴らして容器の液体を飲み干した。どことなく、昔部活のときに飲んだスポーツドリンクの味に似ているような気がした。全力で体を動かしたあとに一気に飲むスポーツドリンクは最高に好きだった。あの頃は、友だちがいて、先生がいて……みんなどうしているのだろうか。僕が捕まっている理由を知っているのだろうか。僕は自分のやったことを忘れてしまっているのだろうか。自分が大事件を犯して、全国のニュースやワイドショーで報道されていたら、みんなにとても合わせる顔がない。自分が永遠にここから出られないことも恐ろしかったが、何かの拍子に、たいへん幸運なことに外に出られたとしたら、僕はどんな顔をしてみんなのところに戻ればいいのか。戻れても戻れなくても、その後のろくな想像が浮かんでこない。
 飲み干した容器を床に落として、僕は泣いた。暗闇の中で目を閉じて泣くと、自分の涙の頬を伝う感触がやけに温かく感じられた。
 「前は泣くことなどなかったのにな」
 男が小さく……本当に小さくそう呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。視界の歪む中男がいるらしきほうを凝視して、僕は小声で言った。
 「何を言っている。あんた、何を知っているんだ」
 「ゆっくり思い出すといい。ふふ」
 その日は、男はそれ以上何も話さなかった。

 しばらく過ごすうちに、ここの生活は恐ろしく規則的なことが分かった。一日に何度かあの容器が配給されてきた。気がつくといつの間にか部屋にあるので、最初はその都度腰を抜かすことになった。暗闇の中ではやることがないので、僕は試しに、容器の補給の間隔を数えてみることにした。時計も、太陽も星も月すらも分からないこの閉鎖空間では、心のなかでじっと数えるほかなかった。
 すると、大体四時間おきに容器が出現することが分かった。
 それ以外にも、僕はしばらく時間をかけていろいろなことを調べた。
 最初に気になったのはやはり容器に満たされている液体の成分だった。毎回まったく同じ味だった。なんと言えばいいか……甘酸っぱいドリンク、というのがいちばん乱暴な表現だが、いちばん近い。飲んでからふらふらしたりぼーっとしたり、体に不調が現れることはなかったし、すぐに死んでしまうようなものでもないことは分かった。元気は出てこないが、調子が悪くもならない。一定の体調を保つための薬品かなにかが混ぜられているのだろうか? だが、それ以上手がかりはなかったので、これ以降の考えは浮かばなかった。
 僕がそうしてあれこれしている間中、向かいの男はずっと僕を伺っていたようだった。この男に話を聞いてみたいが、無闇に突撃してもまた同じ結果になることは分かっていたので、こちらも交渉になるためのカードを揃えて、友好的に関係を築こうと思っていた。この男は僕の知らない何かを知っている。僕にとっていいことなのかは分からない……きっとそんなはずはないだろう……が、何かされるにしても何も知らないままというのは本当に嫌だった。
 ええと、何だったか。昔他人と仲良くなるときには、いろいろ気をつけるべき点があると何かの本で読んだ気がする。あるいは会社の新人研修だったか……それはこの際どうでもいい。見知らぬ人と話すときは天気の話、季節。住んでいた場所に、趣味……政治や宗教など、微妙な問題は避けて、とにかく相手を知ろう。もし男が何かを言ったらどんどん質問をして話を深めて、とにかく男に話させる。途中で遮らず、反論もアドバイスもしない。男に好き勝手にしゃべらせて、その中から材料が拾えればいい。ここまで考えをまとめるまで二~三日は経っていた。
 問題は、外の様子が分からないこの部屋では、天気や四季の話題は使えないこと。勝手に話をしていたら、また看守が来るのかもしれないということ。男に嫌われないように機嫌を損ねず、様子を見ながらかつ答えを焦らないこと。会社にいた頃だって、こんなに気を遣っていたかは分からない。それでもやるしかない。
 ある日僕は、思い切って男に話しかけた。
 「起きてるか」
 「あぁ」
 がさがさとすぐに声が返ってきた。
 「食事の間隔はきっかり四時間。天気も季節も、時間すらもここには関係ない」
 僕はがつんと顔面を殴られたかのような気がした。この男は、僕がここまで時間をかけてめぐらせた行動と思考を、とっくにご存知だったのだ。だが、相手を怒らせてはいけないということを、すんでのところで思い出した。
 「そう分かった。その上で、あんたにいくつか聞きたいことがある」
 少しの沈黙のあと、言葉が返ってきた。
 「なるほど。今回はなかなか自制が効くじゃないか。いいだろう。何だ」
 「あんた、出身はどこだ」
 「◯✕県だった」
 「そうか。産業が盛んなところだったな」
 「ずっと昔はそうだった。だが、今はそうじゃない」
 「どういう意味だ」
 「言葉通りだ。さて、次は何を聞きたい?」
 男の妙な含みのある言葉に、僕はあやうく取り乱しそうになった。だが、それでは男の思うつぼだ。第一、この男を怒らせてしまって今後何も聞けなくなったら、それこそ絶望だ。闇の中で話し相手がいるということが、これほど身にしみて嬉しいものなのか。僕は一つ深呼吸をして、男に言った。
 「あんた、ここに来る前はどんな趣味をもっていたんだ?」
 「そうきたか」
 がさがさと低く笑う男の声は、不気味な森の中の葉擦れの音のようにも聞こえた。恐ろしかったが、僕は辛抱した。
 「かつてはいろいろ。だが、名前がよく思い出せない」
 「部屋の中で楽しむものか?」
 「そうだ。周りがやけに騒がしかった気がする」
 「パチンコとか、スロットとか……そういうギャンブルだろうか。部屋の中……といえるのかは定かではないが、スポーツ観戦とか」
 ぐつぐつと笑いながら、男の声がした。
 「なるほど、パチンコか。ずいぶんと久しぶりに、その単語を聞いた」
 「タバコに、酒」
 「うむ。そのようなものもあった」
 「僕にもタバコや酒、ギャンブルなんかを嗜む機会があったような気がするよ。独特のあのがちゃがちゃした雰囲気、派手な板の前で、背中を丸めて一様に小さなハンドルを回している大の大人たち。もう一つ思い出した。うちの妻は酒を認めてくれたが、タバコはとうとう許してはくれなかった。妻の不在の日に娘の前でタバコを吸ったことがバレた日は、それはもう大目玉をくらったような気がする」
 僕がそこまで言ったところで、男の返事が途切れた。
 「おい。どうしたんだ。何か気に障ることを言ったのか」
 ずいぶんと長い間があって、男が答えた。
 「奥さんはどんな人だった?」
 僕ははっと固まった。今まで脳内にはありありと妻と娘の笑顔が浮かんでいたのに、顔だけが塗りつぶされたように思い出せない。どうして最愛の妻と娘を思い出せないんだ?
僕がとうとう焦りだすと、男の声は焦らすように言った。
 「今日はここまで。また明日。ふふふ」
 その日は、それ以降男に何を話しかけても、僕の声は虚空の中に消えるだけだった。

 男の最後の言葉から、食事が二回あった。途中何度か意識が怪しくなったが、昼も夜もないこの空間では睡眠など満足にとれなかった。いつ何が起きるか分からない恐怖が、心身ともに僕を確実に蝕んでいることだけは、はっきりと自覚していた。男の様子を時々伺っても、生きているのか死んでいるのか分からないほど物音一つしないときもあれば、わずかに何かを引きずるような音だけがするときもあった。彼はどういう人物なのだろう。名前は……名前?
 僕は頬を汗が伝うのを感じた。体がこわばってくる。
 (僕の名前は……何だ?)
 「ごきげんよう」
 男の声がした。
 「僕の、僕の名前は何と言う名前だった?」
 男はしばらく黙っているようだった。いや、声を押し殺して笑っているようにも思えた。
 「なぁ、教えてくれないか」
 「今度のお前は、ずいぶん物忘れがひどいんだな」
 「それはどういう意味だ」
 「言葉通りさ。前のお前はそんな物言いはしなかった」
 「あんた、あんた僕のことを知っているんだろう。以前からそんな口ぶりだった」
 「あぁ。知っているとも」
 「じゃあ教えてくれ。僕は誰だ。ここはどこだ。どうしてここにいるんだ。僕の妻は、娘は、どこにいるんだ」
 ふぅ、と軽く息をついて、男がつぶやいた。
 「情けない」
 「何だと」
 「何も覚えてないのか」
 「僕には何も身に覚えがない。妻と、娘と、慎ましく生活をしていたんだ。善良な一市民なんだ。一流大学を出て上場企業に就職して、映画好きの妻とはそこで出会った。二年経って結婚して、娘が生まれた。ローンを組んでマイホームを建てた。車だって買った。家族三人で幸せに暮らしていたんだ。それがどうして、こんな場所に押し込められてるんだ。くそっ。妻に会いたい。娘の顔を見たい……」
 「妻は何という名前だ?」
 男の言葉に、僕ははっとなった。
 「娘の名前を言ってみろ」
 何も言い返せず、僕は格子を握りしめたまま震えていた。
 「思い出せないのか。そんなに幸せだったのに」
 「うるさい」
 「ふふ。好きなだけ喚くがいいさ。また気絶させられるだけだからな」
 以前のことが僕の脳裏をよぎる。『また気絶させられるだけ』とはどういうことなのだろうか。あの時喚いていた僕を気絶させた『誰か』……この男の言う『看守』のことだろうか。
 しばらく頭の中をぐるぐると感情や思考が巡った。
 「ここはやっぱり、牢獄なのか?」
 絞り出した僕の問に男が答えた。
 「見れば分かるだろう」
 「ということは僕もあんたも、何か罪を犯して、そのせいでここにいるっていうのか」
 「そういうことだ」
 「僕は、一体何をしたんだ? 身に覚えがないのに」
 「よく思い出してみるんだな」
 「そんな……待てよ。じゃあ一体、あんたは何をしたんだ?」
 「お前には教えない」
 「なぜ?」
 「意味がないからだ」
 「意味がない? 意味がないってどういうことだ?」
 「じきに、分かる」
 男はそう言って口をつぐんでしまった。しばらく僕はぼそぼそと声をかけ続けてみたが、男はいるのかどうかさえ怪しいほど気配なく、向かいの牢獄は沈黙の闇に沈んでいた。

 それから何回かの食事のあと、僕は廊下の奥にぼんやりと光るものを見つけた。
 慌てて光のほうに目をやると、以前見たオレンジ色の光のようだった。その光の中に、やはり誰かがいる。そしてこちらを見ているのが、今度ははっきりと分かった。シルエットになっていたが間違いない! あれは僕の娘だ!
 そう確信した次の瞬間、人影が増えた。同じくらいの体格の、やはり女の子に見える。影は次々に増えていき、最終的には何人いるのか分からないくらいになった。オレンジ色の光は、ほとんど影に潰されていた。
 そして、美しく幼い子どもたちは、一斉に一言だけ小さく合唱した。
 『死ね』
 その光景に声も出ず、僕はがたがた震えていた。
 向かいの牢獄で、男がのそのそと動いたようだった。
 「どうしたんだ」
 「向こう、あそこ、あっちに、女の子、女の子たちがいる……」
 「今も?」
 気がつくと、夢か何かのように光も影もなくなっていた。果てしない闇がどこまでも続いていた。
 「どうして……」
 「何か言っていたか? 『その子たち』は」
 「…………」
 「ふふ、言いたくないか。その時は近いようだな」
 「教えてくれ。僕は、僕は……」
 「三回後の食事」
 「え?」
 「三回後の食事のときに、全て話そう。それで今回はお終いだ」
 それ以降、男は何も言わなくなった。

 一度目の食事で、僕は激しく嘔吐した。かなり激しい音がしたと思うが、男は反応しなかったし、誰かが来る様子もなかった。吐瀉物ははっきり見えなかったが、二回目の食事のときには跡形もなく消えていた。
 ようやく三回目の食事を迎えたとき、僕は男に話しかけた。
 「約束通り、これが三回目だ。教えてくれ。僕は……」
 しばらくがさがさと音がしていたが、やがて男は静かに話し始めた。
 「生まれた年を覚えているか?」
 「何だって。そんなことは関係ないじゃないか」
 「いいから答えろ」
 男の言葉は、今までと違って明らかに感情がこもっていた。僕は圧倒されて、どうにか記憶をたどった。
 「せ、一九八六年……確かそれくらいだったと思う。前も言ったが、はっきりとは思い出せない。名前すら」
 「では、大学を卒業したのは何年前だ?」
 「それは……思い出せない」
 「妻と結婚したのは? 娘が生まれたのは? 家を建てたのはいつだ?」
 「分からない。分からないんだ」
 「では、教えてやろう。お前が大学を卒業したのは二十二歳。つまり二〇〇八年だ。そしてそのまま企業勤め。結婚したのは二年後の二〇一〇年。娘が生まれたのは翌年……思い出してきたか? マイホームを建て、美しい伴侶と可愛らしい娘。誰もがお前のことを羨んでいた」
 男の言葉には次第に怒気がにじんできた。
 「だがな、お前はろくでなしなんだ。学生の頃から色欲に狂った生活をしてきた。女と見れば見境なく手を出し、力づくで、ときには狡猾に自分の思うようにしてきた。家庭をもった程度で、それが収まるものか。お前は次第に、自分の妻に飽き足らず、娘やその友だちまでも……」
 「う、嘘だ」
 「恥知らずな男だ! そうしていつも周りの目を欺いて、自分はさも真人間であるかのように振る舞ってきた。大学の名も会社の威厳も、すべてお前の信用のために酷使された。お前のために命を落とした少女が何人いると思う?」
 「そ、そんな、そんなはずが、僕は……」
 頭の中でぐにゃぐにゃと、妻と娘の姿が歪む。
 「お前が逮捕されたとき、お前の妻は娘と一緒に川に身を投げた。誰もが羨む生活から一転、お前の家族は跡形もなく崩れ去った。お前のせいで」
 僕は言葉もなく、うずくまっていた。妻も娘も、僕のせいで死んだ?
 「まだだ。伝えることはまだある。これを伝える瞬間が、うひゃ、いちばん大切なのだ。いいか、よく聞け」
 男は言った。
 「今は、西暦二三七五年だ」
 男が何を言ったのか、僕にはまるで理解できなかった。
 「お前が逮捕されたのは、二〇二一年のことだ。それから三五四年が経った」
 そんなことがあるはずがない。僕は確信した。この男こそ異常者だ。さっきからでたらめなことを言って、僕を陥れようとしているのだ。
 「お前、俺のことを異常者だと思っているだろう。前の前のお前がそうだったからな。けけけ、最後には醜く泣き叫んでいたがね、ひひ。……そうそう、その次のお前は、もっと喧嘩腰だったな。暴れて暴れて、何度も気絶させられていた。ここは二三◯◯年代の牢獄だからな。暴れている囚人を取り押さえるのに、いちいち看守を寄越すなどと非効率的なことはしないのさ。生きるための栄養剤を四時間に一度流し込む。排泄物は自動で清掃され、人の手は最早不要。平成だったか令和だったか……そんな大昔の古臭いものは、もうこの世にないのさ。ひゃひゃ、そのときのお前、余りに暴れまわるから、あっけなく殺されたな。で、その次に来たのがお前だ。三百年前とは法律も刑罰も変わっているからな。お前は『無限死刑』なのさ! ひゃひゃひゃ」
 「異常者め」
 「いいだろう、いいだろう。お前がそう言うならば、どこまでも付き合おう。俺はこの三百年間、お前の相手をしてきたんだからな!」
 「馬鹿げてる」
 「いいか? お前は今日、死ぬんだ」
 「ふざけるな」
 「おぉ? 怒るのか? いいぞ、もっと怒ってみろ。お前が怒れば怒るほど、お前の死の瞬間の表情がたまらなく愉快なものになるからな! けけけ、それだけが、そ、それだけが俺の生きる理由なのだ! 俺の娘を犯して殺したお前の、無様な死に顔を見ることが!」
 僕はずっと震えていた。恐ろしかったが、無視するに限る。なぜなら、僕がそんなことをするはずがないし、今が二三七五年のはずがないからだ。
 「意地を張って俺を無視するか? それでも構わないぞ。どうぜお前は死んで、すぐにここに戻ってくるんだ。そして息を吹き返す。もう一度裁きを受けるためにだ! そして目を覚ましてお前は言うんだ。『誰か、いるのか?』ってな。ひゃひゃひゃ」
 「うるさい!」
 「おや? 今回は反論しないのか? 大学でお勉強して賢くなって、一流の企業でお金を稼いでいたんだろう? ひひひ、この下衆野郎!」
 「お前の言っていることはおかしい! 仮に僕が死刑だったとして、一度死んだあとに生き返らせて、また殺すだなんて、そんなことが倫理的に許されるはずがないだろう! それに一度死んだ者が生き返るはずがない」
 「そうだよ。お前が殺した俺の娘は、生き返らなかったよ。とっくに灰になったから」
 僕は固まった。
 「お前のような人間が倫理を語るのか? うひゃひゃひゃ、実にケッサクだ! お前のような滑稽な人間は見たことがない! 自分の罪を忘れ、正論をぶつけられれば喚いて耳を塞ぐ。まるでガキじゃないか! ふふひふふ、いいさ、俺の目的はお前を苦しめることだからな。俺がこの手で殺してしまっては、俺まで汚らわしい犯罪者になってしまう。お前のような、ゴミにも劣る殺人鬼になってしまう!」 
 ぼんやりと向かいの牢獄が明るくなって男の姿がわずかに見えた瞬間、僕は絶叫した。
 壁という壁に緑色の脈打つ管が走り、部屋全体にびっしりと蔦のように張り付いていた男は、最早人間の姿ではなかった。
 「お前の最期に、俺はいつもこうして俺の姿を見せるのさ。お前のために、お前の死を見届けるためだけに、俺はこの姿になったのだ」
 「い、嫌だ……」
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 「お願い……」
 「安心しろ。死んでも生き返るからな。もう一度死ぬために」
 「やめて、やめてくれーッ!」
 

 ある牢獄に、男が運び込まれてきた。
 牢に入れられた男は死んだように動かなかったが、やがてびくんと一度跳ねて、息を切らせてきょろきょろと辺りを見回していた。
 それを向かいから見ていた男は、少しだけわざと体を動かした。がさり。
 気づいた男は、静かに声を漏らした。
 「誰か、いるのか?」




  
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