婚約破棄と自由なセカンドライフを望みます。

恋の箱庭

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「……ふぅ。よし、不備はありませんわね」

ガタゴトと揺れる馬車の中で、ミュークオは先ほどレオポルド皇太子にサインさせた羊皮紙を月明かりにかざした。

そこには、婚約破棄の合意事項のすぐ下に、豆粒のような小さな文字でびっしりと「付帯条項」が書き込まれている。

「ミュークオ様、あまりに手際が良すぎて、私、見ていて震えてしまいましたわ……」

向かいに座る侍女のアンナが、引きつった笑いを浮かべてお茶を差し出す。

「アンナ、これはビジネスよ。感情で動くのは二流、感情を利用して利益を確定させるのが一流です。殿下がリリィ様との『真実の愛』に酔いしれている今この瞬間こそ、もっともガードが緩む絶好の契約締結タイミングだったのよ」

ミュークオは満足げに、自らが書き込んだ「第十四条:精神的苦痛に対する補填」の欄を指でなぞった。

「見て。王都直轄の休耕地、および北方のグリエール領の譲渡。それから、過去十年間に私が王宮に寄贈した調度品の買い戻し費用。すべて『一括払い』で合意を取りましたわ」

「……あの、ミュークオ様。殿下はこれ、絶対に読んでいませんよね?」

「読まないほうに賭けていたもの。あの方は、見栄えの良い表紙と自分の名前を書くスペースさえあれば満足される方だわ。あんなにサインしやすい空気を演出してあげたんですもの、感謝してほしいくらいね」

ミュークオはふふっと鼻歌を漏らした。

その頃、静まり返った夜会会場では、ようやく正気に戻ったレオポルドが、手元に残された控えの羊皮紙を二度見、三度見していた。

「……おい。なんだ、この『グリエール領』というのは。確か、あそこは岩場ばかりの不毛な土地だったはずだが」

「殿下ぁ、どうされたんですかぁ? そんな紙、捨てて私と踊りましょうよぉ」

リリィが甘えた声を出すが、レオポルドの顔面からは急速に血の気が引いていた。

「待て……。その下の、この金額は何だ。ゼロが、一、二、三……八個? なぜ婚約を破棄するだけで、国家予算の一割に近い慰謝料が発生しているんだ!?」

「ええっ!? ハ、ハチコ? それって、お菓子が何個買えるんですかぁ?」

「お菓子の問題じゃない! ミュークオ……! あいつ、俺がサインする直前に『こちら、愛の証明書です』とか言っていなかったか!?」

会場にレオポルドの絶叫が響き渡ったが、すでにミュークオを乗せた馬車はベルシュカ公爵家の重厚な門をくぐっていた。

屋敷の玄関では、彼女の父であるベルシュカ公爵が、パジャマ姿にナイトキャップという格好で娘を待っていた。

「おお、ミュークオ。早かったな。どうだった、クビにはなれたか?」

「ええ、お父様。完璧です。こちらが退職合意書……いえ、婚約破棄の証明書ですわ」

ミュークオが差し出した書類を、公爵は老眼鏡をかけて熱心に読み始めた。

「ほう……! あの不毛のグリエール領を分捕ったか。あそこは地下資源の調査さえ終われば化ける土地だ。よくやった、我が娘よ」

「ありがとうございます。殿下は『あんな石ころだらけの土地、いらん』と以前から仰っていましたからね。需要と供給が一致した結果ですわ」

「それで、これからどうする。やはり王都の連中は、君を『悪役令嬢』として触れ回るだろうが」

公爵が心配そうに尋ねると、ミュークオはドレスのコルセットを緩めながら、深く、深く息を吐き出した。

「お父様。私は今日まで、平均睡眠時間四時間で王国の事務を回してきました。リリィ様がばら撒いたスキャンダルの火消しをしつつ、殿下の浪費を抑え、外交官の接待までこなしたのです」

「……うむ、知っている。君がいなければ、この国は三回は破綻していたな」

「私はもう疲れました。これからは、誰の顔色もうかがわず、誰のスケジュールも管理せず、ただひたすらに『効率的な自堕落』を追求します」

「効率的な自堕落?」

「ええ。最小の労力で、最大の睡眠を得る。それが私の新しい人生のミッションですわ!」

ミュークオの瞳は、未来への希望(と二度寝への執着)でキラキラと輝いていた。

「とりあえず、明日の朝食は十時でお願いします。それ以前に私を起こそうとする者は、不法侵入と見なして書類送検しますので、使用人の皆様によろしくお伝えください」

「わかった、徹底させよう。おやすみ、ミュークオ。……いやあ、それにしてもいい金額を引き出したな」

父の感心したような声を背に、ミュークオは軽やかな足取りで自室へと向かった。

彼女にとって、婚約破棄は悲劇ではない。
それは、あまりに長すぎた「ブラック企業」からの、円満(物理)退職であった。

ふかふかのベッドに飛び込み、シルクのシーツの感触を全身で味わう。

「さようなら、無能な殿下。こんにちは、私の自由……」

意識が遠のく中、ミュークオの脳裏には、明日から始まる「何もしない贅沢」の予定表が、完璧なタイムテーブルで描かれていた。
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