恨み買取屋

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第一章・首吊り少女の怨念

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 構えろ。引き金を引け。照準を合わせろ。いや、それよりもまず、敵を真っ直ぐに見据えろ。怖がるな、見ろ。あれは私の感情そのものだ。
 手の中に確かに感じる感触がずっしりと重かった。重くて、重くて、持ち上げられそうになかった。
 視線を下げれば見えるのは自分の足下だけ。しかしその視界の端に、夜狐の存在が映った。それを見て、ほんの少し勇気を出して──私は視線だけを上に上げる。
「ひゅ、っ」
 駄目だ。
 目を合わせられない、合わせたくない。アレに目があるのか否かは全くと言っていいほどわからないが、とにかくアレの視界に入りたくない。アレに見られているということを意識したくない。上げた視線は一秒も保たず、さっきよりも背中を丸めた状態でただ自分の足元だけを見ていた。立っていられるのが不思議なくらいだった。本当のことを言えば今すぐにでも座り込んで泣き出したかったが、震える足は関節を軋ませて、それすら許してはくれない。長年の間流さなかった涙は、今更流れてくるはずもなかった。行き場のない恐怖が全身を駆け巡って体を震わせる。
 夜狐が何かを言ってくれた気がした。しかし、五感が現実の理解を遅らせるために鈍り切ってしまっていたからか、それを聞き取ることは叶わない。ただ、声色がほんの少し焦りを含んでいるのはわかった。
 なんの鳥のものかもわからない鳴き声がどこかから聞こえた。
 それを合図に──黒髪が揺れる。
 ドン、と地面を蹴る音。裂かれた空気が周辺を舞った。その風の感触に驚いて反射的に顔を上げると、既に夜狐は恨みの間合いに入っていた。
「速っ──」
 思わず漏れたそんな言葉ですら言い終わらないうちに、その右腕が振り抜かれる。銀の光が一本の線を引いた。
「んぅーー?」
 恨みが斬られた自分の体を見て首を傾げる。断面からは血なのかなんなのかわからない黒い液体がとめどなく流れていた。痛がっているのか、不思議がっているのか。地面に広がっていくソレは、沸騰したお湯のように少し泡を吹いていた。
 その間に、夜狐の追撃が始まる。
 突き、斬撃、斬撃、切断、突き、斬撃、突き、切断──攻撃の一つ一つが、次の攻撃への準備動作。
 不思議なことに恨みはその攻撃に対してなんの反抗もしてこなかった。ただされるがままに、至る所から黒い液体を流しながら──どこを見ているとも知れないその図体で突っ立っている。
 夜狐が一旦攻撃の手を止め、退いた。
 色々な意味で呆気にとられている私を庇うように、静かに私の前に立つ。目は真っ直ぐ恨みを見据えたまま。
 嬉しかった。と同時に、その嬉しさをかき消すぐらい自分の無力さを痛感した。
 流れ出る黒い液体はその勢いを失いつつあった。それは恨みの中のそれがなくなりつつあるのか、それとも──
「ははは」
 ──傷が塞がりつつあるのか。
「バケモンだな」
 そう言って夜狐は一笑した。彼にしては珍しく、いいや、会ったばかりでこんなことを言うのはおかしいかもしれないけれど──珍しく、余裕がなかった。
 もう一度夜狐が踏み込む。更なる追撃を与えようとしていた。私は何もできない。何も。
 せめて一発だけでも撃ち込めないだろうか、と夜狐のおかげで少し余裕の出た心待ちで考えるが──やめた。
 間違えて夜狐に当てたりでもしたら罪悪感でもう一度死ねる。
 私にできることはないかと考えることすらできなくなり、そしてそんな自分に嫌気がさし、自己嫌悪が背中で渦を巻いた。今はそんな場合じゃないのに。わかってるのに。わかってるのに私は──
 そうやって俯いた先の視線に黒いものを見つけた。
「……あ」
 黒い液体。
 あの恨みが流した血──のようなもの。
 ここまで流れてきていたのか、と思いながら、なんとなくその液体からつま先を遠ざけた。なんとなく、触れたくなかった。
 その液体はやはりぼこぼこと泡立っていて、しかし湯気が出ているわけでもないから熱いことはないのだろう。
 ぽこぽこと泡が可愛らしい音を立てた。この場に似つかわしくない音だった。
 ぽこぽこぽこぽこ。
 きっとそれは現実逃避なのだろうが──私はその音に耳を傾けた。すると段々、音のなるペースが早まった…つまり泡の量が増えてきた。ぽこぽこという音はぼこぼこという激しい音に変わり、泡の一つ一つにどこか顔のようなものが見える気がした。これはきっと場の空気に呑まれているからだと私は思うことにした。だからといって目を逸らすことはできそうになかった。
 ぼこぼこぼこぼこ。
 段々。
 段々──その泡が何かを言っている気がしてきた。
 黒い液体が地面からこちらに向かって伸びてきている、ような気がした。それはどこか腕の形を模しているような、気がした。そしてその腕は、私を包み込もうとしている──ような気がした。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ。守ってあげるよぉ』
 それは私がひどく欲している言葉だった。今この状況においても、今までもずっと。
『一緒だね。ぼくたち一緒だね。これからはひとりじゃないよぉ。ずぅっと守ってあげるよぉ』
 こんな薄っぺらい甘言に唆されるやつなんて、人生の中でろくに愛されなかった世間知らずの寂しがりやぐらいだ。
 どうやらそれは私のことのようだった。
 腕みたいなものが増えている。私の周りを囲んでいる。それはまるで檻のようだった。出られなくなる前に出なくちゃ、という意思はあったが、体が動かなかった。優しさとかそんな甘いものは、拘束具と同義だった。
『こわくないよぉ』
 怖くない。怖くない。もう痛くない。私は何もしなくていい。もう傷つかなくていい。もう勝手に裏切られた気分になることも──
「………」
 もう誰も傷つけなくていい。
 誰かが私の名前を呼んだ気がした。

 手の中に確かにずっしりと重い感触があった。
「黙って」
 引き金は私の人差し指にかかっている。
 鉛玉が足元の黒い液体に着弾した。

 ふざけるな。
 ふざけるなふざけるなふざけるな!
 今更そんなこと言われたって、今更そんなもの信じたって!もう何もどうにもならないのに!!
「ははは」
 黒い液体は銃弾ごときではびくともしなかった。泡自体は割れたが、そんなものすぐにまた出てくる。
 周りの腕だって、引っ込んでくれることはない。むしろ反抗した私に対して怒っているのか、余計に増えた気がする。
 さっきの噂の恨みと同じだ。
 私を呑もうとしている。
 元は液体のはずなのに、腕の檻から出ることはできなかった。もう一度引き金を引こうかとも思ったが、どこを狙えばいいのか見当もつかない。腕一つを撃ち抜いたって、雀の涙ほどの効果しかないだろう。
 ふと、ははっ、と軽快な笑い声が聞こえた。
「上出来だ」
 次の瞬間、視界が急速に開ける。
 腕の檻がバラバラに切り落とされ、新しい腕が生えてくる前に私の体が引き寄せられた。その場から強制的に離れた瞬間、私の目の前で黒い液体から先ほどまでの比ではない量の腕が生え始め、そのままぐわんとたわんだかと思うとその勢いで地面にとぷんと浸かった。
 あと一歩遅ければ──
 無意識に後ろに下がると何かにぶつかった。考えなくたってわかるけれど、夜狐だった。
「大丈夫?」
「……なんとか」
「間に合ってよかったよ。ちゃんと銃撃てるじゃん、さすが」
 いつもの調子でそう笑うと、夜狐は少し考えてふと恨みの方を見た。そいつはそこから動く気配がない。
「さーて、と」
 おそらく夜狐が与えたであろう追撃も、既に塞がりつつある。夜狐はそれを受けて、困ったように手元の日本刀を軽く回して諦めたように一つ息を吐いた。
「これは…どうにもなんないかもねぇ」
「まったくだよ」
 夜狐の言葉に反応したかのように、この場の誰のものでもない声が聞こえた。──藍玉だった。
 藍玉は呆れたように夜狐の肩の上に乗って、ちらりと私の方を見た。目が合う。私を数秒じっと見つめ、最終的に彼女は顔を顰めた。
「…自殺した人間の恨みなんて、碌なもんじゃあないってわかってはいたさ。わかってはいたし、それを批判するつもりもアタシにゃない。でもねぇ」
「藍」
「黙ってろガキ。不甲斐ないご主人サマの代わりに言ってやろうってアタシの優しさだよ」
 それに本人だってもう薄々わかってるだろうさ──と言って彼女は私の方を見た。
「アンタ異常だよ」
 端的かつはっきりと、わかりやすく、回りくどくなく──藍玉は言った。私から目を逸らすこともせず、言葉を濁すこともせず。それは、やはりその通り彼女なりの優しさなのかもしれなかった。
「なんだってこんなえげつない恨みをぽんぽん生み出せるンだい、アンタは。ここまで酷いのは、アタシだって見たことがないよ──そりゃアタシだって、アンタの家庭環境だとか人間関係だとか、それがどれだけ劣悪だったかわからないわけじゃないけれど。否定する訳でもないけれど──」
 それでも。
 アンタ、一体なんなんだい──と、藍玉はそれだけ言ってそっぽを向いてしまった。
 そっぽを向いたというか、向くべき方を向いたというか。
 まぁ当然かと思った。今は私に構っている場合ではないのだから。今は、私ではなくて目の前の恨みに構うべきなのだから。
 しかし次の瞬間藍玉が放った言葉は私の予想を大きく裏切った。
「狐のガキ」

「香澄を連れて行きな」

「…………は…?」
 これには夜狐も驚いたようで、腑抜けた声を出した。私はといえば、声を発する余裕もない。
「何言って…だって、香澄ちゃんは、こいつを殺したいんだよ?なんでこの場から離れなくちゃなんない──」
「べらべらと…まだ言うのかい、アンタは。わかってるくせに、白々しいったらありゃしない。これだから狐ってのは嫌なんだ──平気な顔で嘘をつきやがる」
 その言葉に夜狐がたじろいだ。静かに藍玉から目をそらし、バツが悪そうに視線を泳がした。それは、もう反論ができない証拠だった。
 嘘?
 嘘って?
「……やこ」
 おそるおそる声をかけると、夜狐は私の方を振り返りはしたが、すぐに眉を顰めて目を逸らしてしまった。
 藍玉が夜狐の肩からひょいっと飛び降りると、やれやれと言うように首を振って恨みの方まで歩いていった。恨みはそれが見えているはずだったが、なんの反応も示さない。
「こいつのことは任せな。動こうとするなら足止めするし、暴れ出したら止めてやる。だから」
 ──言わなくてもわかるだろう、とひときわ優しく、しかし芯のある声で彼女は言った。
「…やっぱり、どうにもできないかぁ」
「まったくだね。どっちにしろなるなら──アンタは、香澄が納得する方を選ぶはずだ」
 式神のアタシはその手助けをすンのが仕事だからねェ、とそう言って笑った。それは失笑だった。どこまでも主人を小馬鹿にしているような、こいつには何を言っても無駄だとわかりきった──あまりプラスのイメージが持てないような、笑い方。
 会話に置いて行かれて呆然としている私の方に夜狐は向き直って、そして一度だけ振り返って藍玉を見た。目だけで一瞬何かを対話すると、もう振り返ることはなかった。
「ごめんね。何が何だか、わかんないよね」
 不安だったけれど、何を信じればいいのかもわからなかったけれど、でも私が信じられるのは夜狐以外にいるはずもなかった。
「でも大丈夫だよ。一つだけ、約束するから」
 約束というか、見え透いた事実というか、ね──と、よくわからないことを言って夜狐はまだ現場に頭が追いつかない私を軽々担ぎ上げた。
「香澄ちゃんは絶対に地獄に堕ちないよ」
 たとえ何をしても。堕ちないんじゃなくて、堕ちることが出来ない。

「だからどんな選択をしたって構わない」

 それは夜狐の意思だとか、意気込みだとか、そういうものではなくて。やはり本人の言う通り、見え透いた事実だったと、思う。
 視界が急速に上昇した。と同時にかかる圧力。微風が髪を靡かせた。
「やっ、夜狐……!?一体、どこに」
 藍玉が「私を連れて行け」と言ったことから、この場から離れると言うことはなんとなく想像がついていたが、どこにいくのかはまったくなんの予想もついていない。

 視界の中で日本刀が鈍く光る。嫌な汗が頬を伝った。急にひらけた視界情報に、目が痛くなってくる。 
 そうやって遠くから見て初めて──私はそこが、いつも薫と別れていた路地だということに気がついた。
「そのご本人のところだよ」
 夜狐がほんの少し冷や汗をかいて、無理やりといったように口角をあげた。
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