トースト

コーヤダーイ

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魔方陣

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 ヴィンター商会本店での実習も、滞りなく進んでいる。休憩時間にお茶をいただいているのだが、なぜか休憩室には、ヴィンター伯爵夫妻とその娘までいる。娘はハンナと名乗ったあとは、伯爵に似た笑顔でにこにこと、両親と会話をするヤーデを眺めている。
 同じ学校の卒業生だと聞いたが、会ったことはないはずだ。彼女の視線はさらっとして気分の悪いものではない。時々あるような、ねっとりとした視線とは違う。なぜ好意をもってもらえたのか不明だが、ヴィンター商会に多少なりとも貢献できているからか。
「ヤーデさん、と呼んでもよろしいですか」
「はい、もちろんです」
「わたしのことはハンナと名前で呼んでくださいね」
「わかりました、ハンナ様」
 あぁ推せる、と小さな声が聞こえた気がしたが、空耳かもしれない。
「父と母から、噂はかねてより。とても優秀なのね」
「優秀なわけではないですが、努力はしています」
「そうよね、努力なしにあの学校に残ることはできませんもの。ヤーデさんは席がずっと変わらないと聞いています、なぜそこまで頑張れますの」
 変な質問だったらごめんなさい。わたしは在学中なるべく楽をして遊びたいと、思っていたものだから。少し恥ずかしそうに微笑む顔は、ヴィンター夫人に似ている。
「ご存じでしょうが、ぼくは孤児でした。ぼくは養父のドミトリーさんに、恩返しをしたいんです。あの人は魔法使いだからといって、前線へ駆り出されます。魔法は使えても、自分で剣を持つこともできないし、身を守る術を持たないままで。ぼくはそれをなんとかしたいと、そう思っています」
「ご養父様がお好きなのね」
「はい、世界で一番。ぼくは自分を守ってもらっているように、あの人を守りたい」
 んんん、と地鳴りかうなり声が響いた。目の前の三人が酸っぱい野菜でも口にしたような顔をしている。ヴィンター夫人は赤い顔をして、ハンカチで鼻を押さえている。鼻にお茶が入ってしまったのかもしれない。ご婦人に失礼なので、見ていないふりをした。
「すみません、ぼくだって何もできないのに、生意気なことを言ってしまって」
「笑顔良……推せる……全私が沸きますわ……」
「?」
「いえ、ごめんなさい。立派ですわヤーデさん。わたしもできる限り、あなたたちご家族を推……応援いたします。お二人のしあわせを心から願いますわ。これからも体に気をつけて、無理なきよう頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございます?」
「ごめんなさいね、ヤーデちゃん。今際の際のような娘の発言を許してやって。娘はそのうち結婚して家を出るので、なかなかあなたにお会いする機会がないと思うの」
「そうでしたか、ハンナ様もどうぞお幸せに。ご多幸お祈りしています」
 満点……天使、と聞こえた気がしたが、空耳だったかもしれない。感極まったのか娘が泣き出したので、お茶の時間は終了となった。
「ハンナ様、よろしければどうぞこれを」
 去り際にハンカチを差し出す。娘のハンカチはすでに涙を吸わないほど、水分を含んでいたのだ。
「ハンカチ……ありがとうヤーデ様」
「ふふっ、さま、はやめてください。恥ずかしいです」
 しゅごい破壊力はんぱない……と聞こえたが、どういう意味だったのだろうか。
「お返しくださらなくてけっこうですので、どうぞお持ちください。手習いの刺繍でお恥ずかしいですが」
「し、刺繍もなさるの? こんなにきれいな花模様を……」
「では失礼いたします」
 推しのお手製直々……しんどい……家宝にしますわ……。
 扉が閉まるときにハンナ嬢が膝から崩れたのは、致し方ない。ヤーデが居なくなるまで、よく耐えたといったほうがいい。

 ヴィンター商会の娘ハンナ・ヴィンター伯爵令嬢が、侯爵家の長子と婚約をしたのは、それからすぐのことだった。ヤーデがハンナに会うことはなかったが、ヴィンター夫人に祝いの言葉を告げた。表情豊かで元気な方だった、侯爵家夫人ともなると、もう会うこともないのだろう。そう思ったヤーデだったが、わりとすぐ会うことになるのを、このときはまだ誰も知らない。



「ねえヤーデ」
「はい」
「私の制服に刺繍を入れるって言ってたけど、どこに入れたの?」
 ドミトリーが自分の制服を持ち上げて、首をひねっている。休日の今日は、後頭部の高い位置で結った髪を丸くまとめているのだが、後れ毛が揺れて大変かわいらしい。さっきは椅子に座った後ろ姿を見ていたら、いつもは隠れているうなじがよく見えた。毎日風呂で見ているし、髪を結ったのはヤーデなのだが。それはそれ、これはこれ。危うくうなじにかぶりつきそうになった。あぶない。最近、雄として目覚めはじめたヤーデは、自分を制御するのが困難なときがある。そんなときは冷却の魔方陣を頭に思い浮かべて、微笑んでごまかすことにしている。今も必死に冷静さを保つ努力をし、微笑みを浮かべているつもりである。
「あ、ここです。外から見えないように、お腹の裏側に刺繍を入れてあります」
「ほんとだ。きれいな模様……と思ったら何これ。呪文?」
 ヤーデを見たドミトリーが、また変な笑い方してる、最近その笑い方すること多いねと言った。どんな笑い方をしているのか、自分ではわからない。ドミトリーに飛びついて噛んでみたい衝動を必死に抑え、隠すための笑い顔だ、噛みつかれないだけ感謝してほしい。胸と腹のあたりがいらいらする。体の中で凶暴な獣を飼い始めたような気分だった。
「魔方陣を刺繍してみました。ちょっと魔力通してもらえます?」
「ん……うわあ。なにこれ」
「成功ですね、よかった。前線で役に立つかな、と思って」
 ヤーデが施した刺繍は、結界防御の魔方陣だ。小さな魔法石を中心に縫い込んだので、発動させたら石が砕けるまで効き続ける。解除するのも、魔法使いなら呪文ひとつでできる。
「着ているときに、マントの上から発動と解除ができるか、試してもらえますか?」
「ん、やってみる」
 魔法使いの制服を着たドミトリーが、マントをかぶり、その上から腹に手を当てた。魔力を通すだけなら呪文は必要ない。すぐに結界防御が展開される。ドミトリーの体全部を、膜のようにまんべんなく守っている。試しにヤーデがスプーンで刺そうとしたが、マントにすら届かなかった。
「すごい……目に見える結界なんて、どれほどの魔力が消費されるんだろう」
 解除の呪文で、たちどころに結界防御の膜が消えた。
「魔法石を仕込んであるので、魔力が必要なのは発動だけです。次に、手袋をしても発動できるか、試してもらっても?」
「ん」
 手渡した手袋をはめ、同じように腹に手を当てる。結界防御の膜が音もなく現れる。
「大丈夫みたいですね、よかった。ありがとうございます」
 解除の呪文で、膜は消える。
「服屋に頼んで、制服と同じ布で薄手に軽く縫い直してもらいます。布が傷んだり、魔法石が砕けて、魔方陣が発動できないと困るので、同じ刺繍を違う場所にもいくつかつけたくて」
「ねえ、これって他の魔法でも応用できる?」
「できると思います。色々試したいんですけど、刺繍に時間が掛かるのと、試す機会がなくて研究が進んでいませんが」
「魔力を発動にしか使わないのが、本当に助かる。回復薬は不味いし、飲み過ぎるとあとで体調を崩すんだ」
「そうなんですね。他にどんな魔法が使えたら便利か、教えてください」
「その前に、魔方陣の説明、わたしにも教えて」
「あ、じゃあ服は脱いでもらって、ぼく紙を持ってきますね」
「ん……ヤーデ」
「はい?」
「ありがとう」
「はい」
 その笑顔と感謝のことばだけで報われます、とヤーデは思った。いらいらする気持ちは消えていて、体の仲の凶暴な獣は眠ったようだ。ヤーデは時間の許す限り、新しい魔方陣を描き刺繍を進めた。ドミトリーに何が起こっても無事でいてほしかった。



 その年の年末が近づき、あと何日かで新年という日。魔物が出たという、前線への呼び出しが入った。昨年同様、新年の準備は万端だったのだが、無駄になってしまう。
「ぼくも前線に連れて行ってもらうことは、できませんか」
「どうしたの急に」
「未来の話になりますが、魔方陣をもっとも使うのは、前線の騎士たちになるでしょう」
「でも彼らには、魔力が」
「ぼくが作りました。魔力がなくても魔法を使える魔方陣を」
「……ヤーデ、そんなことが」
「今のところは、ぼくしか作れません。ぼくしか使い方を教えられません。前線での使用に耐えうるか、自分の目で確認するいい機会です」
「魔物がいる、危険なんだよ」
「わかっているつもりです。あなたがいつもどれだけ疲弊して戻ってくるか、ずっと見てきたから。ぼくはある程度、自分の身を自分で守れます。魔方陣もたくさん作りました。行きの馬車で服に仕込めば、他の魔法使いの結界防御もできます。見た目はよくないかもしれないですけど」
 ドミトリーは目を閉じて、しばらく無言でいた。
「ぼくは来年学校を卒業して、魔方陣を発表することになる。そしたらきっと前線に連れて行かれるでしょう。より使い勝手のよい魔方陣を作るために。そのときあなたと一緒だとは限らない」
「ヤーデやめて」
「ぼくはあなたを守りたいんです。魔方陣だってあなたのために作った。危険な前線で身を守る術のないあなたが、無事に帰ってこられるように、ずっと考えてきた。お願いします、あなたの側にいられるうちに、一緒に前線へ連れて行って」

 結局はドミトリーが折れた。前線に呼ばれたとき所属する騎士団に連絡を入れる。連れて行けるとしたら団長の許可が降りたときだけだ。と厳しく告げられたが、絶対に行けるとヤーデには自信がある。魔力を使わず身を守ることができる魔方陣があるなら、騎士にだって使わせてみたいはずだ。もしもに備えて、できる限り作り溜めた魔方陣が役に立つときがきたのである。
「騎士団に直接連絡をしても、取り次いでもらえないかもしれません。ぼくに考えがあります、任せてもらえますか?」
 確かに、一介の魔法使いが連絡を入れても、話すら聞いてもらえないかもしれない。駄目ならヤーデは家で安全に留守番をするだけだ。ここはひとつ、ヤーデに任せることにした。



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