夜に咲く花

増黒 豊

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第五章 伊東と近藤

狐を化かす

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 結局、久二郎は瞬太郎を捕らえることはでになかった。恐るべき逃げ足である。
 瞬太郎の手の者、討ち取り二名、召し取り一名。屯所に戻り、そのことを報告した。召し取った者は、手傷がもとで、翌日に死んだ。
 つまるところ、目標を達することは叶わず、有用な情報を引き出すこともできず、何の収穫もなく、ただ小物の浪士を斬っただけで終わったということである。久二郎は、何らかの処分を覚悟した。
 自室で、沙汰があるのを待った。土方が、やってきた。
「ちょっと、来い」
 久二郎は、無言で土方に続いた。このようなとき、首脳部が居並ぶ、近藤の部屋に呼ばれることが慣例になっている。新たに加わったばかりの、伊東もいた。
 土方は、久二郎の今回の働きについて、あれこれと話を始めた。話し終わって、
「相違はないか」
 と聞く。
「ありません」
 久二郎は端的に答えた。
「ちょっと、お待ち下さい」
 と、そこで伊東が口を挟んできた。
「何かな、伊東さん」
「これは、何の話ですか。綾瀬君を、断罪しているのですか」
 と、憤慨している様子である。
「厳しいだけでは、人は続きません。綾瀬君は、隊のため、命をかけて、剣を振るったのです。そのことを、何故責めるのです。責めて、どうするのです」
 と、感情が激しやすいと当時言われた水戸人らしく、語調を荒げた。
「綾瀬君、安心しなさい。このような理不尽、この私が決して許しません」
「伊東さん」
 と、土方は言った。
「なんです」
「さっきッから、あんただけだぜ。取り乱してンの」
 露骨な冷笑を浮かべた。
「あんた、訳知り顔で、あれこれ言うが、綾瀬と、今回取り逃がした瀬尾が、旧知の仲だと知ってるのか」
「初耳です」
「じゃあ、これも知らねェんだろうなぁ。綾瀬の妹は、今、瀬尾の女になっている。隊のため、瀬尾をどうにかしなきゃならねェが、そうすると、他に身寄りのないこいつは、たった一人の妹を、ひどく悲しませることになるンだ」
「なんと、むごいことを」
 と、伊東は眼に涙を浮かべた。
「違うな。こいつは、それでも、隊のため、自ら進んで、瀬尾を追っている。いや、瀬尾と知り合いで、その女が自分の妹だから、そうしている」
「綾瀬君、ほんとうですか」
 伊東の秀麗な顔が、久二郎の方を向いた。久二郎は、黙って少し頭を下げた。その月代のない頭に、土方の声が被さってきた。
「なんとも、武士らしいじゃねェか。新撰組の組長たるもの、皆、綾瀬を見習うべきだ。俺は、それが言いたかっただけだぜ。こいつは、やる。こいつにしか、できぬ。そう思っている」
「伊東さん、隊士を気遣うのもよいが、我らには、我らのやり方があるのです。ここにいる以上、先走って、今のように取り乱してもらっては、困りますぞ」
 と、めっきり痩せて青白い顔になった山南が、止めを差した。
「隊の決め事に背けば、死。敵に斬られても、死。生きる道は、目の前の敵を斬ることしかない。それは、隊士でも組長でも、無論、我らでも、代わりないのだ」
 土方が、子供がいたずらを喜ぶような声から、いつもの冷たい声に戻り、言った。そうしなければ、だから、出しゃ張ンじゃねェ、手前てめぇ。と言ってしまうからだ。
 近藤は、何も言わず、久二郎をじっと見て、座っている。その大きな顎が少し動いて、
「綾瀬君」
 と、よく透る、太い声で言った。
「この度は、よく働いた。しかし、次こそは、瀬尾を捕らえるように」
 その形式的な言葉をもって、この場は終わった。久二郎は、要領を得ぬまま、頭を上げた。
「ところで、綾瀬」
 と土方が、また厳しい眼を向けてきたので、久二郎は力を抜いた背中を、また緊張させてみせた。
「例の女、確か、小春と言ったか。あれは、まだ囲わぬのか」
 と、口の端を少し持ち上げ、言った。久二郎は少し黙ってから、
「はい、金の都合も付きそうなので、家を見つければ、と思っています」
 と思うところを述べた。
「そうか。まだあの女の位は、低かったな。それなら、蓄えがあるならすぐにでも落籍けるだろう。女を落籍く仕様しざまについては、天神だか太夫だかをにした局長が詳しい」
「歳、やめぬか」
 近藤はこのところ、あちこちの女と仲良くなり、妾にするしないの話が持ち上がっている。土方は、そのことを言った。
「なんです、この話は。用件が終わったなら、私は失礼します」
 伊東が、裾を払って席を立った。障子がぴしゃりと閉められ、憤慨した足音が遠ざかってゆくと、土方と山南が、同時に吹き出した。
「いや、すまん、綾瀬。あいつが、あまりにでかい顔をしやがるもんでな。ちょっと、釘を刺しておきたかったんだ。俺たちがどのような覚悟でいるのか、見せてやりたかったんだ」
「驚いたろう。済まなかったな。我らの覚悟を見せるには、君をにするのが、最もよいと土方君と話したのだ」
 と、二人ともおかしくて仕方ないといった様子であったので、久二郎は安堵した。無論、嬉しくもある。
「二人とも、人が悪いぞ。悪戯も、大概にしろ。俺は、歳が綾瀬君を罰するのではないかと思い、冷や冷やしたぞ」
「私は、ただ働き、剣を振るうまで。この度、瀬尾と抜き合わせておきながら、逃がしたことは、咎められても仕方ありません。どのような覚悟でも、できておりました」
「嘘つけ。内心、金玉が縮んだろう」
「そんなことは、ありません」
 四人で、笑った。
「しかし、近藤さん。これで、分かったろう」
 土方が、真顔になって近藤に言った。
「あいつは、隊士におべっかしやがる。隊について、私心あり、だ」
「もう、隊士の中には、伊東さんに心服してしまって、毎日彼の部屋に入り浸っている者もいます」
 山南が、くまのひどい目元を、近藤に向ける。
「そういえば、先日、藤堂さんに誘われて、樋口も部屋を訪れていました」
「平助め。その辺、奴は節操がねぇからな」
 土方が舌打ちをした。
「まぁ、そう言うな。たとえ、歳の言うように、伊東君が狐なら、俺がそれを、上手く用いればいいだけのことじゃねェか。なァに、歳も山南君もいる。心配はねェ」
 近藤までも、地の言葉がちらりと出た。
「あと、今日、あの狐を化かすためにお前を驚かせた償いに、俺から提案がある」
 土方が、だらしなく足を伸ばし、背中に伸びを与えながら言った。
「お前と小春の家、監察に、探させる」
「いけません、そのような」
「山崎か、島田、あとは吉村あたりに言えば、明後日には手頃な家を見つけて来るさ。家主と家賃の折り合いも、きっちり付けて、な」
 あくびの混ざった声で言った。
「綾瀬君なら、女と過ごすことで、より隊務に精を出してくれることだろう。副長が、こう言っているのだ。遠慮をすることはない」
 久二郎は、ああ、ここが、自分の家なのだ。と思った。なんとなく、流されてここまで来た。それは、ここにいる誰もが、きっとそうなのであろう。だが、新撰組が、家なのだ。ぼんやりはしておれぬ。何が新撰組のためになるのか、何が新撰組を害するのか、自ら見極め、た上でことに当たらねば、また流されることになる。ここで生き、ここで死ぬ。小春と暮らす借家のことではない。久二郎は、場所を得た。と思った。

 切りのよいところではあるが、このことも、付け加えておかねばならない。
「副長」
「なんだ」
「有り難く、ご好意に甘えさせて頂くことにします」
「局長をはじめ、山南だって、明里だとかいう女と、よろしくやってる。平助は、あのぜんざい屋の娘だろ。永倉も、原田も、皆、女がいるんだ、気にするな。お前だけ、堅物ってこたァねぇだろう」
「甘えついでに、一つ、よろしいでしょうか」
「ほう、嬉しいね。お前から、無茶を言ってくるとは」
「彰介の──いや、樋口の家も、探してやってもらえませんか」
 土方は、白い奥歯まで見せて、笑った。
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