凶兆

黒駒臣

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「ただいま」
 激しい雨音で声が届かなかったのか、かなえの返事はない。
 義春は村に一軒だけあるコンビニ――とは名ばかりのよろず屋――で買って来た惣菜のパックを持って上がり框を上がった。
 村に移住する前は玄関の外や中にはいつも季節の花が飾られていた。だが引っ越しして来てからはまったくなくなっていた。
 かなえの心が余裕をなくしていたのだろう。その時にちゃんと向き合っていれば、慣れない仕事の忙しさや疲れにかこつけて放っておかなければ、ここまでには至らなかったのに――今更だが悔やんでも悔やみきれない。
 義春は作業着のままダイニングに入った。シンクの前に立つかなえの後姿がある。
 乱雑に物が積まれたテーブルの隙間に車や家の鍵束と惣菜野パックを置いた。がちゃっと鍵束が音を立ててもかなえは振り向くことなく、いつものように一心不乱に何かをこねていた。
 上着を脱いで椅子の背もたれにかけ、肩越しにかなえの手元を覗く。こねているのはきょうも泥だった。
 義春は暗い眼つきで深く息を吐いた。

 三か月前、仕事から帰宅した義春はキッチンにかなえの姿がないので不審に思った。どんなに疲れていてもいつもこの時間帯には必ず夕飯の準備をしているのに。
 不安に駆られ、名を呼びながら居間や寝室、風呂場にトイレまで探したがどこにもいない。
 後ははるかの部屋だけだが、宿題を見てやっているのか――
 義春は廊下の一番奥にあるはるかの部屋の前まで進んだ。少し開いたドアの隙間からかなえの微かな歌声が聞こえてくる。幼い頃のはるかによく聞かせていた子守歌のようだ。
 やはりここにいたのかとほっとするも、なぜ今頃子守歌? そう疑問に思いながら大きくドアを開けた。
 床に座り込んだかなえがぐったりとしたはるかを胸に抱き、歌に合わせ身体を揺らせていた。
 妻の手に握られた紐を見た義春は、ゆらゆら身体を揺らしているかなえを押しのけ、急いで娘の安否を確かめた。
 だが、光のない見開いたままの瞳と、首についた紐の食い込んだ痕がすでに手遅れだと示している。
 妻の心が危ういことに薄々気づいていたが、大切に育てていた一人娘を殺めるほどだったとは――
 放っておいた自分のせいだ、と義春は自分を責めた。
 そして、哀れな妻を守るため、はるかに申し訳ないと思いながらも、人の出入りがほぼない旧集落の古墓地に遺体を運び埋めて隠した。

 はるかのことがあってから、かなえの心はますます不安定になり、今は完全に壊れている。
 まるで娘がそこにいるかのように振る舞い、ハンバーグを作ると言ってはキッチンに立った。豆腐や味噌、白飯などこねられるものなら何でもこね、食材がなくなると庭から泥を持ってきた。
 ミンチ肉を用意すれば、ちゃんと作るのではないかと与えてみたが、結局食材でないものまで混ぜ合わせるので、まともな料理が完成することはなかった。
 今は何をこねていようと義春は見て見ぬふりをしていた。
 村でははるかは失踪したことになっている。
 村中が総出で捜索に当たってくれた。山中の捜索、川攫かわさらい。もちろんはるかは見つからない。
 他県ナンバーの車を見かけたという情報で誘拐の可能性もありと、今は情報提供の看板が村内や近隣の道の駅などの施設に設置され、協力を呼びかけている。
 完全に心を病み娘がいるように振る舞うかなえを近所の住人や分校の先生、生徒たちが哀れみ、調子を合わせてくれていた。
 六年生の邦子ちゃんに至っては、いないはるかを家まで送ってくれて「ばいばい、また明日ね」と、玄関に迎え出たかなえの前で手を振ってくれていると聞いた。
 仲良くしてくれて嬉しいわ、と言うかなえの表情が穏やかになりごく普通の母親に戻る。
 ここにはるかがいたらどんなに幸せなことか。だがそれは決して叶わない。
 平凡で小さな幸せだけれども失ってから気づくとは。
 義春は椅子に腰を落として項垂れ、黒い隈に縁どられた目頭を揉んだ。
 椅子を引く音でやっと夫の帰宅に気づいたかなえが「きょうははるかの好きなハンバーグにしたの、あなたも好きでしょ」と笑う。
 目を上げて微笑み返すと、かなえは再び泥をこね始めた。
 時折我に返るかなえははるかを求めて嘆き悲しむ。自分があやめたとは記憶していない。
 行方不明を信じ込んで泣き叫ぶ妻をなだめ、大人しくさせたらさせたで、また泥をこね始めるので義春の心に真の平穏はない。
 さらに捜索に協力や心配し応援してくれている人々に対する心苦しさ、妻の罪を隠し娘の生存を信じるふり、、をする自分にもほとほと疲れ切っていた。
 そしてこの長雨だ。これだけ降れば土が流され土中から遺体が出てくるかもしれない。出入りがないとはいっても墓参している人はまだいたはず、発見されるのは時間の問題だ。
 義春の身も心もすでに限界を超えていた。いや、妻と同じくすでに崩壊している。
「そやけ、いもせん女の子の幻が見えるんやな」
 義春は独り言ちた。
 さっきからいるはずもない全身ずぶ濡れの裸の少女が見えている。テーブルの陰にしゃがみ込んで、置いてあったパックの惣菜を床にぶちまけ手づかみで食べていた。
「そやけど、なんで見も知らん子なんや? 娘の幻見るんやったらわかるけど――」
 視線に気づいたのか、少女が顔を上げた。
 胡麻粒大の異様な黒目がきょろっと動いて義春を見上げる。
 不気味さに一瞬たじろいだが、あれ? この子は――と首を傾げた。
「いやいやそんなわけないやろ。うちにいてるはずないし、あの目見てみぃ、あんな目した子、人やない。
 こんなんぜぇんぶ幻覚や、僕も狂うてるんや。はるかを埋めたあの日に狂うてしもたんや――」
 そして声を上げて笑いながら妻に話しかけた。
「なあ、かなえ、よう考えてみ? はるかおらんのに生きてる意味あるか? 狂うてまで生きてる意味あるか?」
 かなえは振り向きもせず、泥団子を一心にこねている。
 義春は立ち上がり、ベルトをズボンの腰から引き抜くと、背後から妻の細い首に巻きつけ、きつく締め上げた。
 ぐっと声を上げたかなえの手から泥団子が落ち、流しがどんっと音を立てた。
 痩せた身体が義春の足元に崩れ落ちる。
 それを見て裸の子供がにやにや笑っていた。
「なんや? なんでいつまでも見えてるんや? もしかして、お前本物ほんもんか? そやとしたら、なんでうちにおるんや? 
 いや、まさかな、こんな気色悪い目ぇした化けもんら本物であるはずないわ。
 ああっ、もうっ、幻やっても鬱陶うっとしわ。はよ消えっ」
 義春はしっしっと子供を手で振り払いながら、首に巻きつけたままのベルトを引っ張って、妻の身体をはるかの部屋まで引きずっていった。
 さらにベルトがきつく締まり、青黒い顔色になったかなえは目を剥き、舌が長く伸び出て完全に息の根が止まっていた。ちょうどはるかの死んでいた場所に妻の身を横たえると義春は首からベルトを外し、今度はロフトベッドの柵に掛けた。
「僕も今からそっち行くで。あの世で三人、また仲良う暮らそな」
 そして、首を吊った。
 四肢が痙攣し始めた時、ドアの隙間から中を覗き見ているさっきの子供に気づいた。義春と目が合うと、けたたましく笑いながら廊下を駆けていく。
 笑い声は玄関ドアの開閉音がした後、聞こえなくなった。
 目の前にはるかが立っていた。
 だが義春がその姿を認めたのは自身の首の骨が折れると同時の、ほんの一瞬だった。

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