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東部連合編

背中越し

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 階段は行き止まりだ。塔のてっぺんに達する前に、縦の空洞に仕切りが入る。一旦の天井が、まるで硬い雲海のように、高所で畝りながら広がっていた。壁は、窪みを梯子の代わりにして上に登ることができる。屋根裏部屋でやるように、穴から顔を出した。待ち構える敵に備えて、防御魔法を張った。
 
 敵はいないが、障害物が横たわっていた。一つの部屋に、川が流れ、私達の行手を塞いでいる。引き返す訳にもいかず、追手がいないうちに中に入った。
 激流の迫力は、川辺に立つと、恐怖に代わる。壁に空いた長方形は、水の通行口だ。何らかの液体を、部屋を二分する斜面に垂れ流している。私の眼には暗がりのせいか、墨のように黒く映った。

 連想するのは、生命というより死に近い。迂闊に足を入れてはいけない、と山あいの川との違いを自ら主張している。一歩踏み出したら最後、何者かに引っ張られ、底なしに沈んでしまう気がした。

 行く手に濁流が溢れ、螺旋回廊からは追い手がある。板挟み状態に陥った。
 
 肝心なものも、肝心な時に手元に来ない。敵が階段から下に落ちた事実が示す通り、箒で飛ぼうにも、据え置き機能が役立たずだった。箒が手元に現れることはない。

 直美さんは、恐る恐る黒川の偵察に向かい、左内は何か手がないかと部屋じゅうに目を配り始めた。私は、後発や敵が追いつかないか、入り口を警戒した。
 仲間は太陽や北風と言った周りの環境を利用していた。彼らの不在は、他人任せにせず、この場で出来ることをしなければ、と思わせた。

 天井や壁の高所には、寺社仏閣のように、紋様が彫られている。筆は質素な一方で、描かれているのは鳳凰や草花で賑やかしい。
 暗号が紛れていないか探したり、鳳凰の視線を追ったりした。ただ、日本語に限らず文字は一つもないし、鳳凰が眺めているのは前方直美さんの背中だしで、何も掴めない。
 彼女の方に向かおうと視界を切ろうとした時、何か引っ掛かるものがあった。花模様が額縁のように、梯子の絵を囲んでいる。じっと見ていると、真ん中が浮き出ているように映った。反対側の同じ模様を比較対象とすると、凹凸がより際立った。
 左内に合図を送ろとしたら、彼はすでに私を見ていた。やるべき事は、言わずもがな。以心伝心は、彼が梯子を指差したことで、明らかになった。小さいのは遠くにあるからで、取り出せば原寸大だ。二人で梯子に向けて、光の糸を出す。模様を壊すのではなく、両端に糸をつけ、梯子を取り出し、屋内川に運んだ。近くの直美さんが位置を指示した。

 梯子は、僅かばかりのゆとりを持って、川に橋を渡した。濁流は、私達を歓迎するかのように、跳ねて飛沫を上げる。橋を飲み込まないかという心配は過剰だとしても、変な清涼は気味が悪い。それは、涼しさというより、寒気に近かった。

 左内は先頭に立ち、私に続くよう言った。
 命綱はない。仕事の成果は、自らの生命をもって証明するのが定めだ。
 踏み外さないように、足元に神経を集中する。梯子は登るには良いが、渡るには足場が狭い。どうせ下を向くなら、同じ標高を綱渡りするより、濁流の方がマシだ。渡しの先が気になるが、一歩一歩進む以外に道はない。足場が変わるのを、今か今かと待ち侘びた。

 半ばで、直美さんが呪文を唱える声がした。きっと煙幕で入り口を塞いでいる。敵の接近を確認すると同時に、このままでは、直美さんが逃げ遅れる、と思った。まだ、彼女は橋にかかっていないのだ。私がぐずぐずしてはいられない。緊張が体じゅうに広がり、心は使命感に昂った。

 我に帰ったのは、足音が、私の時を止めたからだ。嫌な音が近づき、広がるのが、背中越しにありありと感じられる。一刻一刻が連合の終わりを告げるかのようだった。
 無言が後発ではないと知らせている。飛んでくるのは、言葉というより魔法の方だと覚悟した。私自身は盾で守れても、梯子道は違う。
 
 閃光を感じる前に、橋が崩れ落ちる。私はかろうじて、片足と体重を対岸にかけた。右の足先は川の中に突っ込んだが、流される前に引き上げた。
 自分より、後方の行方が案じられる。振り向きたくないが、背を向けたままでもいられない。身が割かれるような感覚に、戦慄が走った。
 度会と直美さんは、川に飲み込まれて、部屋の隅へ滝のように落ちて行く。彼女は、私達の悲願達成を確信している。遠のく直美さんの眼差しは、私にあり、自らの運命への悲哀と、私へ託した思いを含んでいた。その思いをしても埋められない事で、心がくり抜かれた跡がより浮き立つ。彼女達は、ものの数秒で見えなくなった。
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