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一章 春想月花と市井の龍

弐 曹符先生

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 夢の中で、羽は子どもの頃に戻っていた。本邸の修練場の戸が少し開いている。その隙間に目を向ければ、そこには祖父が立っている。

 祖父はだれかを叱責しているようだ。そして、ひどく口論になっている。

(羽よ)

 背後を振り向くと父が立っていた。

(お前はあれになってはならない)

 分かっています。

 解っていますよ、父上。

 ――― わかって、います。



「ねーねー。おきてー」

「おきてー」

「なんだよぉ、久。哲も、兄貴の上に乗るんじゃねぇよー」

 羽は、弟たちの名前を呟きながら、体に感じる重たさに不満を言った。急に重たくなった気がする。

「はっ?!」

 どう考えても、7歳の子どもじゃない重さを二つ以上感じて、羽は跳び起きた。自分の弟は確か二人だったはずだ。

「おにーちゃんおはよー」

「お兄ちゃん、寝坊助だねー」

「おにーちゃん朝ごはん食べる―?」

 わらわらわら、童がたくさん。

 一人、二人……十人はいるだろうか。羽の周りを取り囲んでいる子どもの年恰好は様々で、ぼろをまとっている子どももいれば、真新しい絹の衣をまとっている子どももいた。中には赤ん坊を背負っている女の子もいる。

「な、なんだ……?」

「おにーちゃん誰?」

「いや、そっちこそだれだよ」

 子ども達は互いに目を見合わせて、首をかしげた。

「んあー。こいつらは、俺の教え子たちだ」

 大きなあくびと共に部屋の奥から声がした。曹符の声だ。

(そうか、俺。家を追い出されてたんだっけ……)

 いつもなら、家人が呼びに来て朝の稽古が始まる。弟たちが呼びに来ることなんてない。寝具だって、薄っぺらい。台ではなく板の床にそのまま寝転がっているぐらい、布の感覚がしない。上を見上げると、雨漏りを修繕したような跡さえ見える。

「曹符せんせー。このお兄ちゃんだれ―?」

 女の子が、部屋の奥に向かって声を張り上げる。

「羽だ。俺の遠縁の甥っ子で、家を追い出されているお兄ちゃんだ」

「あぁ!?」

 否定したいところだったが、子ども達にとってみれば自分の方こそ来訪者で不審者だ。ここは、嘘であったとしても彼らの知り合いの親族だと思わせる方がよいのだ。

「お兄ちゃん、大変だったね」

 まさか、弟より年下の子どもから心配される日が来るとは思わなかった。

「お兄ちゃん、これ食べて」

 そう言って子ども達が取り出したのは、朝ごはんとは思えないような質素なものだった。麦の割合の多い米と、小さく刻まれ過ぎて原形を留めていない漬物。たったこれだけだ。

(周家では、それこそ果実や肉も出ていたのにな)

 昨日まで当たり前のように食べていた食事が、こんなにも変わってしまうと、逆に落ち着いてしまう。元々羽は食事にあまり頓着しない性分で、幼い頃は山野を駆け回り、柿や瓜などをとって食べていたので、懐かしい気持ちになった。

 羽が子ども達からの施しものをせっせと腹にしまっていると、ボロ雑巾のような符がのろのろと奥から出てきた。食べ進めている少年の姿に、符はちょっとだけ驚いたように目を丸くした。

「へぇー。坊ちゃん育ちのくせに、普通に食えるんだな」

「俺は食べれればなんでも食べる。周家では宴で出される食事はすべて食べる様にといわれているからな」

「それはよい心がけで」

「父のように、とんでもない偏食にだけはなりたくないからな」

「ふぅん」

 父の偏食はみなの知るところで、昨日は気に入った食事を今日は気に入らないということだってある。父の機嫌次第で変わるので、厨房係は事前に父に相談しながら食事を決めているという。その姿を見ているからか、羽は出されたものは食べるようにしていた。

「それにしても、教え子ってなんだよ。おっさん」

「言っただろう。”曹”符だって」

 手だけで子ども達の山をかき分けて符は言った。子ども達は年が近い者同士で集まると、めいめいに書簡を戸棚から取り出して開いている。後で読ませてもらおう、と羽は思った。

「学者の曹家の出だっていいたいのかよ。おっさん」

「まぁな」

 曹家という家について、羽はそれなりに知っているし、交流もそこそこある。曹家というのは、周家ほどではないが名の知れている家だ。周家が音楽に専門性を見出しているのに対し、曹家は古典や歴史の研究がそれにあたる。

(曹家出身なら、学問所を開いているのもおかしくないか……)

 事実、曹家が開いている私塾には多くの科挙の合格者が出ている。曹符という名前には聞き覚えが無いので、傍流も傍流の、末端の人間なのだろう。

(だから、子どもだらけなんだな)

 子どもに学問をさせようという人は少ない。だが、ここは殿中に近く、周りには商家が立ち並ぶ。商人の下働きをするならば最低限の文字、そして算術が使いこなせなければならない。あるいは、下働きをしている親が働いている最中の子守をしてもらうために置いていくのかもしれない。

「曹符先生。この詩はどういう解釈ですか?」

「先生。この字はなんて読むの?」

「曹符先生―。この算術の計算が合わない―」

 子ども達は一人しかいない符を右へ左へと呼びよせている。その度に符は頭を掻きながら子ども達の側へ行き、手早く教えていく。手慣れたものなので、この私塾はかなり長い事やっているのだろう。あのもじゃもじゃの男からは想像できないほどの手際の良さだ。

「疲れたなぁ。おい、羽」

「なんだよ」

「”春想月花”弾いてやれ」

 人差し指で部屋の奥を指さす。

「琴ならある」

「はぁ? 弾けって簡単に言うなよ。俺は……」

 人前で弾けないから家を追い出されたのに。

 まして、子どもの前なんて弾けないに決まっている。大人と違い、子どもは素直だ。その素直さで何度傷つけられたことか。

 羽は符に言われるまま、家の奥へと進んでいく。家のつくりはここに来た時に教えてもらった。琴が倉庫にあることは知っている。昨日は屋根があることに安どしたとたん、そのまま寝てしまっていたのだ。

(あきればつまらないと言い、騒ぎ、曲を滅茶苦茶にする)

(何より、余韻を楽しむ情緒が無い)

(騒がしい声も耳が痛くなる)

 なによりも、またしても符は羽に殿中楽を奏でろと言ったのだ。なぜ、この曲なのか、理由は知っている。この曲は殿中楽の中で唯一、市井で奏でてもお咎めが無い曲だからだ。

(ふざけてやがる。とっととこんな家出て行ってやる)

 出て行ったところで、行く当てなどないのだ。

 

 琴はすぐに見つかった。倉庫の隅で立てかけられている。深い藍色の布にくるまれたそれを持って来て、羽は戻ってきた。

(?)

 しん、としている。先程まで、猿山だったとは思えない。子ども達は手を止め、羽がやってくるのを待ち構えていたのだ。

(……)

 じわり、と背中に汗がつたう。この視線だ。視線が自分に集まっていることに気づいてしまえば、指が止まってしまう。羽は、目を閉じたまま俯き、琴をゆっくりと床に下ろした。弦に指を乗せると、調律されていて、このままつま弾くことはできそうだ。

(なんで、なんも言わないんだ?)

 子どもといえば、わいわいと騒ぐはずなのに、何も言わない。じっとこちらを丸い瞳で見つめている。

「春想月花」

 ぼそっと題名を呟き、羽は弦に触れる。春想月花は練習曲と位置付けられているから、それほど難しくはない。初心者でも簡単に弾けるようになっているし、それゆえ、楽人の技量がはっきりと表れる。

 

 とぅん。



 羽が奏でている間も、子ども達の気配はピクリとも動かない。まるで山の中で奏でているかのようだ。上がってしまわないように目を閉じたままで弾き続けていく。羽は頭の中で景色を思い浮かべる。

 満開の梅の園。紅梅が夜を淡く、彩っていく。冷たい風が頬を撫でては、髪をゆらしていく。そして、その向こうに立つのは一人の娘だ。殿中の舞手の格好をして、領巾を己の一部のように操り、軽やかに舞っている。体の重さを感じさせない、羽のように舞う彼女はこちらを見てほほ笑む。その姿を月がとらえて離さない。そう、彼女は梅園の主だ。



「………」

 己の世界に没頭していた羽は、ゆっくりと目を開いた。一つも間違えずに弾くことなど、周家では当たり前だったので、自分の演奏が間違っているとは思わなかった。子ども達はぽかんとこちらを見て、しばらくすると互いに顔を見合わせた。そして、一人、また一人と拍手を送り始めた。

(なんなんだこいつら。まるで、学者の家で弾いたみたいだ)

 静かに聴き、そして口を開くことなく拍手のみを送る。それも、10にも満たない子ども達が、である。

「どうだ?」

 奥の方にいた符が羽を見て訊ねてきた。

「上り症、なることなかったか?」

「あ、あぁ……。変だな。子どもって、自分勝手に聴くから……」

 ぽん、と羽の頭を符が適当に撫でた。

「ここにいるのは、俺の笛を聞いて育った子どもだ。好き勝手に聴くような奴はここにはいない」

 なぁ、と府が子ども達に笑いかけると、子ども達は首がもげるほど強くうなずき始めた。まるで、リスが栗をかじっているみたいだ。

「羽お兄ちゃん上手だったよー」

「春想月花好きだなぁー。また弾いて―」

「やっぱり、周家の人だよねー。完璧だ!」

「完ぺき……かなぁ? ちょっと緊張しているように聞こえたけど?」

「たしかに、第3節までがちょっとぎこちなかったけれど、それ以降は滑らかだったよ?」

「わかるー」

 素直な感想だが、年長の子ども達の言葉にははっとさせられる。あの笛の音を聞いて育ってきたというのも、あながち誇張ではないのだろう。

 それよりも……。

(20人くらいに見られているというのに……)

 その半分以下の人間の前に出たときには、全く弾けなかったというのに、子ども達の前ではいつもの自分の演奏ができた。子ども達の前で弾くことは幾度もあった。その時も、ぎくしゃくしてしまったというのに、どうしてここの子ども達の前では弾けたのだろう。

(目を開けていたら……)

 視線を恐れずに、目を開いていたらわかったのだろうか。



 子ども達を帰し、二人きりになり、軽く食事をとる。食事は年長の女の子たちがてきぱきと作っていってくれた。訊けば、符の妻は遠方に出かけているとのことで、学問所の子ども達が妻の代わりに符の面倒を見てやっているそうだ。どちらが大人か分からない。

「俺は笛を吹く以外に能が無いからな」

 そう言ってけらけらと笑う。笛を吹くことばかりに特化しすぎではないだろうか。周家にもまれにそういう人間はいるが、早々に別の楽器もできるようにと稽古をつけさせられる。

 学問所の奥にある、今にかけられている掛け軸に羽は目を向けた。先程奏でた曲が梅だったこともあり、梅が描かれた掛け軸が気になったのだ。

「あれ……」

「あぁ。あれは伯燕の絵だ。最近売れ出した画家だから、知らないかもな」

「いや、伯燕の絵はうちにもあった。宴で使われることもあるし」

 周家は時に宴の指揮をとることもある。奏でる曲目から、供される食事、時には調度品や美術品まで。だから、羽も幼い頃から多くの美術品に触れてきた。

 その時、家の戸が叩かれる音がした。

「お。噂をすれば、件の伯燕先生だ」

 嬉しそうに符が跳ねるように戸へと向かう。ウサギなのか、この男。戸を開くと、大きな影が現れた。それは大荷物を抱えた細面の女だった。

「伯燕……先生?」

「そうだよ、この人が伯燕先生。俺の妻だ」

 べし、と符の頬が叩かれた。よろめいた符を尻目に、女は荷物を下ろした。歩荷と見まごうその大荷物に羽は絶句した。

「雅号で呼ばないと約束したはずでしょう。この甲斐性なし」

「お客さんがいたんだよ。嶺さん」

「客人……?」

 怪訝そうな顔をした女がゆっくりと顔をこちらに向けた。そして、羽の姿を認めると、風のように荷物を抱えると家の奥へと消えた。ばたん、といったん戸が閉まったかと思うと、しばらくののち戸が開いた。

「先程はお見苦しい姿をお見せいたしました。嶺と申します。そこの甲斐性なしの妻です」

 洗い立ての衣に着替え、髪を結いあげた姿は先ほどまでの薄汚れたそれとは正反対だ。程よく焼けた肌に、細めの黒い目がじぃと見ていた。

「あ……でも、その……」

 嶺と符を交互に見渡し、羽が固まっている。この2人が夫婦というのなら、夫を間髪入れずに叩く妻など初めて見た。周家にはそんな女はいない。と、いうか初めて見る女だと思った。

「嶺さん。この子は周羽って言って、周家を追い出されたんだよ。だから、しばらく軒を貸してあげようって」

「そうですか。周家から追い出されたということは、あまり腕はよくないのですか?」

「いや、それはちがう。さっき、春想月花を弾かせたけど、殿中でも引ける腕だったさ」

 思いがけない言葉に羽の目が丸くなる。あの梁山将を弾いていた男からの評価に驚いた。それもあるが、引っかかったのが”殿中でも弾ける”という言葉だった。

(でも、殿試に落ちたんだぞ……)

 ちらりと嶺がこちらを見た。鷹のような視線にぎくりとする。そして、そのまま符を見つめると、ずいずいと近づいていく。

「あなた、また湯あみをしなかったのね?」

 ふい、と符の視線が逃げた。

「私が画題探しに出かけている間、湯あみをせずに放ったでしょう。におうわ」

「湯あみしてどうなる。俺は汚れていない」

 その恰好でよく言えるな、と羽は心の中で呟いた。がし、と嶺が符の首を掴むと引っ張り始めた。

「あなたがみすぼらしいと私ができない妻だと言われるのです。そんな不名誉、耐えられないわ。捨ててしまいますよ」

「はは、できないくせに」

 にやにやと符が笑う。引きずられているのに、抵抗ひとつしない。まるで、母猫に捕まった子猫のようだ。そのまま家の奥へと消えて行った後、符の悲鳴がこだましていく。

(変な家だ……)

 妻が完全に主導権を握っている。周家とは真逆だ。何もかもがさかさまだ。なのに、どこか心地よい。



「あぁ!! 嶺さん! 嶺さん! そこはもっと優しくって……あぁ!」

 

(聞かなかったことにしたい)

 聞こえてくる符の悲鳴に羽は耳をふさいだ。しばらくすると、符がよろよろと出てきた。まるで幽霊に取りつかれたかのように。

「な……な……」

 その姿を見たとたん、羽はわなわな震えはじめた。

「誰だよ!?」

「俺だよ!!???」

 湯あみを終えた符は、別人のようになっていた。伸び放題になり、傷んだ髪は適度に切りそろえられ、椿油を塗られている。それを丁寧に結われているし、髭は丁寧にそられている。薄汚れていた衣は新しいものに変えられている。

 50にも60にも見えたその姿は、本来の年か、それ以上に若返っていた。切れ長の瞳と色白の顔は美形といってもいい。

(これで湯あみが嫌いでだめにしてたのかよ……)

「おっさん、新手の詐欺師か何かか?」

「失礼な奴だな。嶺さんも風呂に入らないぐらいで死にはしないのに、獣のように洗うなんてひどいな」

「獣のように洗ってほしいのであれば、そうおっしゃい。今度は耳の裏まで洗って差し上げましょう」

 その言葉に符は青ざめて顔を振った。

「羽さん。周家を追い出されたのであれば、落ち着くまでここにいてもいいですよ。なにせ、二人しかいない家ですから。空いている部屋があるので、それを使ってください。欲しい物があれば言ってくださいね」

 にこにこと、嶺が笑いながら言う。さっき、夫に悲鳴を上げさせていた人とは思えない。

「空いている部屋に案内しましょう」

 席を立った嶺の後を羽はついて行く。



「あの、嶺さん。もしかして、本邸に来たことがありますか?」

「ええ。絵の納品に来たことがあります。周家には随分と私の絵を買っていただいたので、恩があるんです」

「やっぱり、見覚えのある顔だと思ったんです」

 そうですか、と嶺が呟いた。部屋の戸を少し開けて、嶺が中を見せる。中をのぞき込むと、書簡が積まれた部屋だった。かすかに絵の具の匂いがする。どうやら、嶺の仕事道具や資料を置いている部屋のようだ。

「御曹司」

 嶺が羽を呼んだ。部屋に入った羽は首を振った。

「俺は追い出されたんです。もう、御曹司じゃありません」

「だとしても、あなたは周家の御曹司です。だから、一つ忠告させてください」

 戸を閉めながら嶺が言った。

「どうか、あの人の前では周家の御曹司だと明かさないでくださいね」

「それは、どういう意味ですか?」

 羽が尋ねようとする前に、嶺はその場を立ち去ってしまった。
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