八月のツバメ

朱宮あめ

文字の大きさ
上 下
2 / 14

第2話

しおりを挟む

「猫缶だって、猫缶!」
「いや、だからなんで猫缶……つか、俺は」
「みゃあ」
 唐突に猫の声がした。
 怪訝に思って彼女をよく見れば、腕の中に白黒のパンダのような斑模様の仔猫を抱いていた。
「この子のための猫缶! ダメ?」
「みゃあみゃあ」
 まだ生まれて数ヶ月ほどの仔猫だった。
「……はぁ。分かったよ。少し待ってろ」


 *** *** ***


 名前も知らないその少女の命令を律儀に聞く理由なんてないはずなのに、俺は、気が付けば高級猫缶が入った袋を手に河川敷の橋の下に再び立っていた。

「おぉー、ご苦労!」
 ぴっと調子よく手を挙げ、軽い声色で労ってくる少女。俺は猫缶と牛乳の入った袋を渡しながら訊ねた。
「……あの、君、誰? こんなとこでなにしてるの? 学校は?」
 買い物中、冷静になったらいろいろと聞きたいことがあふれてきたのだ。タダで猫缶をやったのだ。それくらいは許されるだろう。

 すると、少女はころころとした幼い笑い声を上げた。
「あはは! お兄さん今さらー? というか、私だよ、私!」
 少女は自分を指さして、じっと俺を見つめてくる。俺はきょとんとなった。
「は? え、なに、俺たち会ったことあった?」
「……うそ! 本当にわかんないの? うん、まぁわかんないか」

 その少女を改めてじっと見てみるけれど、やはり見覚えはまったくない。

 蒸した橋の下を猫缶の油っぽい匂いが満たしていく中、少女はじっと俺を見上げ、かすかに微笑んだ。

「そっかぁ。じゃあ自己紹介! 私は葉月はづきつばめ。つばめでいいよ、お兄さん」

 なんだ、やっぱり知らない子じゃないか、と思う。
 名乗られた名前には、まったく聞き覚えがなかった。

 風が彼女の香りを運んでくる。数年ぶりに感じる異性の匂い。さらりとした細い首元に、長い睫毛。筋肉のないふわふわと柔らかそうな太ももに、男とは違う甘ったるい声。

 俺は目のやり場に困って、咄嗟に川の反対側へ顔を向けた。
 改めて呆然として、ハッとする。
「……学生がこんなところでなにしてるんだ?」

 すると、少女――葉月はさらに笑った。
「もーそんなのどうだっていいじゃん! それよりこの子、なんて名前にする?」
 この子、と言いながら、少女は猫缶にかぶりつく仔猫を見つめた。
「いや待て。この猫、君の猫じゃないの?」
「うん。今さっきここで見つけたー」
「野良猫かよ……」

 なんてことだ。俺は野良猫のために猫缶を……しかも高級な、結構いい値段がしたやつを貢いだのか。

「あーっ! そうだ! いいこと考えた! この子、お兄さんが飼ってよ!」
「はぁっ!?」
 なにがいいことなのか、さっぱり分からない。
「なんでだよ。俺は無理だって……」

 即刻拒否すると、少女はムッと口を尖らせて女の匂いという武器をまといながら詰め寄ってくる。

「じゃあ、この子をこんな場所に置いてけぼりにするの? それでお兄さんの良心は痛まないの!?」
「いやいやいや。いきなり無茶振りしてくんな! 悪いが、俺はこの猫缶と牛乳で精一杯だ!」

 初対面で随分と図々しい女だ。厄介な女に捕まってしまった。きっと、あの言葉はなにかの聞き間違いだ。まったく驚いて損したと、俺は目を伏せた。
 聞き間違いだと結論付けた瞬間、冷たい風が頬をなめらかに撫でていく。
 
 気が付けば空はすっかり薄暗くなっていた。
 分厚い雲からは、ぽつぽつと雨が降り出してきている。

「うわ、雨だ! ヤバい、洗濯物こむの忘れてた。悪いけど、後片付けはよろしく。じゃあな!」

 俺はベランダに干しっぱなしにしていた洗濯物を思い出し、言い訳するようにわざと口に出した。そして、そのまま逃げるようにして走り出す。
「はあっ!? ちょ、待ってよー! 裏切り者ー!」

 背中に抗議の声を受けながらも、俺はそれに聞こえないふりをして家路を急いだ。

しおりを挟む

処理中です...