ある男の物語

三枝麻衣

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神父

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 人類の文明に、科学というものが存在しなかった時代。自然と共存する人々は、災害や天候不順が起こる都度、原理の分からぬ現象におびやかされていた。
 人々はいつからか、見えない神という存在を崇拝し始めた。その神に供物くもつを捧げ、あがめることで自然に平穏を取り戻そうとしたのだ。飢饉ききんや洪水が起きると、神への信仰が足りず、神の怒りが地上に落ちたのだとされた。自分や親しい者に不幸が続けば、前世の呪いだとされた。それ程までに、人々にとって神という存在は偉大なものとして、今日まで広く語り継がれてきた。
 しかし、信仰や宗教というものを誰もが知る現在だからこそ、彼の疑問は増していく。
 神は本当に存在しているのだろうか、と。

 …礼拝堂には、静寂が戻っていた。懺悔する罪人の慟哭は止み、荘厳な空間には沈黙が漂っている。
 悔いて気が抜けたのか、罪人はただ一点を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がる。振り向き、罪人は神父に一礼して言う。

「ありがとうございます…神父様。
 あの英雄との出会いも、おそらくは神のおぼし…僕は、救われました。」
「そうですか…」

 罪人の浮かべた微笑は、好青年と感じさせる柔らかなものだった。き物が取れたように、晴れやかな表情だ。対する神父の顔も穏やかだ。
 罪人は微笑をたたえたまま、傍らに転がる兜を取る為に屈む。その瞬間を、神父は見逃さなかった。

「がっ…!?」

 僅かに見える青年の首筋、鎧との隙間に、神父は突き立てた。手に持つロザリオ…その先端に隠していた毒針を。
 屈んだ姿勢のまま、罪人は呻いた。湛えた微笑を引攣ひきつらせ、目を見開く。兜に伸ばした片手は空を切り、縋るように祭壇へ伸ばされる。神父が毒針を引き抜くと、罪人は手を震わせて事切れた。厳密に言えば気絶したのであろうが、強力な毒である為に、息絶えるにはそうかたくない。
 …立ち上がり、先端に蓋をする。ロザリオが、本来あるべき姿に戻る。指で鎖を辿り首にかけた直後、神父の肩に重く冷たい感触が伝わった。
 横目に見やれば、鋭い切っ先があった。刃を辿り、見えた姿にふっと笑う。

「…死者は去りなさいと言ったはずですよ。」
「地獄からの使者だ、死人じゃない。」
「いいえ、あなたは死人です…邪悪な気は感じません。」

 神父の言葉に、嘘は無い。よこしまな気のある者が訪れれば、最奥の十字架から矢が放たれる仕組みになっているからだ。その正邪せいじゃを判断するのは無論、神父ではない。

「…知っていましたね、私のことを。」

 ロザリオに触れながら、神父は静かに問う。背で構える男から、返答は無い。
 諦めたように、神父は言う。

「どうぞ、殺してください…人をあやめた私に、神の使いを名乗る資格はありません。」

 …その言葉にさえ、答えは無い。ただ黙して、同じ姿勢をたもつだけだ。その格好も疲れるだろうに、よく耐えていられるものだ。
 仕方なしに、神父は語る。

「…御察しの通り、私はヨダイ帝国の皇帝陛下に、彼の暗殺を命じられました。
 サント帝国落日らくじつの瞬間から、この街はヨダイ帝国の傘下さんかに入っています…人々は帝国の、皇帝陛下への服従を強いられています。」

 言葉を切り、深く溜息を吐いて、神父は続ける。

「皇帝陛下からは…彼の暗殺を遂行すいこうする代わりに、この教会の安全を確証されました。
 そんなものに確証など、無いことはわかっていました…ですが、頷かざるを得ませんでした。
 私もまた、彼と同じ…どうこう言う権利はありません。」

 堪えるように唇を噛み、神父はきつく目を閉じる。そして、構えを崩さぬ男に問いかけた。

「一つだけ、教えてください…サントの英雄よ。
 貴方はこの世界に、神はいないと言いましたが…。
 神は、存在するのでしょうか。」

 ……目を閉じたままの神父と、構える男の間に、沈黙が流れた。長い沈黙だった。
 その沈黙を破ったのは、鐘の音だった。人の手で…神父自身で鳴らされるはずの鐘だった。
 はっと息を吸う音と共に、剣は振り下ろされた。切っ先は神父の首を引き裂き、血飛沫ちしぶきが長椅子にかかる。
 鎖は斬り裂かれ、事切れた神父の手からロザリオが離れた。鈍い音を立てて、倒れた神父から流れた血の中に落ちていく。

「…お前がいると思うのなら、いるのだろう。」

 その様子を見届けて、男は言った。神父にはあえて、返さなかった。
 剣を振り、血を払うと、男はそのまま踵を返して立ち去った。
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