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第十二章 絡め火
空虚
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オオミの軍は、壊滅した。主を失った軍は、霧のように散るか、朽ち木のように脆く崩れるかのどちらかというのがこの時代の常であるが、オオミの軍は、主を失い、なお勇んだ。
──我らも、ここで死ぬ。クナを許すな。
誰かが、そう言った。その悲憤は軍の中に伝播してゆき、多くの兵が死んだ。
そのぶん、クナの軍にも甚大な被害が出た。彼らは眼を血走らせて涙を流し、ただ押してくるオオミの軍に、なす術もなく蹂躙された。
セイは、傷を多く負ったため騎馬で離脱し、丘の上からその様を見ていた。
騎馬隊が何かの幼虫のように細かくうねり、走り、歩兵を絶ち割ってゆく。
空いた隙間に、クナの歩兵が流れ込んでゆく。クナと、ヤマトが、混じり合う。
混じり合った彼らのいのちが融けきったとき、戦場には、千ほどの歩兵と、五十ほどの騎馬と、そして夥しい数の死骸が残っているだけであった。
ここまでに互いをすり減らし、戦う理由はない。セイには、少なくとも、分からない。しかし、セイは、離脱を命じることもなく、ヤマトの最後の一兵が果てるまで、ただ見ていた。そうすることで、戦いの先にあるものを見ようとしたのか、どうか。いや、退却しようにも、それを許さぬ空気が戦場全体を覆っていて、セイもまた、その空気にあてられていたのだ。
全てが終わってから、セイは思った。
──ああ、あのオオミという将は、彼らに、とても好かれていたのだ。
と。先のヒコミコが死んだとき、クナの者でこのように悲しみと怒りを持ち、ヤマトに立ち向かった者が、一人でもいたか。あのとき、自分は、手負いのマヒロに止めを刺そうとしたか。
ただ、ヒコミコが死んだ空隙にヤマトが入り込んでくるのを、今と同じように見ていただけではなかったか。
セイは、丘を降りた。
「イヅモに、帰るぞ」
残った兵にそれだけを言い、海の方へと向かった。
筆者は、オオミの死に大いに打ちひしがれ、戦いというものの虚しさを語らずにはいられない。この項では、やや物語の本筋から外れた内容になることを断っておく。
戦いの後は、空虚である。いや、戦いそのものが、空虚であるのかもしれない。無論、筆者は剣を執って敵と渡り合ったことなどはない。だから、彼らの命のそれぞれの燃やし方に、鮮やかな驚きを覚えている。
間違いなく、人の命は、死に直面したとき、激しく鮮やかに燃える。自らの死や他人の死という巨大な空虚を埋めるべく、生命そのものを激しく燃焼させるのではないだろうか。
死とは、決して美しいものではないし、死自体に何の意味もない。死は、ただ惨めで、哀しいものだ。しかし、人が、その生を燃焼させる様は、たいへんに美しいものである。それは、なにも死を伴うような燃焼である必要はなく、たとえば、一生懸命に何かに打ち込んだり、大切な人のために仕事をしたりする様も、たいへんに美しいものであると思う。
戦いという極限の行動においては、実にわかりやすく、その人ごとに異なる様々な色の炎が上がるように思う。筆者は、それを描いている。
また、戦いにおいて、その燃焼の度合いで勝ち負けが決まるわけではない。必死になっても、叶わぬこともある。結局のところ、何がそれを決定づけるのか、誰にも分からぬであろう。
イヅモとは、この時点では、国の名ではない。ただの地域名称である。クナがイヅモに遷っても、クナはクナであった。
「倭」というのは、わたし、という意味の当時の一人称をそのまま大陸の記録者が国号として記し、これよりやや降った時代になって、わが国の人々もまた自らがそう呼ばれていることを受け入れるようになったようなふしがあることは既に触れた。「倭」という字に、「やまと」という訓をあてることがその一端を物語っている。他にも、小さい、という意味の「矮」という字の義をあて、背の低い人が多く住む、という意味で倭としたとか、わが国においてその意味や由来をいつの時代においても様々な学者や研究者が考え、論じているが、筆者が採用している説は、比較的古く、平安時代に提唱された説である。その提唱者は、「ある人」ということしか分からず、最も根拠が薄弱であるように思えるが、誰が言い出したわけでもないこの説が、もっとも実際に近いのではないか、と思う。
話は逸れるが、「日本」を意味する英語の、「ジャパン」は、今のイタリア、水の街ベニスで知られるところに当時あったヴェネツィア共和国の商人マルコ・ポーロにより編まれた、かの有名な「東方見聞録」に、「ジパング」と我らが国を紹介する節があることに由来する。しかし、実のところ、マルコ・ポーロは日本には来ていない。中国までは来た。そこで、この海を渡った先のふしぎな国家のことを聞き知り、彼の途方もない想像欲と共に記したと思われる。それを、帰国後、別の者に口述で伝え、その者が筆記した。
その記事は、あくまで中国で聞いた噂話程度に記されており、日本に来ていたならば記録されるべきその当時の国号はジパングではなく日本、もしくは和──奈良時代頃より後には、あえて「ワ」という字を用いる際は、倭より、和を使用するようになる──になるはずである。
「ジパング」は、英語でもポーロが用いたであろう古イタリア語でも、もちろん日本語でもない。中国語である。マルコ・ポーロの時代も、対外的な正式国号は「日本国」であった。中国語で読むと「ジィべングォ」である。黄金の国、というのは恐らく、大陸との交流が活発であった中尊寺金色堂などが有名な東北の奥州藤原氏のことを指すのであろう。
人がそう呼べば、わが国に暮らす人々は、そんなもこか。と受け入れるおおらかな気質を持っている。古くは、「倭」を受け入れ「やまと」と訓じ、今、我々は「日本」と同義で「ジャパン」を受け入れている。
外国人に、
「ジャパンに来るの、楽しみにしていました」
と言われ、
「ここは日本ですよ?」
と言う者はいまい。いれば、少々思想に偏りがある者であろう。しかし、我々が中国に行き、
「中国に、一度来てみたかったのです」
と言っても、なんのことか分からぬ人もいるらしい。
「中国」と中国語で言えば、ただ単に、国の中程の地域、程度の意味になる。中国の人々にとっての中国は、
「中華」
でしかない。無論、彼らは、隣の島国の人々が、「中華人民共和国」もしくはその前身である「中華民国」を縮め、そう呼称していることは知ってはいるであろうが、それを自らの国号としては受け入れられないらしい。もしかすると、ほとんどの国がそうであるのかもしれない。アメリカ人に「アメリカ」と言っても、「間違ってはいないが、しっくりは来ない」と感じるという話が、それを端的に物語っている。
だからどうということもないが、民族性の違いというか、我々の祖先は物事にとてもおおらか──無頓着と紙一重であるが──で、その基質を今も我々は持っているということを書き留めておく。
大きく話が逸れたことを、許されたい。
この時代、地域の名が国の名であった。したがって、このクナの移動は、地域名と国の名が一致せぬはじめての例である。
断っておくが、クナがイヅモに入った、などというのは史実には記されていない。この物語の主軸の一つであり、さらに後に記されることになるであろうヤマトとクナの長い戦いの結末から逆算した経路を考えれば、クナには必ずイヅモに入ってもらわねば、筆者が困るからである。この物語はあくまで創作の産物であり、論文や研究書ではないから、まあ、いいだろう。
ともかく、クナは、イヅモにあるがクナ、という、この時代においては実に不思議な現象を包容していた。それを、クナの人もイヅモの人もヤマトの人も、「倭」を、そして「ジャパン」を当たり前のように受け入れるおおらかさでもって受け入れた。
しかし、それはヤマトがクナの存在を許すかどうかとは別問題である。一時、ヤマトの中枢において融和論が出たこと、クシムの心情が必ずしも決戦には無く、可能であれば共存でもよいといういわゆる両想いでもあったことは、既に述べた。しかし、ヤマトも、クナですらも与り知らぬ力により、両国は、再び血みどろの戦いの中に引きずりこまれていった。
紛れもなく、タクの仕業である。彼はイシに、サザレに、そしてクナにそれぞれ働きかけ、戦いが起きるために欠けている歯車を、ぴたりと当てはめてみせた。一人の人間の頭脳と行動が、国土に散らばる国々を引き回し、回転させたのである。
彼は、武力を背景にせず、ただ利と受け手に心地のよい理想をもって、それを行った。この際、タクが、具体的にどのような言葉でイシなどを叛かせたのかはどうでもよい。描くべきは、彼の才がこの物語のどの人物にとっても恐るべきものであるということのみである。
タクが行う事業の先にある何物かをも、我らが祖先はそのおおらかさをもって許し、受け入れることができるのであろうか。
また、空虚であると筆者が断じた戦いというものを積み重ね、タクが作ろうとしているものは何なのか。タク自身が、その片鱗を語ってはいるが、未だその全貌が分からぬ以上、筆者もまた、彼らから受け継いだおおらかさでもって、彼ら自身に彼らの物語の行く先を委ねねばなるまい。
──我らも、ここで死ぬ。クナを許すな。
誰かが、そう言った。その悲憤は軍の中に伝播してゆき、多くの兵が死んだ。
そのぶん、クナの軍にも甚大な被害が出た。彼らは眼を血走らせて涙を流し、ただ押してくるオオミの軍に、なす術もなく蹂躙された。
セイは、傷を多く負ったため騎馬で離脱し、丘の上からその様を見ていた。
騎馬隊が何かの幼虫のように細かくうねり、走り、歩兵を絶ち割ってゆく。
空いた隙間に、クナの歩兵が流れ込んでゆく。クナと、ヤマトが、混じり合う。
混じり合った彼らのいのちが融けきったとき、戦場には、千ほどの歩兵と、五十ほどの騎馬と、そして夥しい数の死骸が残っているだけであった。
ここまでに互いをすり減らし、戦う理由はない。セイには、少なくとも、分からない。しかし、セイは、離脱を命じることもなく、ヤマトの最後の一兵が果てるまで、ただ見ていた。そうすることで、戦いの先にあるものを見ようとしたのか、どうか。いや、退却しようにも、それを許さぬ空気が戦場全体を覆っていて、セイもまた、その空気にあてられていたのだ。
全てが終わってから、セイは思った。
──ああ、あのオオミという将は、彼らに、とても好かれていたのだ。
と。先のヒコミコが死んだとき、クナの者でこのように悲しみと怒りを持ち、ヤマトに立ち向かった者が、一人でもいたか。あのとき、自分は、手負いのマヒロに止めを刺そうとしたか。
ただ、ヒコミコが死んだ空隙にヤマトが入り込んでくるのを、今と同じように見ていただけではなかったか。
セイは、丘を降りた。
「イヅモに、帰るぞ」
残った兵にそれだけを言い、海の方へと向かった。
筆者は、オオミの死に大いに打ちひしがれ、戦いというものの虚しさを語らずにはいられない。この項では、やや物語の本筋から外れた内容になることを断っておく。
戦いの後は、空虚である。いや、戦いそのものが、空虚であるのかもしれない。無論、筆者は剣を執って敵と渡り合ったことなどはない。だから、彼らの命のそれぞれの燃やし方に、鮮やかな驚きを覚えている。
間違いなく、人の命は、死に直面したとき、激しく鮮やかに燃える。自らの死や他人の死という巨大な空虚を埋めるべく、生命そのものを激しく燃焼させるのではないだろうか。
死とは、決して美しいものではないし、死自体に何の意味もない。死は、ただ惨めで、哀しいものだ。しかし、人が、その生を燃焼させる様は、たいへんに美しいものである。それは、なにも死を伴うような燃焼である必要はなく、たとえば、一生懸命に何かに打ち込んだり、大切な人のために仕事をしたりする様も、たいへんに美しいものであると思う。
戦いという極限の行動においては、実にわかりやすく、その人ごとに異なる様々な色の炎が上がるように思う。筆者は、それを描いている。
また、戦いにおいて、その燃焼の度合いで勝ち負けが決まるわけではない。必死になっても、叶わぬこともある。結局のところ、何がそれを決定づけるのか、誰にも分からぬであろう。
イヅモとは、この時点では、国の名ではない。ただの地域名称である。クナがイヅモに遷っても、クナはクナであった。
「倭」というのは、わたし、という意味の当時の一人称をそのまま大陸の記録者が国号として記し、これよりやや降った時代になって、わが国の人々もまた自らがそう呼ばれていることを受け入れるようになったようなふしがあることは既に触れた。「倭」という字に、「やまと」という訓をあてることがその一端を物語っている。他にも、小さい、という意味の「矮」という字の義をあて、背の低い人が多く住む、という意味で倭としたとか、わが国においてその意味や由来をいつの時代においても様々な学者や研究者が考え、論じているが、筆者が採用している説は、比較的古く、平安時代に提唱された説である。その提唱者は、「ある人」ということしか分からず、最も根拠が薄弱であるように思えるが、誰が言い出したわけでもないこの説が、もっとも実際に近いのではないか、と思う。
話は逸れるが、「日本」を意味する英語の、「ジャパン」は、今のイタリア、水の街ベニスで知られるところに当時あったヴェネツィア共和国の商人マルコ・ポーロにより編まれた、かの有名な「東方見聞録」に、「ジパング」と我らが国を紹介する節があることに由来する。しかし、実のところ、マルコ・ポーロは日本には来ていない。中国までは来た。そこで、この海を渡った先のふしぎな国家のことを聞き知り、彼の途方もない想像欲と共に記したと思われる。それを、帰国後、別の者に口述で伝え、その者が筆記した。
その記事は、あくまで中国で聞いた噂話程度に記されており、日本に来ていたならば記録されるべきその当時の国号はジパングではなく日本、もしくは和──奈良時代頃より後には、あえて「ワ」という字を用いる際は、倭より、和を使用するようになる──になるはずである。
「ジパング」は、英語でもポーロが用いたであろう古イタリア語でも、もちろん日本語でもない。中国語である。マルコ・ポーロの時代も、対外的な正式国号は「日本国」であった。中国語で読むと「ジィべングォ」である。黄金の国、というのは恐らく、大陸との交流が活発であった中尊寺金色堂などが有名な東北の奥州藤原氏のことを指すのであろう。
人がそう呼べば、わが国に暮らす人々は、そんなもこか。と受け入れるおおらかな気質を持っている。古くは、「倭」を受け入れ「やまと」と訓じ、今、我々は「日本」と同義で「ジャパン」を受け入れている。
外国人に、
「ジャパンに来るの、楽しみにしていました」
と言われ、
「ここは日本ですよ?」
と言う者はいまい。いれば、少々思想に偏りがある者であろう。しかし、我々が中国に行き、
「中国に、一度来てみたかったのです」
と言っても、なんのことか分からぬ人もいるらしい。
「中国」と中国語で言えば、ただ単に、国の中程の地域、程度の意味になる。中国の人々にとっての中国は、
「中華」
でしかない。無論、彼らは、隣の島国の人々が、「中華人民共和国」もしくはその前身である「中華民国」を縮め、そう呼称していることは知ってはいるであろうが、それを自らの国号としては受け入れられないらしい。もしかすると、ほとんどの国がそうであるのかもしれない。アメリカ人に「アメリカ」と言っても、「間違ってはいないが、しっくりは来ない」と感じるという話が、それを端的に物語っている。
だからどうということもないが、民族性の違いというか、我々の祖先は物事にとてもおおらか──無頓着と紙一重であるが──で、その基質を今も我々は持っているということを書き留めておく。
大きく話が逸れたことを、許されたい。
この時代、地域の名が国の名であった。したがって、このクナの移動は、地域名と国の名が一致せぬはじめての例である。
断っておくが、クナがイヅモに入った、などというのは史実には記されていない。この物語の主軸の一つであり、さらに後に記されることになるであろうヤマトとクナの長い戦いの結末から逆算した経路を考えれば、クナには必ずイヅモに入ってもらわねば、筆者が困るからである。この物語はあくまで創作の産物であり、論文や研究書ではないから、まあ、いいだろう。
ともかく、クナは、イヅモにあるがクナ、という、この時代においては実に不思議な現象を包容していた。それを、クナの人もイヅモの人もヤマトの人も、「倭」を、そして「ジャパン」を当たり前のように受け入れるおおらかさでもって受け入れた。
しかし、それはヤマトがクナの存在を許すかどうかとは別問題である。一時、ヤマトの中枢において融和論が出たこと、クシムの心情が必ずしも決戦には無く、可能であれば共存でもよいといういわゆる両想いでもあったことは、既に述べた。しかし、ヤマトも、クナですらも与り知らぬ力により、両国は、再び血みどろの戦いの中に引きずりこまれていった。
紛れもなく、タクの仕業である。彼はイシに、サザレに、そしてクナにそれぞれ働きかけ、戦いが起きるために欠けている歯車を、ぴたりと当てはめてみせた。一人の人間の頭脳と行動が、国土に散らばる国々を引き回し、回転させたのである。
彼は、武力を背景にせず、ただ利と受け手に心地のよい理想をもって、それを行った。この際、タクが、具体的にどのような言葉でイシなどを叛かせたのかはどうでもよい。描くべきは、彼の才がこの物語のどの人物にとっても恐るべきものであるということのみである。
タクが行う事業の先にある何物かをも、我らが祖先はそのおおらかさをもって許し、受け入れることができるのであろうか。
また、空虚であると筆者が断じた戦いというものを積み重ね、タクが作ろうとしているものは何なのか。タク自身が、その片鱗を語ってはいるが、未だその全貌が分からぬ以上、筆者もまた、彼らから受け継いだおおらかさでもって、彼ら自身に彼らの物語の行く先を委ねねばなるまい。
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