婚約破棄と自由なセカンドライフを望みます。

恋の箱庭

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「……なんだ、これは。何なんだ、この紙の山は……!」


王宮の執務室。かつてミュークオが涼しい顔で座っていた椅子に腰掛け、レオポルド皇太子は絶叫した。


目の前には、まるで巨大な白アリの巣のように積み上がった書類の山がある。
それは、ミュークオという「巨大な防波堤」が消えた瞬間に押し寄せた、現実という名の荒波だった。


「殿下ぁ、そんなに怒鳴らないでくださいませぇ。せっかくリリィが、この難しい字がいっぱい書いてある紙を『お星様』にしてあげたのにぃ」


隣でリリィが、国家予算の概算要求書を器用に折りたたみ、五角形の星を作って微笑んでいる。


「リリィ……。それは、来期の道路整備計画の重要書類なんだ。星にされると、どこに道を作ればいいか分からなくなるんだよ」


「道なんて、歩ければどこでもいいじゃないですかぁ。それより、今度のパーティーのドレス、もっとキラキラしたのが欲しいですぅ」


レオポルドはこめかみを押さえた。
愛の力があれば何でも乗り越えられると思っていた。
しかし、愛は税収を計算してくれないし、愛は外交官の宿泊手配もしてくれない。


「……おい、近衛兵! 今すぐベルシュカ公爵家へ行け! ミュークオを、いや、ミュークオ様を呼んでくるんだ! 『至急の相談があるから、今すぐ王宮へ出頭せよ』と伝えろ!」


「はっ、承知いたしました!」


騎士が駆け出していくのを見送り、レオポルドは力なく椅子に沈み込んだ。
あいつなら、きっと文句を言いながらも、この状況を十分で解決してくれるはずだ。
何せ、あいつは俺のことが好きなんだからな。……と、彼は本気でそう信じていた。


一時間後。
王宮へ戻ってきた騎士は、なぜか顔を真っ白にして震えていた。


「……報告します! ミュークオ様に面会を求めましたが、門前で拒否されました!」


「なんだと!? この俺の命令だぞ! 不敬罪で捕らえるぞと言わなかったのか!」


「い、言いました! ですが、ミュークオ様は窓から顔も出さず、代わりに一枚の紙を隙間から差し出してこられまして……」


騎士が差し出したのは、上質な羊皮紙だった。
そこには、レオポルドが見たこともないほど冷徹で美しい筆致で、以下の内容が記されていた。


『拝啓 レオポルド皇太子殿下


現在、私は「個人事業主」としてのバカンス期間に入っております。
旧知の仲とはいえ、事前の予約なしでの面会はお断りしております。


なお、どうしても私のアドバイスが必要な場合は、以下の「専門職コンサルティング契約」を締結していただく必要がございます。


【料金体系】
・基本相談料:金貨五枚(一分あたり)
・書類整理代行:金貨五十枚(一枚あたり)
・リリィ様の教育指導:金貨五百枚(一秒あたり・精神的苦痛手当含む)


なお、現在私はランバート宰相閣下と「専属契約」の交渉中ですので、殿下への優先順位は極めて低くなっております。
お急ぎの場合は、特急料金として上記金額の三倍を申し受けます。


敬具 ミュークオ・ド・ベルシュカ』


「な……な……な……!」


レオポルドの手が、小刻みに震え始めた。
「金貨五枚(一分あたり)」!?
王都の一等地に家が建つような金額を、一分のアドバイスで要求しているのだ。


「ふざけるな! あいつ、自分が何を言っているのか分かっているのか! 大体、なんだこの『リリィの指導:一秒につき金貨五百枚』というのは!」


「殿下ぁ、リリィ、そんなに高い女なんですの? うれしいですぅ!」


「喜ぶところじゃない! これは『お前を相手にするのは死ぬほど苦痛だ』という嫌がらせなんだよ!」


レオポルドが書類を叩きつけた。
だが、事態はそれだけでは終わらなかった。


「殿下、失礼いたします」


執務室の扉が開き、現れたのは、本来なら一番の働き手であるはずのカイル宰相だった。
しかし、カイルの顔はこれまでになく晴れやかで、肌のツヤすら良くなっている。


「カイル! ちょうどいい、あいつ……ミュークオのところに騎士を連れて乗り込むぞ! 連れ戻して、タダで働かせてやる!」


「おやおや、殿下。それは困りますね」


カイルは眼鏡を指で押し上げ、不敵に微笑んだ。


「ミュークオ嬢は……いえ、私の婚約者は、現在私の屋敷で『戦略的休息』をとっております。彼女に指一本でも触れようものなら、私は即座に宰相を辞任し、彼女と共に他国へ亡命いたしますが?」


「こ……婚約者だと!? いつの間に!」


「昨夜、殿下が婚約破棄を宣言されてから三時間後ですね。非常に効率的な契約交渉でした。おかげで私の仕事も、これからは彼女のアドバイス一つで激減する予定です」


カイルは懐から、ミュークオとの連名で書かれた「結婚通知」をレオポルドの鼻先に突きつけた。


「というわけで、殿下。これからの王宮の執務は、どうぞ殿下とリリィ様、お二人で仲良く進めてください。愛さえあれば、書類の山も綿菓子のように見える……のでしたよね?」


「待て……カイル、行くな! おい!」


レオポルドの静止も聞かず、カイルは軽やかな足取りで部屋を去っていった。
残されたのは、崩れかけの書類の山と、星形の折り紙を散らかすリリィ、そして絶望に打ちひしがれる皇太子だけだった。


一方その頃。
カイルの屋敷のサンルームでは、ミュークオが最高級の紅茶を飲みながら、カイルが持ってきた「王宮のパニック報告書」を読み、くすくすと笑っていた。


「あら、殿下ったら。私のコンサル料が高すぎるなんて、市場価値というものを分かっていませんわね」


「全くだ。私なら、君の微笑み一つに金貨千枚でも払うというのに」


「お上手ですわね、閣下。……ですが、今の言葉、三分の制限時間を超えていますわよ。減点一ですわ」


「おっと、それは手厳しい。……では、挽回のために、最高の枕を用意させたのだが、試してみるかい?」


「……採用ですわ」


ミュークオは幸せそうに目を細めた。
復讐などという疲れることはしない。
ただ、自分がいないと何もできない男に「自分の値段」を突きつける。
それこそが、最高に効率的で、最高に愉快な仕返しなのだった。
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