ルントラント物語

No.37304

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2.新たな任務

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 〈ちとせ〉というのは、無論本名ではない。彼が訓練を終えるとともに付与された、一種の識別符号にすぎない。それ以前に名乗っていた名もあったが、もともと、孤児院で十把一絡げにつけられた名だ。それが符号に変わったところで何も変わりはしない、孤児院に拾われてから使い続けていた名が〈ちとせ〉という符号にすり替わったときに感じたのは、その程度のことだった。
「君のような日本人の存在は、実に有用だよ。なにぶん、現地で雇う協力者はいまひとつ、忠誠心に難がある。その点君は素晴らしい、一から日本で生まれ育っているのだからね」
 〈ちとせ〉という符号とともに、彼は上官からそのような評価も受けたものだった。彼の外見は、それこそ第三帝国親衛隊に混じってもわからないほどに、見るからに西洋人らしい外見である。日本の孤児院で育ち、日本人としての教育を受けて日本の国籍を持ちながら、完全に西洋人そのものの外見である、という点が、彼を諜報員として拾い上げた上官にとっては最大の利点と見えていたようだ。その評価を、良いとも悪いとも思いはしなかった。そうでなければ、徴兵されたばかりの一兵卒を諜報員として引き抜くこともないだろう、そう思った程度のことだった。
「君には、潜入任務を命じる。少々厄介な案件でね、オカルティズム、と言って通じるかな? そういったものが関わってくる」
 そうして命じられたのが、〈アーネンエルベ〉への潜入任務だった。〈アーネンエルベ〉というのは、親衛隊長官ヒムラーのもと作られた、考古学研究を旨とする親衛隊下部組織の一つだ。考古学研究と言っても、この場合まっとうな研究ではない。アーリア民族が優れた民族であることを過去の遺物を使って証明するような、はじめからねじ曲がった目的のために考古学を利用するような研究から、聖遺物だの古代隕石で作られた仏像だのといったオカルティックな物品の収集まで、とにかく胡散臭さのオンパレードのような活動が〈アーネンエルベ〉の主たる目的であるのだ。
「そう、連中の活動は十中八九、九割型はほぼ無為なものだ。──だが、全てがそうではない」
 任務について語る上官は、〈アーネンエルベ〉について記された無数の資料の上に、一束の書類を放った。〈アーネンエルベ〉の生え抜きでありながら一個大隊を任されるに至っているという経歴もさるものながら、書類の束の右上にあった不気味な仮面の写真は、それまでにみたどの情報よりも〈ちとせ〉の記憶に残ったものだった。
「その男が次に探し求めているという〈契約の石〉。現在得ている情報が確かであれば、その〈石〉がドイツの手に渡れば、我が国にも影響が及ぶ可能性がある。君には、それを我が国のものとしてもらいたい」
 日の差し込む窓を背に、上官は〈ちとせ〉にそう命令をした。かくして、〈ちとせ〉は「そうではない」僅かな成果を上げているペストマスク姿の親衛隊員のもとに「ハルト・シュラー」として潜入を開始し、順調に信頼を得てきたのだった。それは、〈石〉の在り処がルントラントであろうと推測し、軍の侵攻に先んじて現地入りを果たしてからも変わらなかった。そして──
「絶対おじさんのほうがちょっと大きいって! 釣ったのは俺なんだから、俺が大きい方をもらうべきだろ?」
「焼いてるときに反ったからそう見えるだけだろう、それとさんざん言ってるがぼかァおじさんって年じゃあ……」
「だって俺、おじさんの名前知らないもん。とりあえず魚、おじさんの方貰うね」
 そして今、〈ちとせ〉は川辺で焚き火をしつつ、ツィゴイネルの少年と魚を取り合っていた。任務を途中で放棄する形となっていることだとか、今後の展望だとか、シュナーベルに奪われた〈契約の石〉だとか、考えねばならないことはいくらでもあるが、ともかく腹が空いている以上は何かを食べるべきだ、というのは〈ちとせ〉とミランの意見の一致するところであったのだ。
 夜のうちに惨劇の現場となった森を抜けたふたりの逃亡者たちは、翌日の昼に至ってもまだ、今の所掴まってはいなかった。どうやら辺りにはすでに二人の人相書きが出回っているようだが、幸い森林地帯ということもあり、人目を避けて移動するには不自由しない環境だったのも味方したのだろう。
 けれど、いつまでも森の中だけを移動し続けるわけに行かないのも明白だった。逃げるなら逃げるでどうにかして偽名の旅券を手に入れる必要があったし、何をするにしても、一旦は人里に出て服装を変える必要がある。〈ちとせ〉の黒服にせよミランの民族衣装にせよ、どちらも追われる身としてはあまりにも目立ちすぎるのだ。
「……この近くの村というと、バウムヒュッテになるのかな」
 魚を齧るのをやめて、〈ちとせ〉は焚き火の向こうに座るミランに問いかけた。地図のないままで歩きつづけているため、地理については〈ちとせ〉の記憶とミランの知識が全てとなっているのだ。せめてドイツならばまだしも、よりによってここはルントラント王国である。こうなるとわかっていれば別だが、細かな地理までは覚えてはいない。
「ん、ええと……バウムヒュッテに出るまでにたしか、小さめの集落があったと思うけど……でも、直接顔を出す訳にはいかないんじゃないの?」
「ああ、だからまあそこは、夜のうちに少々……」
 と、そこまで口にしたところで、唐突に〈ちとせ〉は口をつぐんで振り返り、背後の茂みに向けて手元にあった石を投げつけた。だが、石は地面を穿っただけで、他の何にも当たってはいない。
「何、どうしたんだよ」
 ミランが訝しむ声を上げるが、答える暇もなく〈ちとせ〉はワルサーPPKを構えた。
「誰だ、親衛隊の追手ではないな。姿を見せろ」
 しんと静まり返った森のなかに、焚き火の爆ぜる音と〈ちとせ〉の言葉だけが響く。一見するに、薄暗い森のなかには〈ちとせ〉とミランのほかには人影は見受けられないが、一体何に対して〈ちとせ〉は呼びかけているというのか?
 しばし、森には風の音と小鳥の声だけが流れていた。だが、唐突に静寂を打ち破り、
「我が国の国民から窃盗を働くのはやめていただきたいな」
 との声とともに、どさりと足元に紙袋が投げられた。
「ただでさえ、あんたのお仲間があちこちで我が国の財産を掠め取って回ってるんだ」
 紙袋の中からでてきたのは、真新しい服だった。それも、子供と大人、二人分が用意されている。
 服を手にあたりを見回す〈ちとせ〉をよそに、がさり、と頭上の梢が揺れて一つの影が降ってきた。
「……いや、あんたからすりゃあ連中は仲間でも何でもないかもしれんがね、ええと、ヘル……〈ちとせ〉、だったかな」
 影は、〈ちとせ〉の黒く陰気な制服とは対象的に、ナポレオニックの大仰さを残す派手な軍服を纏って立っていた。古風な軍服には、見覚えがある。この国、ルントラント王国の小さな軍隊に所属する兵隊たちが纏っているものに他ならない。だが、そんなことは〈ちとせ〉にはどうでも良かった。青い軍服に身を包んでいるのが、黒髪を短く切りそろえた女だというのもこの際気にするところではない。それよりも、
「お前、どうしてその名を」
 と、問いかけるのが何よりの急務であったからだ。
 女は肩をすくめ、首を左右に振った。
「お前とは失礼だな、私はエイル、エイル・フォン・ゾンマー中佐だ。我が国のような小国は、生き残るための情報の収集には余念がなくてね……と、言いたいところだが」
 エイルが何かを〈ちとせ〉に向けて放り投げた。受け止めた手の中にあったのは、小さな徽章だ。日本陸軍の階級章だ、と気づくまでには一拍ほどの間が必要だった。
「学術調査の名目で我が国に入っていた君たちが占領軍に化けるとともに大慌てで逃げていった、貴国の駐在武官どのの置き土産だよ。安全な出国ルートと引き換えに、実に色々と教えてくれたものだ」
「は? それは──まさか」
「ま、有り体に言うと、キミは見捨てられたというわけだな。仕方あるまいさ、なんだかよくわからない任務についていて、特に利益になるとも思えないオカルティックな情報ばかりこまめに報告してくるのだものな」
 本国への定時報告は、シュナーベルたちがルントラントへ来てからは日本公使館の駐在武官を通して行っていた。それをあまり快く思っていないのは分かっていたが、まさか土壇場での取引材料として情報を売り飛ばされるとは。
 いや、まだ情報を漏らす相手がルントラント王国側であっただけマシというものか。少なくとも、正体がわかっているからと言って目先の点数稼ぎのために密偵スパイを突き出すつもりはないらしいのも、そうでないことを思えばよほど運に恵まれている。
 手の中の服を握りしめたまま、〈ちとせ〉はルントラント国軍の中佐に向き直った。
「……では、占領された国の軍人が、見捨てられたスパイに何を求めるつもりだ?」
「これは話が早い」
 エイルは両手を広げ、大げさな身振りで〈ちとせ〉に歩み寄った。森の濃い緑の匂いの中に甘い香りが混じったのは、中佐のまとうコロンの香りだろう。
「わがルントラント王国は、ドイツに対する強力な交渉材料を求めている。意味は、わかるな?」
 ムスクの香りとともに、新たな状況が〈ちとせ〉を包み込んでいくようだった。
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