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一
商人
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牛車がゆっくりと、草一つ生えない荒地の丘を歩いている。緩やかな足取りだが、山積みになった荷は動きに合わせて今にも崩れそうだ。一つ一つ落ちぬように目を配りながら、商人は今日も果ての無い道を進む。
顎に蓄えた白い髭を摩りながら、商人は顔を険しくする。
東の森林地帯からこの荒れた丘を越えるまでは、町も村も、それどころか集落の一つさえ無い。旅人には過酷な道程であり、商人の存在は一種のオアシスのようなものだ。ところが、その旅人が一向に現れないのでは意味が無い。荷が大量にあるのと牛がいる分、越えるまでは常人よりも厳しいと言えよう。
…険しい表情のまま深い溜息を吐き、何気なく向けた視線の先、荷から目を外した商人は驚いた。正面から行き違いに男が歩いているではないか。一つ動作をする都度、鳴り響くのは鎧の音か。何処かの傭兵か王国の兵士か、男が装着している「物」は、遠目でも分かる程に傷が目立つ。
しめたと、商人はちょうど行き当たったかのように歩み寄って行った。近付き、男の数歩手前まで来たところで、商人は声をかける。
「おやおや、これは旅の方…このようなところでお会いするとは。
どちらへ行かれるのですかな?」
商人の問いに、男は黙って東の森林地帯を指差す。
「ほう…チコの森ですか。
あそこの怪物は手強いですからね、気を付けた方がいいですよ。」
忠告しつつ、商人は顎髭を摩る。男の様子を窺っているのだ。
進行方向は反対だが、折角の客だ…このまま逃してしまっては、町に降りるまで一つも売れないまま終わってしまう。それだけは避けたい。
話をどう繋げるか、繋げて何を買わせようか…この中で最も高価な合金鋼の鎧を買わせるか、それとも安価な薬草の束か。いやしかし、商売とは常に、最悪の状態を想定していなければならない…。
さてどうしたものかと、悶々と思案する商人の前で、男は言葉も無く革の袋から何か取り出す。動きに思考を止めて注視する商人に、男はすっと、何かを差し出した。
美しい花と鳥の両翼を誂えた豪奢な外枠。眩い輝きを放つ深紅の鉱石を中央に、直線下へ伸びる針…ブローチだった。
差し出された意味を考える間もなく、男は言う。
「金に困っているんだろう、これをやる。」
…これは一体、どうしたことか。予想の遥か斜め上を行く男の言動に、商人はぽかんと口を開けたまま暫し立ち尽くす。
どれほどの価値があるのかも分からぬブローチを、売りつけるわけでも無く、譲るというのだ。それも、初対面の旅商人に。
「安心しろ、別に何もない。」
疑った商人の思惑を読んだのだろう。淡々とした口調でそう言うと、男はしっかりと商人の手にブローチを握らせ、その場を去って行く。
…牛の鳴き声で、商人は我に返った。振り向いたときにはもう遅く、男の影も形も見えない。しまったと、空いた片手で頭を抱えた。
物を買わせるどころか、価値があるかも分からぬ宝石を押し付けられてしまった。それも見知らぬ、会ったばかりの男に。
「ああ、なんてこった…今日は厄日だ!」
呪詛を呟き、商人は足元を蹴った。吹きすさぶ風と荒野が今の心境を表しているようで、なお惨めだった。
これで今日の売り上げは無しだ。次の街では、予想の二倍は稼がねばならない。だが次の街は生憎、旅商人が活躍するほど物に困っているわけではない…苦戦は必至だろう。
制止する間もなく去ってしまった男が恨めしい。有無も言わさず握らされたブローチを、睨みつけて地に叩きつけようとし、はたと商人は止まった。
呪詛を吐いたものの、真贋の程は分からない。もし高値の物であれば良い値段で売れるし、雀の涙でも客に吹っ掛けて売りつければ良い…街に行き、鑑定士に見せてからでも遅くはない…もしかしたら、億万長者になれるかもしれない…。
そんな僅かな緊張と期待を胸に、商人は自分の両頬を叩いて気合を入れ、再び牛車を進ませた。
顎に蓄えた白い髭を摩りながら、商人は顔を険しくする。
東の森林地帯からこの荒れた丘を越えるまでは、町も村も、それどころか集落の一つさえ無い。旅人には過酷な道程であり、商人の存在は一種のオアシスのようなものだ。ところが、その旅人が一向に現れないのでは意味が無い。荷が大量にあるのと牛がいる分、越えるまでは常人よりも厳しいと言えよう。
…険しい表情のまま深い溜息を吐き、何気なく向けた視線の先、荷から目を外した商人は驚いた。正面から行き違いに男が歩いているではないか。一つ動作をする都度、鳴り響くのは鎧の音か。何処かの傭兵か王国の兵士か、男が装着している「物」は、遠目でも分かる程に傷が目立つ。
しめたと、商人はちょうど行き当たったかのように歩み寄って行った。近付き、男の数歩手前まで来たところで、商人は声をかける。
「おやおや、これは旅の方…このようなところでお会いするとは。
どちらへ行かれるのですかな?」
商人の問いに、男は黙って東の森林地帯を指差す。
「ほう…チコの森ですか。
あそこの怪物は手強いですからね、気を付けた方がいいですよ。」
忠告しつつ、商人は顎髭を摩る。男の様子を窺っているのだ。
進行方向は反対だが、折角の客だ…このまま逃してしまっては、町に降りるまで一つも売れないまま終わってしまう。それだけは避けたい。
話をどう繋げるか、繋げて何を買わせようか…この中で最も高価な合金鋼の鎧を買わせるか、それとも安価な薬草の束か。いやしかし、商売とは常に、最悪の状態を想定していなければならない…。
さてどうしたものかと、悶々と思案する商人の前で、男は言葉も無く革の袋から何か取り出す。動きに思考を止めて注視する商人に、男はすっと、何かを差し出した。
美しい花と鳥の両翼を誂えた豪奢な外枠。眩い輝きを放つ深紅の鉱石を中央に、直線下へ伸びる針…ブローチだった。
差し出された意味を考える間もなく、男は言う。
「金に困っているんだろう、これをやる。」
…これは一体、どうしたことか。予想の遥か斜め上を行く男の言動に、商人はぽかんと口を開けたまま暫し立ち尽くす。
どれほどの価値があるのかも分からぬブローチを、売りつけるわけでも無く、譲るというのだ。それも、初対面の旅商人に。
「安心しろ、別に何もない。」
疑った商人の思惑を読んだのだろう。淡々とした口調でそう言うと、男はしっかりと商人の手にブローチを握らせ、その場を去って行く。
…牛の鳴き声で、商人は我に返った。振り向いたときにはもう遅く、男の影も形も見えない。しまったと、空いた片手で頭を抱えた。
物を買わせるどころか、価値があるかも分からぬ宝石を押し付けられてしまった。それも見知らぬ、会ったばかりの男に。
「ああ、なんてこった…今日は厄日だ!」
呪詛を呟き、商人は足元を蹴った。吹きすさぶ風と荒野が今の心境を表しているようで、なお惨めだった。
これで今日の売り上げは無しだ。次の街では、予想の二倍は稼がねばならない。だが次の街は生憎、旅商人が活躍するほど物に困っているわけではない…苦戦は必至だろう。
制止する間もなく去ってしまった男が恨めしい。有無も言わさず握らされたブローチを、睨みつけて地に叩きつけようとし、はたと商人は止まった。
呪詛を吐いたものの、真贋の程は分からない。もし高値の物であれば良い値段で売れるし、雀の涙でも客に吹っ掛けて売りつければ良い…街に行き、鑑定士に見せてからでも遅くはない…もしかしたら、億万長者になれるかもしれない…。
そんな僅かな緊張と期待を胸に、商人は自分の両頬を叩いて気合を入れ、再び牛車を進ませた。
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