婚約破棄、できないなんて聞いてないんですけど?

恋の箱庭

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昨日の「悪役令嬢宣言」から一夜が明けた。


私は自室のベッドの上で、深いため息をついていた。

おかしい。私の計算では、レオンハルト殿下は今頃「恐ろしい女だ!」と震え上がり、即座に婚約破棄の手続きに進んでいるはずだったのに。


「……どうしてああなったのかしら」


鏡に映る自分の顔は、相変わらずどこか間の抜けた、平々凡々な「無能令嬢」そのものだ。

悪役らしい鋭さも、人を射すくめるような冷たさも微塵もない。


そこへ、侍女が扉を叩いた。


「マリア様、レオンハルト殿下がお見えです。昨日の『計画書』の修正案を持ってきた、と……」


「修正案!? 計画をブラッシュアップしてくれるの!?」


私は飛び起きた。

さすがは誠実な殿下だ。私の不備だらけの計画を、より確実に私が「捨てられる」ように直してくれたに違いない。


私は大急ぎで身なりを整え、応接室へと走った。


応接室には、昨日と変わらず神々しいまでのオーラを放つレオンハルト様と、死んだ魚のような目をした側近のケイン様が立っていた。


「おはよう、マリア。昨夜はよく眠れたかい? 君の立てた計画を読み返していたら、あまりの愛らしさに僕が眠れなくなってしまってね」


「……殿下、それは睡眠不足で判断力が鈍っているということではありませんわよね?」


「まさか。かつてないほど頭は冴え渡っているよ。さあ、座って。君の『婚約破棄プロジェクト』について、僕なりの回答をまとめさせてもらった」


レオンハルト様は、仰々しく金縁のファイルを開いた。

隣でケイン様が「帰りてぇ……」と小声で呟いたのが聞こえた気がしたが、無視することにした。


「まず、マリア。君は第4条で『王子の好物を徹底的に調べ上げ、それを一切食卓に出さない嫌がらせをする』と書いていたね」


「はい! 好きなものが食べられない苦しみは、王族にとって耐え難い屈辱のはずですわ!」


私は自信満々に胸を張った。


レオンハルト様は、なぜか慈愛に満ちた表情で私を見つめている。


「素晴らしい。つまり君は、僕の食生活と健康を完全に管理したいということだね? 専属の栄養士のような献身……。愛なくしてはできない所業だ」


「違います! 嫌がらせです!」


「却下だ。代わりに『マリアが僕の口に、マリアの嫌いな食べ物をあーんで放り込む』という案に変更しよう。君が嫌いなものを僕が代わりに食べてあげる。どうだい、これなら僕も苦しいし、君も嬉しいだろう?」


「それ、ただの仲良しカップルの光景ではありませんか!?」


私はテーブルを叩いて立ち上がった。

この王子、本当に誠実すぎて、悪意という概念が頭の中に存在しないのではないだろうか。


「次だ。第8条『夜会で他の令嬢にわざと足を引っかけ、その罪を王子になすりつける』。これはどうかな、ケイン」


レオンハルト様に振られた側近は、深く、深いため息をついた。


「……殿下。マリア様の運動神経でそんなことをすれば、間違いなく自爆して殿下の胸に飛び込むことになります。嫌がらせどころか、公開イチャつきイベントになるだけです」


「その通りなんだ! ケイン、君はたまに良いことを言うね」


「褒めてません、殿下」


私はガックリと肩を落とした。

確かに、私はダンスの授業でも自分の足をもつれさせて転ぶタイプだ。

悪役令嬢への道は、思っていたよりもずっと険しい。


「マリア。君の提案した『婚約破棄』というゴールについては、一旦『検討中』とさせてほしい」


「検討中……ですか?」


「ああ。君が完璧な悪役になりきれるかどうか、僕が審査する期間が必要だ。もし君が、僕の心を完璧に折ることができたら、その時は君の望み通り婚約を破棄しよう」


レオンハルト様は、まるで国家間の条約でも結ぶかのような真剣な眼差しで私を見た。


「ただし、審査期間中は、僕の指示に従ってもらうよ。悪役令嬢には『悪役令嬢らしい立ち振る舞い』の指導が必要だからね」


「指導……。殿下が、私を悪女にするために指導してくださるのですか?」


「もちろんだ。僕は誠実な男だからね。婚約者の願いは、たとえそれが自分を捨てるためのものであっても、全力でサポートしたいんだ」


なんて、なんて高潔なお方なのだろう。

自分を陥れようとする女のために、その方法を教えてくれるなんて。


「わかりましたわ! その試験、受けて立ちます! 私は必ずや、あなたに愛想を尽かさせてみせます!」


「その意気だ、マリア。では、今日のレッスンを開始しようか。まずは『冷たくあしらう練習』として、僕の膝の上に乗って、そっぽを向いてみてくれるかい?」


「……それ、順番がおかしくありませんこと?」


「いや、至近距離で無視されるのが一番堪えるんだ。さあ、おいで」


「な、なるほど……? 確かに、目の前にいるのに無視されるのは辛いかもしれませんわね」


私は王子の甘い罠に疑問を持ちつつも、彼が差し出した膝の上へと、おずおずと腰を下ろした。


レオンハルト様は、私の腰にしっかりと腕を回し、満足そうに鼻歌を歌い始めた。


後ろでケイン様が「もう嫌だ、この仕事……」と天を仰いでいたが、私は「悪役」への第一歩を踏み出した高揚感で、それに気づくことはなかった。


「(……いつか絶対に捨てられて、殿下を自由にして差し上げるんだから!)」


私の決意は、王子の逞しい胸板の温もりの中で、少しずつ、しかし確実に溶け始めていた。
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