夜に咲く花

増黒 豊

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第三章 法度

大和屋

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 決定的な事件が起きた。一条葭屋町いちじょうよしやまちにある大和屋という商家を、芹沢らが襲撃した。例の、金を出す出さぬの話である。
 もう、この頃になると、芹沢の精神は限界を越えていた。例の八月十八日の政変で出陣した際、彼の受けた命が現場に通っておらず、やっとこさ通ったと思えば守備するはずの御花畑にはそもそも何もなく、敵はおろか猫の子すらもおらぬような状態であったことで、彼は首魁として認められなくなっていた。
 いや、周囲はもしかするとそうでもなかったのかもしれぬが、彼自身がそのように思っていた。起死回生の一策となるはずであった御所の件はそうして破れ、酒は急速に彼の心身を蝕み、土方が誇大に宣伝した通りの男に彼は生まれ変わった。 

 八月十八日の政変は、結局、新たな勅命を携えた会津、薩摩の軍に長州の者は手も足も出せず、彼らと朝廷を繋ぐ尊攘派の過激思想を持つ公卿七人と共に、悲しみと怒りを背に見せながら落ちのびていった。これより、長州者は、京に入った段階で、帝の命に叛くものとして無条件に捕殺されても文句は言えない。
 相変わらず、昨日と今日とでは世の動きが全く違う。そんな中、この事件は起きた。
 芹沢は、腹心の新見、平山、平間、野口と共に大和屋に押し入り、金を出せと凄んだ。主がおらず、戻ったら主に話す番頭に対し、そうか、とだけ言い、一度は引き下がった。そのまま屯所に戻ると、会津から貸し出されていた木砲という簡単な大砲を持ち出し、夜には再び大和屋へ押し掛けた。さんざんに店内で暴れ回った挙句、木砲をぶっ放し、蔵を焼いてしまった。木砲の砲弾は、近代的な「砲」と呼ばれるものに用いられる、着弾と同時に炸裂するものではなく、ただの鉄の弾である。それを火にくべて焼いて放つだけだから、当たっても蔵の壁にめり込む程度で、破壊力に乏しい。それでも、何度も弾を撃ち込んでいるうちに蔵の壁が破れ、火が出た。
 芹沢は、向かいの家に勝手に上がり込んで屋根の上に登り、酒を飲みながらそれを見物した。急報を受けた新撰組の面々が駆け付けたとき、屋根の上から、おう、と手を挙げた。
 藤堂、斎藤が刀の柄に手をかけて駆け出そうとするのを、土方、山南が制止した。
「まだだ」
 と言い、二人は頷き合った。その後、近藤が諌め、芹沢は屋根から降りてきた。
 大変な騒ぎである。蒸し暑い京の夜に火が上がり、避難者まで出るほどであった。会津から貸し与えられた砲で市中を騒がせたため、近藤、土方、山南、芹沢、新見は黒谷に呼ばれ、大変厳しく叱責された。その場でも、芹沢は憮然としていただけである。
「あぁ、早く酒が飲みてぇ」
 と言い、気だるそうに部屋を出た芹沢を残し、近藤らの三人が、公用方の者に、
「ちょっと」
 と手招きされた。
「先、帰ってるぜ」
 芹沢は、ふらふらと廊下を歩いてゆく。おそらく、彼はこれからどのような話があるのか分かっていたに違いない。
「芹沢を、何とかするように」
 と、近藤は、公用方の者に言われた。
「何とか、とは」
「何とかとは、何とかだ。いいか。お前たちは、京の治安を守るために、会津の預かりとなっているのだ」
「ごもっとも」
 土方が、口を開いた。どういう感情なのか、眼が眠ったようになっている。
「それを、何だ。商家へのゆすり、たかりに留まらず、我らが貸し与えた砲でもって商家を襲い、火をつけるなど」
「申し開きのしようもございません」
 と、今度は、山南が言った。彼はこういった場での容儀や作法が堂に入っているから、重宝する。
「これまで、我らが盟主は、幾度となく芹沢を諌めて参りましたが、このところの芹沢の、隊を私することは輪をかけてひどくなり、手に余る始末でございます」
「手に余るなら、もはや致し方あるまい」
 公用方の眼が、光った。
「とにかく、何とかせよ。近藤。殿も頭を痛めておいでじゃ」
 それで、話は終わりだった。頭を下げながら、土方は山南と眼を合わせた。

 殺せ、ということである。その日から、芹沢誅殺のために彼らは奔走するわけであるが、近藤は決心がつかないらしい。土方にしてみても、別に死んでもらわなくとも、消えてさえくれればそれでよいのだが、彼の策は思いのほか効果を発揮しており、芹沢自身も後には戻れぬところまで来ている。なおかつ、大和屋の一件で京の市中からの新撰組の評判は最悪になっており、芹沢らから役職を取り上げて放逐するよりも、粛清という形で組織を生まれ変わらせた、と表現する方が、より鮮やかな印象をもたらす。
 この時代、無論インターネットやテレビなどはない。従って、人の噂というものが最も重要な情報伝達手段であった。その噂を操り、土方は芹沢を追い詰めたわけだが、新撰組の評判を回復させることにも、それを利用できそうである。
 ――あの暴れ者どもの親玉は、なんや身内に斬られたらしいで。
 ――そらそやろ。あんな無茶苦茶なん、知らんで。
 ――ほな、新撰組はもう、うなんの?
 ――いや、それがな、近藤いう人が後に立って、これがまた立派な人らしいんやわ。
 ――あの壬生狼どもも、ちょっとは大人しなんのかいな。
 ここまで持っていければ、よい。

 土方は、自室で山南と話している。よく、二人は不和であったと描かれるが、そのようなことはなく、むしろ仲はいい方だった。
「これで、あとは実行するのみだ」
「新撰組が、より強固になるために」
「そうだな、山南さん。そのために、俺は、隊の中で、法度を作ろうと思う」
「法度」
「度重なる不始末を受け、それを繰り返さぬよう、厳しい決まりを作るのだ」
 まず、隊を勝手に辞めることは許さない。また、金を勝手に借りたりすることも許さない。さらに、人の訴訟を取り上げ、勝手に裁いてはならない。そして、武士としての行いから逸れてはならない。
 四ヶ条とも五ヶ条とも、あったとも無かったとも言われるが、概ねこのような内容のものであった。
「破れば?」
「腹を切る。さもなくば、斬首」
「正気か、土方くん」
「これくらいやらないと、知らぬ顔を通す奴が、多すぎるからな」
「ならば、どうする」
「まずは、外堀を埋める」
 土方は、せ、に、ま、や、の、と五文字の平仮名が書き込まれた紙の、「にの字」を塗りつぶした。
「こいつが、あれこれ一番うるさいからな」
 そうして、土方は、近藤、芹沢の了解のもと、隊内に法度を発布した。近藤は法度の厳しさに疑問を持ったようであったが、芹沢は興味がないらしかった。

 その日、新見は、祇園の料亭にいた。そこへ、土方、芹沢、山南、原田、久二郎の五人が上がり込んできた。
「なんだね、急に」
「新見さん。あなたに、腹を切っていただくことになった。そのことを伝えにきたのです」
 土方が、新見の膳の上で忙しく動く箸を見ながら、言った。その箸が、止まった。隣に座している馴染みらしい女が、ぽかんとした顔を上げた。
「どういうことだ」
「おい、新見の両刀を、持ってこい」
 芹沢が、女に言った。女は、弾かれたように立ち上がった。
「芹沢さん、なぜ」
「ぜんぶ、分かってんだ。俺を嵌めてたのは、お前なんだってな」
 芹沢が、酷薄な笑みを口許に浮かべた。
「馬鹿な。私が、どれだけ貴方に尽くしてきたのか、ご存じないのか」
「口だけなら、何とでも言えるわ。お前が金を借りている家の者が、俺を排して隊を我が物にするから金がいると言っていたという言質があるのだ」
「それに、女にも、もうすぐ暮らしが楽になる、と言っていたそうじゃないか」
 土方が付け加える。無論、どちらもでたらめである。しかし、芹沢を信じさせるため、土方は金を使い、偽証させた。
 露見する恐れはない。どうせ、新見も、芹沢も、もうすぐ死ぬのだ。
 芹沢は、自分が死ぬための準備のようなこの作業に、熱心であった。
「土方君が考えた、この法度。お前も、知っているな」
「はい」
「この中にあるうち、お前は人の訴えを取り上げて勝手に金を得て、勝手に金策をし、そして、武士としてあるまじき行いをした」
「待って下さい。その項は、解釈が広すぎます」
「そうだな。俺もそこのところは納得いかん。だから、とりあえず近藤君とよく吟味するつもりだ」
「では」
「だが、どう解釈してどう線を引こうが、我が身のために俺を嵌めたのは、武士のやることではあるまい。なぁ、山南君?」
 山南は、頷いた。
「学者の山南君も、そう言ってる。ここで未練がましく、言い訳をするか。いよいよ武士らしくないな」
 女が、新見の刀を持ってきた。それを、芹沢は新見の目の前に放り出した。
「どちらか、選べ」
 と芹沢は言う。この場で斬り死にするなら大刀を、潔く腹を切るなら脇差しを取れということである。
 新見は、叫び声を上げると、大刀に手を伸ばした。女が、逃げようと立ち上がった。
 芹沢が、脇差しを掴む。
 そのまま鞘を落とし、女の腰を斬った。
 血が臭い、女が転がる。
 久二郎、原田の二名が新見に飛びかかり、大刀を奪い、羽交い締めにする。
「そうだ、原田。お前、腹を切ったことがあったらしいな」
 芹沢が、血に濡れた脇差しを投げた。原田は伊予松山の生まれで、武家の使用人のような仕事をする仲間ちゅうげんという出身であり、あるとき親しい者との間で口論となり、その者が原田の身分を蔑む意味で、「切腹の作法も知らぬくせに」と罵った。腹を立てた原田は、見ろ、と腹をむき出しにし、ずぶりと脇差しを突き立てたという。驚いた仲間に取り押さえられ、事なきを得たが、その話をいつも自慢げに言いふらしているような、愛嬌と血の気の多い若者であった。
「新見さん、切腹ってのは、こうすんだよ」
 おもむろに、新見の腹に脇差しを突き立て、一気に横に引いた。新見の身体は、羽交い締めにしている久二郎の腕が折れるかと思うほど、激しく痙攣をする。
 新見は暫く、血を流しながら動いていたが、そのうち動かなくなった。
 ――これは、なんなのだ。
 久二郎は、目の前の光景の凄惨さが、すぐには理解できなかった。無論、これらのことが芹沢を葬るために土方が仕組んだことであるなどとは知らない。
 ただ、目の前に転がる二つの死体を、見ている。
「行こう。店の者に、部屋を汚したことの心付けを渡すのを、忘れずに」
 山南が立ち上がった。土方、原田とそれに続き、芹沢が最後に残った。
 新見の死体を見ている芹沢の表情を形容する言葉を、久二郎は知らない。
「どのみち、こうなるんだ」
 芹沢は久二郎を見て、諦めたような笑みを浮かべた。
 こうなる、とは、新見のことを言っているのか、久二郎のことを言っているのか、あるいは芹沢自身のことを言っているのか。
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