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第1章「工場長、死す」
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蒸気が視界を白く覆い、その奥で業務用プレス機が規則正しく息を吐いていた。
清水洗一は、五十八年の人生で最も過酷な四月を過ごしていた。
衣替えの季節。日本中のクローゼットから冬物が吐き出され、その全てがこの工場に流れ込んでくる。ダウンジャケット、カシミヤのコート、ウールのスーツ。一年分の汗と皮脂を吸い込んだ繊維たちが、救いを求めるように山を成していた。
温度計は四十二度を指している。
プレス場の熱気は毎年のことだが、今年は特に堪えた。心臓が時折、不規則なリズムを刻む。だが、そんなことを気にしている暇はない。目の前には、まだ三百着以上の「特急品」が控えているのだから。
「工場長、またですか」
若い工員の声が背後から飛んできた。洗一は振り返らずに答えた。
「なにがだ」
「シミ抜き台、占領しすぎです。俺らにも回してくださいよ」
「お前らに任せられるか。これは——」
洗一はようやく振り返り、手元の布地を持ち上げた。絹のブラウス。淡いサーモンピンクの生地に、茶褐色の染みが不規則に散っている。
「見ろ。ワインじゃない。コーヒーでもない。これは——」
彼は染みに鼻を近づけ、わずかに目を細めた。
「醤油だ。それも、熱を加えられている。おそらく持ち主が慌てて拭いて、ドライヤーか何かで乾かそうとした。タンパク質が変性して固着している」
「だから何なんですか。普通に処理すれば——」
「馬鹿。この生地を見ろ。シルクだ。それも、かなり繊細な織りだ。漂白剤なんか使ったら一発で黄変する。酵素も濃度を間違えれば繊維を溶かす」
洗一は若い工員の顔を見据えた。
「シミ抜きは外科手術と同じだ。患部だけを正確に切除し、健康な組織を傷つけない。それができなきゃ、ただの破壊者だ」
工員は黙って引き下がった。
洗一は再びシミ抜き台に向き合った。バキューム機能付きの作業台、蒸気ガン、エアガン、そして数十種類の薬品が整然と並んでいる。彼の三十年が、この台の上に凝縮されていた。
まず、油性処理。
石油系の溶剤を含ませたガーゼで、染みの周囲から中心に向かって、円を描くように叩く。これは油膜を溶かすためではない——シルクの場合、まず繊維表面の油分バランスを整えることが重要なのだ。
次に、タンパク質の分解。
プロテアーゼを0.3%に希釈した溶液を、染みの部分にだけ、針先ほどの量で滴下する。多すぎれば繊維を侵す。少なすぎれば効果がない。洗一の指先は、三十年の経験が刻み込んだ記憶に従って動いた。
五分間、静置。
その間に彼は、隣の台に置かれた次の依頼品に目をやった。ダークネイビーのスーツ。タグには「特急」「シミ抜き重点」「免責同意済」の三つのクリップが付いている。
免責同意。つまり、リスクの高い品だ。
洗一はスーツを手に取り、光にかざした。右の肩口から胸にかけて、不自然な光沢のムラがある。
「これは——」
彼の眉間に深い皺が刻まれた。
移染だ。
おそらく、持ち主が自宅で何かと一緒に洗ってしまったのだろう。赤みを帯びた色素が、ネイビーの繊維に染み込んでいる。しかも、既に熱で定着している。
最悪のパターンだった。
「工場長」
今度は別の声だった。事務担当の女性社員が、汗を拭きながら近づいてきた。
「なんだ」
「お客様から電話です。明日の朝までに仕上げてほしいって——」
「明日? このスーツか?」
「はい。結婚式に着ていくそうで——」
洗一は天井を仰いだ。蛍光灯の光が、蒸気に乱反射して輪郭をぼかしている。
「わかった。なんとかする」
「え、でも——」
「いいから。シルクのブラウスの処理が終わったら、すぐ取りかかる」
女性社員は不安げな顔で去っていった。
洗一は深く息を吐いた。肺に入ってくるのは、熱気と、洗剤の匂いと、蒸気の湿り気だった。この匂いを吸い続けて三十年。鼻はとうに麻痺しているはずなのに、今日は妙に鮮明に感じられた。
シルクのブラウスに戻る。
プロテアーゼが仕事を終えたはずだ。蒸気ガンで薬剤を飛ばし、バキュームで吸い取る。染みは——七割ほど薄くなっていた。
まだ足りない。
次はタンニン処理だ。醤油には微量の植物性色素が含まれている。酢酸を1%に希釈し、綿棒の先に含ませて、染みの中心部にだけ塗布する。
また五分。
その間に、スーツの移染について考える。
還元漂白か、酸化漂白か。
還元漂白——ハイドロサルファイト——は色素を分解する力が強いが、ウールの風合いを損なうリスクがある。酸化漂白——過酸化水素——は穏やかだが、この程度の定着した移染には効果が薄いだろう。
いや。
洗一は頭の中で、別の選択肢を模索し始めた。
もし、ネイビーの染料自体を一度退色させ、その後で染め直すことができれば——
いや、それは時間的に不可能だ。明日の朝までに。
なら、逆転の発想。
移染した赤みを、むしろ利用する方法はないか。例えば、全体をわずかに——
心臓が、跳ねた。
一瞬、視界が白くなった。蒸気のせいだと思った。だが、蒸気ではなかった。
洗一は作業台の縁を掴んだ。指先から、力が抜けていく感覚があった。
「工場長?」
誰かの声が、遠くで響いた。
膝が折れた。
床のコンクリートが、頬に触れた。冷たい。蒸気で濡れている。この床を、何度モップで拭いただろう。何度消毒しただろう。清潔に保つことが、品質の基本だから。
視界の端に、シルクのブラウスが見えた。サーモンピンク。染みは——まだ、完全には落ちていない。
ああ。
まだ、仕事が残っているのに。
スーツの移染も、なんとかしなければ。明日の結婚式に間に合わせると、約束したのに。
誰かが叫んでいる。救急車を、と言っている気がする。
洗一は目を閉じた。
瞼の裏に、染みが浮かんでいた。落としきれなかった無数の染みたち。油性、水性、タンパク系、タンニン系。血液、ワイン、インク、泥、汗、涙——人間の営みが生み出す、あらゆる痕跡。
三十年間、俺は何を落としてきたんだろう。
その問いに答える前に、意識は静かに途切れた。
最初に感じたのは、無重力だった。
体がない。重さがない。温度もない。
清水洗一は、白い空間に浮かんでいた。
上も下もない。前も後ろもない。ただ、均質な白さだけが、どこまでも続いている。
死んだのか。
その認識が、不思議なほど静かに訪れた。パニックも、悲しみも、後悔も——なかった。ただ、淡々とした受容だけがあった。
五十八年。悪くない人生だった。
妻は十年前に先立った。子供はいなかった。だが、弟子は育てた。技術は伝えた。工場は、きっと誰かが引き継いでくれるだろう。
シルクのブラウスの染みは——いや、もういい。
洗一は、白い空間を漂いながら、奇妙な安らぎを感じていた。
『——感謝する』
声が響いた。
声というよりは、意味が直接脳に流れ込んでくる感覚だった。言語ではない。概念そのもの。
「誰だ」
洗一は問うた。声が出るのかどうかもわからなかったが、意思は伝わったらしい。
『名乗る必要はない。お前たちの言葉で言えば——神、あるいはそれに類するもの、ということになる』
神。
洗一は、その言葉を噛みしめた。信仰心は薄いほうだった。だが、死後の世界に神がいるというのなら、それはそれで筋が通っている気もした。
「で、俺をどうする気だ。天国か地獄か、それともやり直しか」
『どれでもない』
白い空間が、わずかに揺らいだ。
そして、洗一は見た。
白の中に、映像が浮かび上がった。
——燃えている街。
——黒い靄に覆われた森。
——灰色に変色した川。
——倒れている人々。その肌には、黒い斑点が浮かんでいる。
『これが、私の世界だ』
神の声が、重く響いた。
『「穢れ」と呼ばれるものに侵されている。魔力の汚染——いや、それよりもっと根源的な、存在そのものを蝕む毒だ。放っておけば、この世界は百年を待たずに滅ぶ』
「それと俺に、なんの関係がある」
『お前は、三十年間、汚れと向き合い続けてきた人間だ。その知識、その技術、その——執念。それが、この世界には必要なのだ』
洗一は黙った。
映像の中で、黒い靄がゆっくりと広がっていく。触れたものを腐らせ、侵し、変質させていく。それは確かに——汚れに似ていた。
いや、汚れそのものだ。
ただし、化学的な汚れではない。もっと根源的な、存在論的な穢れ。
『お前に、力を与える。この世界で生きるための、そして——この世界を清めるための力を』
「待て。俺は——」
言葉を遮るように、洗一の中に何かが流れ込んできた。
知識でも、記憶でもない。もっと直接的な——概念の注入。
【万物洗浄(オールクリーン)】
その名前が、脳裏に刻まれた。
そして、付随する三つの機能が、次々と展開されていく。
【汚染鑑定】——あらゆる「汚れ」の成分、原因、そして最適な処理法を「視る」能力。
【溶剤生成】——必要な洗浄剤を、魔力から精製する能力。
【プレス&フォーム】——あらゆる物質の「形」を整え、復元する能力。
「これは——」
洗一は、理解した。
三十年間培ってきた技術が、超常の力として体系化されている。シミ抜きの手順、溶剤の調合、プレスの技法——それらが全て、「能力」として再定義されている。
『お前の経験を、この世界の理に翻訳した。使いこなせるはずだ』
「勝手なことを——」
『一つだけ、伝えておく』
神の声が、わずかに沈んだ。
『この世界の「穢れ」は、単なる汚染ではない。それは——意思を持っている。広がろうとしている。侵そうとしている。お前が相手にするのは、染みや汚れではない。「穢れそのもの」との戦いだ』
白い空間が、再び揺らぎ始めた。
『縁があれば、また会おう——清水洗一。いや、これからは——』
声が遠ざかっていく。
視界が歪む。
足元に、地面の感触が生まれた。
重力が戻ってきた。
熱気が、頬を撫でた。
洗一は目を開けた。
最初に見たのは、空だった。
青い。どこまでも青い。雲一つない、完璧な青空。
その青さが、妙に鮮明に感じられた。
洗一は、自分が仰向けに倒れていることに気づいた。背中の下には、乾いた土。どこかで鳥が鳴いている。風が、草の匂いを運んでくる。
体が——軽い。
彼はゆっくりと上体を起こした。そして、自分の手を見た。
皺がない。
五十八年間の労働が刻んだ皺、シミ抜き剤で荒れた皮膚、年齢による乾燥——それらが全て消えている。代わりにあるのは、若々しく滑らかな、三十代の手。
「……なるほど」
洗一は、その手を握ったり開いたりした。力がみなぎっている。関節の痛みもない。視界も——老眼で霞んでいたはずの視界が、くっきりと鮮明だ。
立ち上がった。
周囲を見回した。
草原だった。なだらかな丘が続き、遠くに森が見える。その向こうには、山脈。空気は乾いていて、清涼で、しかしどこか——わずかに、何かが混じっている気配がした。
穢れ。
その単語が、自然と頭に浮かんだ。
洗一は、無意識のうちに【汚染鑑定】を発動していた。
視界が変わった。
世界が、薄い膜を通して見えるようになった。その膜の上に、色が浮かんでいる。
草原は、おおむね透明だ。清浄な状態。
だが、ところどころに——灰色の斑点がある。小さな、目に見えないほどの穢れが、点在している。
そして、森の方向。
森の奥から、薄い黒の靄が滲み出している。遠くから見てもわかる——あの方向は、「汚染されている」のだ。
「……とんでもない世界に来たな」
洗一は、つぶやいた。
神の言葉が蘇る。百年を待たずに滅ぶ、と。
それは、大げさな表現ではないのかもしれない。もしあの穢れが、徐々に広がり続けているのだとしたら——
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
まず、現状を把握しなければ。
洗一は、草原の中に一本だけ伸びている道を見つけた。踏み固められた土の道。人が通っている証拠だ。
その道を辿れば、どこかに人の集落があるはずだ。
彼は歩き始めた。
若返った体は、驚くほど軽快に動いた。膝が痛まない。腰が軋まない。息切れもしない。
三十年前の、自分の体だ。
いや——三十年前よりも、もっと調子がいい気がする。神が「翻訳した」と言っていた。おそらく、この体は単に若返っただけでなく、最適化されているのだろう。
一時間ほど歩いた頃、道の先に建物が見えてきた。
木造の家々。藁葺きの屋根。石畳の広場。中世ヨーロッパのような——いや、どこか東洋的な要素も混じった、不思議な町並み。
門の上に、看板が掲げられていた。
文字は——読めた。
「ミズベ」
町の名前だろうか。
洗一は、門をくぐった。
通りには、人々が行き交っていた。農夫らしき男、籠を抱えた女、走り回る子供たち。服装は質素だが、清潔とは言い難い。
【汚染鑑定】が、自動的に起動した。
人々の衣服に、汚れが浮かび上がって見える。土、汗、油、食べこぼし——そして、わずかな灰色。穢れの痕跡。
彼らは、気づいていない。
この程度の穢れなら、自覚症状はないのだろう。だが、蓄積すれば——
洗一は、その思考を中断した。
今は、まず情報を集めることだ。この世界のルール、社会の仕組み、穢れの正体——知らなければならないことが、山ほどある。
そして、何より。
生きていくための、手段を確保しなければならない。
彼は、通りを歩きながら周囲を観察した。商店、酒場、鍛冶屋——様々な店が軒を連ねている。どれも、彼の技術とは無縁のものばかりだ。
いや——一つだけ、目に留まるものがあった。
通りの片隅に、看板の外れた空き家がある。その前に、「売り出し中」と書かれた札が立っていた。
洗一は、その建物に近づいた。
中を覗く。
広い一階のスペース。奥に、水場と思しき設備。窓から入る光。天井は高く、換気も良さそうだ。
——店舗に、使えそうだな。
その考えが、自然と浮かんだ。
クリーニング店。
この世界にそんな概念があるかどうかはわからない。だが、洗一にできることは——汚れを落とすことだ。それ以外に、何ができる?
三十年間、それしかやってこなかったのだから。
「おや、旅のお方かね」
声をかけられた。
振り返ると、初老の男が立っていた。商人風の服装。腰には、帳簿らしきものを提げている。
「この物件に興味がおありで?」
「……ああ」
洗一は、頷いた。
「借りられるのか」
「借りる? いやいや、ここは売り物ですよ。前の持ち主が夜逃げしましてね、債権者から委託されているんです」
「いくらだ」
男は、金額を告げた。
——意味がわからない。
この世界の貨幣価値を、洗一は知らない。高いのか安いのか、判断のしようがなかった。
「……少し考える時間をくれ」
「ええ、どうぞどうぞ。急ぎませんから」
男は愛想よく去っていった。
洗一は、空き家の前に立ち尽くした。
金がない。
身一つで転生したのだから、当然だ。所持品は——何もない。服すら、見知らぬ素材の簡素なものに変わっている。
つまり、まずは金を稼がなければならない。
だが、どうやって?
工場では働けない——そもそも、この世界にクリーニング工場があるとは思えない。
日雇い労働か? いや、それでは店舗を持てるようになるまで、何年かかるかわからない。
——考えろ、清水洗一。
お前の武器は何だ。
技術だ。
三十年間培ってきた、シミ抜きの技術。素材を見分ける目。汚れの構造を分析する知識。
そして今は——【万物洗浄】という、超常の力。
この力を使えば——
何ができる?
洗一は、通りを見回した。
人々が行き交っている。農夫、商人、職人。
その中に——一人、足を止めている若者がいた。
二十歳くらいの男。革の鎧を着ている。腰には剣。冒険者——だろうか。
彼は、自分の鎧を見下ろしていた。
その鎧は——凄惨な有様だった。
泥と血にまみれている。右の肩当ては歪み、胸当てには深い切り傷。そして、全体が黒ずんでいる。汚れだけでなく、何か——嫌なものが、染み込んでいる匂いがする。
【汚染鑑定】が起動した。
洗一の視界に、情報が浮かび上がった。
——油溶性汚れ(動物脂):表層
——タンパク系汚れ(血液):中層、一部凝固
——穢れ(魔獣由来):深層、繊維に定着
——推奨処理:油性前処理→酵素分解→魔力溶剤による浄化→仕上げ
自動的に、最適な処理手順が頭に浮かぶ。
この鎧は——落とせる。
洗一は、若者に近づいた。
「おい」
声をかけた。
若者が顔を上げた。疲れ切った顔。目の下には、深い隈がある。
「なんだ、おっさん」
「その鎧、捨てるつもりか」
「……ああ」
若者は、肩を落とした。
「もう駄目だ。穢れが染み込んじまって。この町に鍛冶屋はあるけど、穢れを祓える奴はいない。神殿に持っていけって言われたけど、浄化の儀式は金がかかる。俺にはそんな金——」
「俺に任せろ」
洗一は、言った。
「え?」
「その鎧、俺が落とす。穢れも、汚れも、全部だ」
若者は、目を丸くした。
「あんた——何者だ?」
洗一は、少しだけ考えた。
何者だ。
確かに、自分でも答えに迷う質問だ。
だが——一つだけ、確かなことがある。
「クリーニング師だ」
その言葉は、この世界では何の意味も持たないだろう。
だが、清水洗一にとっては——それが、全てだった。
「汚れを落とす。それが俺の仕事だ」
【第1章・了】
清水洗一は、五十八年の人生で最も過酷な四月を過ごしていた。
衣替えの季節。日本中のクローゼットから冬物が吐き出され、その全てがこの工場に流れ込んでくる。ダウンジャケット、カシミヤのコート、ウールのスーツ。一年分の汗と皮脂を吸い込んだ繊維たちが、救いを求めるように山を成していた。
温度計は四十二度を指している。
プレス場の熱気は毎年のことだが、今年は特に堪えた。心臓が時折、不規則なリズムを刻む。だが、そんなことを気にしている暇はない。目の前には、まだ三百着以上の「特急品」が控えているのだから。
「工場長、またですか」
若い工員の声が背後から飛んできた。洗一は振り返らずに答えた。
「なにがだ」
「シミ抜き台、占領しすぎです。俺らにも回してくださいよ」
「お前らに任せられるか。これは——」
洗一はようやく振り返り、手元の布地を持ち上げた。絹のブラウス。淡いサーモンピンクの生地に、茶褐色の染みが不規則に散っている。
「見ろ。ワインじゃない。コーヒーでもない。これは——」
彼は染みに鼻を近づけ、わずかに目を細めた。
「醤油だ。それも、熱を加えられている。おそらく持ち主が慌てて拭いて、ドライヤーか何かで乾かそうとした。タンパク質が変性して固着している」
「だから何なんですか。普通に処理すれば——」
「馬鹿。この生地を見ろ。シルクだ。それも、かなり繊細な織りだ。漂白剤なんか使ったら一発で黄変する。酵素も濃度を間違えれば繊維を溶かす」
洗一は若い工員の顔を見据えた。
「シミ抜きは外科手術と同じだ。患部だけを正確に切除し、健康な組織を傷つけない。それができなきゃ、ただの破壊者だ」
工員は黙って引き下がった。
洗一は再びシミ抜き台に向き合った。バキューム機能付きの作業台、蒸気ガン、エアガン、そして数十種類の薬品が整然と並んでいる。彼の三十年が、この台の上に凝縮されていた。
まず、油性処理。
石油系の溶剤を含ませたガーゼで、染みの周囲から中心に向かって、円を描くように叩く。これは油膜を溶かすためではない——シルクの場合、まず繊維表面の油分バランスを整えることが重要なのだ。
次に、タンパク質の分解。
プロテアーゼを0.3%に希釈した溶液を、染みの部分にだけ、針先ほどの量で滴下する。多すぎれば繊維を侵す。少なすぎれば効果がない。洗一の指先は、三十年の経験が刻み込んだ記憶に従って動いた。
五分間、静置。
その間に彼は、隣の台に置かれた次の依頼品に目をやった。ダークネイビーのスーツ。タグには「特急」「シミ抜き重点」「免責同意済」の三つのクリップが付いている。
免責同意。つまり、リスクの高い品だ。
洗一はスーツを手に取り、光にかざした。右の肩口から胸にかけて、不自然な光沢のムラがある。
「これは——」
彼の眉間に深い皺が刻まれた。
移染だ。
おそらく、持ち主が自宅で何かと一緒に洗ってしまったのだろう。赤みを帯びた色素が、ネイビーの繊維に染み込んでいる。しかも、既に熱で定着している。
最悪のパターンだった。
「工場長」
今度は別の声だった。事務担当の女性社員が、汗を拭きながら近づいてきた。
「なんだ」
「お客様から電話です。明日の朝までに仕上げてほしいって——」
「明日? このスーツか?」
「はい。結婚式に着ていくそうで——」
洗一は天井を仰いだ。蛍光灯の光が、蒸気に乱反射して輪郭をぼかしている。
「わかった。なんとかする」
「え、でも——」
「いいから。シルクのブラウスの処理が終わったら、すぐ取りかかる」
女性社員は不安げな顔で去っていった。
洗一は深く息を吐いた。肺に入ってくるのは、熱気と、洗剤の匂いと、蒸気の湿り気だった。この匂いを吸い続けて三十年。鼻はとうに麻痺しているはずなのに、今日は妙に鮮明に感じられた。
シルクのブラウスに戻る。
プロテアーゼが仕事を終えたはずだ。蒸気ガンで薬剤を飛ばし、バキュームで吸い取る。染みは——七割ほど薄くなっていた。
まだ足りない。
次はタンニン処理だ。醤油には微量の植物性色素が含まれている。酢酸を1%に希釈し、綿棒の先に含ませて、染みの中心部にだけ塗布する。
また五分。
その間に、スーツの移染について考える。
還元漂白か、酸化漂白か。
還元漂白——ハイドロサルファイト——は色素を分解する力が強いが、ウールの風合いを損なうリスクがある。酸化漂白——過酸化水素——は穏やかだが、この程度の定着した移染には効果が薄いだろう。
いや。
洗一は頭の中で、別の選択肢を模索し始めた。
もし、ネイビーの染料自体を一度退色させ、その後で染め直すことができれば——
いや、それは時間的に不可能だ。明日の朝までに。
なら、逆転の発想。
移染した赤みを、むしろ利用する方法はないか。例えば、全体をわずかに——
心臓が、跳ねた。
一瞬、視界が白くなった。蒸気のせいだと思った。だが、蒸気ではなかった。
洗一は作業台の縁を掴んだ。指先から、力が抜けていく感覚があった。
「工場長?」
誰かの声が、遠くで響いた。
膝が折れた。
床のコンクリートが、頬に触れた。冷たい。蒸気で濡れている。この床を、何度モップで拭いただろう。何度消毒しただろう。清潔に保つことが、品質の基本だから。
視界の端に、シルクのブラウスが見えた。サーモンピンク。染みは——まだ、完全には落ちていない。
ああ。
まだ、仕事が残っているのに。
スーツの移染も、なんとかしなければ。明日の結婚式に間に合わせると、約束したのに。
誰かが叫んでいる。救急車を、と言っている気がする。
洗一は目を閉じた。
瞼の裏に、染みが浮かんでいた。落としきれなかった無数の染みたち。油性、水性、タンパク系、タンニン系。血液、ワイン、インク、泥、汗、涙——人間の営みが生み出す、あらゆる痕跡。
三十年間、俺は何を落としてきたんだろう。
その問いに答える前に、意識は静かに途切れた。
最初に感じたのは、無重力だった。
体がない。重さがない。温度もない。
清水洗一は、白い空間に浮かんでいた。
上も下もない。前も後ろもない。ただ、均質な白さだけが、どこまでも続いている。
死んだのか。
その認識が、不思議なほど静かに訪れた。パニックも、悲しみも、後悔も——なかった。ただ、淡々とした受容だけがあった。
五十八年。悪くない人生だった。
妻は十年前に先立った。子供はいなかった。だが、弟子は育てた。技術は伝えた。工場は、きっと誰かが引き継いでくれるだろう。
シルクのブラウスの染みは——いや、もういい。
洗一は、白い空間を漂いながら、奇妙な安らぎを感じていた。
『——感謝する』
声が響いた。
声というよりは、意味が直接脳に流れ込んでくる感覚だった。言語ではない。概念そのもの。
「誰だ」
洗一は問うた。声が出るのかどうかもわからなかったが、意思は伝わったらしい。
『名乗る必要はない。お前たちの言葉で言えば——神、あるいはそれに類するもの、ということになる』
神。
洗一は、その言葉を噛みしめた。信仰心は薄いほうだった。だが、死後の世界に神がいるというのなら、それはそれで筋が通っている気もした。
「で、俺をどうする気だ。天国か地獄か、それともやり直しか」
『どれでもない』
白い空間が、わずかに揺らいだ。
そして、洗一は見た。
白の中に、映像が浮かび上がった。
——燃えている街。
——黒い靄に覆われた森。
——灰色に変色した川。
——倒れている人々。その肌には、黒い斑点が浮かんでいる。
『これが、私の世界だ』
神の声が、重く響いた。
『「穢れ」と呼ばれるものに侵されている。魔力の汚染——いや、それよりもっと根源的な、存在そのものを蝕む毒だ。放っておけば、この世界は百年を待たずに滅ぶ』
「それと俺に、なんの関係がある」
『お前は、三十年間、汚れと向き合い続けてきた人間だ。その知識、その技術、その——執念。それが、この世界には必要なのだ』
洗一は黙った。
映像の中で、黒い靄がゆっくりと広がっていく。触れたものを腐らせ、侵し、変質させていく。それは確かに——汚れに似ていた。
いや、汚れそのものだ。
ただし、化学的な汚れではない。もっと根源的な、存在論的な穢れ。
『お前に、力を与える。この世界で生きるための、そして——この世界を清めるための力を』
「待て。俺は——」
言葉を遮るように、洗一の中に何かが流れ込んできた。
知識でも、記憶でもない。もっと直接的な——概念の注入。
【万物洗浄(オールクリーン)】
その名前が、脳裏に刻まれた。
そして、付随する三つの機能が、次々と展開されていく。
【汚染鑑定】——あらゆる「汚れ」の成分、原因、そして最適な処理法を「視る」能力。
【溶剤生成】——必要な洗浄剤を、魔力から精製する能力。
【プレス&フォーム】——あらゆる物質の「形」を整え、復元する能力。
「これは——」
洗一は、理解した。
三十年間培ってきた技術が、超常の力として体系化されている。シミ抜きの手順、溶剤の調合、プレスの技法——それらが全て、「能力」として再定義されている。
『お前の経験を、この世界の理に翻訳した。使いこなせるはずだ』
「勝手なことを——」
『一つだけ、伝えておく』
神の声が、わずかに沈んだ。
『この世界の「穢れ」は、単なる汚染ではない。それは——意思を持っている。広がろうとしている。侵そうとしている。お前が相手にするのは、染みや汚れではない。「穢れそのもの」との戦いだ』
白い空間が、再び揺らぎ始めた。
『縁があれば、また会おう——清水洗一。いや、これからは——』
声が遠ざかっていく。
視界が歪む。
足元に、地面の感触が生まれた。
重力が戻ってきた。
熱気が、頬を撫でた。
洗一は目を開けた。
最初に見たのは、空だった。
青い。どこまでも青い。雲一つない、完璧な青空。
その青さが、妙に鮮明に感じられた。
洗一は、自分が仰向けに倒れていることに気づいた。背中の下には、乾いた土。どこかで鳥が鳴いている。風が、草の匂いを運んでくる。
体が——軽い。
彼はゆっくりと上体を起こした。そして、自分の手を見た。
皺がない。
五十八年間の労働が刻んだ皺、シミ抜き剤で荒れた皮膚、年齢による乾燥——それらが全て消えている。代わりにあるのは、若々しく滑らかな、三十代の手。
「……なるほど」
洗一は、その手を握ったり開いたりした。力がみなぎっている。関節の痛みもない。視界も——老眼で霞んでいたはずの視界が、くっきりと鮮明だ。
立ち上がった。
周囲を見回した。
草原だった。なだらかな丘が続き、遠くに森が見える。その向こうには、山脈。空気は乾いていて、清涼で、しかしどこか——わずかに、何かが混じっている気配がした。
穢れ。
その単語が、自然と頭に浮かんだ。
洗一は、無意識のうちに【汚染鑑定】を発動していた。
視界が変わった。
世界が、薄い膜を通して見えるようになった。その膜の上に、色が浮かんでいる。
草原は、おおむね透明だ。清浄な状態。
だが、ところどころに——灰色の斑点がある。小さな、目に見えないほどの穢れが、点在している。
そして、森の方向。
森の奥から、薄い黒の靄が滲み出している。遠くから見てもわかる——あの方向は、「汚染されている」のだ。
「……とんでもない世界に来たな」
洗一は、つぶやいた。
神の言葉が蘇る。百年を待たずに滅ぶ、と。
それは、大げさな表現ではないのかもしれない。もしあの穢れが、徐々に広がり続けているのだとしたら——
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
まず、現状を把握しなければ。
洗一は、草原の中に一本だけ伸びている道を見つけた。踏み固められた土の道。人が通っている証拠だ。
その道を辿れば、どこかに人の集落があるはずだ。
彼は歩き始めた。
若返った体は、驚くほど軽快に動いた。膝が痛まない。腰が軋まない。息切れもしない。
三十年前の、自分の体だ。
いや——三十年前よりも、もっと調子がいい気がする。神が「翻訳した」と言っていた。おそらく、この体は単に若返っただけでなく、最適化されているのだろう。
一時間ほど歩いた頃、道の先に建物が見えてきた。
木造の家々。藁葺きの屋根。石畳の広場。中世ヨーロッパのような——いや、どこか東洋的な要素も混じった、不思議な町並み。
門の上に、看板が掲げられていた。
文字は——読めた。
「ミズベ」
町の名前だろうか。
洗一は、門をくぐった。
通りには、人々が行き交っていた。農夫らしき男、籠を抱えた女、走り回る子供たち。服装は質素だが、清潔とは言い難い。
【汚染鑑定】が、自動的に起動した。
人々の衣服に、汚れが浮かび上がって見える。土、汗、油、食べこぼし——そして、わずかな灰色。穢れの痕跡。
彼らは、気づいていない。
この程度の穢れなら、自覚症状はないのだろう。だが、蓄積すれば——
洗一は、その思考を中断した。
今は、まず情報を集めることだ。この世界のルール、社会の仕組み、穢れの正体——知らなければならないことが、山ほどある。
そして、何より。
生きていくための、手段を確保しなければならない。
彼は、通りを歩きながら周囲を観察した。商店、酒場、鍛冶屋——様々な店が軒を連ねている。どれも、彼の技術とは無縁のものばかりだ。
いや——一つだけ、目に留まるものがあった。
通りの片隅に、看板の外れた空き家がある。その前に、「売り出し中」と書かれた札が立っていた。
洗一は、その建物に近づいた。
中を覗く。
広い一階のスペース。奥に、水場と思しき設備。窓から入る光。天井は高く、換気も良さそうだ。
——店舗に、使えそうだな。
その考えが、自然と浮かんだ。
クリーニング店。
この世界にそんな概念があるかどうかはわからない。だが、洗一にできることは——汚れを落とすことだ。それ以外に、何ができる?
三十年間、それしかやってこなかったのだから。
「おや、旅のお方かね」
声をかけられた。
振り返ると、初老の男が立っていた。商人風の服装。腰には、帳簿らしきものを提げている。
「この物件に興味がおありで?」
「……ああ」
洗一は、頷いた。
「借りられるのか」
「借りる? いやいや、ここは売り物ですよ。前の持ち主が夜逃げしましてね、債権者から委託されているんです」
「いくらだ」
男は、金額を告げた。
——意味がわからない。
この世界の貨幣価値を、洗一は知らない。高いのか安いのか、判断のしようがなかった。
「……少し考える時間をくれ」
「ええ、どうぞどうぞ。急ぎませんから」
男は愛想よく去っていった。
洗一は、空き家の前に立ち尽くした。
金がない。
身一つで転生したのだから、当然だ。所持品は——何もない。服すら、見知らぬ素材の簡素なものに変わっている。
つまり、まずは金を稼がなければならない。
だが、どうやって?
工場では働けない——そもそも、この世界にクリーニング工場があるとは思えない。
日雇い労働か? いや、それでは店舗を持てるようになるまで、何年かかるかわからない。
——考えろ、清水洗一。
お前の武器は何だ。
技術だ。
三十年間培ってきた、シミ抜きの技術。素材を見分ける目。汚れの構造を分析する知識。
そして今は——【万物洗浄】という、超常の力。
この力を使えば——
何ができる?
洗一は、通りを見回した。
人々が行き交っている。農夫、商人、職人。
その中に——一人、足を止めている若者がいた。
二十歳くらいの男。革の鎧を着ている。腰には剣。冒険者——だろうか。
彼は、自分の鎧を見下ろしていた。
その鎧は——凄惨な有様だった。
泥と血にまみれている。右の肩当ては歪み、胸当てには深い切り傷。そして、全体が黒ずんでいる。汚れだけでなく、何か——嫌なものが、染み込んでいる匂いがする。
【汚染鑑定】が起動した。
洗一の視界に、情報が浮かび上がった。
——油溶性汚れ(動物脂):表層
——タンパク系汚れ(血液):中層、一部凝固
——穢れ(魔獣由来):深層、繊維に定着
——推奨処理:油性前処理→酵素分解→魔力溶剤による浄化→仕上げ
自動的に、最適な処理手順が頭に浮かぶ。
この鎧は——落とせる。
洗一は、若者に近づいた。
「おい」
声をかけた。
若者が顔を上げた。疲れ切った顔。目の下には、深い隈がある。
「なんだ、おっさん」
「その鎧、捨てるつもりか」
「……ああ」
若者は、肩を落とした。
「もう駄目だ。穢れが染み込んじまって。この町に鍛冶屋はあるけど、穢れを祓える奴はいない。神殿に持っていけって言われたけど、浄化の儀式は金がかかる。俺にはそんな金——」
「俺に任せろ」
洗一は、言った。
「え?」
「その鎧、俺が落とす。穢れも、汚れも、全部だ」
若者は、目を丸くした。
「あんた——何者だ?」
洗一は、少しだけ考えた。
何者だ。
確かに、自分でも答えに迷う質問だ。
だが——一つだけ、確かなことがある。
「クリーニング師だ」
その言葉は、この世界では何の意味も持たないだろう。
だが、清水洗一にとっては——それが、全てだった。
「汚れを落とす。それが俺の仕事だ」
【第1章・了】
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