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涼香と雫
3. 混迷
しおりを挟む雫が配属されて2週間ほど経った。
その真面目で純粋な性格ゆえ、社員たちに可愛がられる雫は、すんなりと課に溶け込んでいった。しかしその一方で、教育担当の涼香とは全く距離が縮まらず、会話は必要最低限のものだけ。あの缶コーヒーの一件で少し距離が縮まったと思われたが、そう簡単にはいかないらしい。
とは言え、当の雫はそんなこと全く気にしておらず、涼香がコミュニケーションを避けるために作ったマニュアルを、この上なく嬉しそうに眺めながら毎日業務をこなしている。
そんなある日。
「時瀬。さっきのリストだが……」
パソコン画面を見つめていた涼香が、珍しく作業中の雫に声をかけた。雫の方も少し驚いた表情を見せ、動揺の滲んだ返事をしながら涼香のデスク脇に立つ。
「D列の数値が全て違う。マニュアルの書き方が足りなかったのだろうが、少しでも疑問があったら作業する前にきちんと確認するように」
「あ……す、すいません!すぐに修正いたします!」
入社して初めてのミスに雫の顔が強張る。慌てて自分のデスクに戻り修正作業をしようとする雫に対し、何かを言おうと口を開きかけた涼香だが、一瞬の逡巡の後、口をつぐんだ。
そのまま自分の仕事に戻る涼香は、何やら集中できない様子で、ちらちらと雫を気にする素振りを見せる。しかし、声を掛けることはなく、修正作業が終わった雫が涼香に確認を求めるまで、その沈黙は続いた。
「……今度は大丈夫だ。次からは少しでも疑問点があったら声をかけてくれ」
「はい……すいませんでした」
たいして大きなミスでもなかったのだが、必要以上に落ち込んでしまっている雫。そんな彼女を見て再び何か言いかけた涼香だが、一度きゅっと唇を結び、再度開いた口からは先程言いかけたものとは違う言葉が出た。
「ちょうど12時だ。休憩にするといい」
「あ……。はい、かしこまりました」
「……」
謝罪の意味も込めてか、ペコリと深く頭を下げた雫は気持ち肩を落としながら自席に戻り、財布を持ってオフィスを出て行く。その後ろ姿を最後まで見送った涼香は、おもむろに手を額に当て深い溜め息を吐いた。少し思いつめた表情をした涼香は、それを断ち切るかのようにふるふると頭を揺らすと、カバンからタバコを取り喫煙所へ向かう。
そのまま気持ちを落ち着けるためいつもより時間をかけて一服した涼香が、オフィスに戻ろうと廊下を歩いていると、曲がり角の先から男性社員たちの立ち話が聞こえてきた。どうやら涼香たちが所属する営業兼庶務課と同じ階にオフィスを構える、情報システム課の社員のようだ。微かにだが『雫ちゃん』という言葉が涼香の耳に届いた。
違う部署にも純粋で可愛らしい雫は人気なようで、色恋目的でお近づきになりたいと思う男性社員は少なくないらしい。そんな彼らは、完全に気の緩んだ様子でぼやく。
「いや~でも雫ちゃん可哀想だよな」
「な。さっき営業課寄った時、怒られて落ち込んでたもん」
「うわぁ……。あの人仕事は出来るらしいけど態度悪くて怖すぎだよな。あんなの教育係になったら絶望するわ」
「運が悪かったよな。情シス来てくれたら優しくしてあげれたのに」
まさかすぐそこに涼香がいるなんて思ってもいない男性社員たちは、ケラケラと笑いながら涼香がいる方とは反対へ去って行った。
しかし、涼香は彼らがいなくなってから数分経ってもその場から動くことはせず、むしろ、トン……と壁に背中を預け、先程の男性社員たちの言葉を思い返す。
(あいつらの言葉は間違っていない……。そんなこと私だって分かっている……)
怒りとも悔しさとも違う感情が湧き上がり、額に手を当て静かに目を閉じた涼香。気持ちを整理しようと思ってした動作だったが、不意に自分の名前を呼ぶ聞き慣れた声が届きパッと顔を上げた。
「涼香?そんなところで何してるのよ」
涼香が顔を上げた先にいたのは唯一の友人である詩織。心配そうな表情を浮かべた詩織は、小走りで涼香の元へ駆け寄ってきた。その姿を見て、見られたくない姿を見られてしまったとでも言いたげに慌てて普段通りを装う。
が、目ざとい詩織がそんなものに騙されるはずもない。
「何。体調悪いの?酷い顔してる」
「……いや、大丈夫だ」
「本当?体調より仕事優先して良いことなんてないんだからね?」
「ちょっとした立ちくらみだ。気にするな」
「ふーん、ならいいけど……。あ、そうだ。それなら今日飲みましょ。いつもの居酒屋で」
「……まぁ、いいが」
「決定ね。それじゃ、残業なんてしないでよね。……不要な心配だろうけど」
そう言って軽やかにオフィスに戻って行った詩織の後ろ姿をボーッと眺めていた涼香は、依然として胸につかえた名のない感情をどう処理すればいいのか分からない。
結局、休憩が終わった午後もいつも通りの塩対応を貫いてしまった涼香は、会社終わりに詩織と入った居酒屋で浴びるように酒を飲んでいた。が、酒耐性が異常に強い涼香は全く酔えず、代わりに涼香のペースに釣られた詩織が泥酔状態に。
「ほんっとやってらんないわ!!なぁにが、『女性は見た目を良くすれば営業しやすくていいですよね』よ!!まるで私が色仕掛けでもしてるみたいじゃない!!ふざっけんな!」
「おい、もう飲まない方が……」
「いいの!今日はとことん飲むんだから!!すいません!ビールおかわり!」
威勢よく追加注文をした詩織の声に、『はいよ!』という野太い返事が響く。顔馴染みの大将が詩織の注文を通してしまったことに、『はぁ……』と溜め息をつく涼香。
すると、そんな涼香を見て自分との温度差にムッとした詩織が、怒りの矛先を取引先のおっさんから涼香へ変更する。
「あんたもあんたよ!今日の雫ちゃんへのあの対応は何だったわけ?」
「……急になんだ。別にいつも通りだっただろう」
「そうね確かにいつも通りよ。でもあんたはミスして落ち込んでる部下に『気にするな』の一言も言えないほど無配慮な人間じゃないでしょ?」
「……」
「言い訳があるなら言ってみなさいよぉ!」
少し挑発的な詩織の言葉に何も言い返せない涼香は、気まずそうにとっくりに手を伸ばし猪口に注ぎ、度数の強い日本酒を胃に流し込む。そのまま箸を手にし、ツマミを食べることで詩織の言葉を黙殺しようとした。
が、詩織がそんな涼香を逃がすわけもなく、少し酔いが覚めたのか真剣な表情で涼香を見つめてからボソッと呟いた。
「……あんた、雫ちゃんに絆されかけてるんでしょ」
ピクッと涼香の肩が小さく跳ねる。
しかしそれをなかったことにするかのように、再び猪口に酒を注ぎ、くいっと飲み干す涼香。そして、猪口をテーブルに置くついでにボソッと呟いた。
「そんなことはない」
代わり映えのしないポーカーフェイスで放たれた言葉に、詩織が呆れたように溜め息を吐く。そのまま、自らの色っぽい垂れ目に苛立ちを滲ませた詩織は、通常より低い声で涼香に言葉を投げかけた。
「説明してあげましょうか?今あんたが見て見ぬ振りしている状況を」
「…………不要だ」
「あんたはね、他の人とは器用に距離を取って、主任として問題なく仕事をしてるわ。でも雫ちゃんの前では違う」
「……説明はいらん」
「そうでしょうね。あんたも分かってるものね。でも言わせて。あんたが必要以上に雫ちゃんと距離を取りたがるのは、雫ちゃんにだけ特別な情が移り始めてるからでしょ?」
「……」
「でも私はそれがおかしいことだとは思わないわ。だってあんなに真面目で純粋な子なかなかいないもの。あんたがどれだけ冷たい態度をとっても、距離を置くどころか詰めてくる子初めてなんでしょ」
声を荒げはしないものの饒舌に説教をする詩織の言葉に、黙り込んでしまう涼香。
しかし、涼香の本心が知りたかった詩織は、酔いに任せて言葉を紡ぐ。
「……あんたいつまで過去のこと引きずってるつもりなのよ」
「……」
「確かにあんたの過去は辛いものだったんでしょうけど、そのひとつの出来事で一生を縛られるのなんてっ……」
「詩織」
「っ……」
低く重い声に口をつぐまされた詩織は少し踏み込みすぎたと後悔し、涼香を怒らせてしまったかと顔色を窺う。が、当の本人はいつも通りの無表情でさらりと言う。
「飲みすぎだ。それを飲んだら会計するぞ」
怒るどころかいつも以上に飲んでいる詩織を気にかける涼香に、詩織は少し悔しそうな顔を見せる。詩織としては、怒りに任せてでもいいから少しでも本心を吐き出して欲しかったのだろう。
しかし、そんな詩織の考えすら見抜いている涼香はそれに乗せられることもなく、残ったツマミを口に運んでいる。
そうして気まずい雰囲気のまま会計を済ませ店を出た二人は、無言で駅までの道を歩く。が、不意に、詩織の一歩前を歩いていた涼香が、ぼそっと言葉を漏らした。
「安心しろ」
「え?」
突然の言葉に戸惑う詩織。そんな詩織と目を合わせた涼香は、無機質な言葉を紡いだ。
「お前が気にしていることはきちんと私の方で片を付ける」
その言葉を聞いた詩織は少し目を見開き、すぐに俯いた。それは涼香が言った言葉から、彼女がしようとしていることを理解してしまったから。
(……そう。今回も逃げるのね)
心の中ではそう思った詩織だが、それを言葉にすることはなかった。
友人も恋人も作ろうとしない涼香が、何故自分を側に置くことを許しているのか。それは友情とか絆とかそんな綺麗なものではなくて、ただ単にお互いがきちんと一線を引いて、他人であると認識しているから。会社帰りに飲みに行こうが、涼香が他の人には頑なに話そうとしない過去を詩織だけには話していようが、二人にとってお互いは赤の他人。
もしその関係が崩れた時。
涼香は詩織ですら側に置くことを許さず、結果、涼香の周りには仕事で繋がるだけの者しかいなくなってしまうだろう。
それを恐れている詩織は、言いたいことをすべて飲み込み、黙って涼香に歩を合わせる。そのまま無言で駅まで歩いた二人は、改札を通った少し先で一度立ち止まり向かい合った。
「それじゃあ、また明日」
「ええ。気をつけて」
軽く言葉を交わして何事もなかったかのように背を向け歩き出す涼香。どんどん小さくなるその背中を、詩織はその場から動くことはせず、じっと見つめ続けた。
そして涼香の姿が完全に見えなくなった時。
「……弱虫」
ポツリと漏れた短い言葉。
その言葉は誰に届くこともなく、駅の喧騒に掻き消され、冬の寒空に溶けていった。
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