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渇き
しおりを挟む狭くて汚いアパートの一室である。カーテンは締め切られ、むっとするような臭気な立ち込めている。ゴキブリやネズミが這いずり回る汚物だらけの部屋の隅に、子どもがひとり蹲っていた。
子どもはあまりに細いので四、五歳くらいにも見えるが、身長からするともしかすると小学生くらいにも窺えるような、骨格に対してあまりにも未発達な肉付きをしていた。垢まみれで寸法の小さすぎる寝間着を、汗でびっしょりと濡らしながら、窪んだ目をうっすらと開いて、浅く喘ぐように息をしている。ろっ骨が浮かび上がった腹は、良識ある大人なら思わず目を背けざるを得ないほどにひどい痣だらけだった。肩には、タバコを押し付けられたような火傷の痕が膿んでいる。
その子どもは、もう自分の名前を覚えていない。
ずっと昔、お母さんがまだ優しくて、本当のお父さんと暮らしていた頃には、子どもは大変に愛されていた。毎日その名前を呼ばれて抱き締められていた。ところが、本当のお父さんがいなくなって、新しいお父さんが家に来てから、子どもの人生は変わった。「おい」とか「ゴミ」とかが子どもの名前になったのだ。毎日言われていた「大好きだよ」は「産むんじゃなかった」に変わって、親の体温を感じるのは、首を絞められている時だけになった。それでも、子どもはお母さんのことが大好きである。どれだけ殴られようとも、罵倒されようとも、お母さんのことが大好きなのだ。お母さんが自分を殴るのは「自分が悪い子だからだ」と思い込んでいる。
お母さんと新しいお父さんが子どもを置いて家を出て、どれだけ経ったのだろうか。水道は止まっているし、冷蔵庫を開けると腐臭がする。飲まず食わずで三日が過ぎた辺りから、悪寒と動悸や身体の震えが抑えられない。「お母さんは、いつ帰ってきてくれるのだろう。」子どもは泣きもせず、喚きもせず、部屋の隅で蹲って、ただお母さんの帰りを待っていた。隅っこで大人しくじっとしていれば、お母さんも新しいお父さんも自分を怒らないことを、子どもは学習していた。もう、自分が生きているのか死んでいるのかも、分からないようだった。
子どもは、うっすらと目を開いたまま夢を見た。
咽喉に穴が開いている自分が、どこまでも続く砂漠をよろよろと歩いている。お母さんはどこに行ってしまったのだろうか。お腹が空いた。暑い。痛い。苦しい。心細くて泣きそうになって「お母さん」と叫ぼうとするものの、咽喉に穴が空いているものだから、ただひうひうとした空気が漏れるばかりであった。お母さん、お母さんと叫びたいのに、声にならない。
よろよろと歩いているうちに、砂漠の真ん中に泉が湧いているのを見つけた。子どもは駆け寄って、大喜びでその水を汲んで飲もうとするのだが、どれだけ飲んでもその咽喉は潤されない。ぽっかりと空いた穴からぼたぼたと水が漏れていく。水がほしい、水がほしい……。なのに潤されないこの渇きは、どれだけ乞い願っても満たされない、自分の母の愛の渇望と同じなのだと、子どもは気づくはずもない。
「愛してほしい」なんて、まだ分からないほどに幼い子どもは、「おかあさん」と口だけを動かして、動かなくなった。
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