ルントラント物語

No.37304

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5.月明かりのルンテン湖

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 ルントラントは、国土のほぼ全土がアルプス山脈の上にある立地である。それゆえに、少し市街地から離れればアルプスの急峻な地形と深い森とに直面することとなる。それは古来、これだけの小国でありながらも周辺の大国に吸収されることがなかった所以のひとつであり、そして今の時代においては、征服者たちに反旗を翻すものたちがひそかに活動を続けられる理由にもなっていた。
 鬱蒼とした森の奥、切り立った崖の上に立ついまにも崩れそうな山小屋の前に、ひとりの男の姿がある。髭をたくわえ、古びた綿のシャツの上から擦り切れた革のベストを羽織り、古いマスケット銃を片手に切り株に座ったその姿は、絵本に出てくる猟師をそのまま写し取ったかのようなものだ。けれど、その姿勢、その眼光だけは、男の正体が別にあることを物語っている。
 男は、ふいに立ち上がった。静寂そのものの森のなかに、遠く、枝を踏む音が響いたのだった。音は断続的に鳴り響きながら、次第に山小屋へと近づいてくる。
「──『リックの店のお薦めは』?」
 音がすぐそこまで近づき、黒い幹の間に防寒着姿の人影が見えるようになったところで、男はつぶやいた。同時に、マスケット銃はぴったりと人影へと向けられ、答えを誤れば即座に銃弾で脳天を撃ち抜ける状態となっている。
 すぐに、人影は両手を上げて立ち止まった。
「『カフェ・アメリカンでは時の過ぎゆくままに』。撃たないでくれよ、ゾンマー中佐はどうした? いや、あんたでもいい、話がある、僕じゃあ場所がわからないんだ」
 決められた符丁を口にするとすぐに銃口が下ろされ、〈ちとせ〉は息をついた。事前の指示ではたしかに、落ち合う場所までは決めていたが誰が待っているとも言っていなかった。符丁を口にしたということは、エイル・フォン・ゾンマーの仲間なのだろう。
 男は山小屋を指差して背を向けた。話は中で、ということのようだ。
 立て付けの悪い木戸をくぐると、湿度の高い温まった空気が〈ちとせ〉の全身を包みこんだ。小さな暖炉の中で燃える赤い炎に照らされて、小屋の中にはいくつかの人影が長く伸びている。どうやら、炎の前に居並ぶ人影が、ルントラントにおいてシュナーベルの他に〈契約の石〉を求める者たちであるようだ。その中にはエイルの姿もあった。
「すまない、場所を教えてほしい。〝エメラルドの小道”の先というのはどこだ。ミラン・トリエスティと、そこで落ち合わなければならない。安全を期すために、彼に〈契約の石〉を渡して僕が囮になったんだ」
 無数の目が、怪訝そうに〈ちとせ〉を見た。
「……場所は、わかる。だが、なぜお前がその名を知っている? それは、王族と近衛だけが知っている王宮からの脱出経路のひとつ」
 エイルの声が、小屋に低く響いた。明らかに、〈ちとせ〉を怪しんでいる様子だ。
「フィーネ女王が、ミラン・トリエスティの脱出に協力してくれているんだ」
「女王陛下が? 協力って……まさか、陛下も一緒にいるということか!」
 暖炉の前に座るもののうち、古式ばった制服を着用したものたちが、一斉に色めき立った。どうやら今のやり取りから判断するに、彼らは王宮付きの近衛兵であると見える。
「ああ、成り行き上そういう事になった、申し訳ない。ただ、理由が一つある、聞いてくれ」
 たちまちのうちに周囲を取り囲み、今にも殴りかかりかねない勢いの近衛兵たちにむけて両手を上げつつ、〈ちとせ〉は弁解を試みた。逃走途中に射殺されるならまだしも、便宜上、一時的には仲間であるはずのものたちに殴り殺されるのはいくらなんでも勘弁願いたいものだった。
「何だ、一応聞いてやろう」
「シュナーベルがフィーネ女王に求婚していた」
「よし理解した、キミの判断を尊重する、冷静で的確な判断だ」
 ふたたび一斉に、〈ちとせ〉を取り巻いていた敵意が消え失せた。どころか、〈ちとせ〉の肩を叩いて勇気を褒め称えるものからポットから注いだ紅茶だの備蓄されていたクッキーだのを勧めるもの、果ては誰かの祖母が手編みしたであろうセーターを着せようとするものまで現れ、一気に歓待が始まるのだから実に切り替えが早い。
 一通りの大騒ぎが落ち着いたところで、暖炉の前にはルントラントの地図が広げられた。けれど、どこか妙なところがある。サンタクロースの柄のセーターとしろくまの柄のセーターを重ね着した状態で二つの紅茶のカップを両手に持ち、口の中に詰め込まれたクッキーを咀嚼しながら〈ちとせ〉は地図を覗き込んだ。
「脱出経路というのは、正確にはわが国の地下深くにある巨大な鍾乳洞のこと。〝エメラルドの小道”はその中にある一つの経路だ」
 エイルが、古い地図の上に一枚の薄い紙を追加した。無数の線が書き込まれた紙は、どうやら鍾乳洞内に存在する経路を現したものらしい。──つまり、この地図はルントラントの地上の様子ではなく、地下の様子を描いたものであるのだ。〈ちとせ〉は地図の違和感の正体を理解し、目を見張った。なにしろ、地図の領域は、国土の全域なのである。
「そう、わが国はいわば二階建てなんだ。と言ったってまあ、ただ地下に空間があるだけなんだが」
 と、エイルはもう一枚、こちらは地上の様子を描いた地図を地下道の地図の上に重ね、炎に透かしてみせた。地図の上で、〝エメラルドの小道”の先は首都ロイテンゲンの南方、円形の湖に隣接する一つの記号へと通じている。
「これは……」
 ようやくクッキーをすべて飲み込むことに成功した〈ちとせ〉は、地図に顔を寄せた。古い髭文字で書かれた文字は、周囲の地形と重なって酷く読み取りづらい。
「ルンテンゼー遺跡だ。文字通り、丸いルンテンゼーのほとりにある古い神殿だな」
 鍾乳洞を加工した神殿は、キリスト教以前の信仰を伝えるものとしてそれなりに有名であるのだそうだ。だが、その奥にある神像を動かせば、更に奥へと続く道があることを知っているのは、ルントラント王家のものと近衛兵だけだ、と、エイル・フォン・ゾンマーは誇らしげに説明をした。ちなみに、王宮からは地下礼拝堂奥の祭壇から鍾乳洞に降りることができるのだそうだ。
「では、女王陛下はこの場所に必ず来るとして……しかし、そんな古式ゆかしい偽装の仕方では、何者かが地下鍾乳洞の存在に気づくこともあるんじゃないか。この場合、ナチに気づかれでもしたら──」
「ああ、それは問題ない」
 エイルは重なっていた紙のうち、上の二枚を取り払った。残ったのは、ルントラント国土の下に眠る鍾乳洞だけを記した地図である。自然に、あるいは人工的に形作られた地下空間を表す金色の筆跡は、全く不規則につながった迷宮のように入り組んでいる。
「もちろん、ここに書かれているのは主要な洞窟だけだ。実際には、全く調査の及んでいない横穴だの縦穴だのも無数に存在しているし、なんとなれば、侵入者を歓迎するための仕掛けも存在している。そこに何の知識もなく入り込んで、生きて帰れると思うか?」
 エイルの赤い唇が、ニッと吊り上がった。二杯目の紅茶を飲み干した〈ちとせ〉は、
「地下に入る必要があるときには、ぜひともエスコートをお願いしたいもんだな」
 と、肩をすくめる他なかった。
 その他、細々とした装備だとか、連れて行く人員の人数だとかの打ち合わせがおおよそ済んだときのことだ。
「お客人」
 と、〈ちとせ〉声をかけるものがあった。暖炉の前で動くことのなかった幾つかの人影のうちの一つだ。途端、それまで騒がしかった近衛兵たちの声が静まり、全員が一斉に直立不動の姿勢を取ってみせた。どうやら暖炉の前に座る老人たちが、この「抵抗組織」の首魁であるらしい。
「本来国家の命運を切り開かねばならぬ立場の我らが言うのも妙な話だが──いまひととき、我が国に味方をしてくれたことに感謝をする。どうか、我が国のための仕事を完遂させて欲しい」
 いかにも貴族的な服装の老人に向け、〈ちとせ〉は黙って会釈をした。老人たちの、この組織の外での地位についても近衛たちの反応からはおおよそ予測は付いたが、あえて明らかにすることもないだろう。
 そして夜半、月影の揺れるルンテンゼーの湖畔には、無数の影が蠢くこととなっていた。
 ルンテンゼー、丸い湖と呼ばれるこの湖は、ルントラントのほぼ中央に位置している。昼にはごく小規模ながら漁業も行われているというが、空に満月の浮かぶ時刻ともなればあたりに居るのは夜行性の動物たちか、人目をしのぶ必要のあるものくらいになる。つまりは、
「子供二人の足でも、〝エメラルドの小道”を踏破するに半日もかからないはずだ。もしかすると、陛下がたをおまたせすることになっているかもしれんな」
 などと話しながら小さな石造りの祠の前に立つ、エイルとその仲間たちだ。エイルは祠の中へと足を踏み入れかけ、ふと振り向いた。
「お客人、どうした。早く来い、見咎められると厄介だ」
 声をかけた相手は、湖に向かって立つひとつの人影だ。〈ちとせ〉が、ルンテンゼーの水面を眺めたまま立ち止まっていたのだ。
「すまない。いや、湖に所々、随分と青い部分があると思ってな」
「ああ、湖底でところどころ、結晶化した地層が露出しているんだ。わが国随一の景勝地だよ」
 祠の入り口を塞ぐ石を避けると、その先には古い階段が暗闇に向けて口を開けている。空気があるかどうかを確かめるために投げ入れた松明は、階段の底まで転がり落ちて小さく当たりを照らし出した。
 神殿として手を加えられた洞窟の中には無数のレリーフが彫り込まれている。いかにも異教の神殿らしい、と感じるのは、レリーフの中に無数の生贄の儀式と思しき意匠が彫り込まれているためだろう。多少なりとも考古学や民俗学の知識を持つものならば、アステカやマヤの遺跡に残された無数の彫刻群との類似を見出したかもしれない。少なくとも、キリスト教はもちろん、ケルトや北欧のキリスト教以前の文化とすらも隔絶しているのは確かだった。
「ここの祭神はなんと言うんだ」
 遺跡の中を初めて見た〈ちとせ〉がそんな疑問をいだいたのも、自然な流れであったろう。
「そこまでは判明していないんだ。ただ、おそらくは天空神を主神とする多神教であったろうとは言われているが」
 先に立って歩くエイルは振り返りこそしなかったが、歩調を緩めて手にした松明をレリーフの上部へと近づけてみせた。そこに彫り込まれた彫刻は、たしかに雲を意匠化した乗り物で空を飛ぶ何らかの神のように見えないでもない。
 その後は、特になんの会話が起きることもなく、一行は神殿の最奥部にまでたどり着いた。
「これは……どうなっているんだ?」
 神体の祀られる祭殿にたどり着いた〈ちとせ〉は、思わずそんな声をあげた。巨大な神像が睥睨する空間は、〈ちとせ〉の予想していたよりも大きく、なにより明るかったのだ。それも、炎の明かりではない。青く透き通った、ステンドグラスを通したような光だ。
「湖の底が一部結晶化していると言ったろう。そこから、月の光が入っているんだ」
「ああ。──じゃあ、ここは湖の底なのか」
 見上げた天井には、確かに湖の青と同じ色の結晶が生え、柔らかな光を放っている。さながら、天然のシャンデリアのような具合だ。その光をどこかで見たような気がして〈ちとせ〉は首を傾げたが、神像を避けるために手を貸すよう言われ、その思考は中断された。
 名もなき神像は、大きさの割に大人四人ほどが上手く力を加えれば簡単に横へと避けられる作りとなっていた。はじめから、その奥に存在する巨大な空間へと続く道を隠すために作られた証拠だろう、とはエイルの言だ。
「だが、フィーネ女王とミランがまだ着いていないな。まさか、迷ったということは……」
 祭殿と同じ青色に照らされた空間には、少女たちの姿は見えない。
「〝エメラルドの小道”は、一番わかりやすい道だ。女王陛下も何度か、ルンテンゼーへの移動のために通られた事がある。まず迷うことはないはずだが──」
 〈ちとせ〉のあとに続き、エイルが祭殿の奥を覗き込んだときのことだった。
「──あら、近衛のみなさんですわ」
「それに、おじさんもいる。先に待っててくれたんだね」
「地下が、下水道の工事で少し崩れているところがあって。正しい道を見つけるのに少し時間がかかってしまって。お待たせしてごめんなさいね」
 との声が、小さな足音とともに聞こえてきた。無数の青い鍾乳石の合間から、二つの小さな影が現れるまでは、ほんの少しの時間だった。すぐに〈ちとせ〉は少女たちに駆け寄ろうとした。が、そうできなかったのは、
「陛下ぁ!」
「フィーネさま、よくぞご無事で!」
「我ら近衛隊、おそばに居ることすらままならず申し訳ございません!」
「あの鳥頭の仮面が陛下に無礼な申し出をしたとか!」
「ともかく、よくぞ単身ここまで脱出なさいました、すぐに安全な場所へ向かいましょう!」
 と、口々に叫びながら駆け出した近衛兵たちに後ろから突き飛ばされ、地面に転がり、背中を踏まれるハメになったためであった。
「くそお、いくらなんでも恨むぞ……」
 彼らの小さな女王を囲んでいたわる近衛兵たちに恨み言を言いつつ痛む背中をはたく〈ちとせ〉の前に、影が落ちた。顔を上げた先にあったのは、誇らしげな笑顔を浮かべたミラン・トリエスティの顔だった。その手には、古い写本と〈契約の石〉が入ったバックパックがある。
「ありがとう、ミラン。土壇場で無茶な事を言ったのに、よく無事に届けてくれた。感謝するよ」
 〈ちとせ〉はミランの頭を撫で、その体を抱きしめた。
「あはは、俺なんてフィーネさまが道案内してくれるとこにくっついていってただけだよ、大げさだなあ」
 ミランはくすぐったそうにしながらも、そこはかとなく嬉しそうでもある。
「それに、振り子ペンデュラムはもとは俺のなんだし、俺が持って逃げるほうが当たり前だろ」
 と、ミランが続けた言葉を聞いて、〈ちとせ〉ははっと表情を固くした。そう、ここまでのところでは問題になっていないが、現状だと、ミランの持ち物である〈石〉をルントラント国軍近衛隊に引き渡す、という必要が出てくるのである。シュナーベルが〈石〉を求めていることと、おそらくは〈石〉に宿っているであろう何らかの力を背景に交渉を有利に進める、という目的のためではある。が、いずれにしてもミランの手から一度〈石〉を譲り渡してもらうために話をする必要はあるだろう。
「……ミラン。その、〈石〉なんだが」
「ナチと交渉するために使うんだろ。いいよ、渡しても」
「ああ、もちろん渡したくないのは分か……えっ?」
 なんなら、一通りの交渉が終わったあとにすぐミランの手に返すよう念書でも書かせるとか、そのあたりの条件を念頭に話をはじめた矢先、予想外の答えが帰ってきて、〈ちとせ〉は数度瞬きをした。
「良いのか、君の家に伝わる大事なものなんだろう」
「うん。大事な物って言っても商売道具だからって話であって、ナチあいつらが居る限りは商売なんてできやしないし。それに──」
 と、ミランは横を向いた。その先にあるのは、相変わらず大騒ぎを繰り広げる近衛兵たちに囲まれたフィーネの姿だ。少女をみる少年の黒い目は、遠い星を見るように、あこがれに揺れている。
 湖と青い結晶越しに降り注ぐ青い光に照らされた少年の髪を、〈ちとせ〉はぐしゃぐしゃと撫でた。
「うわっ、何するんだよ」
「いや、うん、若いのって良いもんだと思ってな。よし、そういうことなら話は早い、直接渡してこい、少年」
 〈ちとせ〉はバックパックから〈契約の石〉を取り出し、少年の手に押し付けた。ミランは一瞬、誰に渡すのかを測りかねたようだったが、〈ちとせ〉が横へと視線をやったことで、意味を理解したらしい。青く大きな宝石を手に、少年は近衛兵に囲まれたフィーネの元へと走っていった。
(そういえば)
 と、〈ちとせ〉は頭上を見上げた。そこにあるのは、青い光を落とす巨大な結晶だ。
(同じ結晶のようだが……この辺りに特有の鉱石なんだろうか?)
 そう、ミランの持つ振り子に使われた石と、頭上の結晶とは、同じ色、同じ形状をしていたのだ。〈契約の石〉のほうはそのような形にカットしたものと思っていたが、祭殿を照らす石も同じ、三角錐を二つ上下に融合させたような複雑な形をしているところを見るに、どうやらはじめからそのような形に結晶する特性を持っているらしい。
 〈ちとせ〉が青い宝石に思いを巡らせている脇で、大きな歓声が上がった。ミランが〈石〉を渡すと宣言した事に、近衛兵たちが反応したもののようだ。「将来はぜひ近衛兵に」「推薦状を書いてやろう」「家格でハネられそうならうちの養子ということに」などと口々に調子のいいことを言っている。
 とはいえ、ミラン当人はいま現在フィーネに石を手渡すことにすべての神経を集中させているところであり、外野のあらゆる声は聞こえていないらしい。少年は真剣な表情で幼い女王の前に跪き、青い宝石を捧げ持っている。
「フィーネさま、どうぞ、受け取ってください」
「まあ、あなたの大切なものではないのですか?」
「ええ、でも、これがフィーネさまの役に立つならそのほうが良いです。だから、どうか」
 黒い瞳に浮かぶ真剣な色に押されたものだろう。フィーネの手が、〈契約の石〉へと伸びた。
「──どうか、女王陛下に神の加護がありますように」
 少女の手が、青く透明な石へと触れた瞬間。あるいは少年が祈りの定型文を口にした瞬間。それは、起きた。
 視界が白く焼け、目の奥に殴られたかのような衝撃が走った、と〈ちとせ〉には感じられた。だが、過去の経験がそれに当てはまる現象を導き出し、言葉へと変える。
「閃光弾!? 何だ、この光は」
 祭殿の中には、いまや湖ごしの月光などとは比べ物にならないほどの閃光がほとばしっていた。まともに目にしたものは〈ちとせ〉と同じく目を焼かれ、暫くの間動けなくなるほどの光だ。
 いや、全員が全員同じ光景を見て、そのような状態にあったわけではない。〈契約の石〉に手を触れていた二人の子どもたち、他の誰よりも光源に近かったはずの二人だけは、呆然とそこに現れた光景を眺めていた。その光景とは、強烈な光に満ちた祭殿ではない。〈石〉から溢れつづける水のような青い炎が宙に描く、ひとつの形だ。
 冷たい炎は、ひとつのおぼろげな形へと収斂していき、やがて子どもたちの前にひとつの姿を形づくった。それは、男とも女ともつかない、なんとなれば現生人類の姿ともつかない姿であったが、ただ、フィーネにもミランにも
「きれい」
 と、いうことだけは伝わってきた。
 青い炎に形作られた姿は、崩れかかりながらも何かを伝えるように両手を広げた。いや、実際に、何かを伝えようとしているのだ。
『──ゲストユーザ──理者として───、──に必要な──不足──動──終了──』
 空気そのものが震えはじめ、託宣のような声が子どもたちの耳に鳴り響こうとした。けれど、その音が声になるまでの僅かな、僅かであったはずの時間の間に──
「────走れ! 奥にいけ、奥へ!」
「クソ、銃撃戦なんて想定してないってのに」
「一体何があったんだ、あの光は何だって言うんだ」
「おい、起きろ、寝てる場合じゃあないぞ!」
 何かが弾ける音とともに、祭殿には現実が舞い戻ってきた。現実というのは、遠くから近づく銃撃の音と軍靴の音、幾つもの喧騒、そして祭殿に倒れ伏した何人もの人々の姿だ。
「う、何だ──意識を失っていたのか? この騒ぎは、一体」
 喧騒に飛び起きた〈ちとせ〉が目にしたのは、近衛兵たちが通路に向けて散発的な銃撃を行う光景だった。それも、通路をやってくる敵に応戦しているのははじめから祠に入ったものではなく、湖畔に見張りとして残ったはずの者たちだ。
「さっきの光で、ナチに気づかれたんだよ!」
 銃声の中、一人の近衛兵が〈ちとせ〉の疑問に答えた。祭殿にいた者たちには気づきようもないことだが、祭殿に満ちた光は天井の結晶を通して湖から立ち上り、近くにいたドイツ国防軍の一隊を呼び寄せるに至っていたのだ。
 祭殿にいた者たちも順次目を覚まし始め、鳴り響く銃声で置かれた状況に気づきはじめた。
「地下へ! 地下に入れば我々のほうが有利だ!」
「陛下を先に! 絶対に守りきれ!」
 こうなれば、選択肢などあってないようなものだ。誰が先ともなく、防衛側は名もない神像の奥に広がる広大な地下空間へと飛び込み、めいめいに走り出した。いや、走り出そうとしたはずだった。
 祭殿よりも遥かに広く、複雑に入り組んだ空間に、一斉に銃声が鳴り響いた。続いて、うめき声もあげずに幾つもの人体が冷たい石の上に倒れる音が幾つも重なり合った。
「いやあ! どうして──」
 一拍の間のあとに響き渡ったのは、フィーネの悲痛な叫びだ。けれど、その声も続けざまに鳴り響く銃声にかき消されてゆく。
 無数の死体と、即死は免れたものの動くこともできずに倒れ伏した者たちを、唐突に強い明かりが照らし出した。あちこちの透明な鍾乳石から漏れ出す青い月光とは違う、人工的な明かりだ。無数の投光器を背に、黒い影が幾つも立っている。逆光で詳細が見えないために、制帽に制服を着用したそのシルエットだけでは親衛隊とも国防軍とも判別がつかない。しかし、ただ一つの影の存在によって、彼らの正体は明白となっていた。
 それは、際立って特異な影だ。制帽の下に巨大な嘴をそなえた仮面を被り、全身を覆う黒いマントを羽織ったその姿は、すなわち──
「──シュナーベル親衛隊大佐」
 フィーネの絞り出すような声が、奇怪な親衛隊大佐の名を呼んだ。
「これは、女王陛下。ご無事で何よりです。ルントラント国内の過激派に誘拐されたと聞き大変心配しておりましたが、このような場所に連れ去られていたとは。下水道から偶然この空間を発見できたのは僥倖といえましょう」
 わざとらしい慇懃さで、シュナーベルは深々と少女の前に跪いてみせた。仕草としては、今しがたミラン少年がやったものよりよほど洗練された、優雅なものだ。
 しかし、黒衣の大佐が差し出した手を、幼い女王は毒虫でも払うかのように叩き払った。
「触らないで、下郎が! ──我が国の国民、私の兵を殺しておいて、私もともに亡き者にしようとした上で、心配していたなどとよくも──」
 フィーネの言葉が途切れた。しばし叩かれた手を眺めていたシュナーベルが、その手を振り上げ、フィーネの頬を打とうとしたのだ。少女はびくりと身を震わせ、来るであろう衝撃に備える。
 だが、その次に起きたことは、その場にいる誰の想像をも超えたことだった。
 炎が、フィーネの前に幕を作っていた。無論、熱を伴う炎ではない。少女の手の中に握られた〈石〉が放つ、冷たい炎だ。炎、と形容してはいるが、この場合、それは何らかの力場と言う方が正しいかもしれない。青い炎の作る幕は、フィーネの頬を叩こうとしたシュナーベルの手を弾き返し、再度伸ばそうとした手もまた再び押し返したからだ。
 自体を把握したシュナーベルはおもむろにルガーを取り出し、数発の銃弾を炎の幕へと撃ち込んだ。フィーネの悲鳴が響くも、少女の体から血が吹き出ることはない。
「素晴らしい」
 炎の幕で留まり、地面に転り落ちた銃弾を眺めながら、シュナーベルが言った。仮面で隠された顔は恍惚とし、喜びに歪んでいるであろうことが伺える、そんな声だった。
「素晴らしい、〈契約の石〉の求める血を持つものが、ここに存在していたとは。近衛どもが身を挺して守ったものかと思ったが、そういう事だったか」
 シュナーベルはひとり得心し、炎の幕と、その発生源である〈石〉を舐めるように見つめている。
お嬢さんフロイライン、是非とも協力していただこう。あなたの血筋が〈石〉に選ばれたものだとすれば、話が早い。おそらくは、正しい場所もあなたならばご存知のはずだ。拒否するとは言わせんよ、君の兵、君の国民がこれ以上死ぬところなど見たくはないだろう」
 数発の銃声が鳴り響いた。ただし、銃口の先はフィーネではなく、地面に倒れた近衛兵たちの体だ。銃声とともに幾つかの悲鳴が響いたのは、未だ虫の息ながらも生きながらえていたものがとどめを刺されたことによるものだろう。
「やめて! やめてください」
 叫び声とともに、少女を包んでいた炎の幕が消え去った。フィーネが抵抗の意思をなくしたことによるものか、あるいは他の要因によるものかは判然としない。
「協力します、だから、生きている人は手当をしてあげてください、お願いです」
 うう、とうめき声を上げたのは、フィーネのすぐ足元に倒れ、腹から血を流していたエイル・フォン・ゾンマーだ。征服者に膝を折った主君に近付こうとでもしたものだろうか。エイルは手近な場所に立つ親衛隊員の足にすがりつき、その体に掴まって立ち上がろうとした。だが、当然その手は振り払われ、傷口を蹴りつけられて再び地面に倒れ伏すこととなる。その間にもフィーネは手荒な真似はやめるよう訴えながら仮面の親衛隊大佐のマントの中へと引き込まれているが、主君も臣下も、いまこのときにあって、互いの苦境を救う手立てなど持ってはいなかった。
「──少尉、あとは頼む。あまり音は立てないようにな。終わったら、シュナップスでも飲むといい」
 幼い女王をマントの中に隠し、部下たちを連れて去ってゆく直前、シュナーベルは投光器の前に立つ少尉に命令を下した。あまり具体的でない指示だったが、彼にはそれで上官の意図が理解ができたらいしい。少尉は無言でうなずき、数人の隊員たちに合図を送った。その場に残るように、との合図だ。
 無数の足音が暗がりの奥へと遠ざかり、ついに聞こえなくなったとき、ホップ中尉は再び隊員たちに合図を送った。すぐさま投光器の強い明かりを反射して閃いた無数の光は、親衛隊員たちが取り出した銃剣だ。そう、シュナーベルの命令は、迂遠な処刑命令であったのだ。
「かかれ、終わったら上がりだ」
 少尉の命令とともに、親衛隊員たちは処刑を執行すべく足を踏み出した。

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