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第三章

「追う者と死闘と」

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 大粒の雨を強い風がかき乱し、石畳に叩きつける音が街中に響く。さながら出来損ないの舞踏会はしかし、見るものも聞くものもいない。この豪雨の中、好き好んで外に出る人間がいるわけも無く、いつもは多くの人で賑わう広場も寂寞としている。その数少ない人間も仕事に忙しいのか、広場をすぐに横切ってしまう。
「こんな天気なのに仕事熱心だねぇ。って、俺も人の事言えないか」
 と、独り言ちながら俺も広場を通り過ぎる。
 マルレーンに着いてから三日。到着初日から降り続ける雨は全く止む気配が無い。まったく、幸先の悪い事この上ない。
 入り組んだ路地を分け入った先に、年季の入った細長い建物が現れる。わかりにくいがこれでもれっきとした宿であり、俺達の行動拠点だ。こんなわかりにくい路地裏にひっそりとあり、人目につきにくい立地条件は追われる立場の俺たちにはうってつけの宿だ。逃亡生活が長くなると、こういう宿を見つけるのも慣れたものである。
 扉を抜け、カウンターに座る主人に無言で目配せだけで帰ったことを告げ、やはり無言で客室に向かう。この無愛想な主人にまともなコミュニケーションが不可能なのはここ数日で確証済みだ。代わりに、面倒見の良い主人の娘が甲斐甲斐しく世話をしてくれている。気立てのいいこの看板娘がいなければ、こんな宿はとっくに無くなっていただろう。
「あ。おかえり、ヴァル君」
 部屋に戻ると、ソファーから立ち上がり、暇を持て余していたのか嬉しそうな表情で俺を出迎えるエリカ。
「こう雨ばっかじゃ気が滅入るな、ったく、やってられねぇよ畜生」
「ご苦労様。はい、タオルだよ」
 愚痴りながらレインコートを脱ぐ俺に両手でタオルを差し出すエリカ。そいつを掴むとガシガシと髪を拭く。
「ゴメンね。私の代わりに情報収集してもらって」
「しょうがねぇだろ。あんな状況じゃむざむざ捕まりに行くようなもんだからな」
 ぶっきらぼうに答える俺にエリカは複雑そうな表情をする。
 俺たちがマルレーンに到着した時、この街は予想以上の厳戒態勢だった。そこらじゅうに警官たちが配置され、道行く人間に目を光らせている有様だった。
 その理由はわからない。ただの偶然かもしれないし、オリンの小僧がマルレーンの支局に連絡を入れた可能性も捨てきれない。奴自身がこの街に入っていてもおかしくはない頃合だ。
 何にしても、そんな中でお尋ね者であるエリカがのこのこと出歩けば即御用だ。やむを得ず俺が一人で情報収集を行う事になったのだ。
「しかしこんなひでぇ雨だってのに港湾警察ども、全然減りやしねえ。まったく仕事熱心なこった」
「そりゃ警察が雨が降ってるからってお仕事休んだらダメでしょ……」
 苦笑いしながら言うエリカ。
「でも一体どうしたのかしら。確かに港町っていう場所柄、他の街に比べ警備が多少厳しいのは当たり前なんだけど……。以前に訪れた時はここまでじゃなかったはずだわ」
「これは俺の見た直感だが、どうも奴らは誰かを探している感じだった」
 俺はタオルを首に掛けながら答える。「それじゃやっぱり私を……」と言いかけるエリカを遮る。
「だが特定の誰かを探しているって訳でもなさそうだ。怪しそうなやつは片っ端から素性や所持品を入念に調べてた。特定の条件で絞ってる様子じゃないな」
 言いながらだんだんその時の怒りが込み上げてくる。
「そんなにひどかったの?」
「ああ!俺なんか今日だけで5回も足止めされたんだぞ?この雨の中。おかげでびしょ濡れだ!追われてる身じゃなければぶっ飛ばしてたぞ!」
 怒りを爆発させ、拳を振るわせる俺を「まぁまぁ」と宥めるエリカ。
 先程までエリカが座っていたソファーに身を沈める。硬くて質の悪いソファーだが一日駆けずり回ったファーストシフトの身には格別の心地よさだ。
「でも何日も動いてればさすがに怪しまれるんじゃない?顔だって覚えられちゃうんじゃ……」
 そう言うエリカの目の前で俺は手の平で顔を覆う。そして手を離した時、エリカは口を押さえて驚く。今エリカの目に映っているのは全くの別人。呆けるエリカを余所に、今度は顔の前で手の平を振る。手の平が一瞬顔を隠し、現れるたびに次々と別の顔が現れる。老人、子供、太り顔、痩せ顔、女、男。極め付けにエリカの顔にしてみせる。
「と、こんな風に姿、顔を変えるくらいならファーストシフトでも朝飯前だ。これで足が付く心配は無いだろ」
 心底納得が言った様に頷くエリカ。正確には顔を変えているのではなく、対象の視覚に介入し、別の顔を上書きしている。厳密には魔法というよりは魔属固有の幻術であり、それ故、そうと知っていなければ一流の魔術師でも気付きにくい。
「それで、肝心のお師匠の事については何かわかったの?」
「そっちはさっぱりだ。まだなんとも言えないが、今回もはずれな気がするな」
「そっかぁ」と、慣れたものかエリカもさして気にも留めない。まぁこの数年、はずれの連続だ。いちいち一喜一憂していたら気が持たないというものだ。
「ちなみにヴァル君、どのへんを聞き込みしていたの?」
「昨日までは一般的な場所ばかりだったからな。今日は歓楽街を中心に聞き込んでみた」
 大陸屈指の交易都市だけあってその広さは半端ではない。とても一日ですべてを回るなどできない。
 船の出入りを行う港湾区、繁華街や商店、宿や一般住宅などが中心の中央区、そして海を一望できる高台に位置する、金持ちの別荘や高級ホテルなどがあるリゾート区。マルレーンは大きく分けてその三つに分けることができるが、そのひとつだけでも宿場町のエルバの二つ三つは余裕で収まる面積なのだ。
 そんな広大な街でたった一人を探すのは、藁の中に落ちた針を探すよりも困難だ。
「う~ん。それじゃ見つからないかも。なにせ師匠はお酒を飲まないし、娯楽にも一切関心の無い人だから」
「そりゃどうだろうな」
 俺の言葉にむっとした表情をするエリカ。
「そりゃお前の前では清廉潔白な師匠だったかもしれないが、ベルゼルだって人間なんだ。お前の知らない側面だってあるはずだ。いや、むしろそう言う人間ほど欲求の反動はでかい。理想像を壊したくない気持ちはわかるが、男ならやることやって出すもん出すってのが……」
「そんなことはないわ!」
 エリカにしては珍しく声を荒げて否定する。
「お師匠は大人で高潔な人なんだから。ヴァル君とは違うのよ」
 その言葉に俺はカチンとくる。
「俺はこれでも優に千年は生きてる悪魔だ。人間なんて手に取るようにわかるさ。特に欲求に関しちゃな」
「でもお師匠のことは知らないでしょ!私は常にお師匠の傍でずっと見てきたんだから。知りもしないくせに偉そうなこと言わないで!」
「知った口を利くじゃねぇか。魔法以外、何も知らない世間知らずの魔法オタクのくせしてよ」
「オタクじゃないわよ!失礼ね!私は純粋な魔術師で研究者よ!知の探求はとっても尊いことだってお師匠も言ってたもん!」
「は!また師匠か。師匠師匠って、お前は自分の言葉で喋れないのか?」
 エリカは軽く涙目になりながら激しい口調で反論し、俺も俺で冷静にあしらってやるつもりが、つい大人気なく反論してしまった。結局この喧嘩は夜も深まり、エリカがふて寝するまで続いた。
 事、ベルゼルに対するエリカの感情は尊敬を通り越して崇拝に近い。
 人間とは、厳然たる真実よりも信じたいものを信じる生き物だ。それは時に、明らかに間違ったことすら正しいと断じてしまう。悲しき人間の性だ。
 コイツが何を信じようが構いはしないが、こんな些細な事ですら喧嘩になる有様だ。
 口喧嘩で済んでいるうちはまだいいが、いざという時、厄介なことにならなければいいがな。

 さらに数日。情報収集は未だ継続中。その間も雨は断続的に降り続け、厚い雲の向こうにある太陽は拝めずにいた。
 今は手がかりが何もない。とにかく情報が集まる場所、魔術師が行きそうな場所に重点を置いて聞き込みをし、調べ回っている。
 最優先で当たるのは魔術師が行きそうな場所、魔法に関係する場所。と言っても、魔法使いではない俺には見当もつかない。思いつくのはせいぜい魔法道具の店か、王立図書館くらいのものだ。一応、地図上でエリカの調べた候補を当たってはいるが、今のところそちらの手ごたえは無い。
 そうしているうちにやがて日が沈み、夜の帳が降りる。家に、店に、通りに明かりが灯り、街は昼とは違った表情を見せ始める。それを境に俺は情報収集の場を歓楽街に切り替える。無論、エリカの妄想と願望に近い意見など無視し、男が行きそうな場所を重点的に調べている。
 夜、男が行く所と言えば酒か女であると相場が決まっている。
 大通りから少し外れた場所にある酒場の前で俺の足は止まったのは、収穫も無く、辿る線を酒から女に変えようとした時だった。大きくはないが落ち着いた雰囲気の酒場だ。酒を飲むならこういう場所がいい。上品振る気はないが酒は静かに、味わって飲むのが俺の信条だ。
 無論それだけが理由でこの酒場を選んだわけじゃない。普段なら別に気にも留めないのだろうが、俺の鋭敏な感覚があるものを捉えていた。
「今まで手掛かりらしい手掛かりは一つもなかったからな……こうなりゃ少しでも気になるところは調べておくか。仮にはずれでもうまい酒が飲めれば儲けもんだ」
 俺はその酒場に足を踏み入れる。店内は照明を暗めに落とすことで落ち着いた雰囲気を演出していた。客はそれほど多くはなく、その少ない客も馬鹿騒ぎするような輩はおらず、皆囁くような静かな声音で会話と酒を楽しんでいる。ただ単に酒を飲む場ではなく、空間も含めて酒を楽しむことを考えた、店主のこだわりを感じられた。
 俺はまっすぐカウンターに向かい、空いている席に腰掛けると視線だけで注文を伺うバーテンに強めの酒を注文する。小さく頷き、無言で酒を作り始める。程なくして綺麗に磨かれたグラスに注がれた酒がコースターに乗せられ目の前に出された。
「ん。ありがと。ところで聞きたい事があるんだが……」
 訊ねながら酒を一口含む。琥珀色の酒は芳醇な香りが特徴的で、風味を殺さない絶妙なアルコールの強さが喉に心地よい。
 バーテン、いや、雰囲気的にこの店のマスターであろう。彼は視線だけをこちらに寄越す。拒絶するような表情ではないので俺は続ける。
「この街で魔術師を探しているんだが知らないか?ベルゼルっていう魔術師なんだが」
 さらに初老、痩せ型、長身とエリカに聞いた外見の特徴も加える。
 グラスを磨く手を休め、考えるそぶりを見せるマスター。しばしの間をおいた後、
「……思い当たる節が多すぎる。この街で魔術師なんてのは珍しくもないからな」
 と、低い声で手短に答える。それはごもっともな意見だ。そして俺がここ数日の聞き込みで最も聞いた答えだ。当然だ。魔法が不可欠なこの世界、それも特に人の出入りが多いこの街だ。魔術師を見ない日はないだろう。
「そりゃそうなんだけどな。そいつは結構名の通った高等な魔術師らしいんだ。そんな感じの魔術師は出入りしてるか?」
「そういう客には縁遠いね。この通り、しがない零細酒場だ。それだけ偉い魔術師様なら他の高級な店に行くだろうさ」
「そうなのか?結構いい店だと思うんだけどな」
「そう言ってもらえると嬉しいね」
 表情は変わらないがその声は喜んでいるように聞こえる。無愛想であるがなかなか気のよさそうな人間だ。同じ無愛想でもどこぞの宿主とは大違いだ。
 その後、マスターと他愛のない話をして店を後にした。偶然ではあるが楽しいひと時を過ごせた。逃亡中の身では酒を楽しめる機会はそうそうないからな。
 ともすれば目的を忘れそう――なんてことはありえないが。
 あの酒場。何かある。帰り道、潮風を全身に受けながら俺は確信を得、次の行動の算段を立てていた。

 部屋に戻った俺は、深いため息を吐いた。エリカがテーブルに突っ伏してすやすやと寝息を立てていたのだ。
 少し強めに扉を閉めると、その音のエリカはビクッ!と一瞬体を震わせて、のっそりと身を起こす。
「お前、俺が帰るまで寝るなって言っただろ」
 入ってきたのが俺だとわかると、とろんとした目をごしごし擦りながら「なんだヴァル君かぁ……」と寝ぼけた声を出す。
「ごめんなさい。ついうとうとしちゃって……って、こんな時間じゃ眠くもなるわよ」
 言われて時計を見ると、確かにもう日付が変わっている時間だった。子供並みに寝るのが早いエリカには酷な時間だ。
「寝てるときに踏み込まれたらお前でもどうしようもないだろ。追手は時間なんて選んじゃくれないぜ?」
「ヴァル君っていつもなんだかんだ言っていつも心配してくれて、優しいよね。悪魔なのに」
 こちらの忠告など無視して、悪戯っぽく言うエリカに俺は失笑する。
「何言ってやがる。悪魔は押し並べて残虐で冷酷で狡猾ってか?それは人間どもが勝手につけたイメージだ。確かにそういった奴もいるが全部が全部そうだって訳じゃない。お前は人間だが、人間って種の性格を一言で言い表せるか?できないだろ?」
「うーん。まぁ確かにそうだけど」
 と言いつつ納得のいかないという表情をする。悪魔の召喚が禁止されている以上、実物の悪魔など老練の魔術師や魔導士でも見たことはないはずだ。書物や情報では知っていても、そこに個が在るところまでは考えは及ばず、結果、イメージだけが一人歩きしてしまうのも無理は無い。
「魔属ってのは代償に応じて力を貸す存在。ま、早い話がギブアンドテイクだ。その代償が人間の倫理観とそぐわないだけの話だ。絶対忠誠や生命力や魔力、あとは生贄とかな。ま、その分代償さえ払えば誰にでも力を与えてやる。召喚者の資質を見極め、責務だの正義だの小難しいものをいちいち求めるクソ天属どもとの一番の違いはそこだ。そもそも悪魔の起源ってのは――」
「それじゃヴァル君は何を代償にしているの?」
 何気ないその問いかけに、饒舌になっていた俺は思わず絶句してしまう。
「確かに召喚術式は特殊だったけど、別段代償らしい代償は払ってないわよね?」
 何の疑いもなく、まるで子供のように純粋な興味で尋ねるエリカに俺は返答に窮する。
「あ!もしかして私の知らない間に何か吸い取ってる!?」
「何かってなんだ。俺は蚊じゃねぇんだぞ」
 何故か身体を抱いてこちらを睨むエリカ。一体何を想像しているか知らんが、こっちはそれどころではない。
 エリカが代償について知らないのは、今までのやり取りから明らかだ。
 これについては、絶対にコイツには話すべきではない。知る必要もない。
 自分が犯してしまった、罪の事など。
「ヴァル君。もしかして代償って……」
 どう答えるべきか思い悩んでいると、エリカが神妙な顔つきで切り出す。
 まさか、何か感づいたか?
 コイツは普段はポンコツでも、魔法使いとしては優秀だ。いつ気付かれてもかしくない。
 心臓が早鐘を打つ音だけがやけに大きく聞こえる。緊張に身を固くする俺に、エリカは、
「代償って……まだ決めてないんでしょう」
「……は?」
 あまりに間抜けな解答に拍子抜けする。
「代償って召喚時に払うタイプの他に、目的達成後に支払うタイプがあるって昔、書物で読んだわ。でも後者の場合でも契約時に提示するのが基本よ。でもそれも無い。そこから導き出される答えはずばり、決めてない!どう?当たってる?」
 こいつは魔法や戦闘時の機転、着眼点の鋭さには目を見張ることがしばしばある。が、逆にとんでもなくぶっ飛んだことを言い出すことも少なくない。賢いんだか馬鹿なんだかたまにわからなくなる。
 だが今はそのポンコツに救われた。俺は内心で安堵の息を付いていた。
「……あ、ああ。実はそうだ。今まで隠してきたんだが、エリカにしちゃ珍しく的を射てるじゃないか」
「珍しくって失礼ね!これでもお師匠の弟子なんだから、見くびらないでほしいわ」
 自慢げに胸を張るエリカ。ベルゼルが聞いたら頭痛に頭を押さえることだろう。一番弟子がこんなんじゃな。
「しかし隠して通して後でびっくりするような代償を要求するつもりだったんだがな。まぁいい。せいぜい覚悟してけよ」
 ええ~、と エリカ。それを見て俺は笑う。
 そうだ。こいつは何も知らず、能天気に笑っていればいいんだ。
「お手柔らかにね?ヴァル君」
 無邪気なエリカの笑顔に、俺は胸の奥が痛む感覚を覚えた。

 *

 マルレーン歓楽街の夜は昼のように明るくきらびやかで、いたるところで饗宴の喧騒と艶めいた嬌声が響き渡る。
 だがそれも深夜をピークに徐々に止んでいき、日の出の時刻などは遠くの波音が聞こえるほど静まり返る。
 歓楽街の、束の間の休息の時間だ。どの酒場も閉店作業に入り、酔いつぶれた客を追い出し、店内を掃除し、売上金を数え終われば一日の仕事は終わりである。
 人目を引かないこの酒場――ヴァルダヌが訪れたこの酒場ももちろんそれは同じである。今日も無事仕事を終え、マスターは安息の溜息をつく。従業員も先に帰し、売上金を数えた。だが、最後の仕事が残っている。
 そういえばいつだったか。あの男があれを置いていったのは。
 そんな事を考えながらカウンター奥に向かう。そこには歪な形をした奇妙なオブジェが鎮座していた。
 教えられた使用手順を思い出しながらマスターはオブジェに触れる。しばらくの間の後、落ち着いた声で『こんばんは』という挨拶がオブジェから発せられる。マスターはオブジェ越しに、どこか離れた場所にいるであろう相手に短く挨拶を返す。
「いつもの男から伝言を預かった。ええっと“川向こうより開花の報せあり。近く蜂が蜜を取りに来る。葡萄の木は切る”とのことだ。相変わらず意味はわからないがな」
 マスターは何度目になるその意味不明な伝言を伝える。
『そうですか……いや結構。ありがとうございました』
「それと、話は変わるが今日、魔術師を探している客が来た」
『ほぅ?』
「あんたに関係のあることかわからんが、一応知らせておくべきか思った。そういえば――」
 あんた名前は?そう聞きそうになるのをすんでの所で呑み込む。このオブジェの向こうにいる男は一度も自分の名を明かした事はないが、名乗らないということは、自分が知らなくてもいいということなのだ。
 このマスターは、多少ではあるが裏社会を垣間見ている。裏社会では知らないことで長生きできることは多い。逆に興味本位で首を突っ込み、短い生涯を閉じる者もまた多い。
 定期的に自分に伝言を託していくあの男は、滲み出る雰囲気から察するに明らかに堅気のものではない。無論、この通信の向こうにいる怪しげな男もまた然り。
 杞憂かもしれないが、余計な事を聞けば自分の寿命を縮める。好奇心は人を殺しても、杞憂は決して人を殺すことはないのだから。
『それで、探している魔術師とは?』
「あ、ああ。確かベルゼルとかいう魔術師だそうだ。えらく有名らしいが、知ってるかい?」
 汗を拭いながらマスターは答える。
『……さぁ。生憎、世俗には疎いものでしてね』
 芝居がかった言い草に、この男はなにか知っていると、勘が告げていた。もっとも、それを口にするようなことはしないが。
『しかしまた間が悪い時に。どうしたものか……』
「それじゃ伝えることは伝えたぞ」
 何やらぶつぶつと独り言を呟き始める男に、さっさと通信を終わらせたいマスターはぞんざいに言う。
『おっと、失礼。わざわざありがとうございました。いつも言っていますが……』
「わかっている。何も言ってないしこれからも言わないさ。貰うものは貰っているからな」
 それに長生きしたいからな、とマスターは内心で付け加える。
 結構。という言葉を残し、僅かなノイズの後に静寂が戻る。交信が終わった証拠だ。
 通信を終えたマスターは、先程とは違うため息をつく。
 一体自分を経由して何をしているのか。もしかしたら何か悪事の片棒を担がされているのではないか?
 それは通信を終えるたびに脳裏を過ぎる疑問だった。
 だが、それでも続けるしかない。しがない零細酒場を今日まで続けられたのも、彼らが置いていく多額の金のお陰だ。
 長年の夢だった酒場を開いたものの、その経営は厳しいのが実情だ。彼らがこの副業を持ちかけてこなかったら今頃この酒場は畳まれ、自分はまたつまらない勤め人の日々に戻っていただろう。
 もしかしたらそういう条件の店を彼らは探していたのかもしれない。
 だがそれでも構わない。こうして夢を叶えることが出来たのなら。今日来た青年のように、自分のこだわりを認めてくれる客がいる。自分の店を愛し、わざわざ足を運んでくれる客がいる。その喜びはどんなものにも代えがたいものだ。それを思えばこの程度の仕事はなんでもない。この店がこれからも続けていけるならそれでいい。
 そう自分を納得させるとマスターは帰宅の準備を始める。
 ――しかし、そのマスターが生きて店を出ることはなかった。

 *

 朝も早く、人気のまばらな通りを俺は進む。
 酒場にとってはようやく仕事終わりの時間。もっとも人目が少ないこの時間を狙い、俺は目当ての場所に向かった。
 それは昨晩俺が訪れた酒場だ。無論、客として来た訳ではない。
 昨晩、俺がこの店の前で感じ取ったもの。それは魔力だった。微弱なその魔力は魔術師などの発する力強い魔力ではなく、かといってしがない酒場から出るには強い、微妙な魔力。それを俺の鋭敏な感覚に引っかかったのだ。
 客を装って入り探りを入れてみたが、うまい酒と確信を得ることになった。
 マスターは言った。「魔術師の出入りは無い」と。これが本当なら魔力の説明がつかないし、嘘なら嘘をつく理由があるということだ。
 すなわち、ここには何かある、と。
 場違いな微弱な魔力は、街中の大きな魔力よりもずっと存在が際立っている。ただ、それが何なのかはまだわからない。俺達とはまったく無関係という可能性も高い。
 それでも、現状他に手がかりは何もない。とりあえず魔力の正体を確認するために、俺はここに忍び込むことにしたのだ。
 周囲を用心深く気にしながら裏口に回ると、鍵穴に向け魔力を流し込む。
 今の俺はエリカに頼み、セカンドシフトに上がっている。攻撃魔法は使えないが、簡単な魔法なら行使できる。開錠くらい、朝飯前だ。そう、こうやって鍵穴に意識を集中させ、内部をちょっと魔力でいじってやれば……
 と、そこで俺はある事に気付く。
「なんだ、開いてるじゃないか。無用心だな。戸締りはしっかりしとかなきゃ」
 などと侵入者である俺は一人呟きながら扉を開ける。裏口から通路を抜け、フロアに出る。店内は静寂そのもので物音一つしない。聞こえるものと言えば、遠くに聞こえる漁港の喧騒と俺の無遠慮な足音くらいだ。
「さてっと。それじゃちゃっちゃと探しますか」
 店内をぐるっと見回すと俺は早速店内を物色し、俺が昨日感じた魔力の源を探し始める。
 が、それは視界の隅に見えたもののせいですぐに中断させられる事になる。カウンターの入り口から人の足が出ていたからだ。
「あ?なんだ?」
 俺は疑問に思い、足を向ける。
 ひょいっとカウンターの奥を覗き込むと、そこにはうつ伏せになって倒れているマスターの姿があった。
 マスターは死んでいる。俺が瞬時にそう理解できたのは、うつ伏せなのにも関わらず、マスターの顔がこちらを向いていたからだ。人間では明らかにありえない方向に首が捻じ曲がっていた。
「閉店後に強盗にでもやられたかな。しかし首を一捻りとは、なかなかスマートな殺し方だな」
 俺はカウンターを乗り越えながら冷静に推測する。別に人が死んでいるからといっていちいち動揺はしない。人間とは根本的に生死観が異なるからだ。
 死は平等に、そして唐突に訪れるもんだ。
「ま、せいぜい冥界でもいい酒を作ってくれ……!」
 俺は開いたままの目を閉じてやろうとしてまだそこに温もりがあることに気付く。まだ殺されて数分と経っていないだろう。
「――!」
 背後の微かな気配。それこそ空気がわずかに動いた程度のわずかな変化だが、俺は全力で背後を振り向く。
 眼前には、突き出される真っ黒なナイフの切っ先だった。
 俺は背後を振り向いた体勢から無理矢理体を捻り、紙一重でそれを躱す。が、同時に繰り出されていたつま先が俺のがら空きの脇腹に抉りこむ。
 勢いよく酒棚に叩きつけられた俺に、うめき声を上げる暇も与えず、敵は容赦なくナイフを横薙ぎに払う。喉元を、弧を描く軌道で迫るナイフを、俺はとっさに掴んだ酒瓶をかざす事で防いだ。ガキン!と耳を刺すような甲高い音を上げナイフと瓶が擦れ合う。
「くそっ!何なんだ畜生が!」
 悪態をつく俺は酒棚を掴むと一気にそれを引き倒す。追い討ちをかけようとした敵もこれにはたまらず、身を引く。その間に俺はカウンターを乗り越えて距離を取った。
「危うくやられるところだった」
 そう言いながらようやく敵の姿をちゃんと視界に納める。
 スラックスにジャケットとラフな格好。顔もいたって凡庸で、どこにでもいそうなその顔は誰がどう見てもただの一般人だった。
 無論、そんな一般人が俺の背後を取れるわけがない。
 コイツの放つ雰囲気は明らかに一般人のそれとは異質のものだった。立ち振る舞いの無駄の無さは一分の隙も見せず、眼光の鋭さは俺の一挙手一投足をつぶさに観察し、隙あらば懐に潜り込もうとしている。
 加えて先程の正確かつシャープな一撃。セカンドシフトの俺の体にダメージを負わせるに十分な威力だった。
「ただのコソ泥……じゃなさそうだな?」
 無言。男は眉一つ動かさず、俺の隙を窺うことだけに集中している。本当に俺の言葉を聞いているかも怪しい。その無表情は彫像か何かを相手にしているようで、不気味に感じられる。
 間違いなく、こいつは殺しを生業にしている人間だ。少なくともオリンの小僧などよりはよっぽど戦闘慣れしている。
「おもしれぇ。いいぜ。やってやろうじゃねぇか」
 言いながら俺は右手を真横に突き出し、『敗者の器』に手を潜り込ませようとする。
 しかし、これを隙と見たのか男はナイフを順手に持ち、電光石火の速さで俺の右手側に回りこむ。その常人離れした速さに俺は驚く。
 間に合わない……!
 仕方なく武器を掴む事を諦め、舌打ちをしながら急いで後ろに飛び退く。一瞬遅れてナイフの切っ先が左胸、つまり心臓を狙って突き出される。幸い、先端が僅かに食い込む程度で、致命傷には程遠い。
 しかし、ナイフの軌道は唐突に直進から垂直へと変わった。男は瞬時にナイフを逆手に持ち替え、さらに踏み込みながら切り上げてきたのだ。
 刃が胸を深々と切り裂きながら上昇する。そのまま喉元まで切り裂くつもりだろうが、そうはさせない。俺は男の手首を左手で掴み、引き込みつつ鳩尾目掛け右手の掌底を打ち込んだ。
 しかし、手応えが軽い。打撃点をずらされたと察した時には、脇の下に肘鉄を食らっていた。姿勢を僅かに崩す俺に休む間も与えず、続けざまにボディ、顎と男の拳が突き刺さる。セカンドシフトの身体に確実にダメージを与えるほど、一撃一撃の拳が重い。
 盟約者である俺がただの人間一人に完全に押されているという事実に、動揺が隠せない。
 そんな俺に、トドメとばかりに今度こそ喉目掛けナイフが突き出される。
「くそっ!」
 悪態とともにナイフの軌道上に手の平をかざす。ナイフは手の平に突き刺さり、刀身が反対に突き抜ける。それによりナイフは俺の手に縫い止められ、男に初めて隙が生じた。
 俺はすかさず開いた左手を空間に突っ込み、瞬時に取り出した身幅の厚い曲刀、カトラスと呼ばれる剣を真一文字に振り払う。
 男は俺が左手を空間に手を入れた時点で本能的に危機を察知したのか、ナイフを手放し後退していたため、カトラスの刃は男の衣服を掠っただけで終わる。
 武器を失った男は間合いを大きく取り、先程の猛攻と打って変わって俺の出方をじっと待っていた。
「ったく。やってくれたな。俺にここまで傷を負わせた人間はお前ぐらいなもんだ」
 相変わらず無言だが、武器を奪われ不利になっても表情に全く変化が無いのはいささか腹立たしい。
 俺は舌打ちしながら掌に刺さったナイフを引き抜く。焼けるような激しい痛みが体中に走り抜けるが、それも一瞬。すぐに出血は止まり、傷口もゆっくりと塞がりはじめる。生憎エリカが近くにいないため、回復速度は普段に比べるとずっと遅い。
「その様子じゃたぶん、お前が何者か聞いても答えないんだろうな。まぁ、どうでもいいさ……」
 俺はカトラスとナイフを構え、男を睨む。
「とりあえず、お前を倒す。話はそれからだ」
 言い終わるより早く、俺は奪ったナイフを予備動作無しで投げつけた。手首と指の力だけで投げられたナイフは、それでも常人では反応できない速度で男に迫る。しかし、男はそれをいとも容易く避けた。
 無論、そんな事は予測済み。そんな単純な攻撃が通じないことくらい、この短時間の間で十分理解している。
 俺はナイフと併走するかのような速度で間合いを詰め、男に迫っていた。
 床すれすれの低い姿勢で迫り、死角である下からの攻撃――と見せかけ、直前、俺はバネのように一気に跳躍。男の頭上を飛び越え、くるりと身を捻りながら男の真後ろに着地すると同時にカトラスを素早く払う。
 真後ろという死角からの攻撃は躱せるものではない。だが、男は後ろに目があるかのように、カトラスの軌道に合わせて体を反転させ、躱してみせた。
 驚きはしても、これも想定内。この時、『敗者の器』から重厚な鉈を取り出していた。カトラスを持った手を引きながら、逆手に持った鉈を瞬時に薙ぎ、男に食らいつく。
 瞬間、俺の視界の景色がぐにゃりと歪み、バランスを失い体勢を大きく崩す。
 男は反転した勢いを乗せ、俺の側頭部に裏拳を叩き込んでいた。
 三段構えの攻撃をことごとく防ぎ、最後の一撃に至ってはほぼ相打ち。
 悔しいがこと身体能力ではセカンドシフトの俺よりもこの男のほうが勝っていた。
 それでいてこの男からは一切の魔力を感じない。つまりこいつは、魔法なしでサードシフトのアリッサたちに匹敵する身体能力を有していると考えるべきだろう。つくづくこいつの正体が気になる。
「まぁ、なんにしても俺の方が一枚上手だったがな」
 俺は禍々しい笑みを、徐々に回復していく視界の中にいる男に向ける。
 男は片膝を床に付いていた。そしてその足元にはおびただしい量の血が水たまりを作っていた。手で抑えている下腹部は血でべっとりと染まっていた。切り裂かれた衣服の向こうに生々しい傷口を晒していた。
 常人離れしたこの男も、さすがにこの傷では動けないらしい。裏拳を食らって怯んだ俺を追撃しなかったのがその証拠だ。
「詰みだな。でも今ならまだ助かる。だから吐け。お前何者だ?」
 俺は油断なく鉈を構え、訊く。手負いの獣は何をするかわからないからな。
 男はついに床に手を付き、体を折って盛大に血を吐き出してしまう。
 「いや、吐けといわれて血を吐くって、気の利いたボケはしなくていいから。ほら、言わねぇと本当に死ぬぞお前。一応、契約者との関係で殺しはご法度なんだよ。だから今なら助けてやる。さっさと――」
 言葉も途中で、男が顔を上げる。
 ようやく吐く気になったかと思った俺は男と目が合い、そして戦慄した。その目は死の淵に立たされながらも、まったく変わっていなかった。死の恐怖も、相手への憎悪でもない。目の前の障害を排除する――ただそれだけが双眸に埋め込まれていた。
 俺は不覚にもその目に一瞬気圧されてしまい、手負いの獣を前で隙を見せる愚を犯してしまった。
 男の手には黒光りする何かが握られ、こちらに向けられていた。金属製の長方体を二つ組み合わせたような外観。その先端の小さな筒が俺に向けられている。一見した限り、それが何かは俺にはわからなかった。
(魔道具か?いや、これにも魔力は感じない……)
 見慣れない物体に困惑していると、男は爪のような突起物に指をかけ、それを引いた。
 次の瞬間。轟音と共にその物体が火を噴いた。
 いや、噴いたのは火だけではない。とても小さい、指先ほどの大きさのが超高速で撃ち出された。
 瞬時に俺がわかったのはそれだけで、それが一体何なのか視認する前に俺は無意識にガードの構えを取っていた。カトラスと鉈は、その撃ち出されたに当たり、火花を散らして甲高い音を響かせる。それを持つ手に伝わる、あまりに大きい衝撃は手から武器をもぎ取られそうになる。
 だがそれより先に刀身がもたなかった。次々と発射されるに二つの刀身は断末魔の破砕音を上げ、弾け跳んでしまった。
 同時に、そこで攻撃が唐突に止まった。筒から轟音が止み、煙が立ち上る。
 一秒ちょっとの間の出来事。たったそれだけの間に、俺の優位は剣と同時に壊された。
 だが、今は攻撃が止んでいる。理由はわからないが、俺はこれを隙と見て攻勢に出る。
 が、その判断が過ちだったと、すぐに思い知らされる。
 男は、握りの部分に差さっていた箱を外し、膝のポケットから取り出したまったく同じ形の箱を差し替えると、再び構える。
 一秒にも満たない一連の動作の後、物体は再び咆哮を響かせる。とっさに防御の構えで翳した左腕にが容赦なく突き刺さる。
 晒された左腕は皮膚や筋肉は弾け飛び、肉を食い破って中の骨までをも砕かれる。
 (このダメージは、まずい……!)
 悪魔と言えど不死身ではない。この世界に定着させるため、俺たち盟約者は召喚者に肉体という憑代を与えられる。その魔力で構成された肉体は、人間のそれよりも遥かに強靭だ。だが、例え人間よりも遥かに強固であっても肉体の崩壊が“死”であるのは同じだ。維持できないほど肉体が破壊されてしまえば俺の純粋存在、『魂』は肉体との繋がりを断たれてしまう。魂だけでは、この世界に留まることができないのだ。
 男は先程とまったく同じ動作で箱を入れ替える。どうやらアレが攻撃に必要なものらしい。
 とにかく、次にアレを使われたら終わりだ。俺は死に物狂いで男に体当たりを食らわす。さらに、無事な右手で男の脇腹の傷口を抉る。臓腑を潰す勢いの攻撃に、男は血と共に低いうめき声を口から漏らす。初めて聞いた男の声は、同時に最後に聞いた声となった。
 男は後ろに倒れながらも力を振り絞り、震える腕を持ち上げると指を引いた。
 三度目の轟音。だが、その先に俺はいない。射出されたはカウンター向こうのオブジェを粉々に破砕した。
 それを確認した男は、力なく床に倒れ伏す。場は一転して元の静寂を取り戻した。
 何が何やらわからず、とりあえず俺は倒れた男に油断無く近寄る。そして、
「……!くそっ!」
 俺は怒声に近い悪態をつく。
 男はすでに事切れていた。どうやら舌を噛み切って自害したようだ。
 結局、こいつが何者か、何が目的だったのか、全てわからないままだ。
「これじゃ、戦い損じゃねぇか。腕一本犠牲にしたってのに!」
 言いながら俺は腕を押さえる。もはや自分の意思では動かない腕を見、おもむろに傷口に指を突っ込む。激痛に声を上げそうになりながら、指先に触れる異物を掴み、引き抜く。そして血に染まった異物をキッチンで洗い、改めて観察する。
 爪先ほどの大きさの、潰れてひしゃげた鈍色の金属片。
 そして冷静になって初めて気付いた、周囲に立ち込める独特の臭気。高速で撃ち出された金属片。そこから導き出される結論。それは、
「まさかこれは……銃なのか?」
 思わず声を上げながら、男の横に転がる武器を見やる。
 確かに、この世界には銃という武器は存在する。だが、こんな銃器は召喚以来初めて見る。
 俺の知る限り、この世界での一般的な銃といえば長い銃身を持つかさばるものだ。一発ごとに装填が必要であり、それでいて命中精度も高くはない。総合的に魔法の方が遥かに利便性が高い為、戦闘の主力にはなり得ず、主に魔法を使えない軍の歩兵や、金持ちの私兵などが所持する程度に留まる。
 だが男の所持していた銃は、全てが真逆だ。懐に収まるほどコンパクトであり、一秒間に三十発近い弾丸を、至近距離とはいえその殆どを俺に命中させた。しかも俺の肉体を、腕一本を回復不能なまでに破壊した。
 いっそ、これは新たな魔道具と言われた方がまだ納得がいく。
 それでも、周囲に立ち込める火薬の匂いが、確かにこれが銃である事を示していた。たかが銃に俺の肉体が傷つけられるとは考えにくいが、他に考えられない。
 釈然としないまま、次に男の体を調べるが、身元を証明できるものは何一つ見つからなかった。
「ゴロツキや物取りじゃねぇのは確かだが、軍の人間って感じでもねぇ……コイツは何者だったんだ?」
 と、そこで俺はある事に思い至り、背後を振り返る。
 最後の銃撃は、俺を狙ったにしてはまるで明後日の方向だった。
 あれは俺への攻撃ではない。
 そう思い至ると、カウンターの奥に回る。そこには打ち砕かれたオブジェが、無残に転がっていた。
 これこそが、俺がこの店に違和感を抱いたものの正体だろう。
 その証拠に、意識をオブジェに集中すると魔力が宿っているのがわかった。
 もっとも、破壊されたことでその魔力はほとんど消失しかけている。
 (ベルゼルに繋がるかどうかはわからないが、この男の正体の手がかりにはなるかと期待したんだが、これじゃ厳しいな……)
 そう諦めようとした時、ふとあることに気付く。
 オブジェから伸びる、ともすれば容易に見落としてしまうほどの細糸の如き魔力。消えかけてはいるが、それは店の外へと続いていた。
 このオブジェは魔力でどこか別のところへと繋がっている。
 魔力同士で繋がるタイプの魔道具。俺はこの世界の魔道具に詳しくないが、こいつは知っている。
「こいつは通信器か!」
 通信器は音声を魔力変換し、遠距離にいる相手と会話ができる魔道具だ。子供でも知っているほど知名度の高い魔道具だが、その反面大変高価で、少なくとも場末の酒場に置いてあるような代物ではない。
 そして通信器のもう一つの特徴。それは二対一組である事。
 会話をする道具である以上、通信相手が必要だ。故に通信器は二対一組で製造される。すなわち、
「こいつのもう片割れがあるはずだ。そいつを突き止めれば!」
 俺は意識を再度集中し、消えかかっている魔力の糸を捉える。
「よしっ!頼むから消えるなよ」
 集中力を維持したまま、俺は店を出かけて、一度足を止める。
 「っと。さすがにこの腕じゃ目立つな。どうせあっても役に立たないし……しょうがねぇな」
 銃撃でズタズタになった左腕を右手で掴むと、「うらっ!」と気合と共に引き千切る。左腕は難なく二の腕半ばあたりで千切れ、砕けた骨を覗かせる。駆け上ってくる痛みに額から脂汗が滲み出るが、この程度なら問題ない。失った腕はシフトを上げれば元に戻る。
 裏口付近に掛けられていたジャケットを適当に引っ掴んで羽織り、魔力を追って今度こそ店を後にした。

 *

  師匠の手がかりを探すため街の地図を眺めていたエリカは、扉を叩く音に顔を上げ、反射的に身を強張らせる。
 今の自分に尋ねてくる客などいない。もしいるとすればそれは警察か捜査官だ。エリカは緊張に、透過魔法の紋章が刻まれた指輪を嵌めた手を強く握り締める。
「お客様。いらっしゃいますでしょうか?」
 しかし、扉の向こうから聞こえてきたのは朗らかな女性の声。それもここ最近で聞き慣れた声だ。何かと世話を焼いてくれる、笑顔のかわいい看板娘さんだ、と思い至る。エリカは、安堵のため息と共に緊張と警戒を一気に解く。
「あ、はいはーい」
 返事をして扉を開けるエリカ。そこにはエプロン姿の少女が立っていた。エリカよりも若いであろう彼女がこの宿の看板娘だ。
「すみません。朝早くに。まだお休み中でしたでか?」
「あ、いいえ。大丈夫ですよ。それより何か御用ですか?あ、もしかして連れが何かしましたか?すみません、まだやんちゃなお年頃なもので」
 と、ヴァルダヌがいれば怒り出すような事を言いだす。
「いいえ。お連れ様はまだお帰りになってませんよ。まぁ、あのくらいの子は元気なのが一番いいですよ」
「そんなことないですよ。いっつも世話を焼かせるし、小憎たらしいことばっかり言うし。きっと反抗期なのね。もう少し大人しくなってほしいわ」
「まあ、そうなんですか?いつもお話している時からではそんな風には見えませんでしたが」
「きっとお姉さんがきれいだから照れてるのよ。おませさんだから」と言って二人で笑う。
 この看板娘が、実はヴァルダヌは齢千年を優に越える悪魔だと知らないのは致し方ない。しかし、エリカまでもが同じ視点で喋っているのは、けっして話を合わせるためではない。100%本心である。
 エリカにしてみればヴァルダヌは「手のかかる弟」程度の認識しかない。そしてそれがヴァルダヌの悩みの種の一つでもあった。
「そうそう。忘れる所でした。先程、お客様当てにお手紙を預かりました」
 他愛のない談笑に花を咲かせていた時、言いながら彼女はエプロンから一枚の封書を取り出す。その封書には表裏共に特に何も記されておらず、差出人も記されていない。
「誰からかしら。これは私宛ですか?」
「はい。ここに宿泊している女に渡して欲しい、とだけ言われて帰られてしまいましたのですが、今この宿に宿泊されている女性のお客様はエリカさんだけですので。まぁそもそも今この宿で宿泊されているがお客様たちだけですけどね……」
 後半は自嘲気味に言う看板娘にどう反応したら困り、とりあえず苦笑いをしながらエリカは封を切る。中には何の変哲も無い紙が一枚。折り目正しく納まっていた。
 エリカはそれを取り出し、目を通し、そして驚きに表情を硬くする。
「もしかしてラブレターか何かですかね。お客様も隅に置けませんねぇ……って、あれ?白紙ですね」
 横から覗き込み、首を傾げる看板娘の声など、エリカの耳にはまったく入ってはおらず、ただただ、目を見開いてその白紙の紙に釘付けになっていた。
「これを持って来た人はどんな人でした!」
 肩を掴まれ、今までにない剣幕で問い詰められた看板娘は戸惑いながらも、
「も、申し訳ございません。フードを目深にかぶられていたのでお顔までは見られませんでした。ただお声の感じからお年を召した方のようにお見受けしましたが……」
 と答える。それを聞いたエリカは
「すみません!ちょっと出かけてきます!」
 と言って、呆然と佇む看板娘を残し、普段のおっとりとした彼女からは見られないほどの速さで階段を駆け下りていく。
 宿を飛び出し、エリカはひたすら走る。自分が指名手配犯だということも忘れ、死に物狂いで大通りの人波をかき分けて走り、走り、走り続けた。一秒でも早く目的の場所にたどり着くことしか頭になかった。
 その手に白紙の手紙を握り締めて。
 その紙は、見た通りの白紙だ。だがエリカには見えていた。この手紙に記されていたものが。
 そもそもこの紙は魔道具の一種で魔力を留めることができる特殊な紙である。その性質から、自らの魔力をインク代わりに文字を書き記すことが出来るのだ。一般人はもちろんのこと、魔力の跡を見ることができない下~中位の魔法使いにも内容を把握することが出来ない。
 その高い秘匿性の高さから、主に魔法使いが自ら生み出した魔法の術式や理論を密かに記すために使われたり、国家が機密文書を伝達する際に用いられる。
 その紙の材質に瞬時に気が付いたエリカは、すぐに魔力の残滓を見て内容を確認し、そして驚愕した。
 内容そのものは『旧埠頭跡にて待ちます。一人で来てください』という、簡潔極まりないものだった。注目すべきはそこではなく、紙の隅に記されていた差出人の名前だ。
 そこに記されていた名前。それは――
『ベルゼル・レイマン』
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