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第六章
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ゆかり……?
呼ばれた名前に思考が固まる。俺の反応を予期していたのか、母さんは困ったように微苦笑し、俺を横へと呼び寄せた。白い病衣。病院の薄い枕。転落防止用のパイプは冷たげで、ベッドが小さな牢獄のように見えた。真綿を踏みしめるかのごとく夢うつつな感覚のまま、ふらふらとパイプ椅子に腰を下ろす。
「由、元気にしてた?」
「……、うん」
薄ぼんやりとした頭の吐きだした嘘だった。近頃はよく眠れないし、頭も痛い。母さんは「そう」と口角を上げ、俺の目の下を指で擦る。隈でもできていたのか。身じろぎをすると椅子の足がキィと鳴る。
「か、あさん」
久しぶりに口にした呼称に喉が震えた。視線を彷徨わせる。病室に青の姿がないことに気付いた。親子水入らずの方がいいかと思ってさ、と格好つける青の姿を思う。いかにも言いそう。体の強張りが僅かに緩んだ。息を吐きだし、前を見据える。俺の言葉の続きを待っているのだろう、懐かしい双眼と目が合った。
「……母さんは?」
投げられた問いをそのまま返す。そうね、と小さく置いた母さんは指先を組みなおし俺を見つめる。チィ、窓辺の鳥が葉のない木から飛び立った。
「もって半年なの」
穏やかに告げられた言葉は残酷そのもの。質問からややずれた答えだったが、意味は分かりすぎるほどに理解できた。分かってなお、受け止めきれない。大きすぎる規模の話から現実感は得られなかった。
「……なんで?」
なぜなぜ期の子供のような拙い問いに、母さんは言い聞かせるような声音で優しく答える。
「少し、ほんの少し大きな病気をしちゃったの。ほんとは、ほんとはね。由に話すつもりはなかったんだけど。夏目くんが話すべきだって。あなたなら、自分で決めることができるんだって。見くびりすぎだって、怒られちゃった」
青が。
母さんの手が俺の頭を撫でる。
「由。今まで、ごめんね」
「え、」
何を。
こみ上げるものを飲み込む。力を抜くと涙腺が決壊しそうだった。
「お母さんが弱いせいで、由をいっぱい苦しめちゃったね。守るつもりだったのに、私の手でたくさんの傷をつくっちゃ………、ごめんね。謝って許されることじゃないけど、ごめんね、由。ごめんね」
嗚咽交じりの謝罪。俯きながら布団を涙で濡らす母さんの肩に、ぎこちなく手を回す。そっと抱き寄せた母さんは俺が思い描いていたよりもずっと華奢で、薄い体をしていた。知らない間に俺の体の方が大きくなっていた。
「だぁいじょうぶだよ、母さん。なんにも傷なんてついちゃいないんだから」
トントンと背を撫でると、母さんの嗚咽が酷くなる。大丈夫だって。撫でるたび背が揺れる。母さんだって、記憶を失くした訳じゃない。俺の背の皮膚が引き攣れていることを知ってるし、左の掌に縫合跡のあることだって覚えている筈だ。分かり切った頼りない虚構。傷だらけの俺のままじゃ母さんの涙を拭うことすらできないから。抱きしめて、大丈夫だよ、何にもないよと嘯けるなら――俺はどんなフィクションだって演じられる。
「由」
母さんが俺を呼ぶ。
「もう、いいの。あなたは円でも円治さんでもない」
「母さん?」
「重荷だったら、捨ててもいいの。あなたは椎名由。たくさんの由縁を紡いでいけますようにって、私と円治さんが願って名付けた、大切な大切な子供なんだから」
円(縁)は少し、強引だけどね。
「だからね。あなたはもっと多くの選択肢を望みなさい。母を呪縛に感じるのなら忘れなさい。椎名の家が邪魔なら捨ててしまいなさい。もっと広い世界を見たいならここを出なさい。家の外だって、この町の外だって、海外だって。あなたはどこでも生きられる。私の大切な、愛しい子。あなたは幸せになるために生まれてきたの。私、ずっとそれだけを願ってた。今も、あなたを産んだ時も。ずっと、いつまでも」
「どうだった?」
病室を出ると、青は廊下で立っていた。見張るような距離をとって青の斜め後ろにいた一秀は、俺と入れ違いに病室に入る。すれ違いざまに撫でられ乱れた髪を手櫛で直す。
いいのかな。
俺、ただの由でいいのかな。
「青、俺――」
青は俺の呼称に頬を緩め、ゆるりと首を傾げる。酷いことを言った。多分たくさん傷つけた。あの日、舞台の上で見えた青の苦しそうな表情を、今でもずっと覚えてる。それなのに、あまりにも都合がよくないか。俺から遠ざけておいて、気持ちが変わったらすり寄るなんて。
「どうした、赤?」
それでも、青が今でも俺をそう呼んでくれるなら。ただそれだけで選べる気がした。
「俺、青が好きだ」
ただの由としての、将来を。
「俺と付き合ってください」
呼ばれた名前に思考が固まる。俺の反応を予期していたのか、母さんは困ったように微苦笑し、俺を横へと呼び寄せた。白い病衣。病院の薄い枕。転落防止用のパイプは冷たげで、ベッドが小さな牢獄のように見えた。真綿を踏みしめるかのごとく夢うつつな感覚のまま、ふらふらとパイプ椅子に腰を下ろす。
「由、元気にしてた?」
「……、うん」
薄ぼんやりとした頭の吐きだした嘘だった。近頃はよく眠れないし、頭も痛い。母さんは「そう」と口角を上げ、俺の目の下を指で擦る。隈でもできていたのか。身じろぎをすると椅子の足がキィと鳴る。
「か、あさん」
久しぶりに口にした呼称に喉が震えた。視線を彷徨わせる。病室に青の姿がないことに気付いた。親子水入らずの方がいいかと思ってさ、と格好つける青の姿を思う。いかにも言いそう。体の強張りが僅かに緩んだ。息を吐きだし、前を見据える。俺の言葉の続きを待っているのだろう、懐かしい双眼と目が合った。
「……母さんは?」
投げられた問いをそのまま返す。そうね、と小さく置いた母さんは指先を組みなおし俺を見つめる。チィ、窓辺の鳥が葉のない木から飛び立った。
「もって半年なの」
穏やかに告げられた言葉は残酷そのもの。質問からややずれた答えだったが、意味は分かりすぎるほどに理解できた。分かってなお、受け止めきれない。大きすぎる規模の話から現実感は得られなかった。
「……なんで?」
なぜなぜ期の子供のような拙い問いに、母さんは言い聞かせるような声音で優しく答える。
「少し、ほんの少し大きな病気をしちゃったの。ほんとは、ほんとはね。由に話すつもりはなかったんだけど。夏目くんが話すべきだって。あなたなら、自分で決めることができるんだって。見くびりすぎだって、怒られちゃった」
青が。
母さんの手が俺の頭を撫でる。
「由。今まで、ごめんね」
「え、」
何を。
こみ上げるものを飲み込む。力を抜くと涙腺が決壊しそうだった。
「お母さんが弱いせいで、由をいっぱい苦しめちゃったね。守るつもりだったのに、私の手でたくさんの傷をつくっちゃ………、ごめんね。謝って許されることじゃないけど、ごめんね、由。ごめんね」
嗚咽交じりの謝罪。俯きながら布団を涙で濡らす母さんの肩に、ぎこちなく手を回す。そっと抱き寄せた母さんは俺が思い描いていたよりもずっと華奢で、薄い体をしていた。知らない間に俺の体の方が大きくなっていた。
「だぁいじょうぶだよ、母さん。なんにも傷なんてついちゃいないんだから」
トントンと背を撫でると、母さんの嗚咽が酷くなる。大丈夫だって。撫でるたび背が揺れる。母さんだって、記憶を失くした訳じゃない。俺の背の皮膚が引き攣れていることを知ってるし、左の掌に縫合跡のあることだって覚えている筈だ。分かり切った頼りない虚構。傷だらけの俺のままじゃ母さんの涙を拭うことすらできないから。抱きしめて、大丈夫だよ、何にもないよと嘯けるなら――俺はどんなフィクションだって演じられる。
「由」
母さんが俺を呼ぶ。
「もう、いいの。あなたは円でも円治さんでもない」
「母さん?」
「重荷だったら、捨ててもいいの。あなたは椎名由。たくさんの由縁を紡いでいけますようにって、私と円治さんが願って名付けた、大切な大切な子供なんだから」
円(縁)は少し、強引だけどね。
「だからね。あなたはもっと多くの選択肢を望みなさい。母を呪縛に感じるのなら忘れなさい。椎名の家が邪魔なら捨ててしまいなさい。もっと広い世界を見たいならここを出なさい。家の外だって、この町の外だって、海外だって。あなたはどこでも生きられる。私の大切な、愛しい子。あなたは幸せになるために生まれてきたの。私、ずっとそれだけを願ってた。今も、あなたを産んだ時も。ずっと、いつまでも」
「どうだった?」
病室を出ると、青は廊下で立っていた。見張るような距離をとって青の斜め後ろにいた一秀は、俺と入れ違いに病室に入る。すれ違いざまに撫でられ乱れた髪を手櫛で直す。
いいのかな。
俺、ただの由でいいのかな。
「青、俺――」
青は俺の呼称に頬を緩め、ゆるりと首を傾げる。酷いことを言った。多分たくさん傷つけた。あの日、舞台の上で見えた青の苦しそうな表情を、今でもずっと覚えてる。それなのに、あまりにも都合がよくないか。俺から遠ざけておいて、気持ちが変わったらすり寄るなんて。
「どうした、赤?」
それでも、青が今でも俺をそう呼んでくれるなら。ただそれだけで選べる気がした。
「俺、青が好きだ」
ただの由としての、将来を。
「俺と付き合ってください」
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