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第二章
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母は体の弱い人だった。もしかしたら元は元気溌剌といった言葉の似合う人だったのかもしれないが、一番古い記憶の彼女はそういう人だったように思う。そんな母に会いに行くのも、ある時突然なくなった。
その日は、父も祖父母も、皆泣いていた。何が起こっているのかが分からなくて、俺は眠っている母の手をぎゅうと握った。冷たさに、驚いた。
お母さん?
尋ねると、涙で声を湿らせた父が言う。お母さんは、星になってしまったんだよ。
手の冷たい理由を話してくれたのだ、と理解するも、意味がまるで分からない。星に? 言葉を繰り返すと、父は俺を抱き込んで吠えるように泣いた。大人がそんな風に泣くのを初めて見た俺は、ただ漠然と恐怖を感じた。この空間が、非日常であること。それだけを、幼い俺は全身で受け止めていた。
次の日。朝起きると枕元に母がいた。星になった、というのは元気になったという意味だったのだと思って俺は嬉しくなった。お母さん? 昨日と同じようにそう問うと、母は驚いた顔をして俺を見つめる。変なの。笑うと母はごめんねと謝った。なんで謝ったんだろう。俺にはそれが分からなかった。
そのまま、三年が経った。相変わらず母は俺の家にいた。おかしかったのは、父の反応だ。母がいる、と言っても一向に信じようとしない。無理矢理証明しようと腕を引っ張ると、乱暴に振り払われた。
『もうやめてくれ……!』
悲鳴のような怒鳴り声に、父は母を見たくないのだと気付いた。気付くと後は簡単な話だった。父の前で、母の話はしない。自分の中にルールを決めてしまえば、父は以前より態度を軟化させた。父がまた笑うようになったのは嬉しかったが、それは母を無視した上のことだと思うと素直に喜べなかった。母は、俺に言った。
『ね、圭ちゃん。もう忘れて。私を忘れて。ね?」
にこりと笑って言う母は、表情と裏腹にどこか悲しそうで。やだ、と短く答えた俺は、それきり布団に潜って目を瞑った。父も母もお互いが好きだった筈なのに、ままならないことが悲しかった。
*
『……授業参観?』
『そうだよ、圭ちゃん聞いてなかったの。先生言ってたじゃん』
『そーだっけ』
小学校一年生の頃だったと思う。下校中、家が近くの女の子と話をしていると聞き慣れない単語が飛び出した。授業参観、という幼稚園の時にはなかったイベントに首を傾げたが、お姉さんぶって説明してくれた友達によると、どうやら親が授業風景を見てくれるものらしい。
『じゃあうちは母さんが来るのかな』
父さんは仕事だし、と口にすると友達はえぇ、と顔をしかめる。
『圭ちゃんはお父さんが来るんじゃないの? フシカテーってうちのお母さんが言ってたよ。お母さんがいないことなんだって』
『うち、お母さんいるよ』
『嘘だよっ! お母さんいないって言ってたもん!』
嘘つき呼ばわりする友達に腹が立った。頭に血が上って、気が付いたら友達を突き飛ばしていた。呆然とした顔で道路にへたり込んでいた友達は、みるみるうちに両目に涙を浮かべ、わっと家へと帰ってしまった。
『いるもん』
一人で呟いた言葉は、頼りなく揺れていた。
*
家の鍵をランドセルから取り出す。かちゃりと鍵の回る音。玄関は真っ暗だった。東向きに立てられたこの家は、夕方になると途端不気味になる。靴を脱いでいると、リビングの電話が鳴っていることに気付いた。
『……取らなくちゃ』
慌てて靴を脱ぎ、受話器を耳に当てる。
『も、もしもし』
『……魚沼さんのお宅ですか? 永田ですけども』
告げられたのは、先程喧嘩別れしたばかりの女の子の名字で。嫌な予感にはい、と小さく返事をすると、ナガタさんは語気を強めた。
『君、圭一くん? お父さんは?』
『お父さんは、お仕事で』
『あら、そう。じゃあ、お父さんの電話番号教えてくれる?』
父に手渡されたメモを片手に電話番号を告げると、ナガタさんは溜息を吐く。
『今から、あなたのお父さんに連絡するから。全く。いきなり突き飛ばすなんて。これだから片親の子は嫌なのよ』
独り言めいた苦情を最後に、電話はぶつんと乱暴に切れる。知らない大人に怒られた。どうしようもない恐怖に膝を抱える。お父さんに連絡するって言ってた。どうなっちゃうのかな。怒られてしまうだろうか。堪らなく怖かった。
*
いつもより早く家に帰ってきた父は、俺を引っ張ってナガタさんの家に行った。硬い表情をした父は、帰り際に重い口を開いた。
『……圭一は、母さんが見えるのか』
絞り出すようにして言われた言葉は、ようやく母の存在を認めるもので。うん、と口にするより早く、父は続きを吐いた。
『父さんな、再婚しようと思うんだ。だからさ、』
再婚? 母さんはどうするんだと思った俺の考えを読んだように、父さんの言葉が響いた。
『もう、母さんのことは口にしないでくれないか』
これは、提案じゃなくて通告だ。
母さんはここにいるのに。父さんの強い眼差しは、口答えを決して許さなかった。
その日は、父も祖父母も、皆泣いていた。何が起こっているのかが分からなくて、俺は眠っている母の手をぎゅうと握った。冷たさに、驚いた。
お母さん?
尋ねると、涙で声を湿らせた父が言う。お母さんは、星になってしまったんだよ。
手の冷たい理由を話してくれたのだ、と理解するも、意味がまるで分からない。星に? 言葉を繰り返すと、父は俺を抱き込んで吠えるように泣いた。大人がそんな風に泣くのを初めて見た俺は、ただ漠然と恐怖を感じた。この空間が、非日常であること。それだけを、幼い俺は全身で受け止めていた。
次の日。朝起きると枕元に母がいた。星になった、というのは元気になったという意味だったのだと思って俺は嬉しくなった。お母さん? 昨日と同じようにそう問うと、母は驚いた顔をして俺を見つめる。変なの。笑うと母はごめんねと謝った。なんで謝ったんだろう。俺にはそれが分からなかった。
そのまま、三年が経った。相変わらず母は俺の家にいた。おかしかったのは、父の反応だ。母がいる、と言っても一向に信じようとしない。無理矢理証明しようと腕を引っ張ると、乱暴に振り払われた。
『もうやめてくれ……!』
悲鳴のような怒鳴り声に、父は母を見たくないのだと気付いた。気付くと後は簡単な話だった。父の前で、母の話はしない。自分の中にルールを決めてしまえば、父は以前より態度を軟化させた。父がまた笑うようになったのは嬉しかったが、それは母を無視した上のことだと思うと素直に喜べなかった。母は、俺に言った。
『ね、圭ちゃん。もう忘れて。私を忘れて。ね?」
にこりと笑って言う母は、表情と裏腹にどこか悲しそうで。やだ、と短く答えた俺は、それきり布団に潜って目を瞑った。父も母もお互いが好きだった筈なのに、ままならないことが悲しかった。
*
『……授業参観?』
『そうだよ、圭ちゃん聞いてなかったの。先生言ってたじゃん』
『そーだっけ』
小学校一年生の頃だったと思う。下校中、家が近くの女の子と話をしていると聞き慣れない単語が飛び出した。授業参観、という幼稚園の時にはなかったイベントに首を傾げたが、お姉さんぶって説明してくれた友達によると、どうやら親が授業風景を見てくれるものらしい。
『じゃあうちは母さんが来るのかな』
父さんは仕事だし、と口にすると友達はえぇ、と顔をしかめる。
『圭ちゃんはお父さんが来るんじゃないの? フシカテーってうちのお母さんが言ってたよ。お母さんがいないことなんだって』
『うち、お母さんいるよ』
『嘘だよっ! お母さんいないって言ってたもん!』
嘘つき呼ばわりする友達に腹が立った。頭に血が上って、気が付いたら友達を突き飛ばしていた。呆然とした顔で道路にへたり込んでいた友達は、みるみるうちに両目に涙を浮かべ、わっと家へと帰ってしまった。
『いるもん』
一人で呟いた言葉は、頼りなく揺れていた。
*
家の鍵をランドセルから取り出す。かちゃりと鍵の回る音。玄関は真っ暗だった。東向きに立てられたこの家は、夕方になると途端不気味になる。靴を脱いでいると、リビングの電話が鳴っていることに気付いた。
『……取らなくちゃ』
慌てて靴を脱ぎ、受話器を耳に当てる。
『も、もしもし』
『……魚沼さんのお宅ですか? 永田ですけども』
告げられたのは、先程喧嘩別れしたばかりの女の子の名字で。嫌な予感にはい、と小さく返事をすると、ナガタさんは語気を強めた。
『君、圭一くん? お父さんは?』
『お父さんは、お仕事で』
『あら、そう。じゃあ、お父さんの電話番号教えてくれる?』
父に手渡されたメモを片手に電話番号を告げると、ナガタさんは溜息を吐く。
『今から、あなたのお父さんに連絡するから。全く。いきなり突き飛ばすなんて。これだから片親の子は嫌なのよ』
独り言めいた苦情を最後に、電話はぶつんと乱暴に切れる。知らない大人に怒られた。どうしようもない恐怖に膝を抱える。お父さんに連絡するって言ってた。どうなっちゃうのかな。怒られてしまうだろうか。堪らなく怖かった。
*
いつもより早く家に帰ってきた父は、俺を引っ張ってナガタさんの家に行った。硬い表情をした父は、帰り際に重い口を開いた。
『……圭一は、母さんが見えるのか』
絞り出すようにして言われた言葉は、ようやく母の存在を認めるもので。うん、と口にするより早く、父は続きを吐いた。
『父さんな、再婚しようと思うんだ。だからさ、』
再婚? 母さんはどうするんだと思った俺の考えを読んだように、父さんの言葉が響いた。
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これは、提案じゃなくて通告だ。
母さんはここにいるのに。父さんの強い眼差しは、口答えを決して許さなかった。
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