婚約破棄と自由なセカンドライフを望みます。

恋の箱庭

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「……閣下。今日はやけに書類の数が少ないですわね。私の計算では、まだあと三十二通は残っているはずですが」


カイルの屋敷。月明かりが差し込む静かな書斎で、ミュークオは首を傾げた。
パジャマのまま仕事をする「在床勤務」が定着し、今日も爆速で公務を終えた彼女は、隣に座るカイルに視線を向ける。


カイルは、最後の一枚となった羊皮紙を大切そうにテーブルに置いた。
そこには、これまでの事務的な項目とは一線を画す、美しい装飾文字が踊っている。


「ミュークオ。君との『効率的なビジネスパートナー契約』を結んでから、随分と時間が経った。君のおかげで、この国の生産性は跳ね上がり、私は人生で初めて『十分な睡眠』を知ることができたよ」


「あら。それは何よりですわ。私の休暇資金も、もはや数代先まで贅沢しても余るほど積み上がりましたし、win-winの極致ですわね」


ミュークオは満足げに扇を揺らした。だが、カイルの瞳はいつになく真剣だった。


「ああ。だが、一つだけ『非効率』な問題が残っているんだ。……私の心だ」


「心? 情緒的なバグですか? それなら、ベルシュカ領特産の鎮静ハーブティーを三倍の濃度で飲めば……」


「違うよ、ミュークオ。……私は、君を愛している」


カイルが、彼女の華奢な手を両手で包み込んだ。
ミュークオの思考回路が、一瞬だけスパークした。
計算機が弾き出す「想定問答集」にない、あまりにも真っ直ぐな、そして「非効率」な直球。


「……閣下。その発言によるメリットを提示してください。愛などという不確定要素を共有することは、意思決定におけるリスクを増大させるだけ……」


「メリットならある。……君が一生、誰にも邪魔されずに眠り、誰にも気兼ねせずにワガママを言える『終身保証』だ。ベルシュカ公爵令嬢としてではなく、カイル・フォン・ランバートの妻として、君の全ての睡眠時間を私が物理的に、そして法的に守り抜く」


カイルは、用意していた「最後の契約書」を彼女の前に差し出した。
そこには、たった一行の条項が記されていた。


『第〇条:甲(カイル)と乙(ミュークオ)は、互いの心拍を同期させ、生涯をかけて「幸福の最大化」に努めるものとする。なお、本条項は解約不能とする』


「……生涯、解約不能? そんなリスクの高い契約、普通は却下案件ですわ」


ミュークオの声が、わずかに震える。
彼女は知っていた。この男がどれほど執念深く、そしてどれほど誠実に自分を支えてきたかを。
効率を追い求めてきた自分の人生に、もっとも「非効率で甘い色彩」を添えてくれたのは、間違いなく彼だった。


「……ですが、閣下。条件がありますわ。もし私が、二度寝中に貴方のいびきで起こされたら、即座に慰謝料として金貨百枚を請求しますからね」


「……全財産を差し出しても構わないよ。その代わり、毎晩、君の寝顔を一番近くで確認する権利を私に独占させてほしい」


ミュークオは、頬が熱くなるのを自覚しながら、手元の羽根ペンを握った。
彼女は、契約書の余白に、さらさらと小さな文字を付け加える。


『……承認。ただし、愛の囁きは、心拍数が上昇しすぎて睡眠を妨げない程度にすること』


「ミュークオ……。君らしい、最高の承諾だ」


カイルが彼女を引き寄せ、深く、優しい口づけを落とした。
それは、どんな計算式でも導き出せない、最高に「効率の悪い」、けれど最高に「幸せな」時間の浪費だった。


「……ふぅ。これで、再就職先が決まりましたわね」


「ああ。職種は『愛される妻』。勤務地は私の隣。……定年退職はないから、覚悟しておいてくれよ」


ミュークオは、カイルの胸の中に顔を埋めた。
かつて婚約破棄をされた悪役令嬢は、今、世界でもっとも有能で、もっとも愛に溢れた契約を結び、新しい人生の一歩を踏み出そうとしていた。
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