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二章 遠吼孤虎と栴檀の朋

后の難題

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 后が主催した宴も終わり、羽たちが一息をつけたのは夜半過ぎになってからだ。本来、宴というものは、一日中、夜通し行われるものだと思われがちだが、辰国では遅くとも子の刻(およそ午前12時ごろ)には終わる。これは、楽人たちに気遣っているからではなく、辰国の厄介な事情によるものだ。

 辰国は決して大国ではなく、北の玄国の南下にいつも気を張らなくてはいけないのだ。四方八方には巨大な国があり、いつ何時攻め込まれて自治権を奪われるか、あるいは蹂躙されるかの綱渡りだ。夜遅くまで宴をし、気を緩めるわけにはいかないし、「そんな余裕があるなら便宜を図れ」なんて脅しが来る可能性がある。
 だからこそ、周囲の国に対する外交の手段としての芸術、特に楽なのだ。例えば、隣国に融通を聞かせてほしい案件があるとする。そんな時、その国の官吏を宴の賓客として招く。そこで、辰国の楽人が登場し、楽を奏でる。一曲目は普通に弾くが、次の曲はわざと途中で止めるのだ。
 人の心情として、すばらしいものを途中で取り上げられれば、どうしても、と思ってしまうのだ。それを利用して、辰国は幾度の窮地を乗り切ってきた。

 ――― 一つ、有名な故事がある。
 3代目の治世には大飢饉が発生し、これ幸いと隣国が国境付近まで詰めかけたことがあった。そこで皇帝は楽人に曲を奏でさせ、「お前達が侵略すれば、彼らを生き埋めにし、楽譜も焼き捨てる」と啖呵を切ったのだ。楽人からすれば折織り込み済みの事とはいえ、生きた心地がしなかったろう。
 結果としては、楽人たちも国もすくわれたのだが、羽としてはあまり好きではない出来事だ。
(楽を政治に利用するなんて、なんてことだろう)
 日々激務をこなす皇族に一時の休息を献上することは誉だが、道具のように使われるのは不敬だが、心外だと羽は常々思っている。そんなことを思っているから、家を追い出されたのだ。帰ってきても、その気持ちが変わることはなかった。

「羽さん、また奏でてなかったでしょう!!」
 楽人たちの住まいになっている寮の大広間で、開口一番にそんなことを言われた。差し入れでもらった栗の甘煮を子牙と一緒に食べていた羽は横目で少年を見た。澄が腕を組んで羽を見下ろしている。周りの楽士たちはため息をついて、その場からさっさと立ち去っていく。
「いや、俺。なんか知らないけど、宴で奏でちゃいけないっぽいし……」
「そんなの、きっとどこかの貴族が格好つけているだけです! だから、みんな顔色を窺って、羽さんの腕前を侮っているに違いない!」
 勢いよく言われたせいで、くりの欠片がのどに引っかかった。羽はげほげほと咳き込みながら、手を振った。
「いやいやいや、待て待て待て。二つ名持ちに持ち上げられちゃ、こっちの立つ瀬がない」
「立つ瀬なんて! 羽さん! 過小評価が過ぎますよ!!! ねぇ、子牙さん!? 子牙さんだって、ず――――っと羽さんが来ることを待ちわびてたんですから!」
「うん。それは知ってた。兄ちゃんからずっと言われてきたし。っていうより、お前遠吼孤虎を覚えたんだ? 二つ名持ちにはおかしな質問だったかもしれないけど」
 二つ名持ちには、それぞれ独立した稽古場があてがわれる。楽譜を収めた書府には自由に出入りができ、殿中曲を練習するための申請もそこらの楽士よりはるかに簡単にできる。羽が殿試で使った春想月花は申請はないが、他の殿中曲はすべて、皇帝の認可が必要だ。
 羽の質問に、澄はあー、とかえーとか何だかあやふやなことを言う。視線もどこか定まらず、羽はどこかに蝶でも飛んでいるのでは、と思った。
「澄は、書府にある楽曲全てに目を通していますから、殿中曲の楽譜を見ることもあったでしょう」
「そうです! ええ、おれ、あんなに大量の楽譜見たことなかったから、興奮しちゃって、読み終えるのに半年以上かかっちゃって!」
「そうか? 周家の方がおお――――!!??」
 子牙に口をふさがれ、羽がバタバタと手を動かした。耳元で、子牙の呆れが入ったつっこみがささやかれる。
(羽の比較対象が周家なのは、よく分かりますが! 彼は、白露村という寒村の出なんですよ!!)
 寒村、という言葉に羽ははっとした。そうだった、ここは殿中。稀代の才が集まる場所。才がそこにあるならば、女子ども関係なく集められる場所だった。白露村、という場所には聞き馴染みが無い。「白」という名前から、国の西側地域の知名なのは何となくわかるが、それ以上分からない。
「なぁ、二つ名にもある、白露村ってのは、どんな村なんだ?」
「………」
 何気なく聞いてしまった。とたん、澄の顔に影が差す。とても14歳の少年には見えないくらい、どこか老成した顔つきになる。
「なにもない、岩と、やせた土地でした」
「澄の村は、5年前の大雨で甚大な被害を受けたんですよ。羽も覚えていませんか? 御父上、ご当主様が陛下の命で西部の村々の慰問に向かわれたことを」
 そう言われ、羽はぽんと手を打った。父と数名の周家の楽人を連れて、各地を訪問した。食料や、衣のついでに、と陛下が命を下したのだ。
「うん。覚えてる。俺もついて行ったおぼえがある。休が生まれたころくらいだったから、母上がすごくお怒りになってたのは覚えてる」
 生まれた我が子をあやすことなく出て行くのは何事か、と。羽自身も産まれたばかりの二番目の弟を置いて、知らない土地に行くのは心細かった。
「あのあたりの出身だったのか。じゃあ、まだ……」
 人々の心にあの時の事は残っているだろう。踏み込む勇気もない羽は、わざと言葉を濁した。それに反し、澄はまっすぐな目で羽を見ていた。
「羽さん」
「な、なんだよ?」
「他に思い出すことはありませんか?」
「思い出すって言ってもな、あの時の俺はまだ10かそこらの子どもで。あの時はまだ周家でもそれなりに期待されてた時期だったから、練習ばかりしてたから、覚えてるのは、練習してた事だけだよ」
「そう、ですよねー。俺も、周家の人が来てくださった日の事、あんまり覚えてませんから……って、これって失礼ですよね!?」
「いや、別に。俺も多分澄の立場だったら”楽器じゃなくて金子もってこい”とか言ってたと思うし」
「あはは、素直ですね」
「ええ。羽の良いところです」
「兄ちゃん、便乗して俺を褒めようとしたって無駄だからな!」
「おや、ばれてしまいましたか」
「兄ちゃん、本気でそのお人よしを治した方がいいぜ!!」
 羽が子牙に食って掛かろうとすると、老人が一人近づいてきた。腰に下げた宝玉の色から、後宮からの使者なのが分かった。羽と子牙が佇まいを正すと、つられて澄も背を伸ばす。
「白露村の栴檀はいずこか」
「おれ……じゃなくて私です」
 澄が進み出ると、老人は無言でうなずく。そして、広間をなめるように見渡し始めた。
「周家の人間はいるか?」
「周家なら、私が」
 羽が一歩進み、腰を折る。
「貴殿は?」
「周家現当主周権が長男、周羽と申します」
「正統後継者だな。よかろう、楽長室に来い」
 周家の人間を呼ぶのは不可解だが、澄を呼んだということはあの遠吼孤虎についてだろう。大方、あの曲が気に入ったから、今後の宴でも奏でてほしいから、宴の調整をせよ、というのだろう。
 楽長室は教坊の奥にあり、邸宅のようになっている。地方から出てきた楽士の最終目的でもある。きらびやかな調度品を眺めつつ、羽は楽長の座っている部屋へと入っていく。少し後ろからついてくる澄の顔はうかがえないが、興奮しているのは分かる。小さな吐息が、せわしなく聞こえてくる。

「はい?」
 楽長から告げられた言葉に、羽は目を丸くした。落ち着いて、口を開く。
「楽長、何をおっしゃっているのですか?」
「あの遠吼孤虎は違う、との仰せだ」
 楽長は朱塗りの椅子から立ち上がることなく、低い声で告げた。
「どう、ちがうのですか?」
 羽の後ろでか細い声が聞こえてきた。信じられない、何かの間違いだ、と信じたい気持ちがありありと伝わってくる。羽は澄の顔を見ずに前だけを向いている。
「違うものは違うのだ。現に后陛下はおっしゃった」
「なにかの間違いです。あれが遠吼孤虎です、使者殿」
「周家の人間が言うなら、それも正しいかもしれないが、后陛下からすれば、ちがうとの事だ」
 がん、と背後で鈍い音がした。ぎょっとして羽が振り向くと、青ざめた澄が膝から崩れ落ちている。顔は虚空を見て、心ここにあらず、といったところだ。
「二つ名持ちであっても、まだ幼い者に弾きこなせるものではなかったということだな。その表情を見ればわかる」
「お言葉ですが、使者殿」
「なにかな、周羽」
「后陛下が違うとおっしゃる意図が分かりません。違うと感じられたのなら、わざわざ言うことはないでしょう。楽人にとって、不名誉です」
 静かに、夜の湖面のように低い声で羽は言う。才のあるものがこうして不当に扱われることは我慢ができない。羽の言葉に、使者はふんと鼻を鳴らす。
「周家が陰っている理由は貴殿にもある。噂は後宮でも聞いているぞ、周羽。貴殿は長いこと人前で奏でることができない、と」
 殿中の官吏たちは誰もかれも高圧的だが、後宮は輪をかけて陰湿な人間が多いとは聞いていた。家を背負っていないころの羽だったら、大声でまくしたてることもできただろう。だが、彼は「周家の正統後継者」を呼んだのだ。
 羽は背後で固まっているだろう澄をさした。
「私の事はなんとでもおっしゃってください。ですが、澄は違います。この者は、陛下御自ら二つ名を与えられた者です。この者を不当に扱えば、陛下の耳に届くでしょう」
「楽の代わりに弁が立つのか、これでは周家も――――」
「后陛下の意図を――!」
「周殿」
 ぽん、と背中が弱々しくたたかれた。振り返ると、衣を子どものように掴み、よろよろと立ち上がる澄がいた。澄は顔を上げず、唇をかみしめ目を閉じた。
「二つ名持ちとして、最上の楽を奏でたと、思い上がっておりました。后陛下におかれましては、ありがたいお言葉を頂きましたことを、厚くお礼申し上げます」
 違う、と羽は奥歯をかみしめた。
 あんな演奏のどこが違うというのか。そびえ立つ急峻な山、その頂点に立つ孤独な虎。あの曲が違うというのなら、自分の脳裏に浮かんだ鮮明な光景を否定されたも同義だ。
「后陛下は何も澄に罰を与えよとおっしゃったわけではない」
 今まで沈黙をしていた楽長が言う。
「5日後、今度は后陛下のみが出席される宴がある」
「そんな事、きいたことがありませんが……」
「使者殿は、澄に機会を与えよという后陛下からの伝令を伝えに来たのだ」
「きかい、ですか」
 もはや考える気力すらない澄が答える。その顔を見て取ったのか、楽長は目を伏せて告げた。
「5日後、もう一度遠吼孤虎を弾きなおせ、ということだ」
 羽は、あの光景が再びみられる高揚感と、なぜ弾きなおせと言うのかという疑問に押しつぶされそうになっていた。  
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