婚約破棄と自由なセカンドライフを望みます。

恋の箱庭

文字の大きさ
23 / 28

23

「……閣下。今、私の耳は『伝説の月光シルク』という、この世の全ての摩擦をゼロにする布地の噂をキャッチしましたわ」


カイルの屋敷の執務室。ミュークオは、計算機を弾く手を止め、窓の外を遠く見つめて呟いた。
その瞳には、かつてないほどの情熱――すなわち「完璧な眠り」への執着が宿っている。


「ああ。隣国のシルクロード商会が独占している、あの希少な素材のことだね。一反で家が建つと言われるほどの高価な品だが、君が欲しがると思っていたよ」


カイルは、すでに用意していた資料をミュークオのテーブルに置いた。
彼は、彼女が「より良い睡眠」のためなら、国家間の力関係すら書き換えることを熟知しているのだ。


「一反で家が建つ? 非効率の極みですわ。素材そのものの価値ではなく、流通の独占による『ぼったくり』の価格設定でしょう。……アンナ、商会の代表をここに呼びなさい。三十分以内に」


「ミュークオ様。お言葉ですが、シルクロード商会のバロン代表は、泣く子も黙る強欲な商人として有名ですわ。そう簡単に呼び出しに応じるでしょうか……」


アンナが不安そうに首を傾げる。ミュークオは冷たく笑った。


「『現在、貴殿の商会が抱えている不良在庫のハーブティー、すべて私が買い取って差し上げてもよろしくてよ』……と伝えなさい。商人は『損切り』という言葉に一番弱いですから」


十五分後。
息を切らしてやってきたのは、金ピカの指輪をこれでもかと指にはめた小太りの男、バロン代表だった。


「おーほっほ! ミュークオ様、我が商会の不良在庫……ではなく、秘蔵のハーブティーをお買い上げいただけるとか! 流石はお目が高い!」


バロンは揉み手をしながら椅子に座った。だが、ミュークオは彼の手土産の茶にも手をつけず、単刀直入に切り出した。


「ハーブティーの話はついでですわ。私が欲しいのは、貴方の商会が抱えている『月光シルク』の全在庫、およびその生産地である養蚕村の独占契約権です」


バロンの顔から、営業スマイルが消えた。


「……お嬢様。冗談はやめていただきたい。あのシルクは、我が商会の命。いくら貴女が宰相閣下の婚約者とはいえ、安売りするわけにはいきませんぞ。価格は一反につき金貨五百枚……これが最低ラインですな」


「五百枚? バロン様。貴方の商会、最近、南方の海運ルートで三隻の商船を嵐で失いましたわね。その損失を埋めるために、月光シルクの価格を昨年の二倍に吊り上げている……違いますかしら?」


ミュークオが、一枚の帳簿の写しをテーブルに叩きつけた。カイルが裏で手を回して入手した、極秘の財務データだ。


「な……っ!? な、なぜそれを……!」


「データの漏洩は不注意の証ですわ。非効率な管理体制ですこと。……いいですか。貴方が提示した価格で売れるのは、年に数反。ですが、私が提案するのは『一括全量買取』と『ベルシュカ・ブランド』としての共同開発ですわ」


ミュークオは扇を広げ、バロンを追い詰めるように身を乗り出した。


「私が開発した安眠枕と、貴方のシルクを組み合わせる。そうすれば、ターゲットは一握りの大富豪から、世界中の『眠りに悩む中産階級』へと広がります。薄利多売? いいえ、圧倒的な物量による市場支配ですわ」


「し、市場支配……」


「貴方の商会は今すぐ現金が必要。私は究極の肌触りが欲しい。利害は一致していますわ。価格は一反につき金貨五十枚。その代わり、今後十年の流通は私が全て管理します。……サインなさいます? それとも、このまま商船の負債で倒産なさいます?」


バロンは滝のような汗を流し、ミュークオの背後に立つカイルを見た。カイルはただ、優雅に微笑みながら「彼女の計算は、一度も間違ったことがないよ」とだけ言った。


「……わ、分かりました。サインします。ミュークオ様、貴女は商人よりも恐ろしい……!」


「最高の褒め言葉として受け取っておきますわ。……アンナ、バロン様を出口まで。あ、不良在庫のハーブティーは、殿下のマッサージ室の消臭剤として再利用しますから、地下へ運んでおいて」


商人が逃げるように去っていくと、ミュークオは深く椅子に寄りかかった。


「……ふぅ。これでようやく、私のパジャマを最高級の月光シルクに新調できますわ」


「ミュークオ。君は自分の寝巻きを作るために、隣国の巨大商会を一つ傘下に収めてしまったのかい?」


カイルが感心したように、彼女の肩を揉み始めた。


「あら、閣下。これは『投資』ですわ。完璧なパジャマは、睡眠の質を五%向上させます。その五%が、翌日の私の事務処理能力を二割増しにするのです。世界経済にとっては、安い買い物ではありませんこと?」


「……君の理屈には、神様でも勝てそうにないね。だが、その完璧なパジャマ姿を最初に見るのは、私であるという特権も契約に含まれているかな?」


カイルが彼女の耳元で囁くと、ミュークオは少しだけ顔を赤くし、彼の手を軽く叩いた。


「……閣下。その要望は『独占契約』になりますわよ。相応の対価を期待しておりますわ」


「ああ。一生かけて、君に最高の安眠をプレゼントし続けるよ」


ミュークオは満足げに目を閉じ、新しいシルクに包まれて眠る自分を想像した。
効率主義の令嬢による市場制圧。それは、彼女の寝室をさらに天国へと近づけ、同時に王国の経済をかつてない「絹の時代」へと導いていくのであった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

刺繍妻

拓海のり
恋愛
男爵令嬢メアリーは魔力も無くて、十五歳で寄り親の侯爵家に侍女見習いとして奉公に上がった。二十歳まで務めた後、同じ寄り子の子爵家に嫁に行ったが。九千字ぐらいのお話です。

すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜

まりー
恋愛
   ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。  でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ 「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。    

山猿の皇妃

夏菜しの
恋愛
 ライヘンベルガー王国の第三王女レティーツィアは、成人する十六歳の誕生日と共に、隣国イスターツ帝国へ和平条約の品として贈られた。  祖国に聞こえてくるイスターツ帝国の噂は、〝山猿〟と言った悪いモノばかり。それでもレティーツィアは自らに課せられた役目だからと山を越えて隣国へ向かった。  嫁いできたレティーツィアを見た皇帝にして夫のヘクトールは、子供に興味は無いと一蹴する。これはライヘンベルガー王国とイスターツ帝国の成人とみなす年の違いの問題だから、レティーツィアにはどうすることも出来ない。  子供だと言われてヘクトールに相手にされないレティーツィアは、妻の責務を果たしていないと言われて次第に冷遇されていく。  一方、レティーツィアには祖国から、将来的に帝国を傀儡とする策が授けられていた。そのためには皇帝ヘクトールの子を産む必要があるのだが……  それが出来たらこんな待遇になってないわ! と彼女は憤慨する。  帝国で居場所をなくし、祖国にも帰ることも出来ない。  行き場を失ったレティーツィアの孤独な戦いが静かに始まる。 ※恋愛成分は低め、内容はややダークです

夫に欠陥品と吐き捨てられた妃は、魔法使いの手を取るか?

里見
恋愛
リュシアーナは、公爵家の生まれで、容姿は清楚で美しく、所作も惚れ惚れするほどだと評判の妃だ。ただ、彼女が第一皇子に嫁いでから三年が経とうとしていたが、子どもはまだできなかった。 そんな時、夫は陰でこう言った。 「完璧な妻だと思ったのに、肝心なところが欠陥とは」 立ち聞きしてしまい、失望するリュシアーナ。そんな彼女の前に教え子だった魔法使いが現れた。そして、魔法使いは、手を差し出して、提案する。リュシアーナの願いを叶える手伝いをするとーー。 リュシアーナは、自身を子を産む道具のように扱う夫とその周囲を利用してのしあがることを決意し、その手をとる。様々な思惑が交錯する中、彼女と魔法使いは策謀を巡らして、次々と世論を操っていく。 男尊女卑の帝国の中で、リュシアーナは願いを叶えることができるのか、魔法使いは本当に味方なのか……。成り上がりを目論むリュシアーナの陰謀が幕を開ける。 *************************** 本編完結済み。番外編を不定期更新中。

生徒会の期間限定雑用係 ~庶民の私が王子に囮役としてスカウトされたら、学園の事件に巻き込まれました~

piyo
恋愛
平凡な庶民の少女クィアシーナは、フォボロス学園への転校初日、いきなりこの国の第二王子にして生徒会長ダンテに目をつけられる。 彼が求めたのは、生徒会での“囮役”。 学園で起きているある事件のためだった。 褒美につられて引き受けたものの、 小さないやがらせから王位継承問題まで巻き込まれていき――。 鋭すぎるツッコミを武器に、美形の生徒会の仲間たちと奮闘する庶民女子。 これは、無自覚な恋を抱えながら学園の事件に首を突っ込んでいく少女の物語。 ※全128話  前半ラブコメ、後半第二章以降シリアスの三部構成です。 ※「私にキスしたのは誰ですか?」と同じ世界感ですが、単品で読めます。 ※アルファポリス先行で他サイトにも掲載中

4人の女

猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。 うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。 このご婦人方には共通点がある。 かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。 『氷の貴公子』の異名を持つ男。 ジルベール・タレーラン公爵令息。 絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。 しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。 この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。 こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。

成功条件は、まさかの婚約破棄!?

たぬきち25番
恋愛
「アリエッタ、あなたとの婚約を破棄する……」 王太子のアルベルト殿下は、そう告げた。 王妃教育に懸命に取り組んでいたアリエッタだったが、 それを聞いた彼女は……? ※他サイト様にも公開始めました!