喫茶メロウへようこそ

篠塚

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喫茶メロウへようこそ

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「いらっしゃいませ」
 細身の体に白髪白髭。イートンコートを着こなして、しなやかな手つきでグラスを拭いているそのマスターの微笑みは、人を引き寄せる何かがあった。
 それは初めて訪れたマキにとっても同様で、マスターに促されるがままカウンターの右から二番目の席に座る。
 マキは緊張した表情で周りをきょろきょろ見回す。程よく薄暗い照明。こげ茶色のカウンターには椅子が四脚。後ろには木製の丸いテーブルが二卓だけの小さな店内。他に客はいなかった。
 カウンターの中には口の細いドリップポットやコーヒーミル、サイフォンなど様々なコーヒーを淹れる道具が置いてあり、奥の棚には数々のコーヒーカップが並んでいた。
そこに立つマスターは「どうぞ」と一杯のコーヒーをマキに差し出す。
 マキが不思議そうにマスターを見ると、
「こちらはサービスです。ゆっくりしていってください」
 そう言ってニコリと微笑む。
 一口啜るとほろ苦いコーヒーの風味が口の中に広がった。
 その時、
「それ、おいしい?」
 と突然声がして、はっと隣を見るといつの間にか左側の席に見知らぬ女性が座っていた。
「ねぇ、おいしい?」
 再び訊いてくる女性にマキは、
「……おいしいわ」
 と小さな声で答える。
「本当に?」
 その笑みはマスターのそれとは違っていて、どこか嘲笑うかのように棘がある。
「あなた騙されているのに?」
「え?」
「このコーヒーには毒が入っているのよ」
 カシャン! とマキの持つカップがソーサーにぶつかる。
「あなたはいらない人間だから」
「あなたの存在を消すための毒薬が混ぜられているの」
「ほらよく見て。それ、本当にコーヒーの色?」
「本当にコーヒーの香り?」
「本物のコーヒーの味かしら?」
 次から次へと追い込むように語りかけてくる女性。
 マキの手と目は恐怖に震えはじめる。
 やめて
 やめて
 やめて
 マキは耳を塞いで顔を伏せた。
 その時だった。
「今日はいい天気ですね」
 マスターが柔らかい口調でそっと言う。
「散歩がてらふと喫茶店に立ち寄ってコーヒーを一杯、なんてちょうどいい」
 そしてマスターは自ら作ったコーヒーを一口啜ると、
「そちらのお客様もどうぞ」
 そう言ってマキの左隣へコーヒーを出す。
 マキがそっと顔を上げると、そこに女性の姿はなくコーヒーだけが残されていた。
 きょろきょろと周りを見回すと、
「帰ってしまったようですね」
 そう言ってマスターが微笑んだ。
 マキは震える手をごまかしながらゆっくりとコーヒーに口をつける。
「おいしい」
 緊張した心にそっと寄り添うようなその温かさにホッとする。
 一口飲むごとに固まった筋肉がほどけていくようだった。
 ゆっくり、ゆっくりと口に運ぶ。
 その温かさとほろ苦さが隅々まで浸透していくようだった。
 最後の一口を飲み終えたマキは、ふぅと一息吐くと、
「また、来ても良いかしら」
 そう言って、喫茶店を後にした。
「もちろんです。お待ちしております」
 そう言って見送ったマスターはマキの飲んでいた空のコーヒーカップと、その隣に置いたコーヒーを下げる。
 マスターには『もう一人』の姿は見えていなかった。マキの様子を見て『もう一人いるフリ』をしていたのだ。
 そう、マキは誰もいない空間に向かって話をしていた。全てはマキの脳が作り出したものだったのだ。
 マキはもうしばらくずっとこのようなことに悩まされ続けていた。
 見知らぬ人物は女性だけでなく、男性だったりそれは時に老人であったり子どもだったりした。様々な人々が目の前に現れてはマキを追い込んでいくのだった。
「お前なんて必要ない」
「なんでいるの?」
「あなたの命を狙っている人がいる」
 そんな言葉の数々はマキにしか聴こえていなかったが、聴こえているマキにとってそれは紛れもない真実で、妄想だなんて思えるはずもなくそれらの言葉は抉るように日々心を蝕んでいった。
 だからこの喫茶店での出来事はマキにとって、とても大きなことだった。
 その時一瞬でもホッとしたのだから。
 今まで常に緊張の糸が張りつめていたのだが、それが緩んだのだ。
 血液が体の隅々にまで流れるのを感じた。
 純粋にコーヒーがおいしいと感じた。
 それがマキには久しぶりのことで、嬉しかった。
 店を出たマキは空を見上げた。
思っていたより雲が近くて、久しく空を見ていなかったのだと気付く。
 明日も晴れるといいな。そんなことを思いながら喫茶店の看板を見た。
 ここは小さな町の路地裏にある小さな喫茶店。
 店の名前は『喫茶メロウ』
 マスターの優しさとコーヒーの魅力がたっぷりの喫茶店。
 
 ****
 
「いらっしゃいませ」
『喫茶メロウ』を訪れたイクミは真っ直ぐカウンター席に向かい、左から二番目の席に座る。ここがいつも座る場所だった。他に客はいない。
「マスター、コーヒーを」
「はい。いつものですね」
 白髪白髭でイートンコートを着たマスターは慣れた手つきでコーヒーを淹れる。
 今日は天気が良い。朝から気分も良い。今から美味しいコーヒーも飲めるのだから、とても良い日だ。
 イクミは機嫌良くマスターの手元を見つめる。
 丁寧で無駄のない所作が美しかった。
 いつまでも見ていられる風景だな、そんなことを思っていた。
 だが次の瞬間、その心地良さは脆くも崩れ去ることになる。
 遠く聞こえた救急車のサイレンは瞬く間に近づき、店の前を通り過ぎていった。
 通り過ぎて、行ったはずだった。
だがイクミの頭の中ではずっとサイレンが鳴り響き続けている。
ピーポー
 ピーポー
 ピーポー
 ピーポー
 頭の中をぐるぐると。
 そしてその音は大きくなり、あっという間にイクミの周りをとり囲む。
ざわっと胸に嫌な感覚が広がる。
 喫茶店にいたはずなのに、そこはいつの間にかアパートの一室になっていた。
目の前には倒れた人。その周りには慌てふためく両親の姿があった。
 イクミは声を出すこともできず、ぎゅっと自分の肩を抱いた。
 パパとママの邪魔をしちゃいけない。
 子どもの姿に戻ったイクミはただそれだけを感じ、部屋の隅で存在を消す努力をした。
 すると、そんな幼いイクミの肩をそっと抱く腕があった。
 イクミは顔を上げる。誰だろう……? 知らない人だった。白髪白髭のその男性は優しく微笑んでいる。
「大丈夫。これを飲んでごらんなさい」
 差し出されたカップにイクミはゆっくり口をつける。
「……苦い」
「ゆっくり飲むと良いですよ」
 微笑む男性。イクミはゆっくりと、ゆっくりとそのコーヒーを飲んだ。
 温かな液体が体の中を浸透していく。
 そしてそのほろ苦さが徐々に頭をはっきりとさせていった。
 全てを飲み終える頃、イクミは喫茶店のカウンター席に座っていた。
 カウンターの中では何事も無かったようにマスターがコーヒーを飲んでいる。
「今のは……?」
 こんな時いつもならどうしようもないくらいの嫌な感覚が残るところだが、今日はコーヒーの香りだけがそこにあって、まるで感覚を塗り替えてくれているようだった。
 不思議と気持ちが落ち着いている。
 先程の男性は確かに今目の前にいるマスターだった。
 一体何が……?
 疑問に感じたが、気味悪い感じはしなかった。むしろ気分はスッキリしていた。
イクミは席を立つ。
「またお待ちしています」
 マスターの声を背に店を出た。
 あの日、幼いイクミが実際にマスターと会っていたわけではなかった。イクミの『思い出の中』でマスターが嫌な記憶をコーヒーの香りや味とともに塗り替えたのだ。
 不思議な体験だったが、イクミにとってはそれが真実でそれが全てだった。
 忘れられない出来事。その心に恐怖を焼き付けて離さなかった思い出。
 だが、その恐怖心が今は和らいでいる。
 いつもなら過呼吸になってもおかしくない状況なのだが、不思議と今は怖くなかった。
 イクミは空を見上げ思いきり伸びをする。
 雲ひとつない空が青く澄んでいた。
 『喫茶メロウ』の看板を見てイクミは思う。「やっぱり今日は良い日だ」と。
 
 ****
 
「いらっしゃいませ」
 夜の深い時間。セリナは『喫茶メロウ』の扉を開けた。
 こんな時間までやっている喫茶店があるなんて珍しいな、そんなことを思いながらカウンター席に座る。
「目が覚めるような濃いコーヒーを」
そう言うと、マスターは「かしこまりました」とコーヒーを淹れはじめる。
 セリナがマスターの手元を見ながら、
「いつもこんな遅くまで?」
 そう訊くと、マスターはちらりとこちらを見て、
「いいえ、今日は珍しいんですよ。お客様のような方がいらっしゃる気がしましてね」
 と言うと優しく微笑んだ。
 その笑顔を見てセリナはこのマスターなら話を聞いてくれるような気がして、そっと口を開いた。
「眠るのが怖いんだ」
 マスターはコーヒーを淹れる手を止めることなく、先を促すように視線だけを送る。
「眠ると自分が消えてしまうような気がするんだ。二度と目が覚めないんじゃないかって怖くなる」
「あなたは確かに今ここに存在していますよ」
 マスターは優しく言う。
「うん、そうなんだけどね。そんな当たり前のことが自分には不確かで、確かなものとして感じられないんだ」
 セリナは困ったように少し笑って見せる。
「それでは、そんなあなたにはこの特別な一杯をご馳走しましょう」
 マスターはそう言って、コーヒーを差し出した。
「こちらは今この瞬間を忘れることができなくなるほどおいしい一杯となっております。ぜひ飲んでみてください」
 マスターの微笑みを見ていると、なぜだかそれがただの冗談ではないような気がしてくるから不思議だった。
 セリナはコーヒーを一口飲む。
 確かにおいしい。
 でもそれだけじゃない。何よりも優しさと心地良さを感じる味だった。
 それはまるで自分の存在を認めてくれているかのような、「また次もある」そう言ってくれているかのような、そんな気がした。
「ひと眠りして起きたら、またこのコーヒーを飲みに来ても良いかな?」
 そう言うセリナにカウンターの中でコーヒーを飲んでいたマスターは、
「もちろんです。お待ちしております」
 と言って優しい笑みを送った。
 久し振りにゆっくり眠ることができそうだ、そう思いながらセリナは店を後にする。
 セリナはもうしばらく前から、自分の意思で眠りにつくことができなくなっていた。眠ってしまったらもう二度と目が覚めないような気がして。自分の意思とは関係なく眠りに落ちるまでいつも恐怖に襲われていた。
マスターのコーヒーはそんなセリナに『次』という希望を持たせたのだった。「大丈夫」そう思わせるだけの力がそのコーヒーにはあった。
セリナは店の外に出ると、空を見上げた。
暗闇の中、星がいくつも瞬いて綺麗だった。
灯りの少ない道でポゥと灯る『喫茶メロウ』の看板を見る。
そして「また来るわね」と小さく呟いた。
 
 ****
 
ある日の夕方、ルイはビルの屋上にいた。
高層ビルというほどの高さはなかったが、小さな町を見下ろすには十分だった。
ルイはゆっくりと屋上の端に向かって歩く。
 全て終わりだ。もう終わりにしよう。
 そう、思った。
 死こそが優しさ。それこそが全てを包んでくれる。何もかもを許してくれる。
 だから……もう……。
 サァッと風が頬を撫でていった。
 その時、
「私のコーヒーを飲んでみませんか?」
 ルイが後ろを振り返ると、白髪白髭の男性が銀のトレイにコーヒーをのせて立っていた。
 屋上には場違いに思えるイートンコートを着たその男性は、焦るわけでも押し付けるわけでも、だからと言って遠慮するわけでもなく、まるでそこが自分の店かのように立っていた。
「あなたの望みは死ぬことではなく、消えることなんじゃないですか?」
 淡々と言う。
「あなたはあなた自身が生まれたことを悔やんでいる。だから終わらせることで、全てを、始まったことさえも消し去れるのではないかと思っている」
 ルイは黙っていた。
「ですが、今あなたがやるべきことは肉体を壊すことではない。肉体を壊しても決して無かったことにはならないんですよ」
 そしてマスターは静かに続ける。
「このコーヒーを一口飲んでみてください。きっとあなたはもう一口飲みたくなるはずです。その一杯が飲み終わったらもう一杯と。そしたらあなたは私のコーヒーを飲むことを全ての理由にしてください。その肉体にコーヒーを与えることを理由にこれからの日々を送ってみませんか?」
 その言葉はまるで催眠術のようだった。
 ただただ穏やかな音楽のように、言葉が脳に染みわたっていった。
 そこまで言うのなら。
 そう思ったルイはコーヒーを一口飲む。
 先程の言葉のように、今度は喉元から食道、そして胃へと向かってコーヒーの温かさとほろ苦さが染みわたっていくのがわかる。
 かさぶたで突っ張っていた傷口がフッと緩むかのようだった。
 それからルイが二口目を口にするのは、ごく自然なことだった。
 そしてカップが空になる頃、
「あぁ、またこのコーヒーが飲みたい」
不思議とそう望んでいたのだ。
 こんな催眠術ならかかったままでも良いかもしれない。
 マスターの言った『全ての理由に』という言葉は、確かにルイの中で『ひとつの理由』となっていた。
 「生きたい」とまではまだ強く思えなくても、もう少しこの世界にいても良いかもしれないとほんの少し思った。またこのコーヒーが飲めるのなら。
 それはルイにとっては大きな大きな変化だった。
 そんなことを思ったのは生まれて初めてのことだったから。
 マスターは空を眺めるルイの横顔が先程とは違うことを見届けると、そっと屋上を後にした。
同じビルの一階にある店『喫茶メロウ』へと戻り、自分のためにコーヒーを淹れると深く息を吐く。今日もコーヒーがおいしい。窓から見える青空が心地良かった。
 
 ****
 
 フタバは『喫茶メロウ』の常連だった。
「マスター、いつもの」
「はい、かしこまりました」
 マスターの笑顔はいつも穏やかで優しい。
 フタバはこの笑顔とマスターの淹れるコーヒーが大好きだ。
「ねぇ、昨日は誰か来た?」
 カウンター席で楽しそうに足をプラプラさせながら、マスターの手元を見つめてフタバは訊いた。
「昨日はルイさんにお会いしましたよ」
 マスターは屋上での出来事を思い出しながら言う。
「そう。ルイは元気にしてる?」
「元気……とは言いがたいかもしれませんね。でもそれも含めてルイさんですから」
「そうね」
 そう言って笑顔を見せるフタバにマスターは続ける。
「マキさんは幻視と幻聴に苦しめられていました。イクミさんはいつ襲うかわからないフラッシュバックと過去の幼い自分に囚われていて。セリナさんは睡眠障害で眠ることに恐怖心を抱いていました。ルイさんは希死念慮に支配されています。そしてフタバさん、あなたは……」
 そう言ってマスターはフタバにコーヒーを差し出す。
「マキ、
 イクミ、
 セリナ、
 ルイ、そして私、
 フタバ。ひとつの肉体を共有する存在であり、それぞれ別の人格。頭文字が示す通り『マイセルフ』みんな私自身」
 そう言って自嘲するように笑うフタバにマスターは、
「私は皆さんのことが好きですよ。たとえあなたが別人格の一人だとしても、ね」
 と言って自分のために淹れたコーヒーを一口飲む。
 ふふっ、と微笑み返したフタバもゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
 五人は解離性同一性障害、いわゆる多重人格である。
 ひとつの体の中にそれぞれの人格として存在している。
 マキ、イクミ、セリナ、ルイの四人はそれぞれ他の人格の存在を認識していなかった。だから、自分の中に自分以外の存在があることも知らなかったし、誰もが自分が主の人格であると信じて疑わなかった。
 だがフタバは違っていた。自分以外の人格の存在を知っていた。だからこそ、自分という存在が希薄になっていた。自分が主人格だという確証や自信が無かったのだ。
 フタバは自分の体がマネキンのように感じることが多かった。
 自分はただのイレモノなんじゃないか、そんな感覚によく陥った。
 フタバが抱えているのは離人症だった。自分という存在が遠く感じ、空虚なものになってしまうのだ。
 そんな感覚に陥った時、フタバは決まってこの喫茶店に来ていた。
 マスターの淹れるコーヒーを飲むと、必ず自分の意識をその場に留まらせてくれたから。
 ありのままの自分を、自分たちを、認めてくれたのはマスターだけだった。
 マスターの存在とその手が淹れるコーヒーには不思議な力があって、自分の存在を見失ってどうしたら良いのかわからなくなっていたフタバを助けてくれたのだ。
 それは今から一年ほど前。
初めてマスターと出会った時、フタバは笑うことを忘れていた。それはまるで抜け殻のようだった。
 
 ****
 
 フラフラとあてもなく歩いていたフタバは、引き寄せられるかのように喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
 穏やかなマスターの声がフタバの耳に遠く聞こえた。
 カウンター席に座ったフタバだったが、自分を取り巻く全ての空気がぼんやりと滲んでいるようだった。
 自分の体が自分のモノじゃないようで、上手く動かすことができない。声を発することもできなかった。
 そんなフタバにマスターは、
「まずはゆっくりと香りをお楽しみください」
 そう言って目の前にコーヒーを置いた。
 手を動かすことはできなかったが、ふわりとコーヒーの香りが鼻から体の隅々へと広がっていく。
 その香りは徐々に脳へと行き渡り、フタバの周りの景色を少しずつ鮮明にしていく。
 マスターの後ろの棚に並んだ色とりどりのコーヒーカップ、古そうな柱時計の微かな音、やがてマスターの姿もはっきりとその目に映り、カウンターテーブルの少し冷たい感触も肌に伝わり、自らの体の感覚が自分のものとして感じてくる。
 ぽろり
 一筋の涙が頬を伝うのを感じた。
 こんなの初めてだ。嬉しさのような戸惑いのような不思議な感じがした。
 ぽろぽろと涙が溢れてくる。
 フタバは無意識に溢れ出る涙に、思わず微笑んだ。
 やっと動くようになった手をコーヒーカップに伸ばす。
 ゆっくりと、そっと一口。
 温かさと香りとほろ苦さが全身の感覚を際立たせる。
 フタバはその感覚を堪能するようにゆっくりと、ゆっくりとコーヒーを味わった。
 これが現実感というものなのか。こんなにも温かいものだったなんて。
マスターはカウンターの中、少し離れた所で静かにコーヒーを飲んでいた。こちらを見ないようにしてくれていたのは、きっとマスターの優しさだろう。
それからフタバが『喫茶メロウ』の虜になるまで多くの時間は必要なかった。
 
 ****
 
 今ではその頃には考えられないほどフタバは笑うようになった。
 離人感が消えてなくなったわけではない。だが、「ここに来れば大丈夫」そう思えるようになったことは、フタバにとって大きな力となっていた。
 それはきっとフタバだけではない。
 マキも、イクミも、セリナも、ルイも。みんなこのコーヒーの不思議な魅力の虜になっていた。
 そしてもう一人、コーヒーの虜になっている人間を忘れてはいけない。
 一番このコーヒーが身近で、常にその力に助けられている人物。
そう、マスターだ。
 マスターもまた、日々をコーヒーに助けられていた。
マスターとコーヒーとの出会いはもう三十年以上前になる。
 
****
 
彼は極度の人見知りだった。誰とも話すことができず、他者と関わることを拒み、長い間引きこもりをしていた。
彼が家の外へ出るのは深夜だけで、その日はなんとなくいつもと違う道を歩いていた。
昔はもっと賑わっていたであろう飲み屋街だったが、今は多くの店がシャッターを閉めている。そんな中にぼんやりとしたオレンジ色の灯りがあった。
彼は引き寄せられるように扉を開ける。
カランカランと少し古びたようなドアベルの音が鳴ると同時に、
「いらっしゃいませ」
 という落ち着いた男性の声に迎え入れられた。
 店内に客の姿はなく、黒いボックス席が二つと五脚の椅子が並ぶカウンター。そのカウンターの中にいる初老の男性はイートンコートを違和感なく着こなしている。
 その店のマスターと目が合って若き彼は思わず目を伏せた。逃げるように黙って端のボックス席に着く。
 だがここまできて困ったことに彼は気づいてしまった。もう何年もろくに人と話していなかったせいで、マスターに声をかけることができないのだ。
 情けないことに「コーヒーひとつ」というその一言が言えずにいた。
 どうしよう……。
 でも今さら出るわけにもいかないし……。
 そんな彼の心情を知ってか知らずか、マスターは銀のトレイに白いコーヒーカップをのせてカウンターから出てくると、それをそっと彼のテーブルに置いた。
「良かったら飲んでみてください。オリジナルブレンドです」
 優しい微笑みでそう言って去っていく。
 彼は少し戸惑いながら、コーヒーを口にした。
 おいしい。
 一口ずつ味わうようにゆっくりと飲み込む。
 自然と表情が緩んでいった。
 もう一口。
 もう一口。
 彼はコーヒーを口に運び続ける。するとあっという間にコーヒーカップは空になってしまった。
「すみません……同じのをもうひとつください」
 気が付くと彼は少し躊躇いつつも声を振り絞ってそう言っていた。
 小さな、小さな声だったが、マスターには確かに届いていて、
「かしこまりました」
 笑顔でそう返事をもらえたことがなんだか気恥ずかしくて、そしてとても嬉しかった。
 その後二杯のコーヒーを飲み干して彼は店を出た。すっかりマスターのコーヒーの虜になっていた。
 その日から彼は頻繁にその喫茶店に足を運んだ。
 コーヒーを飲むことで緊張感が和らぎ落ち着くことができた。まだマスターとだけだったが、自然に話すことができるようになっていた。
 喫茶店に通う日々はその店のマスターがこの世を去るまで続いた。
 マスターがいなくなってからも彼はすっかりコーヒーを手放すことができなくなっていた。それは依存にも近かったが、彼は自らが『喫茶メロウ』のマスターになることで依存ではなく『生きがい』にすることに成功していた。
 それから彼の淹れるコーヒーは不思議な力を持ち人々を魅了していった。
 時には幻覚から自分自身を取り戻す手伝いをし、ある時は囚われた過去から解き放った。またある時は、優しい眠りへと誘い、そしてまたある時は存在理由となった。
 コーヒーはマスターにとっても魅力的で、人と関わることで得られる優しさと心地良さを彼に与えていた。
彼はこれからもこの場所でコーヒーを淹れ続けるだろう。
 お客様のために。
 そして自分自身のために。
 
 ****
 
「いらっしゃいませ」
 白髪白髭でイートンコートを着こなしたマスターが、グラスを拭きながら優しく微笑みかける。
 引き寄せられるようにカウンター席に座り、マスターにコーヒーを注文すると、
(おや? あなたもこの『喫茶メロウ』を見つけてくれたのですね)
と、どこからか声がした。
(あなたは今何を感じていますか?)
(あなたの必要としていることはどんなことでしょうか?)
 マスターは目の前でコーヒーを淹れているが、どうやら声の主ではないようだ。
(やりたいことが見つからない?)
(生きていて楽しくない?)
(愛する人に愛してもらえなくて寂しい?)
(様々な想いが宿っていますね)
 次々と聴こえてくる声に周りを見回すが他に人はいない。
「お待たせしました」
 マスターがコーヒーを差し出す。
 すると、
(このコーヒーをできるだけゆっくり飲んでみてください)
(香りを感じて。口の中を、喉を、食道を、温かさが通っていくのを感じてください)
 と言う声が確かに聴こえた。
 不思議に思いながらも声に従ってゆっくりとコーヒーに口をつける。
 おいしい。
 香りが広がり、温かさとほろ苦さが血管を通って全身に広がっていく。
 やっぱり噂通り。ここは不思議な魅力のある喫茶店だ。
 しばらくその味に心地良さを感じていると、また声が聴こえてきた。
(あなたにだけ真実を教えてさしあげましょう。実は本当に不思議な力を持っているのはコーヒーでもマスターでもこの『喫茶メロウ』でもないんですよ)
 え?
(じゃあなぜみんな不思議な体験をしたかって?)
(それはね、みなさんの中にそれだけの力が眠っているからなんです)
(この喫茶店は、マスターは、コーヒーは、その力が目覚めるお手伝いをしたに過ぎないんです)
 あなたは……?
(あぁ、自己紹介が遅くなりましたね。私は、■■■と申します)
 え? ごめんなさい。よく聞こえなかったわ。
(あ、良いんです。私の存在はあなたの中だけにあるんですから。それは『心』かもしれないし、『空気』かもしれないし、はたまた『青空』かもしれないし、『座り心地の良い椅子』かもしれません。あなただけに寄り添う、あなたのためだけの存在があるはずなんです)
 私だけの……?
(そう。コーヒーはそれを見つけるためのお手伝いの道具でしかないのですよ)
 私にも見つけられるかしら?
(えぇ、ここにはそれをサポートするだけの力が備わっています)
(さぁ身を委ねて。あなたの感じるままに。このコーヒーの香りの先にはあなたにしか見ることのできない『何か』があるはずですから)
 
 ****
 
「いらっしゃいませ」
人々の持つ進む力、癒す力、守る力、立ち止まる力、生きる力、様々な力を目覚めさせてくれる、不思議な喫茶店。
『喫茶メロウ』へようこそ。
 
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