婚約破棄と自由なセカンドライフを望みます。

恋の箱庭

文字の大きさ
3 / 28

3

至福の時間は、あまりにも短かった。


高級な羽毛布団に包まれ、意識を深い闇へと沈めていたミュークオの耳に、執拗なノックの音が響く。
それはまるで、平穏な老後を約束された退職者の家に押し寄せる、血気盛んな取り立て屋のような不吉なリズムであった。


「……アンナ。私は昨日、不法侵入者は書類送検すると言ったはずよ」


布団の中から、地を這うような低い声が漏れる。
部屋の隅でガタガタと震えながら、侍女のアンナが申し訳なさそうに声を絞り出した。


「も、申し訳ございません、ミュークオ様! ですが、門前に、その、カイル・フォン・ランバート宰相閣下が……」


「宰相? ああ、あの仕事中毒(ワークアホリック)の眼鏡ね。放っておきなさい。どうせ『予算案の計算が合わない』とか『外交文書の翻訳が間に合わない』とか、そんな泣き言でしょう。私はもう公務員ではないの。ただの、無職の、最高に自由な令嬢なのよ」


ミュークオは枕を頭に乗せ、外界との遮断を試みた。
しかし、次の瞬間、寝室の扉が「失礼する」という短い断りとともに、音を立てて開け放たれた。


「無職とは冷たい言い方だな、ミュークオ嬢。君のような稀代の才女が市場に放流されたと聞いて、私は昨夜、三回ほど祝杯を挙げさせてもらったよ」


聞き慣れた、低く理知的な声。
ミュークオが渋々枕をどけると、そこには完璧に整えられた軍服姿の青年、カイルが立っていた。
その手には、不吉なほど真っ白な、そして公的な香りのする紙束が握られている。


「……閣下。人の寝室に土足で踏み込むのが、今の王国の流行りですの? それとも、宰相の権限には『令嬢の睡眠を妨害する権利』でも含まれているのかしら」


ミュークオは寝起きのボサボサな髪を隠すこともせず、ベッドに座り直してカイルを睨みつけた。
カイルは不敵な笑みを浮かべ、手に持った紙をこれ見よがしに振ってみせる。


「不法侵入の件については、後でいくらでも謝罪しよう。だが、それよりも緊急性の高い案件がある。これを見てくれ」


「嫌です。文字を見るだけで蕁麻疹が出そう。私は今、活字アレルギーなんです」


「そう言わずに。これは君が一番好む『極めて合理的で、利潤の高い契約書』だ。……タイトルは、『婚姻届』。夫の欄にはすでに私のサインがある」


部屋の中に、沈黙が降りた。
アンナが「ひえっ」と短い悲鳴を上げて口を抑える。
ミュークオは、数秒間、カイルの顔と紙束を交互に眺め、それから優雅に欠伸をした。


「閣下。仕事のしすぎで脳に酸素が回っていないようですね。それとも、新しい冗談のジャンルを開拓中かしら。婚約破棄されてから十二時間も経っていない女に求婚するなんて、効率が悪すぎますわ」


「いや、最高に効率的だ。君を皇太子妃という『飾り物の椅子』から引きずり下ろすために、私はどれほど裏工作……いや、準備を重ねてきたと思っている」


カイルは一歩、ベッドに歩み寄った。
その瞳は、恋する男の情熱というよりは、有能なビジネスパートナーをスカウトしようとする冷徹な投資家のそれに近かった。


「君は知っての通り、あのレオポルド殿下は、君が去った後のデスクにある『やるべきことリスト』を見て、泡を吹いて倒れた。リリィ嬢はリリィ嬢で、予算案の羊皮紙を『お花の折り紙』にして遊んでいる。王宮の事務機能は、あと四十八時間で完全に停止するだろう」


「あら、おめでとうございます。バカンスの始まりですわね」


「笑い事ではない。私は自分の睡眠時間を削ってまで、他人の尻拭いをする趣味はない。そこで提案だ。ミュークオ・ド・ベルシュカ。私と結婚しろ。そうすれば、君には以下の特権を約束する」


カイルが指を一本立てる。


「第一に、王宮への登城義務の免除。君は私の『影の相談役』として、自宅でパジャマのまま、好きな時に好きなだけ書類を捌けばいい。第二に、最新の計算機と、君専用の特製ティーセットの支給。そして第三に……」


カイルはそこで言葉を切り、ミュークオの目を真っ直ぐに見つめた。


「……一日の最低睡眠時間、十時間の完全保証。これを国法に優先する『家訓』として契約書に盛り込もう」


ミュークオの眉が、ピクリと動いた。
「十時間……。二度寝を含めて?」


「三度寝まで許可する。私の給与の半分を君の自由裁量費として譲渡しても構わない。どうだ? 愛だの恋だのという不確定な要素を排した、純粋なる利害の一致に基づく契約結婚だ」


ミュークオは顎に手を当て、高速で思考を回転させた。
ベルシュカ公爵家で「無職」を貫こうとしても、いずれは別の貴族から求婚という名の「再就職要請」が来るだろう。
ならば、自分の能力を正確に評価し、かつ「睡眠」という対価を提示してきたこの男に乗るのは、一つの解ではある。


「閣下、一つ確認ですが。その『婚姻届』、裏面に特約事項を書き加えるスペースはありますか?」


「もちろんだ。余白はたっぷり用意してある」


カイルが勝ち誇ったようにペンを差し出す。
ミュークオはそれを受け取ると、淀みのない動作で裏面にさらさらと条件を書き連ねた。


『一、食事のメニュー決定権は妻が持つ』
『二、夫が仕事を持ち帰った場合、一案件につき一時間のマッサージを妻に提供すること』
『三、愛の囁きは週に一回、三分以内で効率的に行うこと』


「……三番目は、ずいぶん手厳しいな」


書き込まれた内容を見たカイルが、苦笑いを浮かべる。


「あら、感情の吐露は脳のリソースを無駄に消費しますわ。時間は有限です。さあ、これに同意するなら、私もサインしてあげてもよろしくてよ」


「承知した。これほど心躍る契約交渉は、他国との通商条約以来だ」


ミュークオは迷うことなく、自分の名を記した。
婚約破棄から一夜。
彼女は「悪役令嬢」から、一気に「宰相夫人」という、より強力な戦闘職へとジョブチェンジを果たしたのである。


「では、ミュークオ。早速だが、妻として最初の大切な仕事がある」


「……なんですの。まさか、今すぐ王宮へ行けとは言いませんわよね」


「いや。一緒に朝食を摂り、その後、私と共に二度寝をすることだ。……私も、昨夜は一分も寝ていなくてね」


カイルが珍しく疲れを見せて微笑む。
ミュークオはふん、と鼻を鳴らした。


「いいでしょう。ただし、私の寝相が悪いことに苦情を言うのは禁止ですわよ、旦那様(ビジネスパートナー)」


こうして、前代未聞の「効率的結婚生活」が幕を開けた。
しかし、彼らが寝室で平和な二度寝を満喫している頃、王宮ではレオポルド皇太子が「ミュークオ、あいつどこに書類を隠したんだ!」と絶叫し、リリィが「殿下ぁ、お腹が空きましたぁ」と泣きつく地獄絵図が展開されていた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

刺繍妻

拓海のり
恋愛
男爵令嬢メアリーは魔力も無くて、十五歳で寄り親の侯爵家に侍女見習いとして奉公に上がった。二十歳まで務めた後、同じ寄り子の子爵家に嫁に行ったが。九千字ぐらいのお話です。

すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜

まりー
恋愛
   ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。  でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ 「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。    

山猿の皇妃

夏菜しの
恋愛
 ライヘンベルガー王国の第三王女レティーツィアは、成人する十六歳の誕生日と共に、隣国イスターツ帝国へ和平条約の品として贈られた。  祖国に聞こえてくるイスターツ帝国の噂は、〝山猿〟と言った悪いモノばかり。それでもレティーツィアは自らに課せられた役目だからと山を越えて隣国へ向かった。  嫁いできたレティーツィアを見た皇帝にして夫のヘクトールは、子供に興味は無いと一蹴する。これはライヘンベルガー王国とイスターツ帝国の成人とみなす年の違いの問題だから、レティーツィアにはどうすることも出来ない。  子供だと言われてヘクトールに相手にされないレティーツィアは、妻の責務を果たしていないと言われて次第に冷遇されていく。  一方、レティーツィアには祖国から、将来的に帝国を傀儡とする策が授けられていた。そのためには皇帝ヘクトールの子を産む必要があるのだが……  それが出来たらこんな待遇になってないわ! と彼女は憤慨する。  帝国で居場所をなくし、祖国にも帰ることも出来ない。  行き場を失ったレティーツィアの孤独な戦いが静かに始まる。 ※恋愛成分は低め、内容はややダークです

夫に欠陥品と吐き捨てられた妃は、魔法使いの手を取るか?

里見
恋愛
リュシアーナは、公爵家の生まれで、容姿は清楚で美しく、所作も惚れ惚れするほどだと評判の妃だ。ただ、彼女が第一皇子に嫁いでから三年が経とうとしていたが、子どもはまだできなかった。 そんな時、夫は陰でこう言った。 「完璧な妻だと思ったのに、肝心なところが欠陥とは」 立ち聞きしてしまい、失望するリュシアーナ。そんな彼女の前に教え子だった魔法使いが現れた。そして、魔法使いは、手を差し出して、提案する。リュシアーナの願いを叶える手伝いをするとーー。 リュシアーナは、自身を子を産む道具のように扱う夫とその周囲を利用してのしあがることを決意し、その手をとる。様々な思惑が交錯する中、彼女と魔法使いは策謀を巡らして、次々と世論を操っていく。 男尊女卑の帝国の中で、リュシアーナは願いを叶えることができるのか、魔法使いは本当に味方なのか……。成り上がりを目論むリュシアーナの陰謀が幕を開ける。 *************************** 本編完結済み。番外編を不定期更新中。

生徒会の期間限定雑用係 ~庶民の私が王子に囮役としてスカウトされたら、学園の事件に巻き込まれました~

piyo
恋愛
平凡な庶民の少女クィアシーナは、フォボロス学園への転校初日、いきなりこの国の第二王子にして生徒会長ダンテに目をつけられる。 彼が求めたのは、生徒会での“囮役”。 学園で起きているある事件のためだった。 褒美につられて引き受けたものの、 小さないやがらせから王位継承問題まで巻き込まれていき――。 鋭すぎるツッコミを武器に、美形の生徒会の仲間たちと奮闘する庶民女子。 これは、無自覚な恋を抱えながら学園の事件に首を突っ込んでいく少女の物語。 ※全128話  前半ラブコメ、後半第二章以降シリアスの三部構成です。 ※「私にキスしたのは誰ですか?」と同じ世界感ですが、単品で読めます。 ※アルファポリス先行で他サイトにも掲載中

4人の女

猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。 うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。 このご婦人方には共通点がある。 かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。 『氷の貴公子』の異名を持つ男。 ジルベール・タレーラン公爵令息。 絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。 しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。 この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。 こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。

成功条件は、まさかの婚約破棄!?

たぬきち25番
恋愛
「アリエッタ、あなたとの婚約を破棄する……」 王太子のアルベルト殿下は、そう告げた。 王妃教育に懸命に取り組んでいたアリエッタだったが、 それを聞いた彼女は……? ※他サイト様にも公開始めました!