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二章 遠吼孤虎と栴檀の朋

黒塗りの台帳

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「ふさわしくない……?」
 福から飛び出た言葉に三人はそれぞれ困惑の色を浮かべた。
「ねぇ、その遠吼孤虎って曲はそもそもどんな曲なの?」
 音楽に疎い明英がまずは口火を切る。
「おや、どちらのお嬢様かと思えば劉家のお嬢様ではありませぬか。いやはや、しばらく会わないうちに、美しくなられましたなぁ~」
 卓に手をつき、身を乗り出そうとする大叔父を羽は右腕で制した。
「大叔父上、あなたの言う通りです。今、思い返せば、あのような場に遠吼孤虎は相応しくない。引っかかっていた疑念の一つが解けました」
「私も、そう思います。上手く言葉にはできませんが、こう。場の空気に、遠吼孤虎はなじまないな、って奏でてて感じました」
 本人がそう感じたのなら、間違いないはず。羽は、自分の知っている遠吼孤虎についての概要を明英に語って聞かせた。

「殿中曲にはそれぞれふさわしい場面というものがあるんだ。例えば俺が殿試で使った春想月花。あれは新年の祝いや、子どもの誕生といった慶事に使われるんだ」
「じゃあ、その遠吼孤虎はどんな時に使うの?」
「使えないんですよ。普通の場所では」
 羽ではなく澄が答えた。澄の答えに羽もうなずいた。
「へ? 使いどころがない曲って事?」
「使いどころがないというより、難しいんです。なにせ、左遷され、鬼になった男の伝説を下地にしていますから」
「左遷されて恨みを持った人間の曲かぁ。なんでそんなものを殿中曲なんかにするのかしら。殿中曲って言えば、明るくて豪華な曲ばかりかと思っていたわ」
「お嬢様。時には変わった曲を聞きたくなるのも、人間の性というものですよ。他にも、梁山将も同じように義賊を描いた曲ですからね」
 そういうものかしら、と明英が呟く。音楽に興味がない人間はそういうものなのだなぁ、と羽は思った。
「題材は暗いけれど、曲自体はそんなことを全く感じさせない激しい曲なんだよ」
「そうですよね。緩急もめまぐるしく変わります。まるで人間と虎の心が同居しているかのような曲です」
 わかるわかる、と羽がうなずく。速さについていけない時が一時期あった。
「御曹司、お役に立てずに申し訳ありません」
 福が腰を曲げて羽に言う。羽は慌てて腕を振るう。
「大叔父上に話せばすぐ解決するのであれば、后陛下もあのようなことをおっしゃりはしないでしょう。遠吼孤虎について調べる方法が分かっただけで、感謝しております」
「それなら……良いのですが……」
 福が言葉を濁している。しかし、すぐに顔を上げて入り口を指さす。
「そこの者、お嬢様や斎殿を送り申し上げなさい」
「ところで、大叔父上。父上は……」
「権には伝えていませんよ。あの子の事です。周家の益にならないことは嫌がるに決まっています」
 父の立場に立って考えてみれば、周家の名を良いように使われているように感じるだろう。仕事らしい仕事がこんなものだと知れれば、烈火のごとく怒るに違いない。
「それでは、大叔父上。戻りますね」
「はい、御曹司が納得される結論が出ることと、后陛下のお気持ちに添える演奏を期待していますよ」
 
「貸出台帳は書府に行けばいいな。よし、昼餉を食べたらすぐに向かおう」
「貸出台帳に何かの手掛かりがあればいいんですけれど……」
「まどろっこしいわね」
 屋台で軽食をとっている二人は不意に重なった声にぎょっとした。
「なんでいるんだよ!?」
「面白そうだからついて行くわ。第一、まどろっこしいわね。直接聞きだせないものなの?」
 なんで俺の周りの人間はこういう手合いしかいないんだ、と羽は心の中で絶叫するしかなかった。不敬にもほどがある。明英は羽たちよりも豪勢な飯を注文し、ものすごい勢いで腹に収めていく。
「お前、まさか殿中に上がり込む気じゃないだろうな」
「あら、知らなかった? 私、こう見えても殿中に入り込めるのよ」
 明英は懐からあるものを取り出した。それは、殿中に入ってもいい許可手形だ。手形には”北方客分将軍の孫娘”と流麗な文字で書かれているし、殿中の印鑑まで押されている。
(恨むぞ、黒陵将軍――!! 孫娘を可愛がりすぎだろ!)
 殿中の警備が甘いというよりも、大将軍の権限で押し切ったと言った方がいいかもしれない。教坊は殿中の隅にあるので、殿中に入り込めさえすれば、教坊まではすぐだ。
「それに、大親友の頼みでもあるしね」
「は?」
「こっちの話よ。さ、行くわよ!」
 ぱちん、と明英が指を鳴らすとどこからか葦毛の馬が男に連れられてやってきた。馬車だ。馬車に括りつけられている旗には「劉」の崩し文字が書かれている。間違いなく劉家所有の馬車だ。
「馬鹿なのお前」
 羽は至極まっとうなことを口走る。
「殿中で調べものをしたいんでしょ。時間が足りないのは何となくわかっているから、馬車を持ってこさせたんじゃない。人の足で行くより、馬の方がいい。でも、馬に乗って殿中に入ろうとは、さすがの私もできないわよ」
 馬車の方がよっぽどだと思うのだが。
「勝手に馬車を使ったら、爺さんが困るだろ」
「いいのよ。これは私の馬車だもの。いつどこでも乗れるように待機させてるのよ、ね。猩猩《ショウジョウ》」
「はい、お嬢様」
 馬車を持ってきた鉄面皮の大男がうなずく。辰国ではない、外国の流れをくむ人間なのだと容易に分かる白濁した目をした大男は、元は黒陵将軍の元で働いていた武将の一人だ。辰国にやってきた際に名前を辰国のものに変えている。
(こいつ苦手なんだよなぁ……。本当猩猩おおざるって感じで)
 辰国にならった名前を名乗り、服装も辰国の物だが、それが彼の出自をより強調しているように感じる。
「猩猩、殿中の教坊に向かって頂戴」
「教坊、ですか?」
「ええ、彼らを送ろうと思います。そして、少し調べものをしたいから、猩猩には少し待ってもらわなくちゃいけないわね」
「いいえ、お嬢様。みどもの事はお気になさらず。それでは羽殿、そして見知らぬ少年楽士殿、どうぞお乗りください」
 そう言われて、羽は澄の方を見た。固まっている。声をかけて揺さぶってみても反応が無い。
「か」
「蚊?」
 か細い声で澄が呟いた。

 わぁ、おかねもちってすごいー。

 思考をすべて放棄した声だった。

「ようこそおいで下さいました、劉お嬢様。たいしたおもてなしもできませんが、ごゆるりとおくつろぎくださいませ」
 突然馬車で乗り付けたおてんば娘にも、楽長は礼儀を持って対応している。しゃなりと猫を被った明英は令嬢のように振る舞い衣で口元を押さえて笑う。
「えぇ。町でたまたま彼らにあったので、送って差し上げたのです。なんでも調べものがあるとのこと。わたくしも気になっていますの」
 嘘つけ! と言いたいが、猫かぶり中の明英の邪魔をするとろくなことが無いので黙っている。おそらく人生で初めて馬車に乗ったであろう澄はまだ夢の中にいる。
「貸出台帳を探しに、書府に入ってもかまわないかしら」
 にこりと笑っている。
 羽は冷や汗をかきながらうなずいた。こうなっては、明英はとことん付き合うに違いない。幼馴染の性分は今でも変わらない。

 書府に案内され、積み重ねられた台帳を見て、明英はため息をついた。
「なにこれ」
「貸出台帳」
 羽はぞんざいに呟きながら、台帳の表面に書いてある年代を調べていく。
「みりゃ分かるわよ。この台帳、何冊あるのよ。軽く50はあるわよ。こんな中から何を探すっていうのよ」
「后陛下に演奏した楽人がいないか探しているんです」
「殿中曲の楽譜はそれこそ禁帯出で複製も原則禁止だ。周家にある楽譜はは、数える程度しかない。俺が遠吼孤虎を練習した時は特別に教坊に入らせてもらったときに習ったんだ」
 ほら、と周羽は2年ほど前の年代の台帳を開いてみせた。そこには周羽の名と、借りている日数が書かれている。
「ほんとだわ。周羽の名前が書いているわね。っていうか、あんた5日間しか借りてないじゃない」
「馬鹿言え、逆だよ逆。5日”も”独占できたって事だ」
「たしかに、周羽さん以外の人はほとんどが2日とか、当日とかですね」
「俺が周家の当主の嫡男だから長く借りれたんだ。ほとんどの場合はそんなに借りられないから、基本的には何回も借りるんだ」
 台帳に並ぶ名前は様々で、筆跡もばらばらだ。書府を管理している役人の物だ。羽の言う通り、とびとびに同じ名前の物がある。
「この中から探すって、大変じゃない?」
「いや、見当はついている。50年前から30年前までの物でいい」
「どうして、ですか?」
 明英ではなく、澄が尋ねる。
「大叔父上が后陛下に仕えていた年代だからだ」
「さっきのおじいさんが、なぜ?」
「大叔父上はぼんやりしている方だけれど、言葉を濁すことはなかった。外見は穏やかだが、言葉は率直で、嘘をつかないお人だ」
 だから、気づいた。后陛下の事や、遠吼孤虎の話をしている際、意図的に目を彷徨わせていた。何かを知っていて、隠していた。見当もつかない、といった時、羽の目を見ずに言っていた。
 貸出台帳を調べろと言ったのは、話題を終わらせたいからかもしれない。大叔父上の得意な楽器は二胡だった。二胡の演者にとって遠吼孤虎は憧れの曲だ。殿中で奏でていたのだから、何か知っているに違いない。
「大叔父上は絶対、何かを知っている。知っていて黙っていた。多分、澄。お前にも心当たりはあるんじゃないか?」
「……いえ」
 澄は目を伏せた。
「俺のような田舎者が遠吼孤虎とつながりがあるわけがないでしょう。ほら、俺の記録はここにあります」
 まだ真新しい、一番新しい台帳に澄の名前がある。さすがは二つ名持ち。10日間も独占している。悔しくは、ない。多分。
「さすが天才、って事なのかしら? そうと決まれば調べていくわよ! 羽なら大体の楽人の名前は分かるだろうから、あんたが調べなさい。私は50年前の台帳から渡していくわ。澄は調べ終わった台帳を戻してきて!」
 明英が指揮を執る。こういうところが血筋なのだろう、と羽は思いながら明英が仕分けた台帳を見ていく。台帳の記録をなぞりながら、ちらりと横を向いた。
(どうして)
 と思う。
(なんで、こいつはここまでしてくれるんだ?)
 今だけじゃない。まだ人前に出ることすらできなかった頃も、時折家にやってきては練習を聞いていた。もちろん、音楽に関しては素人同然で、ただ”聴いている”だけだけれど。でも、慰めることも、貶すこともなく、聴いていた。
(許嫁だから、じゃないよな)
 そういう間柄じゃない。大人たちの取引の上に持ち上がった話で、仕方なく受け入れているのは分かっている。だから、手助けなどしなくていい。時が来れば一緒にいる”ふり”をするだけなのに。
「なによ? 私の顔に何かついてるの?」
「いや、なんでも」
 ぱたぱたと走り回る澄に少し申し訳ない気持ちになった。適材適所、といったところだ。澄は殿中で使われている暦が分からないし、殿中で名を残した楽士の名前が分からない。もし、彼一人で調べものをしろと言われれば、その時点で”詰み”だ。
「?」
 羽がちょうど38年前の台帳を調べ始めた時、手を止めた。
「なんだ、これ」
「なに?」
「どうしたんですか?」
 やってきた二人に、羽は台帳を開いてみせた。台帳の名を隠すかのように、台帳に黒い線が何本も弾かれていた。明らかに、誰かが台帳に手を加えている。
「大叔父上は、やっぱり何かを隠している」

 三人が去った後、老人は一人庭に置いてある椅子に座っていた。明かりを消し、窓の外にかかる月を眺めながら長く息を吐いた。
「貴殿ほどの聡明な方がなぜ……」
「叔父上、このような夜更けに外に出れば体にさわりますよ」
「権、あの子が遠吼孤虎について調べていますよ」
「……」
「音楽については、お前もあの子も似た者同士ですね」
「……同じ轍は踏ませまい」
 早く中に、と促す甥に福は穏やかに微笑んだ。
「周家の男は揃いも揃って裏表が激しすぎる」
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